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南風北風―ぱいかじにすかじ―  by  松原敏夫

沖縄、島、シマ、海、ことば、声、感じ、思い、考え、幻、鳥。

伊良波盛男『人類』(あすら出版、2022)

2024-01-21 | 書評

伊良波さんが長年の島外生活から、故里の池間島に帰還して何年か経った頃、娘と一緒に訪ねたことがある。あの池間大橋を渡った。家の、すぐ近くに砂浜があった。11月の光が鮮やか。入り江の砂浜の白と海と空の青、波の音、潮風、伊良部島やピサラの遠景と、まさに絶景。内向的な娘が珍しくはしゃいでいた。そこを終の棲家に決めている詩人の境涯と詩境を想った。

「わが家がそそと建つ/波枕の里は島壱番の一等地なのだ」(特別な絶景)

前半の詩篇を読んで、そのときを思い出した。里の光景は、寂寥、廃れ、空家、無人、老い、過疎、と淋しいが、詩の世界はそれを歌いながら暗くない。絶景を疑うものは、池間行きして確認したらいい。

「波枕の里に還った/まがりくねった旅路だった」(波枕の里)

伊良波さんは帰還を「原点回帰」と呼び、「池間人の私の第一義は、生命の原点としての池間島を文学として表現すること」(わが池間島)と書いた。池間島は詩の原点になったのだ。土着文学ではない。リアルに変化する生地の里の光景と里人の営みと時間の重層を掘り、在るものの表情を実直に歌っている。蛇とか眩暈、嘔吐といった夢魔的、実存的な初期の詩法から、現在の詩法は〈帰着としての表現の単純さ〉にある。意味や比喩や修辞に凝らない自伝的な書き方はそこからきている。単純に歌うことは現代詩的ではないが、生成した詩想で生の空間を表現している。そこには仏教的な知、谷川健一の「小さきもの(無名なる者)への愛」の内在がある。

祖母はムヌスー(ユタ)、母は巫女、といった古代的シャーマンのサニ(遺伝)、若年の病、離婚、二度の交通事故の受難、里人、一人暮らし、そして〈私〉を背景にした詩が並んでいる。

「朝の個食を食らい/庭の穴倉のヤドカリへ声をかける」(男一人)。

相手が犬や猫でなくて〈ヤドカリ〉とは、まさに海辺の衆生の寂寥を味のある情景にしている。死や女への想念、コロナ禍の歌いかたも伊良波さんらしい。


西銘郁和『平敷屋朝敏を聴く』(榕樹書林、2022)

2024-01-01 | 書評

1984年、玉城朝薫没後250年の行事が盛大に行われるのに没後同年の平敷屋朝敏に陽が当たらないことが西銘の詩人魂に逆に火をつけた。以来、38年、朝敏を追い続けてきた。この本はその集大成である。

今や組踊ブーム。伝統組踊から創作組踊と盛んなご時世。朝敏の『手水の縁』も時々演じられる。しかし他の4編の擬古文調歌物語はあまり知られていない。この本に、全作品の解釈と歌の意訳、分析や評価が縦横にあり学べる。磔刑された不幸な文学者平敷屋朝敏の全体像に迫る姿勢に気迫、熱情を感じた。

首里王府=国家権力によって34歳で処刑された近世の和文学者、歌人。恋愛の自由を謳い、ミステリーに包まれた朝敏の生涯は興味深い。薩摩在番所へ落書した、いわゆる平敷屋・友寄事件で安謝の湊で磔刑されたが、その経緯や落書の内容は判然としないし、処刑された者が15名いたが、名前は5名しか明らかになっていない。近世琉球の歴史的大事件なのに王府の史書に記載がない。勝連平敷屋へ幽閉された詳細な理由、作品成立の順番も判然としない。

西銘は作品を綿密に読み、家譜や資料や歴史的事象を調べ、場所をたずね、関係行事に参加し、朝敏を追い求めた。殆ど渉猟し、朝敏の魂と時を超えて交響する。そこで聴き、読み取ったことを書き継いできた。他が書いた物に納得いかなければ容赦なく批判を投げる。池宮正治や大城立裕、敬意する玉栄清良へも。熱情溢れるゆえだ。

朝敏が「専ら芸術を好めば、国俗に損あり、戯談は小人の好む所」と断じた権力者蔡温に反発し、睨まれていたことを、西銘は作品から見つけ出す。『萬歳』を書いて睨まれ、『苔の下』で自分がいつか蔡温(王府)によって消される予感を抱いていたとの解釈にブラボー!だ。

『手水の縁』での柄杓の扱い、『執心鐘入』の中城若松の年齢、相手の女が遊女だったとの推測、小僧が最後に驚いて飛び上がる意味、各組踊に使用される歌とその回数など、西銘ならではの捉え方もあって面白い。


下地ヒロユキ著 『詩集 アンドロギュヌスの塔』

2022-08-19 | 書評

 登場する塔は想像上の塔である。登ったら降りられず餓死する、穴を覗いたら失明する、見たら鳥になる、精神の内部を自由に内視する、人を挽肉にして食料にする、食べたら溶けて消滅する、といった夢的、幻想的、異形な塔がでてくる。物や空間への異化と変容、神話的感覚が特徴的で、かつ反語的な下地詩学をみせてくれる。

 「僕は塔であり人間は塔なのだ。」「あらゆる角度から、あらゆる可能性から、あらゆるまなざしから、決して触れることなく視つづけること。」(ノリ・メ・タンゲレ)と、未知なるものに到達するために見者(詩人)になる、といったランボーのような詩的宣言がある。こうして未知を究める超現実的文学を決行する。読者は塔への凡庸な像をひっくり返されるのを覚悟しなければならない。

 嗜好的と誤読されてもいい作品から〈世界には塔が遍在する〉ことを気づかされる。塔の本質は高さではなく「深淵」という。この深淵は、詩的想像力で本質探求の陣営につき、内なる不可視の世界を開拓し、像の転換、超越、啓示的な言葉を引き出すこと、人間の危機や愚かさを比喩的、諧謔的に照らしだすことに費やされる。

 都市の高層ビル群を〈卒塔婆〉と墓場の形容をしたのは石牟礼道子だった。そんな塔は今、文明、資本主義、競争、効率化、豊かさ、経済成長の象徴として増殖し、現代人は制度やシステムで、がんじがらめになり、〈塔的なもの〉で尺度する見方を埋め込まれている。それは存在する社会、生きる場の至る所で、階級、権力、支配、隷属、監視、差別、不寛容、優劣、疎外を生み出し敷衍し、生き難くさせている。ここでカフカの文学的血を引き、人間の存在的回復をめざしたアンリ・ミショーが「多くの現代詩は解放のための詩である」(試練・悪魔祓い)と放った言葉を想起してもいい。

