今年(2024年)2月14日に行われた山之口貘賞贈呈式に参加した。といっても、かつての貘賞贈呈式は、児童文学賞と一緒にやっていたが、今回は短編小説賞、短歌賞、俳句賞と一緒であった。こんなふうに、まとめてやるのは今回が初めてではないか。琉球新報社は、いつもはそれぞれの賞で開催するのに、今回〈合同〉という手を使って、合理化、省略化する戦略がなんとなくわかった。
受賞したローゼル川田氏から招待状をもらったので、参加した。選考委員の選考経過(講評)は時間があまりないせいか、なぜ、選んだのか、という具体的な発言がない人がいたのが気になった。
山之口貘賞選考委員の以倉紘平氏(彼は今回で選考委員をやめると聞いている。16年も続けたので琉球新報社から感謝状を送られた。)は選考経過発言でローゼル川田の『今はむかし むかしは今』について「嘘がない」「真実を書いている」、言葉の組み合わせで技術的な詩を書いている人達がいるなかで、ローゼル川田はそうじゃない、「一家全滅」という詩をみても「嘘がない」をなんども発言していた。こういう言い方は講評としては変だな、と思いつつ、ああ、やはり、そうか、本土は普段からそういう見方だった、と改めて確認した。沖縄の文学、詩について、本土は、沖縄の独特な歴史、文化、民俗、宗教、風俗、沖縄戦、米軍支配、基地、祖国復帰………といった、他の日本にない独特さが魅力だとして、そういうものを素材に書く、といういわば〈制度化された沖縄的なもの〉を求めるのが通例になっている。そこで地元の書き手は、それに準じた作品を書いたり、詩集を出せば賞がとれる、と邪推して、意識的に書くような雰囲気さえある。本土のある種、なにか特別扱いする雰囲気があるから、地元の書き手も、なんとなくそういう本土の求めるものを意識して、沖縄的なものを探して選んで書くようになる。黙ってはいるが、特殊扱いされているな、という印象を何気なく感じているのではないか。これはかつて新城兵一が〈饗応の文学〉として痛烈に批判したことである。さらにいえば、沖縄という詩人や作家が本土の文化的戦略で誕生させられているということである。もちろん、これは比喩ではあるが、沖縄的なものを原基にして対ヤマトに向けて書いているフシがあるということである。形や内容に違いはあるが、原基は沖縄である。まるでみえない散在する沖縄が人格化したように書いているのではないか。沖縄という詩人や作家がいると妄想しているのは私だけであろうか。この構図は、中心は東京、本土、沖縄はローカル、マイナーという、中心と辺境の位相思考から来ているから厄介である。
私自身、沖縄的なものを素材にするのは良いと思っているし、沖縄に生まれて住んでいる以上、沖縄の歴史、現実、状況を踏まえるのは当然だと思っている。問題は、その素材を〈いかに書くか〉である。素材はそれこそ多様にある。状況主義とか素材主義に固着するより、沖縄という時空を秘めながら現在性を投入した、想像力豊かな表現、自由、深奥さ、比喩、冒険、諧謔、イロニー、ペーソス、ユーモア、ファンタジー、寓話………をふんだんに使って多様に書くべきと思っている。偏見だが、沖縄の小説の登場人物は一般的に個性がない。すぐ思いつく人物名が不在である。これは欠点である。善人文学という倫理で自己抑制する必要はない。詩を書く若手の宮城信大朗は「若手は自分なりに沖縄を書いている」と主張している。全く同感である。そういう作品が若い世代からぼつぼつ出ているが、気を付けるべきは文体が風俗に終始しないことだ。沖縄にはこんな珍しいことや人があるぞ、というルポ的意識ではいい文学はできない。素材を書くことが目的ではなく、素材を書くことを介して人間を見出すことが文学である。こんな優等生的な言い方はしたくないが、なぜそういうか。文学は文学自身を目的としてないからである。素材や書かれた文学作品を介して、存在や普遍的な生き方やあるべき世界をみつけることである。書く行為そのものが、アホらしい言語ゲームに執着しているのはそのためではないか。文学を言語ゲームといったのは誰だったか忘れてしまったが、9割は当たっていると思う。あとの1割は言語ゲームを必然にさせる個人の精神の理由にある。
