2013年9月1日。浦添てだこホール。立ち見が出るほどの大入りといえば大入り。開場遅れでいったので座る席なく2時間30分も立ってみるはめになった。膝は痛い、腰が痛い。耐えながらの観劇という事態を味わった。
前日8月31日は本土ではサザンオールスターズが13年ぶりに茅ヶ崎ライブでもりあがったとか、今日の昼間は沖縄全島エイサー大会で若者がもりあがるとか、そして私のこの夜は古典的琉球芸能観劇である。現在とはカルチャーとサブカルチャーが、あいまいな境界で並立して咲き乱れていることだ。なにか世の中、個人が個人をあいまにして戯れ、集団を作る罠にはまりこみ、そこの無意識の作り出す危険な性格の空間と時間を楽しむという集団的志向が強いのではないか、なんて評論家めいた思いにとらわれている。現今スキゾ社会の人間は孤絶を癒やすため、集団になりたがり、群れれば安心する。みんなと同じ方向にいる自分をみて安心する。だが、そのかたまりの質をずらした集団感情、集団共感の方向性が狂えば、これは異様な事象を発生させると思ったりする。
幕開け早々、琉球舞踊「諸屯」(宮城幸子)が舞台を彩る。なぜ、こんなゆったりしすぎた踊りが最初にきたか?つぎの「花風」(玉城節子)もそうだ。どうもこのゆったり感はカルチャー・ショックだ。古典琉球舞踊になじめない人間にとっては異空間体験だ。いやこれは琉球的時間の生理として受容しよう。いそぎ感は必要ない。ゆっくり感こそ風土。そのゆっくり感こそ琉球の精神のリズム。これを沖縄時間の身体化といおうか。沖縄的、沖縄的、と。
静と動のくりだす身体のわざの踊りか。はじめは静の強調をみた。静を慈しむように足の動きだけがあり、思いが高まって、やがて手を動かすしぐさがでる。そう、その手は静を慈しむようにである。静は運命的だ。永遠だがさみしすぎる。だから動が必要だ。静とひきあう動だ。静を破って強調する動。その動が、手の動きの奥ゆかしさであらわされる。踊りの中枢はどこにあるか。だが、それはずっと後だ。手と足の動芸が調和をつくって最高の表情をつくる。身体は手と足で陰翳をつくる。琉球舞踊の美的精神はここにあらわれる。
「諸屯」、「花風」。どちらも古典舞踊の格調高い踊りと言われている。これを作った作者の思想を知りたくなった。愛や恋や思いや、それ以外になにがあるのか。あった。情念だ。情念のゆったり感。近世琉球の情念の時間。なにもないように過ぎる時間の影をとらえなければならない。影を感じることだ。そんな何もないことの怯えにある現在は撃たれよ。情念に撃たれよ、耐えよ。
「鳩間節」(佐藤太圭子)になってほっとした。こっちも躍動的になった。全身の躍動感、テンポ。労働の動きだ。やはり労働のリズムはいい。律動的で自然だ。幕開けの景気づけにはこっちがよかったのにと思った。
琉球芸能は芸術か、娯楽か? わからない。わからないまま伝統化し、みんなのめり込んでいるのか。
宮城幸子、玉城節子、佐藤太圭子、玉城秀子。師匠中の師匠だ。たしかにその踊りはみごたえあった。その踊りの芸を知り尽くした、堂々感、安定感がもろに身体の表情から出ているのだ。それだけではない。しなやかさ、エロス、情感、奥深さ、機微、力強さが相互にはじきあい、静と動を表現する身体を芸術の高みまでひきあげていた。それと華やかさ。とくに玉城節子の歳を感じさせない初々しい踊りはよかった。華美華美の酔狂の境界に自分がいる。
長い前座の公演が終わって、いよいよ新作組踊『平敷屋朝敏』が幕をあけた。すると舞台は妖艶な霊的な死者の世界。青白い霧がたなびく。始まりとは、なんと視るものを引きずり込む力をもっていることか。なにが始まるのかという期待にみたされる。
はじめに風の精がでてきて口上を述べる。白い白い風の精。主調は詩だった。と誰もが思う。異風な組踊。だから多数が注目した。
勝連繁雄が詩人ということもある。風の精が出てきて口上を述べたとき、ああ、これは詩だなとだれも思っただろう。
「私は風の精。人の悲しみ、ひとのうれしさからうまれた歌。」「時の翼をこえて……」(あとは記憶にない、……セリフのうちなーぐちが通り過ぎる…理解……不能………残念) とにかく語って消えてしまう。