 聖書やギリシア神話からも材を得た詩編、寓話的アフォリズム、比喩言語の歩行、世界の超現実化を、冒険的に創造した、実にバリアントな詩集だ。


伊良波盛男詩集『遺伝子の旅』

2022-08-19 | 書評

 伊良波さんの詩は初期の詩集『眩暈』、『嘔吐』といった実存的内面的なものから仏教的な観念、民俗的な事象で書いたものまで幅広い。この多彩多産な営為は、詩にかける精神が旺盛ということだ。

「私は詩に目覚めて以来/詩学の徒として/詩そのものを生命の糧としながら/私自身の遺伝子の船を漕いでいる」(遺伝子の旅)

 詩への信頼と情熱、その結実となる詩集の輩出(18册)、そして今度の「遺伝子」を意識した詩作の登場。

 伊良波さんには、自然(島)、神、人が関係しあって遍在しているという見方があって、それを生まれ島の池間島で暮らしながら出会う身近なものから発見する詩作がある。島に生きる小さき生命を悠久へと時空化させ、惨憺たることも受容して広大無辺にもっていく。 

「きみはどこからあらわれて/いずこへ立ち去ろうとしているか/きみは遺伝子の/悠久の流 れの小さき通過点として/ここに息づき/いのちの実証を生きて在る」(悠久の流れ)

 遺伝子の観念が強く出るのは父親との確執があったからであろう。認知症を患った、九十歳過ぎの父親の生の無惨と死を描いた詩篇がある。息子を敵対視し「留守中にパソコン破壊」「自転車パンク」させ「九十歳の妻に性行為をせまる」父親を

「このヒトは一体全体何者だ/怒り狂って収拾がつかない/初めて逢う生き物だ/ヒトの男が 豹変して/別の生き物に入れ替わったのだ」(認知症の衝撃)

 と歌う。父親というのは母親と比べて詩にならない。息子にとって父というのは権威的存在なので、感情が愛より憎が強く、直情的な反応で言葉が閉じてしまったりするからである。その父が詩になるのは、老いるとか病いになって弱くなったときとか、死を迎えたときである。リアルに描いた老父の姿は身につまされる。
 父の最期に際して、「わが親父よさらば/貴殿はこの俺のあこがれの人だった」(さらばでござる)と父なるものの存在を全的許容するのは伊良波さんらしい。遺伝子嫌いの私は、わが父をこんなふうに歌ったことがない。


清田政信著『渚に立つ』 共和国 境界の文学 2018年8月15日

2019-09-15 | 書評

( 清田政信著 『渚に立つ』 共和国 境界の文学 2018年8月15日  2600円+税 )

 

 戦後沖縄文学のレジェンド、清田政信! といっても今文学する人でも知っている人は少ないかもしれない。清田政信は1937年、沖縄県久米島生まれ、50年代後半から80年代中ごろまで活躍したが、ある病のため筆を止めた詩人である。詩だけでなく文学・美術・状況批評を手がけ、八冊の詩集、三冊の批評集を出している。彼の書くものは当時の書き手たちに強い影響を与えていただけに、不在になったころ、〈清田ロス〉という雰囲気があって、当時沖縄詩壇は、確かに〈壊滅的〉だった。彼のような先鋭的・刺激的な言葉を持った詩や批評がみられなくなったからだ。それほど清田政信という詩人の存在は大きかった。

 本書が出たのはある意味、事件である。なにしろ前著から34年もたっての出版だからだ。これは彼を読む若い世代が増え、再評価する動きが背景にある。最近出来た清田政信研究会もその現れである。未刊の文章をまとめた本書と既刊をあわせてほぼ清田政信の全体を読めることになる。

 世礼国男、金城朝永、仲原善忠、比嘉春潮、伊波普猷、折口信夫、柳田国男、黒田喜夫、藤井貞和についての論考がある。〈沖縄・私領域からの衝迫〉とあるように、学究的視点ではなく、この詩人独特の詩的感覚での解読と沖縄論である。彼らを語ることで島の風土の闇と対峙して生まれる詩の言葉、近代の病を体現する個の蘇生、民の原域への遡行、古代や海や歌の感性に言及し、さらに沖縄近代に内在する村(共同体)と自意識の二重性、その宿命的な相克を問いながら、二重性のアポリアをいかに超えるかを述べる。

 出自の島(村)での体験と詩の先鋭性を語る清田の詩的言説には、わくわくし、刺激され、納得させられる。個の内域の深化による詩法、民の原域や自然の感性への下降という詩想は私自身の詩学形成に役だった。近年顕著な表層的な沖縄言説には辟易しているが、この書を読んで、〈沖縄というトポス〉が産出する言葉の原初と根本から向き合い、問い直さなければならない、と思った。


沖縄の句集―宮城正勝句集『真昼の座礁』 まさに境涯ありて句境ありなのだ

2019-04-04 | 書評

 六十年代後半から七十年代。黎明とたそがれ。政治的にも状況的にも、(すべてが)騒擾のころ。あのころのオキナワの青春は夜が楽しかった。夜は闇の時空を提供し、なにか解放されたような気分になり、文学書とアルコールと対話が身近にあった。仲間と議論して帰るとき少し冷たくなった夜風がアルコールで火照った頬にあたると、とても気持ちがよかった。レインコートを羽織って、夜の道を、革靴やときには下駄を履いて、首里の町を歩いた。首里キャンパスが時折、霧がかかる時があって、街灯がぼんやりと灯っていた。そのとき、ああ、生きているな、と最高に昂揚した気分になったものだ。

 学生運動くずれで文学に染まったころ、文学仲間と毎日のごとく、飲んでいた。琉大文学の原稿を頼みにいったのがきっかけで清田政信という詩人と知り合いになり、その後、ときどき、会って飲んだりしていた。もちろんほかの仲間と一緒だった。東京から帰省した役者くずれのNさんがやっていた浮島通りの「石」とか安里の「芭蕉」とか栄町の「うりずん」「東大」とか桜坂の「とんぼ」………といった飲み屋で飲んだ。ある夜、清田さんと飲んでいて、なんの拍子か、東風平恵典さんの家に行こうということになって、安謝に近い浦添のお宅を訪ねると、そこに数人の男どもがいた。

 そこではじめて宮城正勝さんと会った。たぶん比嘉加津夫さんや上原生男さんもいたと思う。宮城さんは清田政信や琉大文学に、思想が入りすぎ難解でよくないとかの批判的言動していた(と思う)。私はその宮城さんに「じゃあ、だれの詩がいいのか」と訊ねると、当時流行った、入沢康夫の「わが出雲・わが鎮魂」をあげていた。ああ、このひとは現代詩を読んでいるな、と思った。

 それから時々どこかで偶然会ったりしたが、関係が密になりはじめたのは、やはり東風平さんを介してである。東風平さんは、七十年代のある時期から、出自の宮古島に戻って学習塾などしながら、個人誌らら』という雑誌を出していた。あるとき、東風平さんから電話があって、『らら』への詩稿を頼まれるようになったり、一緒に同人誌をやらないかとか、ときどき連絡がきた。たまに那覇に行くから会わないかとの電話があり、そのとき宮城正勝さんも一緒だというのが通例だった。

