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南風北風―ぱいかじにすかじ―  by  松原敏夫

沖縄、島、シマ、海、ことば、声、感じ、思い、考え、幻、鳥。

山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に  対談= 東中十三郎 × 松原敏夫 (最終回)

2014-08-30 | 詩人論、作家論、作品論

 


貘の詩的戦略

東中 ところで貘の詩で気になることがもうひとつある。題名なんだ。題名と内容がつりあわない詩があるんだよ。「士族」という詩はそうだね。なんで士族なんだろう。力士のことなら「力士」でいい。「数学」という題もよくわからない。なんで数学なのか。「萌芽」「現金」もそうだな。

松原 揶揄的で暗示的なんだよ。貘は詩に対する並々ならぬ思いを持っていた。軽い詩ということではない。口語だからということでもなく彼自身の言葉の〈把握〉と〈使用〉がある。それは屈折なんだよ。表にでる言葉は日常語的だが、組み合わされた言葉がもっているのは内面の複雑さ、コンプレックスなんだろうな。貘を読むと近代の負者意識を濾過するには居直りもひとつの方法と思える。そこは貘の戦略でもあるわけよ。そこが負け組みの感傷を歌った啄木とのちがいがある。
山本太郎がいう「鏡の原理」だよ。鏡像というとよくわかるね。詩に書かれる僕と書く僕とそれをみている僕という三つの眼が重層してある。貧乏詩人とか生活のある風景で解釈しては半端になっちゃうね。ただの生活詩人じゃないんだから。

東中 現実的な自己と詩での自己をはさんでいるわけだ。そこは自分の眼でみているということだな。

  詩人の魂

松原 いっぽう貘にとっては詩人という位置が世の中で生きるのにいちばんストンと身にはまった。詩で食えないにもかかわらず、詩人であろうとした。その生き方は、生活の価値よりも言葉に自分を預けたということができる。のちに公務員という定職につくのに、家族の生活があってもそれをなげうつ貘がいる。そこはなんでだろうと僕など思う。「おれはなまけもん」と書くが、詩にたいしてはなまけもんじゃなかった。かっこよくいえば詩人の魂に殉ずる貘がいる。そんなひとは生活者としては愚かで困るけどな。ただ精神貴族という言葉で片づけて欲しくないな。

東中 貘詩の読み方を多角的にする必要があるということか。おおう!詩論の夜だ、詩とはなにか。おれは現代詩はきらいだ。生活から学べ。学べ。

松原 おや、また始まったな。繰り返すようだが、貘は、一語、一句、一行、書く瞬間に、すべてを織り込むような、言葉と思念が一致するように、推敲の手を借りた。そこに貘の詩の表現へのスタイル、リゴリックな味わいがある。言葉は口語的だが簡単に出したものではないわけだ。推敲するときに、待てよ、ここは、と立ち止まったり、顔をあげて、周囲の人間を眺めながら、自分の内面で思念の格闘をしている。そこをみなければならない。実生活と対峙した詩というのは境涯の陰翳を含んでいるもんだ。 

  エロスの詩

東中 おめえは深読みなんだよ。おめえはだんだんと理屈っぽくなってきたな。くそ脆弱詩論家め。……そこで質問!「玩具」という詩と、おめえの好きなエリュアールの「ぼくのたったひとつの愛撫で/全身ではじけるおまえの輝き」という詩とどっちを評価するの?どちらも女体詩でしょう。

松原 実感的には「玩具」。詩的想像力からするとエリュアール、それに愛がある。これでいい?

東中 貘には女への愛がないということ?そう言っちゃっていいの

松原 そうはいっていないよ。

東中 おれは貘の「玩具」だな。貘にしてはめずらしくエロスが充足している。充足しているから残しておきたいという感覚がはっきり出ている。書き残したいんだよ。その瞬間の身体から受けた充実感覚を。エリュアールのもいいが。……愛、ね、なるほど。D・H・ローレンスの「大理石のような白いお尻」……うーむ……。白い皿に焼き鳥がひと串、詩と酒がからんで流れゆく夏の夜……むむ。

松原 とりとめのない饒舌な話しになったが、そろそろ君も酩酊してきたようだから、これで今夜はおわりにしよう。

                                               (2013・8・3、松原宅にて)


山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に  対談= 東中十三郎 × 松原敏夫  (第7回)

2014-08-29 | 詩人論、作家論、作品論

貧乏と詩人

松原 ま、貘における日本語と方言の話は長くなりそうだから、これについては、またいつかやろう。石川啄木の話しに戻そう。啄木も友人たちに借金したりするね。生活的に。貸すものは生活のためだろうと思うが、どうも本人は飲み代や遊ぶ金に使うことがあったらしいよ。俺みたいな英雄には貸すのが当たり前という感じだったらしいね。啄木の口惜しい歌は、成功を夢みる青年の挫折の歌だね。早熟なんだろうよ。神童と自分をいっているがたしかにそういう側面はあったと思う。
啄木は結婚がはやい。18で節子と婚約、19歳で結婚、一家を背負っての生活、母と節子の確執、不定職、……26歳で結核で死去。たかり魔の啄木。かれを援助した金田一京助という友人の存在は大きいね。啄木は彼を神様とおもっていいくらいにほんとに世話している。

東中 草野心平も宮沢賢治に「米送れ」と電報うつしね。……はあ、相互扶助か一方扶助か。

松原 放浪、貧乏、家族……からでてくる言葉は民衆的なんだよ。

余談だがこのまえテレビをみていると、平成時代の貧乏とは欠乏感があるだけで貧乏というんだね、外国旅行にいけない、指輪が買えない、自家用車がない、整形費用がない、……そんなことでも「うちは貧乏だ」といっている人がいたのをみて驚いたよ。消費社会の質のレベルが高くなっているんだな。めしが食えるか食えないかじゃなくなっている。……
ところで貘だが彼には啄木の「友がみなわれより偉くみゆる日よ花を買いきて妻と親しむ」という生活がそのとき、なかったわけだ。

東中 ジョーダンじゃねえよ。貘だってフツウの生活したかっただけよ。妻をもった生活。これって家庭生活にたいする男のあこがれだろうよ。ふつうに。ただ彼には職業が付随しなかったんだよ。詩でくっていこうと本気で思っていたのか。それはちがうだろう。貘も啄木のような口惜しい男ではあったと思うね。「自己紹介」なんて詩を書く貘の裏側には、おれは詩でくっていける能力をもっているが運がわるく貧乏をして妻もいないんだということを表明しているだけじゃないか。貘はほんとに無欲だったかね?

松原 お、きたね。吉本隆明がいっている不定職インテリ、な。底辺の民衆の生活をすくいあげることばの役割を果たしたという意味では価値が大きい。

東中 おれもそっちのほうだな。知的詩人の西脇順三郎なんかもいるが、外国文学の思想で日本文学をやった。モダニズム、シュルレアリズムなんかを瀧口修造なんかと紹介してやった。かれらはちゃんと知的インテリ、大学教授とか、仕事があった。詩を詩のためとしたわけよ。言葉だけでみると面白いが、なんというか詩に含む生の陰翳が弱いよ。詩も生活から離れてさ。凝りすぎだよ。その詩の流れが21世紀のいまにひきつがれているよね。

松原 詩はことばにすぎないが、芸術言語という考えがある。いまの現代詩はそこで葛藤しているような気がする。ただそこをどう出すかによる。究めつくした言語か、生活を反映する言語か。だが最終的には好みが決めるかもな。 

  詩作の方法

東中 きみも凝り性の詩を書くからな。ま、それが好きならしょうがないけど。貘の詩を読んでいると、聞いたみたくなることがある。詩をかくとき、題名を書いてから本文をかくのか、ということ。おめえはどうなの?

