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南風北風―ぱいかじにすかじ―  by  松原敏夫

沖縄、島、シマ、海、ことば、声、感じ、思い、考え、幻、鳥。

リトアニアの作曲家 チュルリョーニス の思い出  第27回沖縄市民コンサート 1999年11月

2024-12-24 | エッセイ

沖縄市は、かつては、こんな粋なこともやっていたんだね。

 

ぼくは柄にもなく、沖縄フィルハーモニック協会の上地隆裕氏に誘われて、1999年11月29日に行われたリトアニア国立交響楽団演奏会プログラムにこんなことを書いていたので、ここに再掲載する。 

チュルリョーニスとの出会い

                                               

   しじまにもカオスの香り納め有り

   未だ聴かぬ淵の奧にはリトアニア

   チュルリョーニス流る祖国に風を聴く

 

〈チュルリョーニス〉という作曲家の存在をはじめて知ったのは、演奏プログラムをみたときだった。

 チュルリョーニス!? 沖縄市民コンサートで、リトアニアの交響楽団を呼ぶと聞いていたが、演奏される曲目のなかに、聞き慣れない名前が入っていることから、生来の好奇心が湧いてきた。

 その時から、私は、折りあるごとに、音楽教養のあるひとに、チュルリョーニスという作曲家を知っているか?と尋ねた。でも、「誰れ、それ?」と応えるのが殆どであった。私の脳裏に、知らないのはこちらだけではないな、という安堵感と優越感があったのはいうまでもない。日本では、現在は、それほど知られていないマイナーな作曲家なのだ。マスメデイアに登場するとか、教科書に載るかして全人教育しなければ「人口に膾炙されない」、この世の習わしの蔭に隠れて、埋もれた芸術家が非常に多い。チュルリョーニスもそのひとりである。

 リトアニアともなると、かつてソ連の一員であったために、クレムリンの検閲を通してしか入ってこなかった文化情報が、一九九一年の独立を経て、ようやくにして、国として、自由に日本でも紹介されるようになった。この交響詩「森の中で」が日本で初演されたのが、一九九五年というから、リトアニアの音楽紹介が、いかに遅れていたかがわかる。

 チュルリョーニスは、教会のオルガン奏者を父に持つ、リトアニアを代表する作曲家であり、三六歳の短い生涯(一八七五ー一九一一)で、最後は精神に異常をきたして亡くなった、画家としての才能もあった、楽曲二〇〇点以上、絵画三〇〇点以上を残したが、しかし、その評価は死後三〇年経ってからであったということ等がわかった。一九九二年に西武美術館で、彼の絵画を集めた「チュルリョーニス展」が開かれたという。絵の一部は、インターネットで外国のサイトを通して画像を見ることができる。これもなかなか面白い絵ばかりである。「Creation of the World」で、Vytautas Landsbergis(元リトアニア首相)はオリジナルな作風であることを強調しているが、たしかにそうだ。私は、新鮮な驚きを受けたといっておこう。ストラビンスキーは、チュルリョーニスの絵のコレクションを持っている、とロマン・ロランに自慢していたらしい。どちらかというと、チュルリョーニスは画家として名をはせている趣がある。

 チュルリョーニスは、リトアニアでは、英雄扱いされるほど有名な芸術家であるようで、彼の名前の入った芸術学校があるというし、リトアニア第二の都市カウナス市には、美術館があって、チュルリョーニスの特別ギャラリーもあるという。その国で、よく知られている芸術家が、外国で無名であることは、文化情報の流通にもよると思われる。アメリカの微細の情報が、ふんだんに入ってくる時代なのに、まだまだ未知の状態にある外国が多い。しかし、いまやインターネットの時代である。専門家が独占的に紹介するのを待っていてはじれったい。通信手段があれば、自ら情報を探れることが可能なので、自力で外国の情報を得たほうがいい。

  交響詩「森の中で」は、リトアニアを離れてポーランドのワルシャワ音楽院に留学しているときに着想され、チュルリョーニス、二五歳頃の作品である、といわれている。これは、幼年のころに、父がよく話して聞かしたリトアニアの民話や伝説の記憶が題材になっているのであろうか。祖国の歴史と風土を楽想にもつ交響詩で、チュルリョーニスは何をイメージしたのであろうか。

 この曲は、はじめリトアニアの緑の草原を吹く風のように静かに響いてくる。弦と管の和音が、風になって周囲を呼び込むような、情景をなでるような、優しいメロデイを奏でる。感情と自然の調和から出てくる情念の表現であろうか。樹木のざわめき、民話の飛び交うノスタルジー、叙情詩的韻律、ときに嵐の音..........。祖国リトアニアに思いを寄せながら、リトアニアの自然の情景やそこに流れる時間と空間が交わって生まれる音。そして、最後に、楽器が一斉に蜂起するように高らかに鳴り響き、余韻を引きながら終わる。高らかに終わるのは、おそらく、「おお、我らがリトアニアよ!」という感情が高まったときの賛歌であろう。一六分ほどの曲だが、聴いていながら、イメージ的な、印象派風な、情感が満ちあふれた作風だと思った。

 私たちは、「四季」「田園」「ロマンチカ」....といった自然をモチーフにした交響曲を知っているが、交響詩「森の中で」には、チュルリョーニスの血の中に流れる受難の歴史を持つリトアニア人魂が、脈打っている。ほかに交響詩「海」やピアノ曲がCDで出ているらしいのだが、私は、残念ながらまだ聴く機会を持ってない。

  私は、この演奏会でなければ出会わなかったであろう作曲家の音が聴ける幸運を享受しようと思う。

 

                                                                                                                    


歌の彼方から亡滅の呼び声へ―黒田喜夫『一人の彼方へ』再読

2020-05-09 | エッセイ

 黒田喜夫が沖縄の詩や詩人たちと関わり書き始めたのは、いつ頃からであろうか。著作から辿ると、『詩と反詩』(1968)に収録された「現代詩・状況の底部へ」(現代詩手帖、一九六六、一~十)に「萌芽のきらめき」があって『詩・現実』2号をとりあげ、東風平恵典の詩や清田政信の詩と評論「詩的断層Ⅱ」に言及しているから、それを嚆矢とみていいかもしれない。

「沖縄という地にあって、なお変革の精神と詩の精神がともにあり得るような視点をあくまで創ってゆこ  うとする志向と、しかも一方で、大衆の自然発生(と疑似反体制)に加担することで詩の自立を阻まれるのをあくまでも拒否する志向とが、分裂したまま、しかし、分裂そのものがひとつにあるような世界として現れている。」

 と書いている。「変革の精神と詩の精神がともにある」とはたしかに六十年代の詩の思想の傾向であった。三派全学連や全共闘運動の状況やらの〈大きな物語〉が詩(文学)意識を刺激していたし、沖縄においてはさらに復帰運動と変革をめざす学生運動が戦後の大きな闘争の形として文学や思想のことばにも影響を与えていた。沖縄戦後文学を牽引するかのようにあった『琉大文学』出身の世代が詩の同人誌『詩・現実』を創刊し活動開始したことは詩を書くものにとってエポック的な事件であったし、沖縄で文学(詩)するものはその活動を注目していたにちがいない。

 清田政信はすでに1963年に詩集『遠い朝・眼の歩み』(詩学社)を出している。黒田喜夫がそれに眼を通していたかはわからない。黒田喜夫は一九七〇年に清田が出した『光と風の対話』や一九七三年に勝連敏男が出した『島の棘はやわらかく』の解説を、また「言葉の存在へ―裂ける村恋い」(一九七一・四、掲載誌不詳、『一人の彼方へ』所収)で清田政信について書いている。黒田喜夫は本土詩人でもっとも沖縄の詩に関わった詩人といっていいかもしれない。