 私が懇意につきあっていたのを思い出すと、ほとんどが六十年代の人である。その沖縄の六十年代を代表する詩集、清田政信の処女詩集『遠い朝・眼の歩み』。東京の詩学社から出すというので、頼まれてそこに原稿を持って行ったのは、宮城正勝さんだったというのは、知る人ぞ知る逸話である。宮城正勝さんも確かに六十年代の洗礼を受けた世代だと思う。

 のちに『らら』や比嘉加津夫さんの『脈』同人になって、そこで俳句を発表していたのを知って、俳句か、なるほど、俳句とは、決まっているな。おそらく感覚的に俳句があっているんだろうと思った。詩なんていうのは、饒舌すぎるし、甘すぎるんだろう。

 私自身も拙い句作をするが、大道寺将司の『棺一基』を読んで、「ああ、日本の俳句はこれで決まった、もうこれを超える俳句はないだろう」と、自分一人で勝手に決している。十七文字への句境の凝縮という視点での、きまじめの俳句観であることは承知している。境涯ありて句境あり、なのだ。

 宮城正勝さんの俳句の風景には、境涯につらなる人や町角や路地やビルの廊下や空の色や畑や庭や干潟や時間やらを通して生や生活の〈間〉を視ている感性が吹き抜けている。そう、〈間〉なのである。だがそれは撫でながらちくりと刺していく機知がある。形而上にいくことはしないし、形而下にあるのでもない。句集タイトルの『真昼の座礁』とは、どこか屈折している、律儀な感性を宿す生の表現である。難破ではない。静かに座礁するのである。

 形而上と形而下の相対の緊張が生み出す五七五の句語がまさに詠う主体の句境をぴたりとあらわす。「「形而上」に移行する機運を、「まて」と止めて「形而下的」にするが、その風景にさえ句境は距離をもってみている。外部と心理が相互に応じている。外部の風景を句にするときも心理的なものが入り込んでいる。句流は小林一茶的とみた。宮城正勝も往路はたしかにあったし、いま還路にいるかは句境が語るものである。

  潮干狩りどこまでゆけば黄泉の国

  西日から死へすみやか移行せり

  死ぬまでは日常がある蝉時雨

  死と遊ぶひとりの砦日向ぼこ

 ところどころ頻出する「死」の影。時に映じる光景にみえるものは、老いの日常と生と死の形、そして叙景も意味的にする孤独の姿である。だが叙情に甘えない。寄るべきものを持たぬ、ある意味、断念がある。そして「醒めている」。俳句とは瞬間のレトリックとその表出、句境に俳句精神が宿るからして、〈詠う〉ことは韻律の美学となる。

                        

 


沖縄の詩集 ― 中里友豪 『長いロスタイム』

2019-03-28 | 書評

 

 

長いロスタイム、か。意味深でうまいなあ。ピッチに戻りたいが許さない現実の切なさの表現にぐっときた。

「何かが/スッと魂を擦った」(風)

たしかに、詩篇はそういうふうに書かれている。詩は何かに触発されて生まれるものだが、〈何か〉を単に記すのでなく、何かとの間にある魂の境域を言葉にすることが詩の本領といえる。昔日と現在の情景、日常に出会った人や風景への感応、内面に流れるものを、時に静かに、時に高揚して歌うようにある。

魂を擦るものに体験の記憶がある。たとえば幼年期の戦世、ヤンバルへの母との死の逃避行、斬り込みに向かう中学生、蛆の湧いた日本兵の死の匂いや反基地デモに参加して金網の向こうに石を投げたら、「帰れ!」とビールビンを投げてきた基地の街の女たちと遭遇した遠い日の情景。この詩人の体験からくる想いは反忘却の記憶として現在の生を刺激する。叙情や故意の比喩表現を使用せず、苦い体験を喚起して平易な表現のなかに緊張した生の情景を紡ぎ出している。いまの沖縄の状況に「わじわじ」し、血躍る若年の想起、長いロスタイムを噛みしめる日々の中でなお「石、投げたい」とつぶやく詩境に失われた声を求め、自我の再生を意志する姿がある。

「あんな時代」「そんな瞬間」と書いた作品が多いが、甘いノスタルジーはない。混沌と激動の時代に向き合うようにして、切ない希望を求めながら詩作を持続してきたのだ。状況の悲惨と怒りと悲しみの思念を持続し、反戦や演劇の活動しながら沖縄戦後詩の宿命と不幸を長く体現してきた詩人の内面と生の現在の情景を描いた作品に胸を打たれる。

「もう長いこと/黙って座っている/きれぎれに浮かぶ/錆びない声を聞いている/去った人/逝った人/消えた人/見失った人/その、声色(略)そっちからぼくが見えるか/それとも/もう忘れてしまったか/こんな奴」(冷たく走るもの)

係わった人を歌う生の光景。情感が脈打ち、哀愁がしみ出て美しい。ページをめくると、こんな詩句に出会った。また街に出たくなった。

「青年のように夜の街を歩いた」(あっちこっち)

 


かわかみまさと詩集

2016-05-07 | 書評

現代詩は故里をあまり歌わなくなった。現代詩人には故里は乖離と帰還の複層にゆれるものだし、あるいは自然や共同体(村)の体験と感性が希薄だからだ。これは都市中心のモダニズム志向の症状でもある。生まれ島を離れて医者をして今は東京に住む、かわかみまさとは故里の宮古島をよく歌う。それは牧歌的なノスタルジアというものではない。現代化にある存在と危機と苦悩からみる故里である。

「故里は異郷なり/やさしさと愛しさの立ち枯れる異郷なり」(故里は異郷なり)「セメント一袋開けるたびに/海端の命の種は滅び去り/物言わぬ魂はひっそり消える」(護岸工事)と故里の変貌に絶望する詩人は故里の悲惨に記憶の情景を喚起することで内なる故里を歌う。すると島、自然、神、おばあ、神歌、村、海、クイチャーのコスモスが奏でる作品世界が輩出する。

「詩の言葉は記憶の傷みから生まれます。伝えがたい思いを伝えるには、果てしなく遠い生命の初源へ遡及し、同時に、果てし無く遠い未来のまぼろしへ飛び立つ瑞々しい意思が不可欠です。」(あとがき)と述べる詩境はこの詩人が視えるものを単に歌う詩人では無いことを示している。代表作でもある「与那覇湾―ふたたびの海よ」は詩的想像力で編んだオードだ。

「与那覇湾/幻想のきらめく詩人の海/沈黙の泡立つ「無」のプラズマ/言葉はわたしの「無」のすきま風/ U字型に開けた/入り口は永遠の秩序へ放たれ/出口は瞬間の混沌へ還る」