松原 詩作の秘密か。僕の場合は、まず本文から書いていくね。題名はあとでつける。いい加減なんだ。こういう詩を書こうという決めがないんだね。だから輪郭がはっきりしないものになってしまって面白くなくなる。それでも書いたのは自分だからと許容する。

東中 貘は寡作なんだな。しかも短かい。

松原 そこなんだよ。一編の詩をつくるとき、百枚も二百枚も原稿用紙を反古にするほど推敲魔なんだが、そこに秘密があるよな。ひとつの単語、語句、行、を何度も何度も咀嚼するわけだろう。こうしようか、ああしようかと。そのときにあるのは、思念だよね。言葉にこめるものが、重層してあるんだ。意味とか、喩とか、推敲というのは貘にとっては加えて捨てて加えて捨てて残して残して残ったものが最後の詩となる。これは美術的でもある。何度もデッサンを繰り返している。そこはやはり彼が絵画をめざしたことと関係もあるよ。

東中 いまのパソコンのようなものが当時あったらよかっただろうに。何度でも上書きで済むんだから。 

  暗誦できる詩人

松原 そういう書き方だから、たぶん貘は自作の詩をほとんど暗誦できる詩人じゃないかな。身体が詩を憶えている、そんな感じじゃないかな。彼自身が詩集という感じだよ。

東中 彼自身が詩集ね。詩が身体に刻み込まれているというわけか。面白い!詩人というのはそうでなくちゃいけないね。

松原 僕なんか書き散らかしているから、とてもそういうわけにはいかないな。

東中 ちえっ、だからおめえはいい加減といいたいんだよ。自作の詩が自分の言葉なら暗誦しろよ。それくらい存在をかけているなら責任をもてよ。緊張感がないんだよ。まったく。そんな奴が読者を気にするなよ。

松原 はい。すみません。

                                                              (つづく)


山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に  対談= 東中十三郎 × 松原敏夫  (第6回)

2014-08-28 | 詩人論、作家論、作品論

琉球人という出自と沖縄人

松原 先をいこう。離郷、望郷、貧乏、借金詩人といえば、石川啄木を思いだすね。啄木も質はちがうが「故郷を追われる如く」東京にいって、作家として名をあげて食っていこうとがんばる、が成功しない。かれの場合、故郷への嫌悪が望郷になったりする。だから「ふるさとの山はありがたきかな」と歌ったり、駅にいってふるさとのことばを聞きにいったりする。深刻な神経症の萩原朔太郎は東京にいっていちおう詩人で名をあげるが、故郷に帰ったとき「ほら、気ちがい詩人がとおる」と後ろ指さされるということがあるね。
貘の離郷にも故郷への絶望感、こんな島にはもう住めないな、という自覚と自分の身をおく空間として東京を考えたと思うんだ。ところが、ある女に出自を訊かれて「琉球」といえずにごまかす「会話」という詩があるよね。あれは身をおく東京という異郷から剥がされまいとする渾身のわざだよ。「朝鮮人、琉球人お断り」という差別の時代にあったわけだからね。

東中 琉球人を展示して物議をかもした人類館事件はいつだったかな。

松原 それは明治36年。貘が生まれた年だ。まあ、日本社会での沖縄の人間への扱いがそんなものであることは沖縄社会では常識的に伝わっていたはずだし、その差別する社会にいるという感覚は個別的なところで敏感に感じるもんだ。当時は「僕は琉球人だ」と胸をはれないんだな。いまはもう沖縄人がいろんな分野で活躍してブランド化してほとんど差別感がなくなっているけど、はたしてどうかな。ヘイトスピーチが吹き出してきている現状をみるとなにかおかしくなってきたなという気がする。

東中 いまでも「おれは琉球人だ」と胸をはる沖縄人はいないだろうよ。琉球人という言い方と沖縄人という言い方は微妙にちがっていると思うよ。そこでいい例がある。佐藤春夫の「放浪三昧」に、琉球からきたひとに、きみは出身は琉球だろうと訊くと「はい、沖縄です」という、という部分があるだろう?〈琉球〉と〈沖縄〉とは一緒なのに、〈沖縄〉といいたがる。そこには、沖縄が日本であって近代化された琉球、したがって差別されるような琉球ではない空間の〈沖縄〉だという、いじましい仮構の自意識があったわけよね。日本という異郷のなかにいる琉球・沖縄の自分を発見されたくないという気持ちが強くある。貘にとっても、はがされるということが怖かったんだろう。
ところがさ、あとになると、沖縄出身の国吉真善がやっている泡盛屋で、文化人を集めて沖縄料理の飲み会をするときに、水を得たように、指笛を吹いたり口三線をやって琉舞を踊ったりするわけよ。ま、これは貘特有のパフォーマンスだと思うけど。自分の出自をあかしてもいい空間と隠す空間という、いびつな分裂した身体空間をきりわける、そういうのを当時の日本在住の沖縄人は敏感に持っていた。当時から文化人の間にはウチナーというのは関心の的だったから、ある意味では、そこは解放された空間だったかもしれない。昭和15年に方言論争もでてくるけど。それには貘は参戦していないね。 

  共通語(日本語)

松原 あれを仕掛けた民芸協会とのつきあいがなかったろうし、まだ隠しているからね。「晴天」という詩があるよね。二度目の上京したときの詩と思われるが、「ボクントコヘアソビニオイデヨ」と日本語で誘う男の話。
そういわれて「僕もまた考え考え/東京の言葉を拾いあげるのであった/キミントコハドコナンダ」「コマチャッタのチャタノ」という鼻のつく言葉をカタカナにして揶揄している。ま、風刺めいた書き方ではあるが、そこには沖縄語と日本語の対峙の表情がある。相手の男は沖縄の人間なのか、ヤマトの人間なのかわからないが、なにか共通語を発音するときの異和感がでている。方言札への反発をもっていたらしいから、貘が言語というものを強く意識していたことは疑いない。そこを貘らしいユーモアっぽい、諧謔な詩にしている。

東中 おれたちの若いときにも、東京へいったやつが、しばらくして帰省して、ヤマトグチのハヤリ言葉をわざと使うやつがいたよね。鼻がついてさ、キザっぽくて気にいらなかったね。ヤマトンチュフージしてさ。都会的、上品な言葉をみせびらかすというのかな。なにもそこまですぐに染まらなくてもと思ったよ。

                                                             (つづく) 

※ 注記: 前回(第5回)で「仲嶺眞武さんが93歳で今も現役で頑張っている。」としましたが、この記事をまとめた(2013年8月)あとに仲嶺さんは同年4月に逝去されていたことがわかりましたので、「仲嶺眞武さんは93歳まで現役で頑張っていた。」に訂正します。


山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に  対談= 東中十三郎 × 松原敏夫  (第5回)

2014-08-27 | 詩人論、作家論、作品論

佐藤春夫、金子光晴と

東中 金子光晴もいいねえ。言葉の枠が大きいよ。スケールの大きさがあるし自由さがあるよ。日本を飛び出した理由がわかるね。

松原 僕も好きだな。日本の風土に属さないで距離をおいた言葉があるし、反骨精神に抒情が軋んでいる。貘は運がいい男だったと思うね。金子光晴と親しくなるだけでなく宮城聡の紹介で佐藤春夫にとりいれてもらうんだから。当時は佐藤は与謝野晶子でさえ、いまは大家になって紹介するのも気がひけるというほどの人物だから。

東中 そうなの?佐藤春夫の作品はあまり読んでいない。たしか佐藤春夫宅で高橋新吉を紹介されるんだよね。

松原 貘を、るんぺん詩人、新吉を、きちがい詩人、とね。このとき佐藤春夫は33歳、貘は23歳、新吉が25歳、青年時代で、新進気鋭という歳だろう。新吉なんかもっと若い頃、父親に座敷牢に閉じこめられる、というすごい体験をもっている。自分の精神の病と闘っていたんだね。新吉がダダイストになったのは必然だったかもな。
年齢でいうとね、調べてみるとね、山之口貘、草野心平、小野十三郎、瀧口修造が生まれた年が同じなんだ。中原中也は4歳年下なんだな。金子光晴は8歳も先輩なんだ。余談だが、高橋新吉86、西脇順三郎88、堀口大学90、草野心平85、小野十三郎93、埴谷雄高88、吉本隆明87、知念栄喜85……

東中 なにそれ?