 清田は「黒田喜夫論―破局を超える視点」(『琉大文学』3巻8号、1967年12月)、をはじめ、「黒田喜夫論Ⅱ―歌と原郷」(1977年、現代詩手帖1977年2月号)、黒田喜夫論Ⅲ―沈黙の顕示」(「詩・現実」12号、1980年3月)、「黒田喜夫と石原吉郎―風土と沈黙」(琉球新報1972年?)とけっこう書いている。清田政信は黒田喜夫が自らの詩法に影響を与えたとも語っており、東京に行って、直接黒田喜夫に会ったりしている。

 最初の「黒田喜夫論」で清田は、黒田喜夫が「死にいたる飢餓」で書いた東北農村の最底辺層にあって「飢餓病」を強いられた「あんにや」の存在にふれながら

 「………日本の農民は初めて自らの疎外の生活史を最も高い言語水準として、黒田喜夫の詩にその実現された成果をみることができるわけだ」

 と書いた。日本の戦後詩で村や辺境を詩のステージに押し上げたのは、たしかに黒田喜夫であった。戦後の復興期から高度経済成長、東京中心の都市文化の拡大、地方(村)から東京への人口流入が続き、村の若者が「東京へ東京へ」と流れる日本社会の流動があり、村や地方は〈辺境〉という地位にますます追いやられた。「東京」「都会」という語彙や風景を歌う歌謡曲が多数作られ、ラジオやテレビで流れて、〈東京主義〉というべき現象が踊っていた。地方(辺境)で文学意識をもつものは益々東京が産出する文学を中心とみなす習性を持ってしまった。戦後日本近代の先端、戦後資本主義のエナジーを集中して膨張した大東京がつくる意識と生産物の風景を背景に詩の言葉も対応していく必要性があったのであるが、都市の流民を市民という階層に変貌させた資本主義の無意識の戦略に抗しがたい結果となったのではないか。民衆の前近代意識(共同体意識)を喚起し〈夢のコンミューン〉を構築するために地方の労働運動(三池炭鉱争議)に参加して運動をしたが、戦後日本社会の行方を感受した谷川雁は、「東京へいくな ふるさとを創れ」と詠いつつ、ついに「詩は滅んだ」と宣言するしかなかった。谷川雁の方法に対して、貧農出自の黒田喜夫は、その村や民衆の最底辺にある疎外の民の負の極地から思想を築いていった。谷川雁の村や民衆へのまなざしは美しいのだが、黒田にとっての村は苦い味のする場所であった。

 『脈』誌の原稿依頼を受けてから、黒田喜夫の著作に向かったら、黒い箱に入った初期の『詩と反詩』以降、ぼくはそれほど読んでこなかったことを痛感した。清田政信の黒田喜夫論を読んで充足したわけではないが、しんに取り組んで読もうとしてこなかった。清水昶と「日本的自然」と「ナショナリズム」についての論争があったのは知っていた。そのころ清水昶の書くものには、ぼくも「おや?」という感じを抱いていたし、やはりそうか、その方向へいったか、という奇妙な納得したのを憶えている。清水昶は、都市市民社会の見方に否定と肯定の混在があったが、土着的な観点からみていた初期の見方を段々と弱めて肯定のほうに強めていったと想われた。つまり下層日本人たちが、高度経済成長によって作られた都市社会の虚構の豊かさを無邪気に享受する流れを肯定する〈自然〉に視点を向けていった。高層ビルや巨大な駅やきらびやかな店や通りに〈一億総中流民〉が瀰漫する都市風俗に抗しがたくその流れを受容するしかなかった。だが黒田喜夫の場合、こういうプチ・ブルジョア意識が受容できないし、そういう意識によって国家の支配体制が覆い隠され、民衆から遠くにあるように見せかけられているとみなしていた。つまり近代日本の現在への批判精神を失ってはならぬという思想を持ち続けていた。七〇年代から始まった日本総中流化時代は、九〇年代バブル崩壊後、総崩れて、少子化、高齢化、IT技術の進歩、ネット社会、非正規雇用増大を生みだし、そしていま階級分化が進んだ格差拡大社会となっている。この状況は文学や思想に新たな問いを投げかけてきた。

 今回改めて黒田喜夫という詩人の全体像をつかもうとあれこれ読んでみた。『詩と反詩』以降の詩論・評論を読みあさったのだが、『一人の彼方へ』(1979)にいちばんひかれた。歌謡論といえばまず吉本隆明の『初期歌謡論』がある。吉本の読み方は記紀歌謡、万葉集、古今集、新古今集を繙きながらの、歌の発生、和歌成立と歌人の思想や感性や韻律への歌謡論である。黒田喜夫の場合は記紀歌謡(宮廷歌謡)を通して古代ヤマト王権、天皇制国家成立とその支配をあぶり出して弧状列島日本(島尾敏雄流にいうとヤポネシア)の衆夷との関係をさぐっていくという「歌(短歌)の読み方」がある。なるほど、こういう読み方もあるのか、という独特さがある。短歌というものを表象だけで読むのではなくその歌形の彼方にあるもの、みえなくなっているものを読む、という詩想がある。日頃我々は詩(歌)を読んだり、書いたりしているが、歌(詩)の根底に横たわっている歴史性、その彼方にある起源というものに思いをはせることは殆どなく、現在の形式としての詩(短歌)を疑ったりしていない。できあいの形式にのって、自分の詩作を吐き出しているだけだ。その土台の上で、読んだり読まれているとみなしている。

 『一人の彼方へ』に出てくるのは、短歌というものが、古代大和王朝への〈供儀〉として取り込まれ、記紀歌謡を介して発展してきた〈ヤマト歌〉という読み方である。つまり短歌という形式をヤマト王権、古代天皇制国家ができる頃の弧状列島に生存した衆夷のうたが収束された超時間性から見つめ直すことである。ならばそれは現在にあってもなお、歌の彼方にひろがるものであり、闇のかなたに葬られた声なき歌(詩)の言葉として掬いあげなければならない、そのための展開として東北出身の寺山修司の短歌や東北の民謡とともに北辺に伝わる譚話や史書を開いて、かつて古代ヤマト王権にまつろわず反抗し征服された衆夷である原東北あるいはアイヌの歌を引き出して、日本の現在において異化し、天皇制国家の支配と対峙する、という読み方となっている。

 「衆夷の世界としての山野の、化外の呪力。それは統べられた世界に措定されることで実在――即ち強烈な不在に架かって生々しく、それ自体は、存在の恐怖と歓喜の統べられざる自然・身体への血を流す倒立であり、身体すれすれに、いや、そのただなかへ逆映する負の全体を負う。それは目くらむ懸崖をなすはるかな未生の「私」だ。だが、支配の天蓋をつくる呪法は、山野の呪力、衆夷の呪力を制し簒奪することで高みに登る。民人の祟りのちから、呪うちからの禁止簒奪としての呪法であり、民びとの呪殺のまじないの封じ様から異族(民びと)の地神、来迎神への表象性の簒奪まで、根の国神系、海童神系、所謂高天原系三層の基底を統べた日本神話(記紀)と以後の律令王朝の史的記述などはとりもなおさずその証にほかならず、つまり根源としての衆夷から発して衆夷を滅し追うことに終わる支配呪法のうちでは………」(鎮まざる地の歌、『一人の彼方へ』)

 「いうまでもなく、いまわれわれにおいて亡滅するものがあるとすれば、それは「日本(国家)ではなく、「日本人」ではなく「日本の民」なのだ。いや「日本の民」でさえなく「日本の底の民」である、「日本(国家)」という共同の観念規範の根もとの、統べられた世界の底の、亡滅することで異民となるものである。」(土着と亡滅、『一人の彼方へ』)