記憶の島の情景に自然性と神話性と哲学を入れ込み融合し、魂、無、宇宙への広がりと深化を紡ぎ出している。島は何もない辺境の地ではなく、豊かな詩的イマージュを生み出す源泉なのだ。

「記憶は熟成すると/たわいない擬態語を口ずさむ/ばぁんな んざぁんが うずがぁ/ずぅずぅ やー んかい ずぅ」(同)

〈島に帰る〉ことで詩人は生きる命のリズムを取り戻す。漂流都市東京のオノマトペ好きな島の詩人は記憶に疼きながら島言葉(スマフツ)を囁くのだ。これは詩人の現代への反抗の声である。

故里を再発見し、失われた情景やもの、ひとを喚起して想像力を駆使しながら、詩語を創造する。まさに「生命の初源」「遠い未来」を目指す詩集といえよう。


沖縄の歌集 - 新城貞夫歌集『ささ、一献 火酒を』

2014-09-29 | 書評

 

 実に情念と思想の韻律とリズムを味わえる歌集である。革命、マルクス、暴力、右翼、左翼、コンミューン、民衆、といった、あの時代の言辞が歌い込まれていて、詩的世界の醸す60年代短歌精神にひきこまれてしまった。この歌群に流れるのは歌人の現在であるのだろうか。いまも歌にあるような詩想や精神にあるのだろうか。となればこの歌人にとって時代の変貌は関係ないのだろう。精神のスタイル、精神のダンディズムに殉ずる歌ごころを持っているひとであろう。今の世に、と人ごとみたいにいってしまうが、ま、そういう人がいてもおかしくないし、いてほしいと思ったりする。
 
 歌にある志、情念、思想、魂。それがなければ、この歌集の、これらの歌は生まれない。あの時代の青春の姿勢を反古にしないで、なお持続する詩想の凜凜しい姿。歌とは自らの精神に傷をつけてそこから歌うことにある。緊張と歌が精神の曠野にある。情念の先にほとばしるものが歌となっている。日常性や平板な社会性に醒めながら、歌ごころで時代を突いている。

  「市民より暴徒へ移りゆく際の危うきければ美しかりき」

  「詩を棄てて家庭に帰る一人なれ風評のなかわれの在り処よ」

  「倒るまで詩に従くことの愚かしく笑い切実に込み上げて来ぬ」

  「アジアより白鳥発ちき垂直に墜ち行く他に行く方あらず」

 このはやしたてる文語のリズムや高揚や日常の敗北の歌は時代の裏側の皮膚感覚に沿っているし中枢神経の痛みにあればこそ出てくる。最後にあげた歌なぞ詩的空間が大きい。地形や自然や情景を広げ、そこを詩の魂のように謳っている。白鳥が垂直に墜ちるイメージが鮮やかだし、なにかに激突して墜ちるはげしさが読める。歌人の思想と情念がマッチした美の世界を詠んでいる。

 タイトルがいい。「ささ、一献 火酒を」。なんとも響きがいい。「火酒を」に流れる精神の官能性がある。この誘う歌句に精神の高まりを感じないわけにはいかない。そうさせる罪深さがある。歌は官能的で危険で美しい。歌の精神は美しい。たしかに60年代の青春は詩に近かった。歌人にとって生きるとは、まさに歌を詠むことであろう。これは大事なことなのだ。日本語の思想や情念をささやく短歌の方法を手離せない。魂のこの磁場の疼きに出会う歌ごころは、この時代をどう読みこむのか。孤立か孤舟か憂愁か世間に背を向ける風の孤独か。おのこの歌に美をこめる。たましいの形はあえて問わない。あまり先をいくと、なにやらあやしくなるからだ。生と死と、どこに近いのかなんて聞くまでもないだろう。

 巷間ににぎわう、ただ生活や情景を写し取った魂の姿のない新聞短歌や俳句なぞ読む気にならない。いのちを歌っているようで本質のいのちを歌っていないからだ。

  いま静かな夜に不意に雨の音が聞こえる。今夜は雨か。那覇のスラム街トタン屋根の家にプロレタリアの父と暮らしていたころの、哀愁に沈んだ気分を思い出した。雨が降ると父は仕事がなく、胃薬を飲みながら、一日中、家にいた。

  「労働者階級に祖国はないのだ」(マルクス)
  「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)
 
 ……なんて膾炙された歌を想起してきた。えい、やあっ、と!


沖縄の詩集 ― 垣花恵子『詩集再生への意志』 病いの底から生の再創造を歌った詩集

2014-06-11 | 書評

 垣花恵子著『詩集再生への意志』(宮古島平良、1989年9月)

 詩が修辞化しているといわれて、久しい。詩が単に言葉に過ぎないという思いが表現の技巧に走っているのも事実だ。戦後詩はいきつくところまでいっているし、九十年代詩がこれからどういう形で現われてくるのか予想はできない。

   私にとって、詩を書くことは、再生への意志に他ならず、いわば一つの希望のようなものである。
                                                   (あとがき)

 と著者は書いている。
 この言葉が修辞の時代にあって意外に感じられるのは、詩を書くという行為と〈再生〉、〈希望〉という光が結び付いているところだ。今、そういう詩に対する思いを吐露する詩人は少ない。ここには明らかに詩に依拠して、詩を信じ、自分の存在の現実を救済(回復)しようとする詩境がある。こんなふうにして出てくる言葉は、もはや修辞でおさまるものではないし、それ以上に作者の生の現実と密接につながっている。

 著者は「スチーブンス・ジョンソン症候群」という病に犯され、涙の出ない病気でいつも目薬をささないといけない、という。この病気は医学的に治療が困難なものらしい。となれば、そういう危機的な身体の現実を背景にして書いた作品が当然あるわけだし、健康体から病身へ突き落とされた女性の生に対するショックが詩に向かわせ、詩を生んだということができる。

   光も闇もない
   混沌としたひろがりの中を
   わたしが彷徨っているとき
   彼女はやってきた
   ……略……
   わたしに言った
   あなたの病気は
   あなたがこの世に生まれる前に
   犯した罪の報いなのよ
   わたしは ひどく驚いた
   わたしは 生まれる前のことを
   なに一つ 覚えていなかった
               (呪文)

 この自暴自棄や自己崩壊の危険を伴う予期せぬ体験は世界や人間に対する見方を深める大事件であった。感受性が生の健康から発露するならば、生の自然をすなおに歓喜の言葉で書いたかもしれないのに、である。著者は、しかし、その危機を詩を書くことで切り抜けようとしている。つまり、言葉にすぎない詩を読む他者としてではなく、自ら自分の生の表現者になることで、もう一人の自分を創造(再生)したのだ。作品は世界との異和感や自己確立という立場からではなく、重たい生の現実を生きるものの慰藉となって書き出されている。

   わたしは死んで
   棺桶に入る
   わたしのからだにぴったりの・白い貝
   の蓋を開け 白いバラに埋もれた 白い
   わたしの顔を見て もう一度 あなたが
   泣いている ごおごおと泣く あなたの声
                  (白い顔)

