貘の詩的戦略
東中 ところで貘の詩で気になることがもうひとつある。題名なんだ。題名と内容がつりあわない詩があるんだよ。「士族」という詩はそうだね。なんで士族なんだろう。力士のことなら「力士」でいい。「数学」という題もよくわからない。なんで数学なのか。「萌芽」「現金」もそうだな。
松原 揶揄的で暗示的なんだよ。貘は詩に対する並々ならぬ思いを持っていた。軽い詩ということではない。口語だからということでもなく彼自身の言葉の〈把握〉と〈使用〉がある。それは屈折なんだよ。表にでる言葉は日常語的だが、組み合わされた言葉がもっているのは内面の複雑さ、コンプレックスなんだろうな。貘を読むと近代の負者意識を濾過するには居直りもひとつの方法と思える。そこは貘の戦略でもあるわけよ。そこが負け組みの感傷を歌った啄木とのちがいがある。
山本太郎がいう「鏡の原理」だよ。鏡像というとよくわかるね。詩に書かれる僕と書く僕とそれをみている僕という三つの眼が重層してある。貧乏詩人とか生活のある風景で解釈しては半端になっちゃうね。ただの生活詩人じゃないんだから。
東中 現実的な自己と詩での自己をはさんでいるわけだ。そこは自分の眼でみているということだな。
詩人の魂
松原 いっぽう貘にとっては詩人という位置が世の中で生きるのにいちばんストンと身にはまった。詩で食えないにもかかわらず、詩人であろうとした。その生き方は、生活の価値よりも言葉に自分を預けたということができる。のちに公務員という定職につくのに、家族の生活があってもそれをなげうつ貘がいる。そこはなんでだろうと僕など思う。「おれはなまけもん」と書くが、詩にたいしてはなまけもんじゃなかった。かっこよくいえば詩人の魂に殉ずる貘がいる。そんなひとは生活者としては愚かで困るけどな。ただ精神貴族という言葉で片づけて欲しくないな。
東中 貘詩の読み方を多角的にする必要があるということか。おおう!詩論の夜だ、詩とはなにか。おれは現代詩はきらいだ。生活から学べ。学べ。
松原 おや、また始まったな。繰り返すようだが、貘は、一語、一句、一行、書く瞬間に、すべてを織り込むような、言葉と思念が一致するように、推敲の手を借りた。そこに貘の詩の表現へのスタイル、リゴリックな味わいがある。言葉は口語的だが簡単に出したものではないわけだ。推敲するときに、待てよ、ここは、と立ち止まったり、顔をあげて、周囲の人間を眺めながら、自分の内面で思念の格闘をしている。そこをみなければならない。実生活と対峙した詩というのは境涯の陰翳を含んでいるもんだ。
エロスの詩
東中 おめえは深読みなんだよ。おめえはだんだんと理屈っぽくなってきたな。くそ脆弱詩論家め。……そこで質問!「玩具」という詩と、おめえの好きなエリュアールの「ぼくのたったひとつの愛撫で/全身ではじけるおまえの輝き」という詩とどっちを評価するの?どちらも女体詩でしょう。
松原 実感的には「玩具」。詩的想像力からするとエリュアール、それに愛がある。これでいい?
東中 貘には女への愛がないということ?そう言っちゃっていいの?
松原 そうはいっていないよ。
東中 おれは貘の「玩具」だな。貘にしてはめずらしくエロスが充足している。充足しているから残しておきたいという感覚がはっきり出ている。書き残したいんだよ。その瞬間の身体から受けた充実感覚を。エリュアールのもいいが。……愛、ね、なるほど。D・H・ローレンスの「大理石のような白いお尻」……うーむ……。白い皿に焼き鳥がひと串、詩と酒がからんで流れゆく夏の夜……むむ。
松原 とりとめのない饒舌な話しになったが、そろそろ君も酩酊してきたようだから、これで今夜はおわりにしよう。
(2013・8・3、松原宅にて)