 「………照射されて浮きあがるのは、しかも地の絶えざる無声のうたなのであり、そこにいわば、「ヤマト歌」の統合のうえの高みを、地の南辺と北辺から衆夷のうたの現在にわたる生死の身体ではさみ、存在しているもののすがたが時に現れているわけだ。ーその地のうえの鎮まりえない断声・無声は「私」のものであり、その一人の彼方へ、想われるのは、「日本」自己同一的観念の統べられた擬調和の歌ではなく、われわれの、弧状列島の衆夷の感性の多様性ともえあがるそのコンミューンである。」(歌と郷Ⅲ、『一人の彼方へ』)

 『一人の彼方へ』の文体は硬質である。詩的思想、詩的批評の濃淡が奥深い。この批評文の粘着的な文体は黒田喜夫的であるし、まるで詩をかいているのではないかという感じさえ抱かせる。藤井貞和はそれを「黒田詩学」と呼んでいる。古代天皇制国家がいかに列島を制して、化外を支配し呪力を簒奪していったかを歌(短歌)を追うことで述べる。東北がまさにそうであると寺山修司の短歌を例にして究めていく。読んでいくと、なるほど、まさにそうであったろうと思わせる。繰り返すようだが、「一人の彼方」とは、まだ見出されない、列島の歴史の内実を、民衆の、なお統べられなかったころの衆夷の、身体や呪力を詠った歌を見出していくことであろう。そういう亡滅のうたが底流に流れているだろうし、必ずやそれは、現在にあっても、どこかに出没する、と解している。黒田喜夫的思考は古代から続くまだ未生の、化外の、超時間としての共同性の根底を顕在させる方法といえる。その方法で、弧状日本列島のなかにある、大和王権に統べられざる空間、それはいまや幻の空間、幻の土地、時勢をおしてもなお現在に残存するであろう、非支配圏の言葉、とくに〈うた〉としてみることをとっている。そういう考えはユングの「集団的無意識」「元型」という考えにも通底するように想われるが、ここではふれるゆとりがない。

 その方法を延ばして、沖縄の古謡、神歌、とくに宮古島の村落創成のニーリやアーグをとりあげ、古代天皇制国家への〈供儀〉から外れた化外、衆夷、異族としての南島のウタが存在することを述べ、ヤマト天皇制国家と相対するものとして書いている。どういうウタか、これも紙幅の都合上、あげることは出来ないが、黒田喜夫だけでなく吉本隆明や藤井貞和が南島歌謡に着目して、思想の可能性を書いた詩人がいたことを知悉しつつ逆に我々の痛い欠落を自覚しなければならない。すでに、数々採録されて出ている「南島歌謡集」を、地元である我々沖縄の詩の書き手はそんなに読んでいない。というかそういう地点にまったく無自覚である。せいぜい『おもろさうし』くらいではないか。本土の詩人や学者が琉球・沖縄の古謡、民俗、宗教、言語をあばいて様々に言及した、その研究成果を現在の地点で読んでいるだけで、自ら手を出して根源的な詩的思考を創造していない。これは怠慢であるし、惰性である。吉本隆明はこういった。

 「わたしは、沖縄や琉球出身の研究者たちが、本土の研究者の学風の口まねと、うけ売りばかりやって、ひとつもそこからはみだそうとしないのを読むと、むかむかしてきてしかたがない。」((異族の論理、「文芸」1969年12月号)

 特に研究者になる必要はないが、自戒をふくめて、残念ながらいまでもそういう傾向にあることを認めざるを得ない。といって、本土をすべて拒否せよ、というのではない。かつて祖国復帰へとなだれこんでいったあの運動過程で、〈日本的なもの〉への憧憬と同化の実践がいろんな形で行われたし、流暢な日本語や日本的な教養を身につけることに努めたり、はたまた日本的風俗(ほとんどそれは東京中心の文化、映画や歌謡曲やテレビやらでみる日本人の姿)への同化志向で、日本人化を図ったものが多かった。東京で流行したものを、すぐに取り入れて身につけたり、言葉にしたり、日本人と沖縄人との差を無化しようと志向した。これは、実は、明治近代以降の沖縄でなされてきた習癖でもあり、いちはやく取り入れた当時の知識人、教育者、文化人らがそうであった。土着的なもの=沖縄的なものを卑下し、亡滅するように働いていたし、そこから劣等意識や差意識やらが強くなり、近代化意識を実践するものたちの土着文化への差別意識があった。戦後も土着的なものを醜悪なもの、廃棄すべきものとしての習癖が続いた。

 思い出す光景がある。ぼくが学生の頃(60年代)、戦前から新聞記者をしていた父をもつ友人がいた。那覇市首里にあった彼の家に遊びにいったときのことである。その父はもう退職して家にいるのが常であったが、ラジオを聞くのが楽しみであった。特に音楽を聴くのが好きで、そういう番組を聴いていたが、あるとき、三線の音色と沖縄民謡が流れてくると、「ちぇ、土人の歌だ」と吐き捨てるように言って、チャンネルを切り替えたのである。友人によるとNHKの「のど自慢大会」は好きで毎週聞いているらしかった。知識人ともいえる新聞記者が地元の民謡がかかってきたら「土人の歌だ」と切り捨てるようにチャンネルを変えるその心理には、沖縄近代のヤマト日本への憧憬と地元蔑視の感覚があったことはいうまでもない。また二千年代に入った頃であるが、職場の仕事関係で、沖縄の昔の写真ー大正時代に外国人が写した写真―をみるときがあったが、同僚の中年の沖縄女性が「あらぁ、いやだ!土人みたい!」と叫んだのである。みると、その写真には沖縄の古い風景があり、肌の黒い沖縄人が貧困(ヒンスー)な身なりの姿で写っていたのである。彼女は地元の大学を嫌って本土の私立大学を出ていた。「あらぁ、いやだ!土人みたい!」と反応するそこにも、いわゆる教養ある近代沖縄人の地元蔑視が続いているといわなければならない。

 復帰運動は一種の民族運動であったが、日本というクニは帰るべき祖国であったか。いや本当は描いたというか夢見た祖国とは現にある日本というクニではなく、もうひとつのクニではなかったか。たとえば『一人の彼方へ』で黒田喜夫が引用した、ぼくも気に入った文章がある。

 「………おもたいくびきをかける古代国家成立のうらがはに、もうひとつの国がよりそって、それをささえてゐる。農夫の腕は目のまへのやせた田をたがやしながら、まなうらに泛かぶ彼岸の畑に鋤をふるってゐた」(鈴村和成「異同考」、評論集『異文』所収)

 まさしく〈もうひとつの国〉、〈まなうらに浮かぶ彼岸の畑〉をめざすとするなら、そのクニを造る、構築すべきクニとして、沖縄の運動家や知識人はたえず問い続けるべきであった。吉本隆明の「異族の論理」から影響を受けて編み出した沖縄異族論や反復帰論にその萌芽があるが、しかし「異族」「独立」「しまくとぅば」「伝統芸能」を持ち上げるだけでは根源的な説得力をもたない。そういう知識人や学者、文化人がいう言説は経済生活者の視点からみる現実論がないのが欠点である。民族感情、沖縄ナショナリズムをふるって、異族論やあるいは滅ぼされた140年前の琉球国を持ち出してヤマト・日本対沖縄・琉球という構図の喧伝や「琉球王朝」といった自画自賛する復古調をみかけるが、なにか歪で狭隘な回帰心が鼻についてしょうがない。沖縄民衆運動を語るシンポジウムで〈自分は首里出身で家系は士族で氏(うじ)はM氏である〉と故意に誇らしげに自己紹介する講師がいるこの二千年代現在の歪な沖縄言論の現実。身分制の意識を温存している彼らは首里城の幻の国王にいまだに拝謁しているのだろうか。