松原 明治大正生まれで長生きした詩人だよ。沖縄では仲嶺眞武さんが93歳で今も現役で頑張っている。大城立裕さんも88歳になったかな。

東中 いいね、長生きは夢だね。おれたちは……どうかな。長寿、健康、元気、年金、これが揃っていれば老いは怖くないね。……戻すが佐藤春夫と金子光晴はそんなに歳変わらないね。知名度は佐藤のほうがバツグンだったのか。おれには金子光晴だがな。 

  金子光晴の貘への印象

松原 金子光晴と知り合うのは、佐藤春夫を知ってから6年後の29歳。

東中 『思弁の苑』の序文を二人に書いてもらっているね。

松原 佐藤春夫にも金子光晴にも好かれていたらしい。貘のようなあからさまな人間には心を許してしまう、そんな雰囲気や性格を貘は持っていたと言うことが出来る。なんとなく面白い、気になるやつだったわけだ。特に金子には物心両面からすごくお世話になっている。飯をくわせてもらったりお下がりをもったり、結婚の仲人も森三千代ふたりにやってもらっている。

東中 金子光晴が貘の詩に好感を感じたのは、実は、森三千代との複雑な関係が背景にあったんじゃないかな。夫婦のようでもあり夫婦らしくもないところもあったらしいからね。森三千代も作家でふつうの生活に収まらない破天荒な女性だったらしいから。二人の仲は3度も離婚再婚を繰り返して、金子が79歳の時に二人は最後の離婚をして金子は翌年80歳で亡くなるというけど、すごいなあ、ほんとうかなあ。……ま、それはいいとして、だから金子にとっては貘のくせのない平凡な夫婦の夢というのがうらやましかったんじゃないかと思うんだ。
結婚願望の「求婚の広告」という詩があるよね。あれは、ほんとにふつうの願望だよね。それって、上京してからしばらくたってからだろう。

   結婚願望

松原 さっきから話しているように、だいたいが『思弁の苑』は彼女というか結婚相手としての女というか、現実の欲求から女房になる女を探索することを書いている。浮浪人という身分を忘れて人並みの欲情に悶えていたんだね。

東中 若いしさ。それは当然だろう。食うこと、結婚、女房、家族もつということ、人に金借りること、すべてが身につまされることだった。浮浪生活している自分をみないふりしていたと思うね。じゃないと、結婚願望なんてできっこない。

松原 もっとも詩集をだそうとしたころにはたしか鍼灸師の学校にいって資格をとっているから、正確には放浪生活ではない。不定職の状態ではあっただろうが。

東中 手に職をもっていたんだな。さすがだな。貘はたくましいよ。中原中也にあったとき鍼をうつ話をしたらしいね。

松原 それは中也がこわがって実現しなかったらしいよ。もっとつきあっておけば面白かったろうに、と思うね。

東中 考えてみると、沖縄にいたときに充たされなかったことがあるわけね。ゴゼイとの婚約の破談。あれがトラウマのようにあったんじゃないか。それを早く果たそうとしたのかもしれない。あのときに描いていた男として妻を持つという計画が心のなかに強く尾を引いていたんじゃないか。

松原 その見方も面白いね。君は酒飲むとさすがだな。が、酔いすぎるなよ。これからなんだから。

東中 おめえにおだてられたって嬉しくないね。おべっかやろうが。……ああ、だんだんと現実感がなくなってきた。……

                                                          (つづく)


山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に  対談= 東中十三郎 × 松原敏夫  (第4回)

2014-08-26 | 詩人論、作家論、作品論

僕という存在

東中 飲み屋でコミュニストかアナーキストか聞かれて「誰かでなければならないのか、おれはおれなんだ」と怒り出す詩だな。あれは貘にしてはけっこう直接的だなと思ったね。『思弁の苑』は女からだんだんと自分の自覚にはいってきて「自分はなにもの?」という観念に襲われているよね。だから「僕」という言葉を何度も書きつける。で、その僕を「食う人間」という絶対存在で説明する。そこでがんばるんだな。人間はただの食う人間だよ、ということをいっているにすぎないのに、世の中、そうじゃない。だから否定しながら、やはりなんだろうと思うわけだろうね。

松原 「存在」という詩なんかそうだね。「僕」というものへ何度も問いかけている。最後に「僕を見るにはそれもまた/もう一廻りだ/社会のあたりを廻って来いと言いたくなる」と締める。〈僕〉というのは社会との関係であるというんだな。この詩を読んだとき、ランボーの手紙を思いだすんだな。「我とは一個の他者である」という名文句だよ。

東中 ほう、唐突だな。面白い、聞こう。

松原 ランボーも僕という存在を考えたんだな。ただその僕は詩のなかの僕であるわけ。ランボーは僕を発見するんだが、その僕は他者化した僕なんだな。僕であって僕ではない僕という見方。だから僕は何にでもなれるという自由な言語思想なんだ。僕が目覚めてラッパになっていてもいいんだ、というだろう。これは一種の文学革命だよ。だが貘の場合、僕の発見というか僕に出会っているんだが、即物的なんだよ。生まれてきただけで僕になっている。それ以外の僕ではないんだな。そしてその僕は社会にもみくちゃにされても、やはり僕のままだという。人間というのは、もちろんそうだが社会の僕であることだけはちゃんとわきまえているだけに、これは唯物的か。 

  芥川の『河童』との関係

東中 ま、そういえなくもない。当時のマルクス思想への反応もあるんだろう。「マンネリズム」ということも貘の関心があったようだね。「マンネリズムの原因」という詩があるね。産むことへの詩なんだ。産むぞ、と胎児に伝える機械、胎児が、生まれるのが嫌、といえる機械があればなという奇妙な発想の言葉が並んでいる。この詩は芥川龍之介の『河童』を読んでいたんじゃないかと思わせるね。『河童』に河童のお産の場面がでてくるだろう。

松原 ああ、あれか。あれは面白いね。

東中 あれは面白いよ。お産のとき、父親が妊娠している母親の生殖器に向かって、胎児に生まれたいかどうか尋ねる、という場面がでてくるだろう。すると胎児が父親に向かって、おまえはいやな奴だから生まれたくないと返事すると妊婦のお腹が小さくなってへこむというくだり。貘の、その詩も類似している。 

  貘の詩的思想

松原 その見方は面白いね。貘はそのころ生まれてきたことがいやになっていたかもしれない、なんで生まれてきたんだろう、とね。うまくいかない人生だもんな。
貘にとってはイメージつまり想像力で詩を書くという手法はなかったね。短歌的抒情もなかった。イメージも抒情もない詩というのは、僕にとってはつまらない詩と思えるけど、貘は詩法について、こういっているね。人間としてのバランスを保つため、かゆいところを書く、とか。だとすると、まず生があって次に詩があるという詩想だね。生を先に、次に詩をタッチする、ということだ。生まれてきたことはいやになっても、生きていることは決していやにならない。これは貘の哲学みたいなものだ。
これはあたりまえと思うんだが、青年の詩であった大正・昭和初期は、芸術至上主義的な思考が強かったと思うんだ。私小説的な生き方をして身を滅ぼすものも多かったしね。つまり人間の自然性というのを軽くみていた。そんな文学風土に、だから金子光晴は序文で「日本のほんとうの詩は山之口貘のような詩人達からはじまる」と絶賛したわけだ。

                                                            (つづく)


山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に  対談= 東中十三郎 × 松原敏夫  (第3回)

2014-08-25 | 詩人論、作家論、作品論

『思弁の苑』の時代

松原 『思弁の苑』の発刊を計画したのは昭和8年ころ、実際出したのは昭和13年、安田静江と結婚してから翌年の35歳になる。出そうと思いついた頃は、時代的には、すでに満州事変が勃発したり、5・15事件、2・26事件が起こる政治的世情がある。日本が軍国主義になっていく、おかしくなる時代だよ。