   ひかりを
   食べる
   「まぁ おいしい」
   思わず その唇から ホロホロと
   ひかりがこぼれて歌になる
                (ひかり)  

 生の悲劇的現実を逆にバネにして言葉を紡ぐことは救いでもある。存在は歌われることで価値つけていくからである。
 「ひかりを食べる」、「ひかりがこぼれて歌になる」という感覚はすばらしい。作者は病にある現在から暗さに向かうのではなく、逆に光を見つけて光の輝きに食べたいくらいに感動しているのだ。ここで気づくのは「光」という漢字を、ひらがなにしていることだ。こう書き付ける作者の詩境は決して絶望していないということだ。これは自らが再生することへの希望が強い意志となってみなぎっているから、こういう言葉の感受性がうまれるのだ。
 誰のものでもない自分という絶対性の宿命、生や死を凝視する視線、その冷酷な事実を媒介を通してみられる日常や夢が書かれている。特に夢的手法は作者が好きな詩想のようでもある。

   眼よ 眼よ わたしの眼よ
   頭の後ろをポンと叩き
   コロンと取り出せるものならば
   紙より薄いハンカチに
   そっとおまえを包み込み
   ブラリ散歩に行きたいものだ

   もしも
   風と抱き合うことができたなら
   ふんわりと甘い吐息がわたる
   春のような草原もいいね
                (眼よ)

 絶望の現実にありながらも、それをさらに超える、先に生きられる生の再創造というべき、祈りのような、やわらかいまなざしにみちている。 
 装丁、挿画も著者の手をつくしたというこの詩集は味わい深い。言葉の力を信じている魂の結実である。   


 この文章は詩集が発行されたときに、ある新聞に書いた書評である。(加筆修正)

 現在、彼女の私設美術館「恵子美術館」が宮古島にできている。
    http://e.gmobb.jp/keiko-artmuseum/


沖縄の詩集 ― 亜孟里之子『詩集』  沖縄シュルレアリスム詩集の誕生

2014-06-01 | 書評

  亜孟里之子『詩集』(北辰社、1989.3)


 の詩集を読んでいて、亜孟は言語というものが持つ自由なイメージ形成、つまり、言語の創造力を実験しているな、という印象をもった。亜孟は、エリュアールが好きらしいのだが、語彙と語彙の衝突から生れるポエジーが愛の魂を表出するシュルレアリスム的自動記述法をとることによって、文体の確立を目指したといえよう。

 品はヨコ書きの散文で書いてあり、具体的な作品名がない。「詩Ⅰ-A」とか「詩Ⅰ-O」、「詩Ⅰ-I」、「詩」とかである。おそらく、書いたものが未分明や過剰のため、名前を名付けることの不可能と無意味さがあったためなのだろう。書くという行為はこの作者の場合、夜のような混沌に訪れるから、名付けることができないのだ。

      おまえを読む。おまえの総てを開いてその襞の一つひとつを読む。波につつまれて揺れるおまえ。
      弾けるおまえ。むずがるおまえ。誰かの声のなかにいるおまえ。つつましさを支える丸みから白百
      合の艶めかしさへとおまえの足首がみえる。子羊の懺悔のように形を恥じらう乳房が
見える。おま
      えを読む。  (詩Ⅰ-A)


      おまえを破る。おまえの胸の白磁の眠り姫を破る。おまえの声のなかの錆びた悲劇を破る。やがて
      おまえの波が林檎色の夢が乾ききったおまえの蜘蛛に一条のみずみずしい噛み傷となってほとば
      しる。おまえを破る。  (詩Ⅰ-O)

 
 とつの言葉を投げ掛けると、世界が現われ、書くことで世界があらわになる。この言葉は、いってみれば詩的創造への戦闘開始である。「おまえ」という不定型のエロスとオブジェを呼び込む。それから、「おまえ」という未知のエロスがもっている世界のデイテールを「読む」、「開く」、「破る」という動詞で切り開き、詩への転換が始まる。そして、そこから湧いてくる豊饒なイメージが奪還され、記述される。書き始めれば、言葉が愛や夢を開拓するのに動員され、やがて、快楽と地獄を往来するシュルレアリスム詩が誕生する。こういう自動記述法を駆使した作品に出会うのは、最近はあまりない。おそらく亜孟も現在の詩にあき足りなくて、新しい詩を求めてきた人だと思う。この詩集は、そういう彼の<新しい詩>を創り出そうとした詩的情念の成果であろう。


 孟里之子という名前は、いかにも沖縄的である。しかし、この詩集には、ウチナー(沖縄)世界をあらわす言葉は、ひとつもない。おそらく、亜孟が、徹底的に現実というみえる世界を拒絶する姿勢を貫こうとするからであろう。「里之子」という琉球歴史の古典的存在と近現代の芸術言語を組み合わせる反現実の遊びを特別に意義づけようとは思わない。なぜなら近代とは矛盾が同時に存在しあう時代だからだ。
 考えてみれば、詩が芸術として存在するかどうかは現実を取り入れたからというものではない。現実をどう感受し、詩的言語へ開放するかが問題だ。だからオブジェをどう生かすかは、オブジェをどうイメージで変革して書き尽くすかによるのだ。                                                                                                                           

 ュルレアリスムにとって、内的言語の闘争結果が詩作品なのだ。

 実と非現実が、もみくちゃになっている現在の世界現象に慣れてしまっている我々は、いまなおシュルレアリスムの存在を主張できるか。
 西洋の哲学や、芸術が、おのれの息詰りを打開するのに未開社会に目を向けたのは遠い話であるが、われわれの思考は、現在どういう位置に立っているのか。われわれが詩や芸術から発見するものは、人間や物のとらえ方である。すなわち世界への参戦である。
 亜孟の言語は、言語がまだもう一つの世界を構築するのだという信念に満ちていることだ。そうでなければこの非現実に充満した緊張と退屈の言語を持続できないだろう。

 語のたえまざる前進、夢みる魂の異世界への冒険、物と精神のたたみかける同化。それらは、作者が言語を運動体にすることによって<みたもの>を自動速記するという手法をとっている。その言語体験は詩的言語の誕生となる。
 


沖縄の詩集―伊良波盛男『神の鳥』  サシバにこめた崇敬の念

2014-05-31 | 書評

 

〈鳥〉こそ、人間に飛翔のイメージ(夢)を与えるにふさわしい生き物はいない。鳥は比喩的であることで、人間にかなたへの夢と慰謝を与えてくれる。最初に地上を上空から眺望したのは鳥であるし、大空を洋々として自由に飛翔する不思議な生物には、人はもう憧憬するしかない。 

 この詩集でいう「神の鳥」とは、サシバのことである。伊良波氏は、サシバを「神の鳥」として神聖視している故郷・池間島の血液を継承し、長い間サシバを思い、調べ、読み、探索し、書いてきた。