 復帰後、いわゆる〈ナイチャー〉が多く住みついた沖縄社会の変容という現実がある。この移住という人の移動は琉球・沖縄島嶼の歴史に繰り返されたことであり、特別視することではない。3万年前からあったかもしれない。外来縄文人が住みついて狩猟を求めて移動したあとに、別の外来人がやってきて定住したかもしれない。ウチナーンチュの先祖は港川人であるのか。彼らはどこからやってきたのか。彼らが沖縄島にやってきて、そのまま、いわゆる先住民となったのかは定かではない。琉球人は九州からやってきたという説もあるし、中国からの移住人=久米村人が住みついて混血化しているし、とにかく移住、流出、混血を繰り返したのは歴史的な事実である。純粋な琉球人=ウチナーンチュはいないとみたほうがいい。

 羽地朝秀や伊波普猷がとなえた「日琉同祖論」は否定されるべき考えだろうか。ぼくには、琉球・沖縄は日琉同祖の要素もあるし、そうでない要素もあるとみなしたほうがストンとくる。血や身体の人類学的、生物学的、考古学的研究の成果もみなければならない。琉球・沖縄にある〈沖縄的なもの〉=言語や習俗や神話や様式やらには、〈日本的なもの〉だけでなく〈中国的なもの〉〈南方的なもの〉の形跡が多い。もし独自の琉球・沖縄を探すとすれば、グスク時代以前までさかのぼって〈原沖縄=原琉球〉の事物をさがさなければならない。

 先の鈴村の文章に相対するような、たとえば吉本隆明の次の言い方をとりだしてみる。

 「ある支配的な共同体というのは、それ以前に存在する共同体なり、国家なりの、観念的な、それから土台的な核になっている構造を、自らの共同体あるいは国家の権力構造の中に、摂り入れていくということなんです。特に古代ではそういうことをしないと、以前に存在していた共同体に対して、次にそれを包括的に支配しようとする共同体が、包括するとか支配するとかいうことが出来ないのです。」(吉本隆明「世界―民族―国家」空間と沖縄、『全南島論』所収)

 ある共同体が前に存在した共同体=国家の構造を戦略的に摂り入れて支配するという巧妙な力学をあばいていると想われるが、黒田喜夫はそうは見ず、古代におけるダイナミックな事例を指摘して、衆夷(前の共同体)を「亡滅」と位置づける。

 「………滅びうるもの――わが弧状列島の民の実在。異民・衆夷・毛人・すべての日本土人。私である彼方。滅びうるものにしてわが反回帰的志向において滅びざるもの。その私の現存により支配に対し、まつろわずに滅びざるもの―。」(土着と亡滅、「『一人の彼方へ』」

 こういう語り方にぼくは〈滅びの旋律〉というものを感じる。滅んだものへの抒情の美があるのだ。支配王権に決して服さない、遠くにあって、滅びながら滅びない旋律。それはまつろわずに滅ぼされた者達からの、遠い呼び声となって、〈私である彼方〉へ共鳴してやってくる、その声たちの旋律を聞くことなのだ。藤井貞和の次の文章をみつけた。

 「亡滅こそ、黒田氏からあたえられる重要な鍵であって、それは亡滅させられた深い怨念の土着だと言おうか。…(略)……記紀歌謡は大部分、宮廷歌謡としてある。それのうえに広範な古代歌謡(古代的な村落共同体の歌謡類を中心にした―)の亡滅を読みとることができるのではなかろうか。」(藤井貞和「古代詩の方へ―黒田喜夫『一人の彼方へ』ノート」、『甦る詩学』所収)

 藤井貞和は南島歌謡類を多く読み込んで、『古日本文学発生論』や『甦る詩学』で詩の起源、発生論を遠くまで展開してみせた学者、詩人である。この「亡滅」という不穏な思考は黒田喜夫の基本的な考えにあり、統べられた民の自己同一化を図るクニには必ず〈亡滅させられたもの〉があるとの固い信念があることを読みといている。

 わが沖縄においても首里王府が編纂した『おもろさうし』が宮廷歌謡集としてあるが、それから除外された〈怨念の土着〉が琉球国が成立する時代にあったであろう。『おもろさうし』にある神歌、歌謡を読めば首里王権への供儀としての歌謡がほとんどであることはすぐわかる。『おもろさうし』に採録されなかった琉球弧の地方歌謡を集めた『南島歌謡大成』(外間守善・新里幸昭、ほか)は、すぐれた業績であるが、個人的には、まだなお、明らかになっていない琉球国成立より前のグスク時代よりさらに前の〈原沖縄=原琉球の歌〉が存在したと想う。それは亡滅しているから、黒田喜夫のように〈私である彼方〉で感受するしかなく、われわれの現在の詩や歌のなかに無声、無音でありながらも確かに存在するとみなすしかない。

 「亡滅という契機をもっての想像力化により、短歌定型の響き合わせの調律の供儀性として表象される〈死せる共同体〉の無時間性の潜在を、〈詩とはまた根源としての衆夷のうた〉であるものの生成の時間へと、先ずそこで逆に奪い返すこと。」(黒田喜夫「精神の定型と関係主体」、『同時代批評1』1980・6、『人はなぜ詩に囚われるか』所収)

黒田喜夫の亡滅した衆夷や土着や共同体へのまなざしからくる〈詩(歌)の奪還〉という言説はなにかドラマチックな響きがある。

               注:『脈』102号(特集 黒田喜夫と南島)-- 20191年8月発行--から転載)

 


沖縄戦、沖縄文学、カザルス、沖縄的なもの、トリスタン・ツァラ、清田政信、鮎川信夫            

2016-02-13 | エッセイ

死の在所からの詩的断章


「幻が叫ぶ。戦後の途方に眼を離すな。」
                          (拙詩「光があなたを引き寄せる」)

「この辺は田んぼだったから安心さぁ。死んだ兵隊が埋まっていることはないからさぁ」と近くに住む人が話しかけてきたのは小さな家を建てて住み始めた頃だった。沖縄戦で日本軍と米軍の激戦があった辺りである。住む前はそれほど気にすることはなかったが、次第に周辺の場所の持つ戦争の残像が濃くなってきた。
この戦闘に参加した、おもろ研究者外間守善の『私の沖縄戦記―前田高地・六十年目の証言』や戦闘記録などに書かれている地獄が家の近くにあった。米軍の記録によると撃ち込んだ砲弾、1日だけで、1616発とナパーム弾、日本軍戦死者3千名(推定)、浦添市史では沖縄戦によるこの地域住民の死者は当時の人口934人中549人にのぼる、とある。風景が隠していた無惨な死の物語が想像をかき立ててきた。

シュルレアリスムに心惹かれ、幻の存在に関心のあった私はそれから死者の影を感じるようになり、
「この地は自然と歴史と死者が風景の底で同居している」
と思うようになった。
「緑の風景を裏返すと死者が登場する」という詩句を綴った。この辺りは夜になると静まりかえり、死者が影のように窓を横切る錯覚をもったりする。野菜を植えるために土を耕すと、骨のような白い石がざらざら出てきて、霊的な気分になる。榕樹の陰からカザルスの鳥の声がよく聞こえる。鳥たちも人間が殺し合いしているのをみていたにちがいない。
死を忌むとする一方、墓のすぐ側に平気で家を建てて住むこの島のおおらかさには感服するが、考えてみれば、島中が斃れた死者や砲弾跡地の場所を整地して、その上に家やビルを造って暮らしている。この辺もモノレール工事が進み、地形がさらに変貌している。それが走り始めたら空港に向けてあの死者たちも乗り込むだろう。
詩に傾倒している私は、激戦地の生々しい歴史や普天間基地から軍用機が家の真上を低空で飛んだりする現実を受感しながら、世界を語る言語に触れつつ、わが詩境と未知のポエジーを追っている。 