東中 ファシズムになっていく時代を絡めながらみていくと面白いね。東京という地に身の置き所がない沖縄の浮浪青年と青年将校たちの対比をね。だけどほとんど貘の文章にはそういう状況を書いてないだろう。彼には食うための生活がいっぱいで世情は関係なかったのだろうか。国中がファシズムの後押しになっていく時代で、文学者が報国団体を組織して活動する。このころの日本文学活動と沖縄出身の貘を強引にでもいいから対比すると、なにかみえてくるものがあるんじゃないか。そういえば警察官の伊波南哲もいるな。

松原 底辺の生活者は情報がないし、国がどう動いているのか知らされていなかっただろうね。気がつけば戦時突入していたというのが実態だろう。戒厳令がしかれた東京を貘がとぼとぼ歩くという姿はなにか映画的な感じがするなあ、そういう場面は誰か描いたかもしれないが。誰か貘の人生をドラマ化、映画化してほしいね。
で、貘が出版を計画したころ、貘は30歳になっている。それまでに書いたものだから、その間の独り身の生活が背景にある。ほとんどの詩は、ね。はやく身をおちつけたいという願望が強い。ま、当時の男は、一家を持つことが一人前であったし、それが生活社会の常識であったのだろう。はやく大人になりたかったということだよ。

東中 まともな仕事につけないし、「自伝」でそのころ「自殺をおもいたった」こともあるなんて書いているね。それが転じて「自殺したつもりで生きることに決めた」、そうなると人間は強くなるね。おおげさだが貘の生の革命というものだと思うよ。
地方からきた当時の詩人、文学者のほとんどは、家が裕福というか資産家、大地主、実業家の生まれだからね。貘もそういう系統だったはずだが、親父の事業失敗で計画倒れになるわけというのがどうもな。もし、そこで親の事業が順調にいって、貘が美術学校に順調にいったら、いまの詩人としての生活や業績はなかったろうね。ちがう道にいっただろう。インドのタゴールの詩を読んだというが、その影響はあるのかな。

松原 どうかな。残された文章には読んだとは書いているが、影響を受けた感じとかタゴールについて書いたとかいうのは、あまりなかったと思うよ。タゴールの聖人思想は高貴すぎるんじゃないか。貘の詩の思想に形を与えているか。図書館で色々読んでいて、知ってはいたはずだから、自分の詩作に形を落としたことはあると思うが。貘について書いている誰かの本をよめば分かるだろうが、僕は無知だからなんともいえない。当時流行した社会思想のアナーキズムに関心があったらしいから、それの影響は確実にある、と思う。貘について書いた誰かの本にもでている。

  放浪空間から地球の詩人へ

東中 早い頃から社会思想があったわけだね。あんな時代にこんな小さな辺境の島でよくもなという感じがあるが、捨てたものじゃなかったんだ。それと地球という発想は狭隘な島的発想を逆転しているね。地球の詩人といわれるが、その発想はどこからきたのか。おれの考えでは、放浪生活からきていると思う。放浪は家のなかで寝るのではなく、家ではない空間、たとえば公園とか海辺とか空き地とかに野宿することが多いから夜の星空が近くにみえるし、宇宙の広さというものを感じる。おれの経験からしても、そんな宇宙のどこに自分がいるのかを考えると、家ではないが、地球にいる、地球に住んでいるという実感がでてくるんだ。つまり解き放たれた放浪空間での発見がある。貘も放浪生活からそういう発想をつかまえたと思うね。

松原 解き放たれた放浪空間での発見ね。なるほど。きみが前からいっている「地球が寝床」という発想だね。たしかにそうかもしれない。地球に住んでいるという感覚は頭では感じないものだ。それに貘は背が高かったようだし、写真なんか見てもいい骨格している。体育系の青年だったと思うね。若いころから肉体派の男だったと思う。文明人とは頭でっかちの人間でつまらない、とあるエッセイで書いている。知識、教養、学歴、思想、といった頭の世界に頼ることがあわなかった。文明には肉体がないと悟ったんじゃないか。つまり肉体を支える土台として地面を考えていけば地球になる。
大正期から昭和初期の青年思想の特徴だが、宮沢賢治も草野心平も高橋新吉も共通しているのは詩的世界を広く大きい空間に捉えているところだね。高橋新吉の場合は、そこにおおきな時間の観念がはいってくる。当時は地上的な俗社会的なものを超える、というのが流行していたと思うね。

東中 新吉はいいね。「留守といえ、5億年たったら帰ってくる」、というおおげさな詩。おおげさなんだが、なんとなく救われる気にさせる。そんな詩は好きだな。「皿」なんかもいい。なんか、気持ちがおおきくなるよ。覚醒するというか。

松原 宇宙を無辺物質のようにあるいは物質を無辺宇宙のように捉える。その空気が透明で瞬間にどこか遠いところへいって振り返ってみるという感じが大正・昭和初期青年の特徴じゃないかな。すると生活や日常や社会の形がよくみえてくる。そういう視点への往還がおおきいと思う。ところで「数学」という詩があるだろう。あの詩どう思う?

                                                             (つづく)

 


山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に  対談= 東中十三郎 × 松原敏夫 (第2回)  

2014-08-24 | 詩人論、作家論、作品論

愛郷精神と葛藤

東中 なんで、そのとき沖縄でがんばって職をみつけていこうとしなかったのかな。そこは愛郷精神じゃないか。

松原 君、考えて見ろよ。沖縄も日本経済の浮沈にあったわけだし、関東大震災のあおりを受けて経済がガタガタだから、不景気だとおもうよ。いまの東日本大震災もそうだが、経済ショックは相当なものだろうよ。

東中 というか、生涯暮らすのに同郷がいいという感じがなかったか、ということだよ。いまの就職でいうと県内志向が多いのが沖縄の若者の現状だろう?貘には、それがなかったの?ま、おれも復帰前のがたがた不安経済で、大学卒業しても就職できなかった。卒業が即失業となったわけよ。だけどヤマトに就職というのは考えなかったなあ。

松原 それはぼくも同じだ。あのころは厳しかったな。

東中 求人募集にあたってもいい仕事にありつけないので、しょうがねえから新聞にのっていた本土の自動車生産工場の季節工にいったわけ。寮に入ったんだが沖縄からのひとが多かったね。

松原 貘には青年のプライドがあったと思うよ。家が破産して文無しになったというのは世間の同情よりも冷たい眼があるだろう。故郷を離れるしかなかったんじゃないの。貘が二度目の上京したとき、大震災のあとで、社会が不安定だったとおもうけど、沖縄を出るころに書いた詩があるよね。

東中 「恩人ばかりをぶらさげて/交通妨害になりました/狭い町には住めなくなりました」という「ものもらいの話」という詩か。

松原 それそれ。もうひとつ「動物園」という詩があるだろう。この詩は故郷の人間に対するシニカルがあるよね。港の情景からはじまって、島の人間を、夜烏ども、阿呆ども、詩的な凡人ども、家畜ども、と評して、「僕は、僕の生まれ国を徘徊していたのか/身のまわりのうすぎたない郷愁を振りはらいながら/動物園の出口にさしかかっている」と締めるんだ。そこに離郷の感情がひどくあるんじゃないか。どう思う?