    ヘビという動物神に対する畏怖はどうにもならないものだ。
    サシバという動物神に対する崇敬はどうにもならないものだ。
    私の魂は、この二神の存在によって引き裂かれている。
                         (私の小宇宙の始祖鳥の夢)

  伊良波氏には、初期のころに出した『蛇の踊り子』という詩集がある。これは、蛇のおどろおどろした異形を通して〈畏怖〉を表現していたとすれば、今度の詩集は、サシバへの〈崇敬〉を書いたということである。
 伊良波氏は、日常の中の非日常的なもの=異形なもの、不可思議なもの、に執着する詩人である。このサシバという鳥も、異形な存在=不可思議な存在、としてある。単に渡り鳥(野鳥)をウオッチングする次元での理解ではなく、神の国からやってきた神聖な鳥として遇している。
 地をはうものと空を飛ぶもの。この生き物を〈神格化〉することで、伊良波氏は天地の神の化身に遭遇してしまった。

  サシバに対する優しいまなざしは、時空を超えた言葉で表現される。例えば、神、孤高、無碍(むげ)、崇敬、凛、遍照、可憐(かれん)、華麗、島の守護神、豊穣(ほうじょう)、という多様な言葉で形容し、サシバの世界をイメージ豊かなものにしている。

  サシバの舞う季節に、この本をひもとくがいい。きっと空や鳥や地上や人間、すなわち空間そのものへの見方がかわってみえるはずだ。

           伊良波盛男著『神の鳥』(皓星社、2000・8) 


 ノート編

 サシバに対する眼差しは、超空間的な言葉で、まるで恋人にでも出会うかのような感性と思念で書かれている。
 詩人にとって、鳥は比喩であり、夢である。だが、あの空を洋々として自由に飛翔する不思議な生物には、言葉も実際は、かなわない。悔しいから人は言葉で不可能を可能にするしかない。

 サシバを探索して方々を尋ねて、サシバにまつわる民俗的な言説を書いた文章も収録する。
 言葉とすれすれに鳥想像や現実にサシバを追い求める夢の具現。サシバの賛歌とまぎらわしい。このように書く感性は、どこからくるのか。無意識に流れるものだろう。

 鳥について書いた詩集は、例えば安水稔和の「鳥」が有名だが、空を飛ぶ鳥を詩に書くことは極めて魅惑的である。伊良波は、日常の中の非日常的なもの=異形なもの、不可思議なもの、に執着する詩人である。このサシバという鳥は、鳥のなかの異形な存在=不可思議な存在としてあり、単に野鳥という次元ではなく、神の国からやってきた神の鳥として扱われている。地を這うものと空を飛ぶもの。この生き物をイメージ化することで、伊良波は天地の神の化身に遭遇してしまった。

 この詩集は、きわめて説明的に書かれている部分もある。サシバという具体的な鳥に関する詩である。詩語の観点からいうと、空間的な言葉で綴っている。その空間は、著者のサシバに対する思い入れの分に比例して、可視と不可視を取り込んで、自分の感情、感性、想像を同化させる。このサシバを追求することで伊良波は、詩の空間性と躍動性を確保している。例えば、シベリア、中国大陸、朝鮮半島、日本列島、宮古島、インドシナ半島、フィリッピンと連動するイメージは、詩が鳥瞰的な力を持つものといえる。

 このサシバを表現する言葉を読むと、サシバは、神、野生、猛禽、孤高、無碍、崇敬、凛、遍照、可憐、華麗、島の守護神、豊穣という多様な言葉で意味づけされ、イメージされている。
 このように可視と不可視、無意識なものとの連動が詩を構成している。
自らの幼年期のサシバ体験をついに本格化させたというべきか。初期のヘビに対する詩編を「蛇の踊り子」という詩集がある。

 鳥を<神>と見る信仰は、世界のところどころにあるらしい。そういう鳥は人里離れたところに棲み、ある時、飛来してくる。そして、去っていく。

 伊良波の今度の詩集は、これまで書いてきた島や自然(民俗)にモチーフをとったもの傾向の延長にあると思う。この数年、サシバという渡り鳥に、思いを寄せて、書いてきたものを集めたものである。<実存>に眼差しを向けて書く方法が、今回は、影をひそめている。

 <神の鳥を探す男>になって、日本各地のサシバの飛来地を尋ねて、地元の人に「サシバを探しています」というと「歯医者さんですか」と問われながら、調査した文章が挟まれている。  サシバを「長命薬」として食らう常民もあった。

 伊良波は、この詩集には「神の鳥」という題名をつけている。伊良波にとっても、サシバは神のごとくなのか。「野鳥の会」に入ったり、サシバの飛来する季節になると、サシバを見るために、宮古島に、何度も帰ったりする。
 サシバについての研究者さながら、かれは、サシバに対して、知識が豊富である。
 なぜ、これほどサシバに執着するのか。
 都会に住みながら、人間のひ弱さやを感じている。 

 鳥のまねをして踊る
 池間島では、サシバは「神の鳥」としてあがなわれているそうである。
 ある小説にも「サシバ」を神のようにかいているものがある。
 伊良波のサシバに対する思念は強固なものがあって、サシバの調査(といっても野鳥の会のような自然保護とは異なる)によく出かける。

 当時、なぜ、サシバを、捕獲して食用にしたのかが、問題とは思わない。サシバはぼくにとっては遊ぶ鳥であった。タカ飛ばしという遊び。タカ(サシバ)の足にひもを付けてどこまで飛べるかを競う遊びがあった。「たかどーい、テング、デング!」高い空を舞うサシバの群れをみつけて歌った。赤目、黄色目、たりかす(灰色)目。サシバは目の色で幼鳥、成鳥、老鳥かがわかった。

 そうか、「風の船」「風の翼」か。この語彙が脳裏に焼き付く。
 サシバを、「神の鳥」とする-詩人の感性は、地球的な、宇宙的(異次元としての)な語彙を多様する。
 国際保護鳥であるサシバ。
 サシバとの「交感」
 ここには、シャーマニズム的な遺伝子が反映している。
 ニライ・カナイを、未来、家内にする時代。
 これほどまでに「サシバ」という鳥に拘る、いや、その領域をこえている。動物神への信奉。
 ナンバーワンよりはオンリーワンをめざす。
 伊良湖岬と伊良部島。

 柳田国男と折口信夫のちがい。
 民俗(ビジュアル)な思考と異次元的な思考の違いである。
 像の想像力を畏怖するように取り上げる折口は文学的。文学をやっていた柳田が、なぜ、文学を捨てて、ビジュアルな思考法に走ったか。柳田的思考と折口的思考。それは対立ではないが、異次元的分析的の違いがある。 


沖縄の詩集―西銘郁和詩集『時の岸辺に』

2014-05-10 | 書評

 西銘郁和詩集『時の岸辺に』(非世界出版会、2008年6月)