20万人が戦死した、あの凄惨な戦争体験を語った証言記録で、国家による戦争に、互いの国の民衆が動員され、殺しあい憎悪しあい、個の実存を亡滅させる愚かなものであることを我々は知った。沖縄の文学はそういうイクサ世や戦後の沖縄的苦難への対峙を避けて通れない宿命を持っている。しかし、文学は文学の方法で読み語らなければ成立しないし、記録では語り得ないものを書くことに価値がある。文学者は文学的想像や、文学言語で語っていかねばならない。

観光化して明るい沖縄の風景をスッキリとは謳えない。空は爆撃機が飛び交い、海は艦砲を撃ちまくった戦艦がひしめき、野山は地上戦の殺戮や砲弾での破壊、戦後は米軍の基地、演習地といった、いやな想念が邪魔して詩的な自然の喚起をよせつけない。風でさえ時に死の匂いがする。さらに軋む新基地建設がある。

経済発展に夢中になるわが沖縄。開発というすさまじい変貌の万華鏡。豊かさと喪失が同時進行し、際限なき都市化する、この島の風景を歌って美的になるのは嘘っぽい。もはや内面で痛みを伴う叙情的風景を別の方法で歌うしかない。 

沖縄で文学する者には沖縄的なものと非沖縄的なものの知的志向が混在している。私なども沖縄的なものにこだわらない言語表現を志向したり、あるいは島言葉(方言)を詩語にして冒険的詩作などをしている。沖縄的なものの素材を選択すればいいのではない。問題はどう書くかである。常識的発想を超え詩的想像力や別のイメージとの闘争をへて書く。わが詩法探求はそこにある。

しかし「沖縄的なもの」とは一体何か、という問いが起こって、さらに文学・思想的に掘り下げる必要を感じる。個人の関係性を問わない文化的に共通なそれは現在の魂を生きる糧になりえるか。沖縄は苦闘の歴史にあるが、その共同性の苦闘へ共鳴しつつも方向への立ち位置、愛憎と違和を表出することが沖縄詩人の在り方であろう。

ダダ運動の立役者トリスタン・ツァラがかつて「詩人の偉大さはその普遍性にある。自分のもつ世界が個人の枠をこえて、生きる全てのものの世界に統合されるのでなければ詩人は偉大であるとはいえない」と書いた文章にも魅惑されたりする。詩を書く殆どの者はそういう詩を書きたいと思っているだろう。だが「詩人の偉大さ」は20世紀で終わっている。詩人の偉大さ、という形容は21世紀の今日では困難である。眼と精神の変革を究めるように、言語を根源的に開放し、世界と自らを問いながら内面のポエジーを生成し浮上させることが詩の方法と私は思っている。「詩で現実と闘う」といった清田政信の言葉は参考になる。

「詩人は、愚かさや迷信や因習の敵として、いつでも反逆的精神の火を燃やしつづけなければならない。」(鮎川信夫「現代詩に求めるもの」)。

魂を打つ詩の言葉には詩的精神が美的に脈打っているものだ。


ランボオ シュルレアリズム エリュアール ブコウスキー マッチ売りの少女 真喜志勉

2015-07-10 | エッセイ

雑居ビルには詩が住んでいます。

 

おれ自身、ネオンちゃらちらの夜のカフェ(酒場)が入居する雑居ビルのようなものです。そしてそれらの店に入ったり出たりしている客もおれ自身なのです。ひとつの店だけにとどまる固定客というものではなく、ムラっけがあって、飽きたら今日はこの店、次はあの店、そして次はまた別の店、と定まりがないのです。

 入ったビルで、ときに純粋詩、ときに思想詩、ときにシュルレアリズム詩、ときに抒情詩、ときに恋愛詩、ときにポップ詩、ときに生活詩、ときに人生詩…………出ている看板の灯りをみつけて扉をあけて入ったり出たり、気持ちがいい店は酔って長居するが、つまらない店ははしごする恣意的な接し方です。統一性のない雑然雑多雑種です。もちろん書くものもそのような恣意的雑居ぶりです。

だから惚れた詩(人)が特定してある(いる)訳ではなく雑多にたくさんあるわけです。自分でもとりとめがないと思うわけです。

本棚をざっとみたら詩関係でいえば角川書店の中原中也全集(学生時代にデパート山形屋で夜警のアルバイトをして全集ものではじめて買った本、文教図書で買った)、ボードレール全集、山之口貘全集、小野十三郎全集、アンリ・ミショー全集、ランボオ全作品集、ヘルダーリン全集、定本伊東静雄全集、現代詩文庫(思潮社)、世界の名詩集(平凡社)、金子光晴全集、ポオ全集、折口信夫全集などがあってこのひとたちにそんなにぞっこんになったのかなあと曖昧に思うのである。
文学は不可能を可能にする言語という思想に洗脳されたのはまちがいないし、その洗脳からぬけずにやってきたとは思う。

わが詩の草創期。なんといってもおれの素朴な、鈍感な言語感覚に変革を与えたのはランボオとシュルレアリズムである。

ランボオではとくに手紙のなかの見者の手紙である。

「我とは一個の他者です。銅が目がさめてみるとラッパになっていたとしても、それは少しも銅の落ち度ではないのです」

という、教師で文学の友人ポール・ドゥムニーにあてた「見者の手紙」に出会ったときは震えた。ランボオの詩作品にも刺激されたが、この手紙は手紙をこえてさらに刺激的だった。ここに詩に対する<生の変革>の思想が述べられていた。おれはこの手紙をなんども読んで唸っていたのを憶えている。おれも若かったから、びんびん響いてきたね。17歳の少年詩人がこんな文章が書けたことに驚愕したし、詩というものに対する天才詩人の言葉は、わが青春の生を詩とむすびつけるように貫通した。

それは詩人、つまり詩を書くものとしての思想から編み出した修辞であるが、修辞が単なる語をこえて<詩を書く私>が<他者としての我>に転化して暴発している。この他者=我は現実の我を離脱した我である。詩を書くとき作者は自己=我を離れなければならない。だから最後の詩行をうつとき詩人の魂は変わっていなければならない、ということだ。それが詩の自由の冥利というものだ。逆巻くような、書くことの困難、快楽、怖さ、現実否定の精神、を言語でもって実現する、狂気と革命、魂の詩学に圧倒されたのだ。その影響下に「虚数の錯乱」(琉大文学29号)なんていう観念詩をしたためたことがある。

「詩人になろうと志す人間の第一番の仕事は自分自身を全的に認識することです。彼は自分の魂を探求し、それを観察し、それを試し、それを学ぶのです。……僕はヴォワイヤン(見者)であらねばならぬ、自らをヴォワイヤン(見者)たらしめねばならないのです。詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じてヴォワイヤン(見者)となるのです。あらゆる形式の恋愛や苦悩や、狂気によって。……」

これが17歳の少年が書いた文章とはなあ。熱病的で破壊的で創造的で、恐れを知らない若者の勇ましい言説とは思う。思うが、とにかく、すごい。フランス詩はこういう思考の発明と蓄積と連続と交叉と衝突と創造と経験で詩論の世界を築いてきたと思う。科学、工学の進展時代でどこかにゆずったとしても思想はおちない。当時マラルメという純粋詩の大家がいて、これまたすごいやつだったが、ランボオが詩と生を同一に仕掛けたこととは異なって、彼は詩を冷静に深く考えた。詩のための詩、という高踏派の発想をさらに進め<虚無>まで構築して身を滅ばさずに巧みに弱者の詩を確立した。マラルメが収録された古い本に朱線をいれたところがかなりあるから彼にも酔っていたといえる。難解な詩人であるが魅力がある。マラルメの影響にあったブランショ、リシャールの文章も囓り囓り読んだね。現代詩にはマラルメ詩の系統が連綿と続いている。