東中 気持ちはわかるね。存在をうしなった青年の鬱屈した内面が風土の情景と断絶した絶望感みたいなものがある。「狭い町」だし、伝統的な因習、慣習的思考、閉鎖的、差別、シマ的うぬぼれ、からぬけきれない連中、まったくシマーグァーの支配する島的社会の現実を知ったんだよ。文章や言葉にでない部分があると思うし、貘なりの生活体験や人間関係があって、若いから欲望も強かっただろし、それがうまくいかない、みたされない渇望があったんだろうね。

松原 ぼくが興味をもつのは、「うすぎたない郷愁」という言葉の読み方なんだよ。「動物園」というのは、生きるために食っているだけの島の人間社会への皮肉と解釈できる。「動物園の出口」とは島を離れる港の暗喩だと思うね。島を離れていく情景を指示している。これもすごい皮肉ではある。

東中 自分の中にある郷愁を、「うすぎたない郷愁」としたんじゃないのか。そこですぱっと切ったんだよ。なじんだ風景や思い出を。郷愁に甘えられないということを知ったんだよ。それは青年にありがちな風土社会への対峙だろう。世の中、生活社会の実質をしらない年齢によくある感想だよ。

   三男は付録扱い

松原 貘の場合、東京に進学でいって、なんらかの郷愁をもって帰ってきた、だが、家はがたがたになっていた。安定したふるさとという空間がなかった。身のおきどころがないわけだから。しかも貘は三男だから家をでていかなければならない。三男というのは長男重視の沖縄では付録扱いなんだよ。そういうリアルな現実が貘の現実になった。君がいうとおり家や馴染んだ場所があってこそ郷愁があるものだ。沖縄は、もはや身をささえる空間ではなくなったんだね。

東中 たしかに当時の沖縄の社会はそうとう貧困だったし、ヤマトの東京という都市をみたものにとっては、じつにみすぼらしい閉鎖的な島であったのはまちがいない。東京にいけば、なんくるないさ、という青年の大都市へのあこがれもあったんだろう。

松原 そんな心理だから沖縄に頑張って仕事をして、というわけにもいかなかったんだ。それに銀行員家庭の息子という境遇が、当時の島の貧しい民衆生活になれなかったなんだろう。学歴や教育のあるなしの社会でもあったし、絵の学校も卒業していないし。

   貘と美術

東中 それそれ。貘はなんで絵をめざしたんだろうね。そんな才能があったのかなあ。絵はうまかったのかなあ。

松原 兄貴で長男の重慶というのが絵の先生をしていたらしいから、その影響があったようだ。詩も絵もやっていたということになるね。でもそこはあきらかになっていないね。絵というか美術というか、そんなに執心しているようなところはないよね。もし、貘が本心から造形芸術を意識していたなら、どこかに尾をひいた影響があったはずだが、ないよね。

東中 言葉にむかったわけだよ。結果的に。

松原 南風原朝光という画家と親しかったようだが、詩の世界にいったので、どうだったかな。生涯親友だったらしいのだが、絵での関係がいまいち、はっきりしないね。

東中 絵をかくにしても画材が必要だから、貧乏人にはむかないんだよ。売れればいいけど、それまで、暮らさなければいけないし。そういえばおめえも絵を手がけたことがあったね。シュルレアリズム的というか、ムンクを合併したような感じだったね。

松原 芸術には関心はあったよ。三枚だけキャンバスを汚してやめたよ。才能がないことがわかってさ。ぼくは理屈で絵を描こうとしたから駄目だったかもな。描いている楽しさがなかったんだなあ。色彩の楽しさというか。それがなかったね。

東中 ま、才能がなかったということだ。

松原 はい、認めます。……貘は絵を描いてはいたようだよ。昭和26年の歴程展で水彩画を出品していることになっている。

東中 へえ、そうなの?貘の絵のコレクションがあればみてみたいね。県立図書館への寄贈品にあったかな。

松原 居候や夜逃げをしているからほとんど処分されたかもな。その時期のものは。

東中 で、貘は誰か宛があって上京したようではないね。そこは無謀だよ、若気だね、やはり。若気といえば、貘は性的に成熟度の早い男だったね。十六歳でゴゼイという女性と婚約するし、婚約するものの肉体的な欲望の抑圧がたたって病気で入院するし、オミトとかいう女の子へ恋したり、上京してから通い詰めたゴンドラという店の娘に恋したり、と、恋愛体験や女遊びなんかがあって、女性への欲望が強いんだね。最初に出した詩集『思弁の苑』はうしろから所出順らしいが、ほとんどその辺の女のことを描いた詩だよ。さすが男の性まるだしだよ。

                                                        (つづく)


山之口貘を語る―『思弁の苑』を中心に 対談= 東中十三郎 × 松原敏夫  第1回

2014-08-23 | 詩人論、作家論、作品論

自己追放としての再上京

松原 今日は山之口貘について語ろう。君、なにか酒くさいけど昼間も飲んだの?

東中 匂うか?悪いね。おれの日常と酒は、このごろ近すぎ症だな。日常が酒を呼ぶのか、酒が日常になるのか。わからねえ。で、なに、今日は山之口貘か。おめえに対話しようといわれたから久しぶりに『山之口貘詩集』、改めて読みなおしたよ。

松原 酔っているなら、気楽に話ができるね。そう、沖縄出身の大詩人、山之口貘だよ。お互いそんなに貘について知識があるとはいえないし、貘について書いた本もあまり読んでいない中での対談なので、常識的な範疇をこえないかもしれないが、気にせず、浅い知識を活用して出来る限りやってみよう。今日は『思弁の苑』を種にやろう。貘は君も好きだろう?

東中 どちらかといえばな。かれの不定職好みのところがおれと似ているから親近感をもつね。おれと生活が似ているような感じで。おれも、この島に居づらくなって、食うために、というか出稼ぎで内地へいったんだが。そのへんからはじめよう。貘はなんでヤマトへいったんだったっけ?

松原 二度の上京ということになっているね。大正11年と13年。最初は美術学校への進学、2度目は家庭の事情。家が破産したためだ。19歳と21歳。若いね。何でもあり、出来るという年代だね。

東中 放浪というのは20歳の頃からはじまったわけね。

松原 そう。というか、再上京はどうも自己追放としての行動であるような気がするね。大正12年に帰郷するんだが、家は八重山に移って破産していたためつらくなって上京を図っていちおう那覇に戻るわけ。当初はあるアマ文芸団体にはいってそこの事務所に寝泊まりするが続かず閉鎖で追い出され、友人知人をたずねて寝泊まりするが、いやがられてしまう。それで家がないので、野宿するんだね。

東中 野宿か。一時のおれみたいだな。おれもそういうときあったな。あれは最初は恥ずかしくて、つらい。ひとの視線を気にしながらうろついて、寝る場所を探すんだ。みじめさというのが全身に走るんだなあ。そのうちになぜか馴れてくる。

松原 君の話はまえにちょっと聞いたことがあるよ。

東中 話したことあったかな。貘はホームレスの身分だったらなおさらだよ。野宿している姿をみられたらますます世間の眼が冷たくなるよ。地球が寝床―という感覚はあっても世間には通用しないからな。貘は、そのときなにかを知覚したんだよ、きっと。

松原 あちこち公園やら神社やらを野宿して松葉をくったりして、さんざんだが、遊郭というところはいいもんだね。そういう男も受け入れてくれるんだね。辻町のある遊郭の軒先に寝ていると、遊女、つまりジュリに呼ばれて厄介になるんだ。

東中 カマデーという遊女でしょう。相手が若い青年だからね。中年のスケベなおっさんだったら、そんなわけにはいかないだろうよ。うしろに家の生活や家族の匂いがするもん。

松原 しかもそのジュリが毎日10銭あげたらしいんだよ。字を教える代償にね。で、いくところといえば仕事がないわけだし、県立図書館に辻から通い詰めるわけね。ま、10日間くらいらしいんだが。それから、県立図書館の臨時職員、いまでいうとパートだね、をやったり、友人に気の利くやつがいて、産業雑誌の表紙の絵を描かせてもらって、8円の金をもらうわけだ。それらをもとに上京するわけだね。8円という額がいまの時価でいくらかわからないが。
                                 
                                                               (つづく)


幸喜孤洋という詩人 ― 沖縄の孤独=自閉の情念を歌った詩人 

2014-05-22 | 詩人論、作家論、作品論

       <序歌>
    おーとばいにまたがり自在漂う月光孤洋海に佇む
    小声でトツトツと喋るともなく話す話すともなくしゃべる寡黙な男よ
    女知らずから女知る寒き夜病い畏れて友と海で洗うマラの冷たさよ
    声上げてみな笑うなか恥じらうように笑顔で応じる黒ジャンの詩人よ

 

 幸喜孤洋は居心地が悪そうに生きていたように思う。他人に対するとき、身体を前に屈めて座る。自然な姿勢なのか構えの姿勢なのかわからない。相手の顔をみつめるというよりは、じっと話を聞くという態度である。自分から話すというより、他人の話を聞くことで関わろうとする。