自然、社会から位置をずらして言語のための詩という領域を疾走し<戦後詩はもはや、なつメロのようなものです。>というパラダイム的雰囲気がただよっているのが現代詩の状況であろう。しかし詩は時代を突き抜けていく感受性を表現する言葉が求められるはずだし、当世詩のパラダイムから故意に距離をおいて個人的生存を素材にして書く方法は傍流ではなく、むしろ本流に近いはずだ。そこには個人的でありながら出自を基層にして自然を内在化した言葉が立ちあらわれ、存在を表現へと転移する等身大バースを読むことができる。

  耳を澄ませば いまでも
  海鳴りが聴こえてくる
         (跨越す少年)

  「神」の怒号にも聴こえる
  この海鳴りは
  とおく とおく
  胎児の頃にも聴こえていた
          (ホノホシ紀行)

 西銘の出自が沖縄中部の宮城島であることを知って、<海鳴り>は特別の意味を持っていると思った。幼年期のパナリ島での生活風景は裏の島、静寂、光、闇、海風、サトウキビ、瓦屋根、海の青、そして絶えず繰り返す海鳴りではなかったか。記憶と心性にはおそらくこのパナリの海鳴りが脈うっているのだろう。そしてそれはさかのぼって母の子宮で胎児であったときにも聴いていたとする。それほど<海鳴りの音>というのは身体にしみこんだ音であった。海の音、風の音、雨の音は近くに奏でる島の音楽のようなものであった。それは包み込むような静かなときもあれば、たしかに怒り狂ったような<神の怒号>のような時もあった。そして、島を離れて観念の過剰と暴走を内包した青春から遠く歳月をへだてて<いま>を生きる<時の岸辺>に書かれた詩編が詩集となった。
 この詩集には日常や家族、係累、友人、他者あるいは記憶の風景や旅の事象への関わり事に触発された後に発生する言語が織り込まれている。西銘にとっては、詩はつくるものではなく、起こるものだという認識があるように思う。作者が現実に生起する出来事に触発されて、これを詩にしたいと思わなければ詩にならない。 たとえば「詩を書くために/県立・中部病院に通ったことがある」で始まる「詩を書くために」という作品には二人の叔母の、リアルな死の場面があるが、その場面に起こった出来事に触発されたものを語り調で書いている。
 表現を歌的な技法か語り的な技法を択ぶのは、作者が決めることだ。手法は私的な出来事から詩的モチーフを紡ぎ出して喩法を使わず語り調で言語を展開する特徴とみた。西銘は出来事の詩人である、と乱暴にいっていいかもしれない。

                           


沖縄の詩集―八重洋一郎『沖縄料理考』

2014-05-10 | 書評

  八重洋一郎詩集『沖縄料理考』(出版舎Mugen、2012年7月) 料理と詩、不似合いを化合する諧謔 

 沖縄料理考、と聞いたとき、へえー、八重さんて、もしかしたら、酒が好きでグルメで、食べ物に相当関心のあるひとで、だからとうとう沖縄・八重山の料理の本をだすようになったか、と勘違い、詩集とあるから、おやや、こんなタイトルでいいのかな、詩集名にはちょっとなあ、と遠慮なき感想をもった。
 近代のある時期、詩人という種族は言葉の芸術と自我生の自由を至上して<食べ物>という世俗的なもの、動物的胃袋とつながるものなんかにはまったく興味のない存在、というか生活に関心をもたないという偏見がアル中ランボー病、チュウヤ逆転病を患っていた私の中で構築されていた。やせて青白い青年……。酒や反秩序で生活破綻して世俗から追い出され、運良く母性的女性に救われ生きながらえる、というのは、古い時代のカッコいい伝説的な詩人像。いまやちゃんとした定職をもち家庭をもち世俗に合わせ、スマートフォンのように機能的で何でも器用にこなすワザを確保しているのが21世紀的イッパン詩人のようだ。(とこれまた独断・偏向病で書いている)
 明治、大正、昭和の近代期、前世代の詩人達が世俗を離れた詩人の生き方はこんなものよ、と食えない詩で生きようと迫真演技まがいの生き様を晒し、こんな、近代詩の先祖、爺ちゃん、父ちゃん詩人たちのブザマな姿を見ている後世代の子孫、理由なき世代はそんな歴史をマネすまいと真摯な紳士を装うモダニズムで無意識を押し殺しているか。そんなプチ世代は彼ら前世代の汚辱の後始末と後遺症を引きずっているように思えるが。
 これぞ現代の詩人像―というちゃんとした定型像はない。あるわけがない。ないが、言語を芸術革命と運と資質と精神と棘を包括してばらまきすれば、そこは戦後詩の思想で抑圧されない残余のよりどころとして、まだ見ぬ言語の滴りが形を顕わすかもしれない、と期待したりするのだが、詩の個人としての頭の良さと知識の豊富さと育ちのよさや骨格のよさと弛緩したエロスや生のエネルギーが共存並立して対立や葛藤のない、かっこいい言語哲学思想の用語をまとった言説からむなしい言葉が勢いづいて並び出す。または瀟洒なレトリックを巧みに使いわけ「まさに詩人」と人にいわせ注目を浴びれば勝ち組。資本主義の不断な商品生産と物や知的なメタ的生産に言葉は加担してさらにさらに分解して言語商品とメディアの欲望と開発と軽薄な囲い込みに芯を抜かれ脱色される。とそこから何がうまれるのか。詩人名簿などに数千の詩人が登録されているが、ほんとうの<詩人>はどこにいるのか。
 とまあ、詩と料理に思いを馳せれば勝手な妄想、妄念が走り出してしまったので書きとめた次第。ということは、この『沖縄料理考』という詩集が私の散漫な脳を刺激したということだ。感謝とご勘弁を記しておきたい。
 さて八重洋一郎さんは詩歴の長いひとである。八重さんは、なにしろ「沙漠」を「ひろがり」、「空間」を「つらなり」、「眩暈」を 「くるめ」、「存在」を「かなしみ」とルビで読ませる語彙の意味解体と置換を爆ぜた『素描』(1972)の詩人というのが私のなかにある詩人像なのだ。言葉への思念の叩きこみ、読みの転換、意味をイメージに変え、既存の言葉を手繰り寄せ、巧みにおのれの言語にしてしまう詩的化学をあやつる言語の演奏者でもあるのだ。
 詩の素材はどこにもある、と思えばいい。言葉のもつ物のみかたやイメージの、新鮮な像形を突きだすような面白い詩のほうがいい。誰かの後追い、模倣、使い古された言葉、韜晦、影響下はもういい。詩壇は書くのも読むのも詩人同士でわたりあう、境界内言語の社会だから誰が異と先をいっているかに敏感だ。おそらく現代詩は微に細に書いたものが出回っているから<私性を撃つもの>が詩として固有性を主張するなら、その隙間を、つまり誰のものでもない、誰も書いていない、未踏の詩の言語を狙っていくのが戦略として必要であろう。
そこに<食>そのものの詩を集めた詩集だ。虚を突かれた。一見、食い物と詩は似合わないというイメージがあるが裏切られた。