衣装の色。原色だ。平敷屋朝敏の青とウミキタルの赤。言葉はどうか。歌はどうか。表情はどうか。いや表情をつくらないのが組踊らしい。だから能なのだ。顔は仮面である。あまり顔の表情で語ってはいけないようだ。内なるものと声と身動きで語る。それにしても沖縄の歴史の闇を代表する平敷屋朝敏に対する英雄扱いは市井のフラストレーションなのか?ならば大いにハッサンせよ。
勝連繁雄は詩人だから平敷屋朝敏を内面と魂からみている。そんな詩を劇にするのはむつかしい。ポエジーは内面に存在し、魂の震えや形を表出するのは深みからでるからだ。演じるものは相当な困難を究めたにちがいない。詩と舞台の衝突を企てた、斬新な組踊だ。
役者は7名で演じた。網むこうの地謡が8名。豪華絢爛とまではいかなかった。およそ50分。楽しまないわけにはいくまい。娯楽なのだ。娯楽。芸能はやはり娯楽だよ。いや待てよ。芸能は芸術にまで昇華しないとつまらなく滅んでしまうぞ。伝統保存、継承でしか残されないなんて淋しすぎる。
「新作組踊」という名称である。「組踊新作」ではないのである。伝統組踊とはちがうので、新作か。だが組踊にはちがいない。玉城朝薫の組踊とはちがうのだ。というと?伝統にのせて近代を表現する。この矛盾が現代の新作組踊だろう。組踊作家は組踊は舞台劇だから総合芸術とみる。であれば、舞台の要素をひきだす味を工夫しなければならない。伝統を補完するのではなく独立した組踊だ。過去に重点をおくことは惰性だ。言葉、視覚、音、音声、振り、動き、抑揚、歌、楽器、衣装そしてなによりも役者の演技、身振り、その精神のつかみと深さ。これを出さねばならない。だが舞台は役者の芸がいのちである、と思う。生かすも殺すも役者次第だ。
現代組踊は演じることを越えて表現する舞台芸術の課題にある、と思う。これほどアイデンティティ咲き渡る沖縄文化隆盛の時代にあって、芸能はさかんで芸術になっているが、問題は、芸を追求する思想が必要なのだ。これがなければ衰弱と惰性だ。
私は、この組踊を芝居とも受け取った。ウチナー芝居ではない。なにかに撃たれた芝居なのだ。芝居性?組踊に芝居性を盛り込んでいいのか。いいとも。芸能は形式や権威で継承するものではない。芸をきわめるためには、つねに創造的なもくろみを入れ込むことである。だから芝居的であったとしても芸の広がりをみることができるのだ。
ウミキタルとの会話や村人の滑稽な会話や役人の捕縛前の会話や処刑場の場面。だいたい平敷屋朝敏の悲劇を知っているものは物語の筋を知っている。であればそのことばや演技は史実や伝説を超えたか、ということになる。そこが疑問になった。だいたいがおとなしい。史実を演じるのか、平敷屋朝敏の魂に沿って演じるのか。詩の口上、風の精はあの世の声だし、見届けたカタラヤーだ。死者への鎮魂、祈り、賞賛、悲しみ、同調、覚醒。……それ以上はいわないことにしよう。
最終部に聞こえるメロディ。これか、虚をつく演奏というのは。三線とアメイジンググレイス。なるほど、西洋、琉球の折衷か。鎮魂だからアメイジンググレイスなのだ。神の恩寵が欲しい。死者は神となる。神となって生者をうちつける。
「琉球国旧記」にある島々の死者を祀る御嶽。平敷屋朝敏を祀る御嶽はあったか? 非業の死を遂げた死者への敬虔。闇に葬った為政者蔡温は偉人として語り継がれる。功罪あれば裁けず。アメイジンググレイスが流れる最後はもりあがる場面だが……。史実は詩的想像力を束縛するからやっかいなのだ。想像力は史実が契機になったとしても自由であらねばならない。
観客の多くが、琉球芸能に関わっているひとたちのようだ。千席が埋まっているので、盛況ではある。享受したあとの、言葉があまり聞こえかったのは、なぜか?
三線、胡弓、箏の楽器の音と歌声。15名。これでミュージカルに仕立てたらどうなったろうか。組踊は古典的ミュージカル的でもある。セリフを単調な抑揚で発声する、あの独特さ。「だだだだ、だ、だ、だ」。セリフと楽器と踊り。声でさえ音楽の一部になる。
ああ、これを書くのが遅かった。もう記憶が薄れてきている。場面のディティールを回想できない。
※ 鑑賞の機会をあたえてくれた勝連繁雄さんに感謝します。
「詩誌アブ」第14号「缶詰ノート」に書いたものを加筆修正