     自分を、先に、主張することの恥じらい

 現実世界で生きる時の孤洋には、そんな感性があったように思う。

 初めて孤洋に会ったのは、宮城英定氏の家であった。1970年代の半ば頃であったと思う。何かの用事で、当時浦添市茶山団地に住んでいた宮城英定氏の家を訪ねると、ちょうど、孤洋がいた。個人誌『神経』という雑誌を出して、それを持ってきていた。寡黙な青年だなという印象があった。もちろん初対面だったから、お互いに寡黙であったと思う。宮城英定氏は、中央高校のときの教え子で今は詩を書いていると紹介した。その時であったか、あとで知ることになったのか定かではないが、孤洋は村で起こった強盗・強姦事件の犯人に仕立てられた苦い経験を持っており、その暴力と戦っているということを知った。そのあと、孤洋からは『神経』や詩集を送って貰ったり、最初の詩集『一人の舗石』の書評を頼まれ、書いたりした。 

 孤洋とは、宮城英定さんの自宅や何かの会合をきっかけにして会うという感じのつき合い方であった。寡黙な青年だが、あるとき、たしか新城兵一氏の詩集の出版会を那覇市安里の「芭蕉」という居酒屋で行ったとき、既に酔いの境地にいた孤洋が声を張り上げているのに遭遇したことがあった。そのとき意外な感じがしたが、これが孤洋だなと思った。その内容はもうはっきりとおぼえていないが、秘かに学んでいた清田政信や新城らを前にして緊張していたのかも知れない。「まあまあ、孤洋よ、余り気負わないで生きろ」、とかなんとか僕は言ったと思う。彼のこの酔ったときの声は、他人に幸喜孤洋は恐いなという印象を与えていたらしい。風情が丸刈り、黒の皮ジャンなので、一見チンピラ風という印象を与えていたせいか、「幸喜孤洋が酒を飲むと恐くなる」という声を聞くのを耳にしたことがあった。そんなとき僕は「違うんだよ、孤洋は本質的に優しい奴なんだよ」と弁護していたのを思い出す。 那覇市安里三叉路近くにあった泡盛居酒屋「芭蕉」は「詩・批評」同人の会合をよくやったところである。

 それから何年たったろうか。1994年12月に、新城兵一氏の発案で、たちあげた「北村透谷を読む会」に誘われて参加したときに孤洋もいた。月一回、中城村伊集の井口千賀子宅で行われたこの会(たまに、鍼灸師をしていた、ましき・みちこさんの店でやったこともあった。彼女はこの年の8月に『猫のいる風景』という詩集を出していた。)は、透谷を読んで語りあうというものであったが、僕は、それほど、透谷に興味を持って参加しなかった。透谷を読むというよりは、「会話する場所を楽しむ」という態度をとった。初めて参加するために、会合する場所を尋ねて迷っていると、孤洋が外灯の下で待っていた。まったく久しぶりだった。彼も僕もお互いに歳月の変化を回避できない姿をみた。
 「おい、孤洋、元気か」というと、ついてこい、という感じで、ハンドルの高いオートバイに跨り、10秒ぐらいで行ける井口宅に案内した。 

 孤洋はそのころ、あまり詩を書いてなかったと思う。沈黙する期間が続いていた。しかし、彼だけではない。詩と時代が剥離して、詩はますます詩の根拠を喪い、詩の修辞化が進行していた。詩の書き方や読み方の柔軟性を持たないと時代性へ対応が困難であった。というより、自分の言葉が古典化、陳腐化していってるなという危機感、空虚感が書き手の内面を通過していた。書く必然が希薄になり、いわゆる重たい詩は敬遠された。 

 清田や新城や幸喜には<村>のイメージがあるが、僕には無かった。それは、かれらが<農>の家系にあり、共同体としての<村>との確執や思念を言語に注入しているのに比べて、僕はそういう農の家系ではなく、もともと料亭経営を失敗した馴れの果て、無産者、プロレタリアートの家系だった。農の季節は我が家には無かった。左官や沖仲仕して一家を支える我が父は子に引き継ぐべきものを持ってなかった。だから、僕には<村>のイメージは出自から生まれてくるものではなく、言葉でイメージしていくようなものであった。といっても母方の実家は農家であったから全く無縁というわけではない。
 <村>としての共同体への視線は、この沖縄に生きるものに課された課題であるけれども、その向き合いかたで、自ずから文体が決まってしまうということがある。清田、新城、孤洋が苦悩し、その文体から紡ぎあげた言語は沖縄、島、村といった風土と対峙する詩(文学)の確執を掬いあげ、戦後の抽象と暗喩を根源的に表現したと思う。文学(詩)の自立と共同体との確執というテーマはいまや古典であるだろうか。その苦悩の遺伝子は絶えたか、それとも耐えてるか。

 孤洋と僕は同世代である。言語の使い方が違うのは、農と無農の違いでもあるだけではなく、彼にふりかかった<事件>とそこで見たものの違いと言えばそうなる。詩は言葉に過ぎないけれども、言葉の視えない力に誘惑された世代だ。我々は言葉を求めて、様々な事を考え、読み、ののしりあい、傷つきあい、熱病のように詩をめぐって論争し時間を消費した。それは、祭の後のようにとか、潮が引いたようにとかいう言い方が許されるなら、そのように今はあるのかも知れない。 

 孤洋の詩作品は長い。一編の詩を書くのになぜこれほどの行を積まねばならないのか。孤洋の詩は本質的に意味の詩である。その分析についてはルサンチマンとか悲壮美とか、幾多の人が書くであろうから、僕は触れないが、これは村で被疑者に仕立てられた固有体験と個が孤立する魂のなせるワザだと思いたい。修辞ではなく、自分の内面から湧き出る魂の声だ。そして、それは、かれの資質的な感受性と結びついてしまった。 

 時代を読みとる新しい言説の確立が求められている。このことについて、新城も僕も肯定的であったが、孤洋は否定的で、透谷会で、議論したことがあった。この考えが、彼には今までやってきた思想を捨てることに映ったらしい。とくに思想的血縁である新城氏に強く食ってかかっていた。
   「新城もダメになりましたねえ。いままでの新城さんはどこにいったんですか。」
 それは逆に孤洋の現在であった。孤洋が確執する村(国家)との対峙。孤洋の言葉の背後には、ふるさとの村での強姦事件の犯人に仕立てあげた共同体の暴力と闇との戦いがどっかりと存在している。孤洋にとって詩は戦いの拠点であった。孤洋は自らの苦い経験の痛みと「るさんちまん」を「自閉の情念」で突き抜けようとした。そこには孤独な痛みからくる叫びと淋しい抒情をともなった雰囲気が漂っていた。 

       あき缶に育てたひな鳥を
      他人の空に解き放ち
      無口な少年が
      吹き散らすタンポポの穂は
      いま どこの
      幻野を流れているのだろう
               (終曲のために<第三の歌>) 

      野辺の帰りの
      すみれだけが
      小雨に揺れて
      ひっそりと美しかった
      おれたちの青春 サラバ!
      知の頂で
      刀の鞘ばっかりを抜ぎ捨てた
      おれたちの青年 サラバ!
                (終曲のために<第四の歌>)

      ひたすら問う
      不安に傾く肩先から
      どっしりと落ちる夕日の意味を
      真っ赤に燃え滅ぶ血の理由を
      すべてに背いて 世界にそむかれ
      ほそぼそとたどりつく
      ひとりの境地
               (終曲のために<第七の歌>)

      されば今夜は
      係累たちのもどかしき罵声に
      口つむぎ 我を忘れに
      目のきつい少女のいる街へゆこう
      街の空白に身をゆだね
      強烈な酒の濃度に染まればよい
      詩なんかよりうまい酒を
      ランボーの著書にナイフが刺さったぜ!
                 (終曲のために<第八の歌>)