  あいつらは僕らの糞を食べ 僕らは
  あいつらの足の尖までことごとく
  なんというおいしさよ
  やめられないよ クセになる アワモリ飲んで
  豚足 食べて そして
  しまいに
  (足の指先)
  灼けつく通風
  尿酸たっぷり 赤々と関節は腫れ 豚のうらみは
  激烈
  激烈」
                (アシティビチ)

  ねこの肉は夜ひかる
  ねこの肉は夜ひかる
  うすあおく その青い目のように
  うすあおく その青い目のように
  さあ お前たちもためしにお食べ 
              (猫)

 肉食や酒飲の、人への警告と逆襲といい猫肉のリアルな描写といい不気味なハーモニーを奏でている。グルメから遠い私でも「およよ」と感応してしまった。いってみればこの沖縄料理詩は諧謔味、味の落とし穴のある詩集である。耳ガー、チラガー、ヒージャー汁、アシティビチ、ラフテー……。沖縄という地に生まれた特有な料理の陰翳や自身の記憶をちりばめている。沖縄に住む私には親しい聞き慣れたメニューだ。でも食ったことのない、猫、蛙、イラブー、枝サンゴはどんな味がするのだろう。私もゴーヤー、ナーベーラー、フーチーバーを詩にしたことがあるが、さすがに肉料理は書いていない。ただ生々しい肉の解体のプロセスを省略しているところが、幼年期に山羊やニワトリを殺処分し解体する実体験をもつ私にはちょっと不満なところか。
 耳ガーにスタブローギンが登場するとは実に楽しい。沖縄料理を文学にしたところに拍手だ。食う事へ捉え直し、異化、愛、想像がうまく味を出している。食は輪廻舌の最たるものだ。しかも単なる料理詩かと思いきや世の批判や思念を組み込むところはいい作戦だ。生活の自然にポエジーを構築する方法は地上の生き物に、リアリズムとは違う愛とまなざしと発見をすること、この地を支配する自然と風土の歴史に馴染んだ食の異形を表出すること―と、この詩集を読みながら雑駁たる詩想に思いめぐらした。

  わが生涯 最高のあこがれ
  かすみを食って生きること そして
  神秘をうたうこと
             (霞)

 さりげなく書いたこの言葉は不可能と至高を合体した八重さん独特の出し方だ。もっとも気に入った。 

                                          イリプスⅡnd 10号(2012年10月)


沖縄の詩集―下地ヒロユキ『とくとさんちまて』(花View出版)についてのランダム・ノート②

2014-05-10 | 書評

言葉のはじまりにこそ新鮮さがある。およそ詩を書いている者が言語の状況をあまりにも知悉してそれを現在装置として考えた結果が、現代詩というのなら、つまらない。好みでもつまらない。あるいは、なにか、政治的、民族的な意味をもった詩や文章を書くことが詩の役割だといわんばかりのもの。民族は共同体であり個人の固有の声と対峙する。はじめに民族、文化、風俗、宗教ありきでは……つまらない。 

詩は起こっていることへの気づき=感じ取りと思う。それは可視でもあり不可視でもある。だが、目に見えるもの、みえないものだけを書くだけでは詩にならない。呼びかけてくるもの、ささやき、宇宙の存在……をみるものだ。それは詩人の感性と想像力を媒介とする。それが鈍いか鋭いか、深淵か浅いかで、詩の質は決まる。 

下地ヒロユキの詩。外部と内部をみる眼が像を生み出すようにできている。それは気づきから始まる。

「何故だろう/今日の海はいつもより/波頭が多い/波頭が白い」(波頭の白さに乗って)
「海辺にそびえたつ/モクマオウの林が/日々やせ細っていく」(六月の雷雲)
「時空を超え神へと到達する。そんな錯覚でも持たなければ、あてのない旅なんてやってられない。」(ある旅の走り書きより) 

ふつうなら海は荒れていると済ますが、「波頭が多い、白い」とする。それは段々と変化する。「霊性」を意識している。神話的感覚だ。二羽の鳩、海原、庭の雑草、庭の榕樹、クチナシ、煙、岬の風、沼……想像力の自在さ、浪費ではない。 下地ヒロユキは作り出した詩空間に自己を投企して、夢幻と等しい言葉のイメージを読者に開示してみせる。日常よりも非日常の空間にある。日常があっても、それが崩壊して、死や腐食がにじみ出て、妻は行方がわからなくなる。 

さらにみせるのは超越在の、神的=霊的な変容のイメージである。これは驚きとなる。その再体験がおどろおどろしい。彼自身がいう「あるひとつのまなざし」「心を超えた純粋なまなざし」(あとがき)からうまれたというのだ。聖と魔。 

詩は本質的に不安の表出であり、夢想であり、増殖し、狂気のようにさまよい、光明を求める。詩がドラマであるのは、精神の形が生き生きと出現して変容するからだ。詩の魅力とは不安の魂をひきつけるものだ。かつて詩は悲劇的、悪魔的、破滅的、ロマンチシズムから、夜の声をきき、神のイメージを覚え、ついに朝の光に救済的な夢を引きだしていた。 

南島の事物が詩となるためには呼び込み変容して、しかし、離反しながら、新鮮な像をいかに作るかだ。孤立でも異様でもいい。 

下地ヒロユキの手法は明らかだ。見えるものから見えないものを導き出すことだ。それは風景の隠喩となる。みえないものを導き出すことは詩的イメージの形成力がなければならない。詩の素材やテーマが、みえないものにあるとすれば、一定の困難を強いられる。この世界が見えるものだけでできあがっていることを否定しなければならないからだ。 

海と光だ。タマスだ。暗黒だ。ああ、この風の心地よさ。
さらに、神話的想像を想起させる。おそらく神をみる感受性と想像性が下地ヒロユキの心層に存在する。
始原的体験、輪郭さだからぬ世界、日常は鈍感ではない、南島の夜と闇は夢の舞台だ。 

島では取り囲む海を見ることが習性だ。海に関する詩。海は変容する自然で祈りの彼方だった。海というものの存在と意味。その形、流動、うねり、ざわめき、静寂に、抱擁と残酷、海ほどいのちを輝かせ、魂を引き込み、広がりへと連れていくものはない。太古の人間が舟という木の葉で浮き、揺られ、流れ、到着した海。単調な変化と荒ぶる風のなかで移動した。幻のように。しかし、どこへ。海は本来、自由であるべきだ。線描できないのだ。海というものに出会ったことのないものに、海は想像を掻き立てる。ランボーがそうだ。イージドールもミショーも旅人だった。

眩しい夏の、アジア、琉球の海。この海を、かつて何が往来したのか。 

                                    詩誌アブ第11号(2011年11月)

書評 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-184268-storytopic-6.html