ほんとうは詩人というものはランボオのように適当な時期に潔く決別したほうがかっこいい。谷川雁もそうであったが、雁は予定どおりのかっこいい決別だから物足りない。革命と暗喩の結合で当時の詩壇を驚かすような詩語の匠(たくみ)を演じてみせたが、もう時代の彼方の詩として読むしかない。

いやはや次はシュルレアリズムだ。これもまた言語表現を意識したら必ず出会う文学である。夢、精神、無意識を文学(芸術)創造の源泉に据えた世紀の発見は魅力的だったね。ブルトンの「シュルレアリズム宣言」「溶ける魚」「ナジャ」などは不思議な言語体験だった。超現実主義の方法、オートマティスムは哲学的心理学的精神分析学を意識した人間の深奥にもとづく詩法を編み出した。こんなふうに文学ができるんだという驚きと新鮮さ。ロートレアモンの「解剖台の上の、ミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」を美しいとするには反自然感覚が必要であるが、それ以上に、詩の読み方に新たな視点を得た。精神、内面、想像力の美学というようなもの。ブルトンによればオートマティズムでは句読点は邪魔だという。この方法をまねて「幻都へ」(「郷土文学」に発表)という詩を書いた。これは『ゆがいなブザのパリヤー』に葛藤しながら強引に収録した。うまくいく、いかないの問題ではなかった。視えない世界の存在と露呈と解釈の方法を身につけたように思う。これは人間と世界の根源の読み方にも適用されると思っている。おれは沖縄的シュルレアリストをめざそうと思ったことがあったが中途のままだ。 

「ぼくのたった一つの愛撫で/全身ではじけるおまえの輝き」(エルアール「愛すなわち詩)

「ぼくの手からおまえの眼へ/沈黙が旅をする」(同)

学生時代につきあっていた女の子への恋文にエリュアールの詩句をそっと添えて送った。青春だったねえ。エリュアールの伴侶ガラというロシア系の女性はどんな女だったろう。このまえ見たダリとロルカを素材にした映画「天才画家ダリ 愛と激情の青春」でガラが登場するが、どうもぴんと来なかった。

詩だ、文学だ、といっても厳然とした実生活があることに覚めてしまう。すると目線がその現実に転じる。やはり東洋の、貧しい、田舎者、離島生まれの不器用な人間だし、長い失業時代、結婚、子供誕生となると単身者とはちがう生活世界への目線と感情がでる。生活を詩にしたものへも読みが傾くのは自然だった。人生や、生活を書いた詩(ことば)にも感情をほろりとするのだから、いい加減である。庶民の生活詩もいいものはいい。プレヴェールの「朝の食事」はよかった。あの男女の別れの場面をさらりとしかし陰翳をもった詩にあこがれた。パリの庶民の生活と心情をうたうプレヴェールはシュルレアリズムの仲間であったがシュルレアリストではなかった。おれは那覇やコザの街の場末の風景に近代、都会、島民、庶民、流民、底辺に様々にいきる人間の哀感を混ぜてみていた。おれは沖縄民謡があまり好きでない。沖縄の民謡には詩(ポエジー)がない、と思う。方言、生活感はびっしりだが詩的な哀愁がなぜか感じられない。

詩人の反面を思ってみる。実生活で詩の価値が決まるものではない。アメリカの詩人チャールズ・ブコウスキーが

「詩人になるにはたやすいが人間になるにはむつかしい」

といったが、なんとなく分かるような気がする。アル中で不定職の彼にはふつうの人間らしい人間という生き方ができなかったし、できない絶望を生きるしかなかった。底辺に生き、モラルなど持てようがない人生をさまよった。私小説作家の車谷長吉が「文士なんて人間の屑だ」といったが、そういうことかなあ。

寒いので思い出のマッチを灯す暖かい詩をいくつか。(この文章は冬場に書いたものなのです。)

 闇の中で一つずつ擦る三本のマッチ
 はじめは君の顔をみるため
 次は君の眼を見るため
 最後は君のくちびるをみるために
 そしてあとの暗闇は全てを思い出すため
 君を抱きしめながら
           (ジャック・プレヴェール「夜のパリ」)

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
                          (寺山修司)

「少女の小さな両手は冷たさのためにもうかじかんでおりました。ああ!たばの中からマッチを取り出して、壁にこすり付けて、指をあたためれば、それがたった一本のマッチでも、少女は ほっとできるでしょう。少女は一本取り出しました。 《シュッ!》 何という輝きでしょう。何とよく燃えることでしょう。温かく、輝く炎で、上に手をかざすとまるで蝋燭のようでした。すばらしい光です。小さな少女には、まるで大きな鉄のストーブの前に実際に座っているようでした。そのストーブにはぴかぴかした真鍮の足があり、てっぺんには真鍮の飾りがついていました。その炎は、まわりに祝福を与えるように燃えました。いっぱいの喜びで満たすように、炎はまわりをあたためます。少女は足ものばして、あたたまろうとします。しかし、―― 小さな炎は消え、ストーブも消えうせました。残ったのは、手の中の燃え尽きたマッチだけでした。」
                              (アンデルセン「マッチ売りの少女」)

このマッチ売りの少女を、はじめて読んだとき涙腺の露呈を恥じながら読んでいたのを思いだしました。小さな島の貧しい幼年期のうぶで純なころです。子供が家庭の稼ぎの役割を持つことの貧しさは健全な不幸です。おれも幼少のころ、鉄くずやスクラップや空き瓶を拾って売ってお金を得ていたことがあります。それでめんこや漫画雑誌を買ったりしました。
それはさておき、おなじマッチでもこんなに違うのが面白い。マッチは人を照らし出す。マッチを擦るその瞬間に希望がある。貧しいマッチ売りの少女は大晦日の寒い夜に擦ったマッチの灯りで夢をみる。豪華な家に住んだり、死んだおばあちゃんに会ったりするが、やがて凍えて死んでしまう。ほんとは売れないマッチを抱えて寒さに耐える体力がなくなり、幻覚をみたのである。その火は小さい。小さいが物語をつくる。そこがいい。

そういえば小さなキューブな我が家の景観もマッチ箱のようなスタイルをしているなあ。いまはもう亡くなった画家の真喜志勉さんが「シャープなつくりしているなあ」、と印象をいっていたのを思い出す。わが家の前の道をラグビーボールを叩きながら、通っていく姿がみえなくなったのが夢の風景のようでちと寂しい。展示会を開くたびに律儀に案内を送ってくれた数少ない画家のひとりだった。真喜志さんが怒りのNONの魂で描いたオスプレイは我が家の上をいまも不法侵入して飛んでいる。かれが最後に描いたのは何であったろうか。

反民主主義志向の象徴、普天間飛行場の辺野古移設。この時代、世界じゅう、街も、村も、里も、家も、外も中も日常も非日常も不穏な空気が不安な光景をさらしている。

    (沖縄でだしている詩誌「あすら」のシリーズ企画「私の好きな詩歌・心のコレクション」に書いたものに手を加えた。)


仲里効『オキナワン・ビート』ノート ①

2014-05-17 | エッセイ

 ここに掲載する『オキナワン・ビート』ノートは21年前に書いてそのままにしておいたものを今回引き出すことになったことをお断りしておく。タイムラグがあることをご容赦願いたい。また未整理のノートであることも。『悲しき亜言語帯』についてのノートを予定していたが諸般の事情が重なり時間的余裕がなかったため公開するまでにかなわなかった。いずれ触れたい。 