 ああ、先に逝っちまった幸喜孤洋よ。僕は君の通夜に思い募って、君が好きだった森田童子の歌を録音して流したね。
 センチな僕は最後にやはり森田童子を聴かせたかったんだ。聴いていたかい。
 そんな僕は今、バッハの「マタイ受難曲」を聞いているよ。僕らは魂を鎮めながら、まだ生きなければならないのだよ。

  ※孤洋というペンネームは「太平洋ひとりぽっち」からとった、という。

   (幸喜孤洋追悼集『いまを病む無明の時』(こよう会、1999年)に書いた「逝っちまった孤洋」に加筆訂正)


  幸喜孤洋(こうき・こよう)

1950年9月 沖縄県具志川市(現うるま市)に生まれる。本名、幸喜克範(こうき・かつのり)。
1969年    国際大学(現在の沖縄国際大学の前身、コザ市にあった)国文学科入学  
1970年    学生運動に参加
1972年    詩誌『神経』創刊
1973年    国際大学中退
1982年    第1詩集『一人の舗石』(矢立出版)
1984年    第2詩集『牢獄』(一風堂)
1990年    第3詩集『幸喜孤洋詩集』(脈発行所)
1998年2月 死去(享年47歳)


左の写真。(左から)清田政信、松原敏夫、泉見享、幸喜孤洋、勝連敏男(松原敏夫詩集『那覇午前零時』出版記念会で)
右の写真。(左から)ましき・みちこ、井口千賀子、新城兵一、幸喜孤洋(北村透谷を読む会で)
          (拡大するには画像をクリックしてください)

 

           


武満徹幻想

2014-05-14 | 詩人論、作家論、作品論

   武満徹の姿を見たのは確か1968年の夏、軽井沢であった。そこは白樺やブナの木に囲まれた道を抜けてたどり着いた赤い三角屋根の、小さな別荘の、一階の部屋だった。
 東側の窓からは朝の光が柔らかに射していた。その光は木の葉の影をまだら模様に映していた。それが風で揺れていた。揺れると部屋の白いフロアーに木の影が生き物のように踊った。
 部屋の真ん中に置いてある黒いピアノ。そのピアノの鍵盤に彼は細い指を並べていた。いや広げていた。そして、音を確かめるように、時にゆっくり、時に素早くその指は鍵盤の上を移動した。その指が痙攣するように止まると、定型の音を破って、新しい音が生まれた。静かな部屋にピアノの音が何度も響き渡った。それから、譜面台の楽譜に創造したその音を書き付けた。彼は、黒いタートルネックのシャツに身を包みながら作曲していた。広い額と実にスリムな体躯をしていた。頭のてっぺんから足のつま先まで感受性の線がぴっと走っているような、繊細な音楽家だった。
 かつて見た映画「切腹」。それに琵琶の音色を響かせたとき、日本古来の楽器は<伝統楽器>から<創造する楽器>へと変貌した。滅亡した平家の暗い怨念を鎮魂するように伝承してきた琵琶法師の音は飛躍した。死者の音から生者を覚醒する音になった。僕はその前衛的な、日本の音への接近の仕方と導入に驚いていた。それから、「ノベンバー・ステップ」を聴いて、ますます武満徹という作曲家は面白いと思った。
 僕も詩を書き始めていた。アルチュール・ランボーの、中原中也の、清田政信の、山之口貘の、埴谷雄高の、つげ義春の、ル・クレジオの、おもろの、神歌の、バラモンの、仏典の、等々等々、この世の果ての、枚挙にいとまない言葉たちを読みながら自分なりの新しい言葉を探索する道を歩み始めていた。そのころの僕はすさんだ生活をしていた。なにかに飢えていた。
 僕は軽井沢の別荘を訪ね、勝手に玄関から上がり込み、隣の部屋で薄めのコーヒーを飲みながら、ときおり彼の姿を見ていた。彼に何度も何度も語りかけようとしたが、音楽する魂の圧倒的な姿の前に怖じけてしまって、何も言う事が出来なかった。
 それから、数年たって、武満徹は『音、沈黙と測りあえるほどに』という刺激的な題名の書物を出して、その本を僕の眼に届けた。そのなかで彼は僕に色んな暗示を与えた。耳の感受性というものに思想を与えたのは彼である。彼の音階は12音階である。自然を音で表すには西洋音階のドレミ理論では不足である。我々の耳は西洋音楽で組み立てられた音階であまりにも犯されている。そこで切り捨てられた音が多いという。西洋音階制度の枠から逸脱した発想を持つ作曲家には当初は陽が当たらなかった。サテイのような自由な音楽家も評価されはじめていたが、サテイも最初は異端者扱いであまり理解されなかった。
 武満徹は1996年の春、僕にこう言った。
「私は、作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろ、声にならない呟きを聴きだす行為なのではないか、と考えている。」(私たちの耳は聞こえているか)
 作曲家でなくともこの考えは合点がいく。これは視えないもの、聞こえざるものの存在に対する直感と認識、畏れと敬虔と偉大さを言っていて、我々の現に生きているこの世界は、「目に見えて在るものだけの世界ではない」という事だ。習慣や教えられた常識、権力、制度、支配的な思考、抑圧力によって押しやられて、隠されているものがある。それを見つけだすことこそが芸術の本当の創造である、と僕は解釈する。
 彼の感性は詩でできていた。僕は彼を音楽家と同時に詩人として受け入れていた。彼の書く言葉はびんびん、びんびんと響いてくる。何度、彼の言葉によって、自然や世界や事物や宇宙や時間やらの発見をしたことだろう。詩の言葉とは、つねに刺激的な言語であらねばならない。平板で日常ではじまって日常で終わる、あるいは何事かを説明するだけのような言葉は詩ではない。詩には、なにかの発見がなければならない。
 武満さん、もっと長生きして、僕にもっともっと刺激を与えて欲しかったよ。

 

 

 

 


対談=東中十三郎×松原敏夫   紡ぎだす私という現象―西原裕美詩集『私でないもの』

2014-05-13 | 詩人論、作家論、作品論

松原 裕美ちゃんの詩集『私でないもの』について飲みながら君と語ろうと思うんだ。それで呼んだわけさ。
東中 一杯やるには肴が必要というわけか。
松原 おいおい、君のひねくれはのっけからか。
東中 この詩集を読めとおめえから勧められてすぐ読んだよ。怠惰な人格にむちうってさ。
松原 で、どうだった。感想は。
東中 この子は<私病>にかかっているなと思ったね、まず。この子、いくつだったっけ。
松原 去年大学生になったばかりだからまだ十代じゃないか。だから掲載しているものは高校生に書いたものじゃないかな。
東中 だろうな。アドレセンスの臭いがぷんぷんするもんな。
松原 おいおい、そんなリアルな言い方はよせよ。おれはこの子に期待しているんだからさ。
東中 おめえもそういうところあるもんな。詩は個人的な事業だとかなんとかさ。
松原 気に入らないか。まずおさえておきたい。現代は古代社会ではないし、村落共同体の心性から個人が離れてしまっている。といっても、その心性は重層化してあるのはたしかだし、切断できるものではない。しかし、もともと言葉は個人が発するものだ。だから詩も個人的な仕業なんだ、いつの時代も。
東中 おめえはどうしようもない古い近代病にかかっているな。たしかに個人というのは近代の産物であるがな。
松原 この詩集には君のいうとおり<私病>かもしれない、たしかに<私>という単語が何度もでてくるのが特徴だ。代表的な詩を読んで話しをすすめよう。 