いまの日本社会は沖縄ブームが過ぎて、時代が、変化して、沖縄に対して、異質なものを求める半面、従来の基地政策に抵抗するような言動をしたり行動をするとヘイトする人たちが多くなった。つまり醒めた日本人や排除的な日本人が増えている。文壇でも沖縄のことを書いて出したら、「また沖縄のことか」と言われる、と聞いたことがある。つまり、沖縄文学は、これまで文壇ジャーナルに利用されていたにすぎない。時事的に注目されると飛びつく文壇ジャーナリズムの餌食となってきたにすぎない。復帰後50年。地元やNHKは取り上げるが、日頃から沖縄問題をとりあげる岩波や傾向の雑誌は別にして、全般的に沖縄に注目する視点が薄くなっている。かつて又吉栄喜が1995年、目取真俊が1997年、芥川賞を取ったとき、どちらだったが忘れたが、ある本土の文芸記者が「沖縄は状況があるから、やはり強いね」と漏らしていたということを聞いたことがある。沖縄の90年代は、92年の復帰20周年にちなむ様々な行事、言論、首里城復元の完成などの沖縄ブームの再燃、95年の米兵による少女暴行事件に対する県民大集会や県民投票やらの基地問題がクローズアップされ、全国的に注目された時期でもあった。しかし復帰から50年。「ちゅらさん」もアムラーもいなくなり、もう沖縄問題は大衆の意識にほとんどない。あるのは観光地としての沖縄、旅行先としての沖縄である。時代が変質しているのだ。おそらく沖縄地元から芥川賞が出ることはこの先そうとう困難だろう。
文学主義者だから、しつこく言おう。沖縄だから沖縄のことを書け、とか、沖縄県内でも沖縄に関することを書かないととりあげてもらえない。求めていること、求められていることは沖縄がテーマなんだ、となんとなく強いられているから、そういうことを書くように自分を仕向けてしまう。そのパターンが受けるなら、それを書こう。イクサ?基地?差別?沖縄の古代?民俗?方言、しまくとぅば?いくらでもある。沖縄の、沖縄的、オキナワ的素材。なら、書いてやろうじゃないか。受けるなら書いてやる。そしたら、本土や地元の審査委員が特別な目でとりあげてくれるし、地元が持ち上げて、ほめたり、たたいたり、格好の餌にする。だが、気づいた方がいい。こういう言論を始めとした文学の世界は、沖縄は沖縄のことを書く器しか能がないといわんばかりに、扱っている、ことを。沖縄は沖縄のことを書いていればいいという〈沖縄的なものの制度化〉を無意識に強制されていることを感じたほうがいい。それが嵩じて沖縄の書き手は沖縄のことしか書けないとなってしまう。これは残念なことである。文学主義の私自身は東京と対峙するくらいの気概をもちたいとおもっているから、村上春樹なども読むし、現代哲学、現代思想などを読んだりしているが、いかんせん、知識力、言語力、頭脳の差があるから言説形成が貧しい。だから、回帰して、沖縄素材主義に安住してしまおうか、と気落ちすることもある。だが、それだけではつまらないのだ。求めるものがちがうのだ。現代詩は現代哲学や現代思想の言語の影響を受けたジャーゴン語のような世界に一面なっているようだが、それは現代性を問いながら、今を生きる人間の生や世界の行方をラジカルに凝視して歌うというまなざしがあるからだ。私もそのまなざしに就いているつもりでいる。沖縄とか東京、ヤマトとか欧米とか差異を知悉しながらも、視点の方向性は同じ、普遍的なものであると思っている。
昨年は、山之口貘生誕120年だから、貘好きな人がなにかやるかと期待したが、琉球新報の鼎談記事があっただけである。『沖縄詩人アンソロジー潮境2号』のアンケートで、好きな詩人を上げると、山之口貘がいちばん多かった。私の場合、山之口貘よりもランボーと中原中也が詩的体験として最初にいちばん影響を受けた。山之口貘のわかりやすい詩はそれなりに、下層生活詩人のことばがあって面白いが、しかし、これは表層的な見方でほんとは貘の言葉の深淵を詩学的に探る必要があると思っている。一方、不思議なことに、本土、ヤマとに進学した人のなかには、郷土出身の山之口貘の詩を読んで救われた、慰められた、好きになったという人が多い。この故郷を離れてヤマトへ進学やら就職で生活し、色々な本土体験して、自分のアイデンティティを自覚する人と、ほとんど地元にいて地元の現実と対峙して、抗って戦っていたものとは、山之口貘に対する読み方の位相が違っているなと感じるのだ。ヤマト帰りのものが、反ヤマトになったり、米留したものが反米になったりする。彼らの心的内在にその社会の差別や異和から自己を見出すことで沖縄人を自覚し沖縄回帰するところがあるのはわかるが、それだけでは面白くない。本質的なものを探求する視線がないなら、思考の停滞になってしまう。復帰のころ、沖縄奪還とか沖縄人民解放とか政治スローガンを掲げるものたちもいて、彼らがいまその武勇伝を得意にして発言したり、反復帰や琉球独立論をかかげたりしている。本来、マルクス主義、階級闘争だったものが、民族主義になっている。60年代の運動に階級思想があったのは知る人ぞ知る。だが、祖国復帰運動という民族主義思想が支配的になり、階級運動は影が薄くなった。驚くべきは、その後の運動が共同体の運動になりながら、沖縄社会の全般が、祖国復帰=日本同化という運動であったにもかかわらず、それを批判、否定するのはいいが、マルクス主義の検討はおろか、琉球王国や首里城が持つ王権思想の検討もしていない。どちらも国家と自由の問題に関わる問題であるのにである。
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