 この書物については、すでに書評等が出ているので、ここで書くことは二番煎じになるかもしれないが、この書物に触発されたところを書いてみる。            

 『オキナワン・ビート』のなかには、高嶺剛の映画『オキナワン・ドリーム・ショー』『オキナワン・チルダイ』や喜納昌吉、知名定男、リンケン・バンドの音楽、又吉栄喜や東峰夫の小説が取り上げられている章がある。これだけみれば、あはあ、これは戦後沖縄の、米軍占領期時代の申し子たちへの積極的な解釈と意味付だなということがわかる。

 高嶺の映画は私も好きである。「パラダイスビュー」を見たときの、あのウチナー独特の、雑な作りの家屋や道が映し出された映像の匂い、たどたどしいウチナーグチの会話。小林薫や戸川純というキャラクターの不釣り合いが絶妙だし、カラフルで混沌とした沖縄を映像化すると、最近よくいわれる沖縄のなかの<アジア的部分>がよくでていることに納得させられた。         

 これら映画監督、作家、歌手が描き、書き、歌っている世界は沖縄の占領期の闇だ。この世代は多感な時代を、いわゆるアメリカユーで過ごし、そこで体験したことを逆手にとって自らの表現のポステージにしているのだ。

 「被占領という形をとった否応のない世界体験としての戦後体験は、既知のように見えながら、実は依然として未知のままであると言うことでもある。この発見の驚きのなかにいるとき、はじめて、戦後を探訪する意味が私達の現在に何事かを付加するはずである」(戦後体験のゆくえ)

 そして、喜納、知名、リンケンは民謡歌手の息子であるが、父たちの音への批評、あるいはアメリカユー体験の身体化から、島うたのポップ的展開を行なったと仲里は書く。

 しかし、又吉栄喜や東峰夫の作品が最近あまり出てこない。何年か前に本土の出版社がふたりの作品をあまりもう取り上げてくれないと囁かれていたのを聞いた。書いて出すと、雑誌の編集者が「また沖縄ものか」と声を落としたということも聞いたことがある。最近のリンケンバンドや喜納昌吉は沖縄音楽をアーティストの次元まで引き上げ、沖縄モデルの発酵を継承しているようにみえる。「花」は普遍的な歌だが、その後ザ・ブームの「島唄」ほどヒット曲がない。 

 この書物は仲里効自身の思索の産物を新聞や雑誌に発表したものをまとめたものだからひとつのテーマがあるわけではない。しかし、新しい言葉を吐き出そうとする世代の、沖縄の新しい言葉や意味を見つけることができる。そして、感じることは伝統や歴史というものからくる<アイデンティティ><独自性志向>に疑問を投げていることだ。「差異の戯れ」世代が登場し、かつての暗い歴史を引きずっている世代を当惑させている。オキナワン・ビートとは反逆する世代のことだ。新しい哲学や思想を学んだものたちが、自分たちの現在をとらえ直そうとしている。沖縄の事物や空間や時間への新しい感受性が言葉を持ち始めたのだ。

 それにしても、これまで沖縄戦後思想史という形で精読追及する人はだれもいなかった。鹿野政直がやったのはあるが、あまりにも歴史的事実に拘束されている。詩史、文学史はあったけれど、きちんとした形ではだれもやっていないのではないか。これからは、単なる紹介、説明ではなく<精読><読み替え>という作業が必要になってくるのではないか。

 復帰二十周年という区切りから、右を向いても、左を向いても<沖縄特集>という商品が目に付いたが、私自身「琉球の風」もあまり見なかったし、首里城はこの夏、島から観光にやって来た両親を連れて、しょうがなく観光見学した。

 戦後思想で思索するものは伝統志向型と無伝統から始める型がある。伝統から思考するよりは、新しい思考を目指していることが伺えるこの著作は、沖縄という狭隘な空間を開放しようとしている。差異に留まり、差異のコードからぬけない戦後思想の潮流を裏返して見せようとする。

 復帰二十年という区切りをとって、二十年の間に、この沖縄がこの間どう変化してきたかとかいうことが盛んに問われ、それぞれの世界の専門家を動員して書かせたり、語らせたり、そして、それがマス・メディアに乗って来るので嫌でも見せられたり、文字になったものを読んだりする期間がこの一年続いた。つまり、1992年は、有形無形の<沖縄特集キャンペーンの季節>だった。

 時代は生き物だから、当然ながら生活の様式は変化するし、意識も変化する。復帰後の衣、食、住の消費と生産の過程で新奇なものが登場しては消えていった。そこで、何が一番変わったかといえば、視覚的には風景が変わった。リゾートという余暇生活の快楽を海辺に拡大した結果、沖縄本島の西海岸は、なぎさの商品化や高層ホテルのキノコ状の発生によって見事に消費され変貌している。地上の楽園、ユートピアを沖縄に造ろうとする資本の欲望の結果だ。また、那覇のメイン通りも都市計画といえば東京をイメージしながら形成されている。核家族化した細胞所帯が長期ローンという<執行猶予>と引き換えにマイホーム作りに奔走したために島の空き地が癌細胞状に住宅地化した。このように貨幣が風景を変えるスピードと規模の凄さを私達は体験している。そして、世界的な経済大国に上昇した日本の作りあげた経済、社会システムの制度に組み込まれて、かつての風景が消えていっていることに出会っている。沖縄的アジア的なものはどこにあるのか。

 意識の深層にある<沖縄的なるもの>はどうか。高度な情報化社会にあって、生れてくる子供たちは、もはや親が持っている知識の言葉より、マス・メディアの擬似情報による言葉の影響で自己形成している。方言はますますマイノリティになり、生活は<大和風>になって彼等自身違和感がない。それを憂慮する沖縄文化主義者はいう。沖縄文化を失っては沖縄人は存在する精神を空洞化する、と。だが<沖縄文化>として人括りにした場合に、内容を問わなければならない、と思う。その心性をどう文学、思想、芸術に生かすのか。

 沖縄じゅうがみんな作品のようにあり、素材のようにある。海辺も、村も、街も、樹木も、吹く風も、作品のようにある。発見という眼と思考と感受性の喚起があれば、風景は蘇生して語り出す。

 エイサーは詩であり笑築過激団は散文である。ウタキは暗喩であり、首里城は散文である。風も匂いも詩である。

 『オキナワン・ビート』のなかには戦後と復帰を時代の鏡にうつしている言葉がある。それを支えるのは体験と現象から生ずるパンセである。伝統に依拠するのではない。アメリカユーとは、積極的に語られるべき時代であるというような視点がある。 (続)

 

                       仲里効著『オキナワン・ビート』(沖縄、ボーダーインク、1992年)


仲里効『オキナワン・ビート』ノート ②

2014-05-17 | エッセイ

 いま<アイデンティティ>や<独自性>は思想になりうるだろうか。かつての論調に<沖縄歴史>が語られる場合には何処か悲劇、暗さ、怨というルサンチマンがいっぱい流れていたが、最近の沖縄文化が語られる場合には奇妙な軽妙さと明るさがあるような気がする。生活が豊かになってきたからか、差異が見せ物として自信とつながっているからか。 これまで裏座に隠していた恥っぽいものを頼まれなくても表座に出してきて見せる、というような状況がある。これを差異の戯れというのだろうか。

 高嶺剛の映画や、又吉栄喜、東峰夫の小説、知名定男、喜納昌吉らの作品や活動を分析しながら沖縄アメリカユーを積極的に評価する。伝統的な観点ではなく、占領期、復帰という風景変貌をとらえる。沖縄をひとつの都市としてみる視点はもっとも現在的だ。