         私でないもの 

   私は
   私でないものだから
   ちょっと
   顔が欲しくなって
   探してみるけど
   なかなか
   見つからない 

   お母さん
   どんな顔だったの
   もう
   わからないの
   いなくたった
   顔面だけが
   私に残って
   意地悪する

   花が咲く
   季節に
   そっと吸い付いて
   こればいい
   のに 

   何故だか
   みんなわかってる
   私だけ
   顔がわからないのに
   みんな
   私に顔があるって
   嘘をつく

東中 この詩はおれもいい詩だとおもうね。詩の完成度もある。心象の動きを巧みにつかまえているし、ツッカリながらも、すうーと書いているね。
松原 この詩が並みでないのは顔をうしなっているという感覚の発見と、その内面を外側に映してみせるデリカシーをグラデーションを使ってうまく表出しているところだ。「いなくたった/顔面だけが/私に残って/意地悪する」という屈折した心理グラデーションは、なかなかのものだ。
東中 ほかの詩編を読んでも作者の姿や位置が葛藤しながら必死に響いている感じがするね。
松原 私探しといえば簡単なんだが、内面をあぶりだして私という現象を紡いで詩にしていく方法が明確にある。
東中 そこはやはりアドレセンスの女の子が陥るところでもある。自分の感覚を語れば詩になるもんじゃない。たしかに存在や生への気付きのデリケートが自分のなかにあって、それがざわめき、私とはどういう私なのか、ということへ早くもぶつかっている。いま生の淵に近い道をあやうく歩いている、世の中の枠に馴れない落ち着けない自分というのがある。
松原 そのもがき感が詩になるんじゃないのかな。裕美ちゃんだって日常的に楽しいこと嬉しいこといっぱいあるはずで、でもそういうことは詩にならないと思っている。
東中 それから関心があるのは女の子だから少女から大人の女性へのエロスみたいなものがどう変容するかだね。あることはあるんだけど、おれはもっと少女期の繊細さ、好奇心、冒険やふみはずしの危うさを書いた詩がほしいね。そういう視点から書いていくと面白いと思うよ。エロスからみると見方が古いかもしれないが女性詩として読めないんだよな。
松原 詩の中に自分を形容して「毒」、「汚れ」、「腐れ」という語彙がときどき思わせぶりに出てくる。倫理的なところがたしかにある。イニシエーション的という感じはあるよね、内向きの経験と心的なせめぎあいからの。
東中 この詩に端的にでている「私でないもの」という言い方は自己表明でもあるわけ。自分の内面の現実をよく言い得ている。そこで課題はここで立どまってはつまらないわけよ。そういう感覚の変容する様を閉ざさないで外部と関係しながらどんどん言葉におしだしていくことだよ。<私>がこの先どうなるかわからないわけだし。
松原 疑問や否定の心をもちながらね。詩集全体の印象でいえば詩の面白さは私の距離感の取り方の強さと弱々しさの掛け合いだと思うね。いい子ぶることへの反逆があるんだけど、世界をみているうちに、またいい子へなろうとするところがあるね。パブリックに通用する言葉を探しているというのかな。不安がそうさせると思うけど。
東中 比喩的ないいかただが、不安な時代は胎児まではつくるけど自分で中絶しちゃうところがあるよね。
松原 世界と他者と自分とどう関わればいいか。これは若い人だけではなくて社会全体が揺らいで揺らいだままいる。裕美ちゃんはいま沖縄で詩をかく世代でいちばん若いが、そういう社会の現実を感じながら自分の言葉で書いている、そこを失ってほしくないね。
東中 おめえは若い世代への期待があるようだが、彼らは辛いぞ。彼らは社会の安定と不安定に振り回されてサバイバルのような生き方しているからな。詩のまえに仕事などの置き所を必死にさがさないといけないし、日常的なことをこえることも現実の問題としてある。……このまえ新聞に「素直じゃない自分」ということを書いていたね。こういうもんだと思うわけ。詩に関心をもって書いていくのは。そんな感覚は恥じないことだし、つぶさないことだよ。詩人というのは、いつだって変人、病人のようなものであるわけだしさ。
松原 そのとおり。まあ、飲めよ。君は今日は意外とまともな話し方をするね。もっと酔えよ。もっと面白く話ししようよ。
東中 なにをいっているんだよ。おめえのようなまじめふりしたやつとつきあうからそうなっちゃうのよ、おれは。
松原 ただね、この子は生き方を社会的現実にあわせようとして弱くなるときがある気がする。そういう対応は誰にもあるのだが、からめられすぎないほうがいいと思うね。
東中 おめえの個人に由来する詩の思想からするとそうなるんだろうな。だけど社会の事象に無関心で自分だけの世界だけでやっていけないだろうよ、詩を書く者は。それにその個人というのは本当にあったのかいま問われているはずだよ。
松原 もちろんだよ。それはおさえておいてだよ、感性を現実のため社会の為というふうに使用しちゃうと言葉を常識化平均化してしまうんだよな。詩的感覚でつかんでいるものをさ。
東中 それは本人の言葉の気づきにまかせるしかないんじゃないの。社会というパブリックな感覚に近づけようとあまりにも向いてしまうと言葉が平板で常識的なものになってしまうのか。たしかに、これまでもそういう例をたくさんみてきたしね。今でも個性のない一般社会言語で書いているつまらないひとが多い。自分が書いている言語表現が普遍的に誰にも通用していると思いこんでさ。われわれ団塊の世代にも文学をやっていたひとが文学を捨てて社会運動や政治運動に移行したひとがいたよね。おめえはその逆だがな。
松原 裕美ちゃんには詩を書くことへの希望が働いている。詩をかくことでなにかをつかもうとしているし、生きている感覚で感じた異和感を詩の題材にしている。これは等身大の詩になっちゃうわけだが、それへの言葉の彩色やリズムの出し方だよね、そういう言葉の姿勢を持続していけばいい詩がどんどん書けると思う。期待したいね。
東中 世界を裏返してみる眼をもつことだな。表からだけみて、そのままの姿勢だととだまされるよ。たしかにこの子は世界を相手して自分のおきどころに疲労して停滞してしまうおそれがあるかもしれない。資質からきているかもしれないけど書き方が純なところがあるから。でもそれでいいんだよ。現実との歪みを逆に豊かにして楽しむことも必要だしさ。まじめさと不良少女っぽさがいきいきと混在していていいし、いい意味で心に隙間をもったほうがいいと思うね。
松原 さて、ま、我々はアバウトで勝手なことをいっているが、これから生活的、人生的にも面倒くさいことや女性特有の経験や孤独や就活の問題やらの現実があるでしょう。そんな中から裕美ちゃんなりの独創的な詩を紡ぎだして、どんな詩を書いてみせてくれるか楽しみにしようよ。

                                                (2013年1月29日)


 


酔いどれ詩人になるまえに(チャールズ・ブコウスキー)  松原敏夫(「詩誌アブ3号」2008年3月) 

2014-05-04 | 詩人論、作家論、作品論

『酔いどれ詩人になるまえに』という映画を去年の年末に沖縄県那覇市の桜坂劇場でみた。平日の昼間だったからかもしれない。88席の黒い席に観客はたった5名しか入っていなかった。この映画はあまり客を呼ばなかったようだ。

とにかく、アメリカ映画は人の人生を物語にするのが得意だ。誰かを題材に作られた映画をこれまで何回みてきたかしれない。この映画、チャールズ・ブコウスキーをモデルにしている。しかし、マット・ディロンがブコウスキー役じゃあカッコよすぎじゃねえか。それよりリリ・テイラーのあばずれ役に好感をもった。仕事についても続かず、アルコール、おんな、タバコ、ギャンブル、セックスとかとか、放埒の暮らしをしたブコだが、それで73歳まで生きたというからいまの生命路線からどうだったか。そうとう神経と内臓の強い男だったとは思う。日本で言うと無頼派か。が日本のひ弱な男に比べて剛鉄だ。

「おれにとって/他人に服従するのは自我の/衰退だ。」(馬挙)(中上哲夫訳)

こういうカッコいい宣言と落ちても社会の目をものともしないでおのれの生き方を貫き通した生き様が一部の支持者から祭り上げられる。

彼も書くことだけは手放さなかった。彼の書いた詩は日常生活や経験や底辺で生きる人々を素材にしている。なかに、淫猥、遊蕩、やばい言葉が、わんさか出てくる。で、いってのけた。

「詩人であることはとても簡単だ/しかし人間であることは/とてもむずかしい。」(四万匹の蝿)

よくわかるフレーズだ。だが詩人であることも人間であることもむずかしい時もあるのではないか。私の場合は。。。。。。