 「かつて在り、そして在る。在ることによって私の現在を脅かし続けることをやめないー六十年代の生きられた時間は、このように名付けようもないある何ものかである。だから、繰り返し発見し直さなければならない。しかも全く新しい言葉で。」(オンリー・イエスタディ)

 「内側を覗きみるような存在論的言及がなければ、新しい視界にぬけ出ることは不可能であろう。」

 「一度は沖縄・南島の固有性―独自性という言説を裏返してみることさえ必要なのだ。」(方位という鏡)

 こういう言葉を書くことは自己の立ち位置が確立したことである。新しい言葉、とは納得するし気持がいい。なぜならこの私にもそういう意識がたぶんにあるからだ。沖縄の現実に物足りないという欠如感覚が何時もつきまとう。あれでもない、これでもない。選択するものがない。そういうときには自分で作る以外にはない。

 テクストは高嶺剛、又吉栄喜、東峰夫の作品(言葉)。仲里の思想するフィールドは復帰後の沖縄という舞台である。その意味で、仲里は新しい世代の思想家であるといえるだろう。このことは、戦前、戦争、戦場体験世代の編み出したアイデンティティという世代から離れたことを意味する。フリー・シンカー。この本の奥付の紹介には「領野を漂流する境界の批評をめざすフリー・シンカー」とある。フリー・シンカーとは初めて聞く言葉である。自由な思想家というとなにかださいなイメージがつきまとうが、フリー・シンカーというと新しいな、という感じがするからいい。文芸評論家とか社会評論家ではうさんくさい。「新しいぞ私は」と荒川洋治があえて言わねばならないのは意識の落差を突いたものであった。

 新聞連載中の写真と言葉。私(達)は彼の思考と眼と耳の感受性の披露を味わうとしよう。

 消費を選択する読者。その殻を破り、消費が生産を代替する。消費が生産を脅かすという時代。消費したいのにその生産物がない。逆に作っても売れない生産の不安。過剰生産。資本主義の高度化における思想とは、消費が生産を脅かしているという幻想に取りつかれていることではないか。商品経済では消費が生産を決定する。縮小や拡大はそうだ。

 元気な仲里効さん。「異風」堂々、この新しいもの、古いもの、雑多なもの、矛盾するものが混在し同居する沖縄のまだ見えざる部分に光りを当て、噛み砕いて下さい。ビートは時代の変化をもっと吸収する。ビートいさお。オキナワン・ビートと名付けたのはおきなわを琉球や沖縄という漢字でみるよりもカタカナでみつめるまなざしがフィットするからであろう。

 『新沖縄文学』というメディアの消滅にもかかわらず新しい批評家や思想家が登場するのは楽しい。批評の不在がいわれ、誰かやってくれないかという雰囲気があったのだ。

 この本の特徴は沖縄の現象から思惟の身体を確保していることだ。例えば高嶺剛や又吉栄喜、東峰夫を分析し思考空間を拡大する仲里氏は沖縄がいかに変化しているかへの思考を持っている。つまり、風景の変貌に思惟するやわらかい視線をもっている。次の言葉はその視点からの発言だ。

 「本土―沖縄という対項のなかで成立していた沖縄の持つ異質性や差異性という仮構が効力を失い、時代や状況に向かうことを阻まれ、反転しながら新しい質を獲得していったといってもいい。」(タナゲームンとしての風景)

 喜納昌吉の「ハイサイおじさん」を「島歌のポップ的展開を可能にした」(”チャンプルー”体験とオキナワン・ポップス」)とみる。また知名定男の「バイバイ沖縄」を島歌に初めてレゲエのリズムを取り入れた試みの新しさ」(タナゲームンとしての風景)という。三線が土着の楽器から世界の楽器へと変質したのだ。伝統という呪縛を超えて保存という無意味を破って、さらに進化する楽器となったのだ。

 土着への視線より占領期―復帰―現在という変遷のカルチャーへの着目。これは「差異の戯れ」を享受する世代の肯定を通して出てくるものだろう。1978年が転換期であったかどうかはおくとして、復帰後の日本経済社会がシステム的に沖縄を組み込んでいったことは明らかである。黙っていても沖縄社会は変貌する。システムは容赦ない様式や変化をつくってくる。それに巻き込まれる経済社会に我々は暮らしているのでその動力には抗しがたい。

 著者は映画、音楽、文学という表現から時代の思想と感受性を読み取ろうとしている。単に沖縄を外部化するのではなく、沖縄で何が起こり、何が変り、何が表現されたか、をつかみとろうとしている。

 この書物にカタカナ表記が多いのは、アメリカ世(ユ)を表現するからであり、その世代のメッセージであるからだろう。ポップス、ロック、Aサイン、……そう、著者に沿っているものは戦後―復帰―現在の風景だ。

 考えてみれば我々は最も多感な時代を<アメリカ世>で過ごし、これから結婚し、子育てをし、生活を確保しようとしたときに、復帰が来て日本システムに呑み込まれた世代である。

 この本に入っている文章を読みながら、「うん、わかる、わかる」という印象があるのは仲里が同世代であるということだけではなく、思考の方向が似ているのかな、と思ったりする。この『オキナワン・ビート』は、全く戦後世代の、六十年代から現在へのメッセージであった。日本と沖縄の対比、そこから出てくる事実としてのコンプレックスと被害意識の生産とくり返し。復帰二十年の検証はそれを払拭するものでなければならないわけだ。

 それにしても「オキナワンン・ビート」とはよくつけたものだ。ゼネレーションとして自己形成する言葉である。もちろんそこには新しい言葉がなければならない。思想的言語が 復帰二十年という歳月をマスコミあげて検証した割には、何かそこからは、あまり生れるものはなかったような気がする。日本的なシステムに組み込まれたメリデリから沖縄の変貌、沖縄的なるものの喪失と格差の度合を明らかにするだけで、沖縄ブームという仮構のなかで有形無形の<沖縄遺産>にまつわる言葉が我々を通りすぎていっただけだ。

 しかし、時流とはいえ、映像、写真、音楽、言葉というメディアを通して生産された情報量は時代の現象を反映している。それぞれの分野の専門家及グループが輩出した言語空間・現象は何を語り、何を映したか。精読して相対化する新たな言語表現と読みが求められる。         

                                                      (未定稿)

                           仲里効著『オキナワン・ビート』(沖縄、ボーダーインク、1992年)

 


ゴンチャローフと緑のたわむれる島・琉球・沖縄

2014-05-07 | エッセイ

1854年の1月31日に那覇港に寄港して、10日間滞在した、ロシアの作家、イワン・A・ゴンチャローフは、のちに『日本渡航記』を著し、琉球の印象を「緑のたわむれる島」と評し、樹草の広がりに
「美しさと種類の多様さに呆然として、沈黙していた」(「ゴンチャロフ日本渡航記」高野明・島田陽訳 講談社学術文庫)
とその印象を綴っている。
かれの『日本渡航記』に書いている琉球の風景の記述は、バジル・ホールやペリーの航海記よりも表現が豊かだ。さすが、のちに「オブローモフ」を書いた作家の文章である。上陸した琉球の印象を感動的に書いていた文脈は、最後には「単調な生活よさらば」と書くことになるが、ゴンチャローフがみていた緑の島の自然は、近代化の波に洗われ、以後160年後の今日、ごらんのとおり、となった。その間の事情はいろんな書物があるのでそれにゆずるが、この長期にわたる、歴史変動と島の自然の改変は豊かさとひきかえに島から緑を喪失する。沖縄戦で灰燼となり、大規模な軍事基地建設でむしばまれ、1972年復帰後は沖縄振興名目で土地開発、道路建設で伐採、形状を破壊し、空き地があると建造物や家をつくることしかしない。人口増加に伴う住宅の建設はすさまじい。道ができると家ができる。繁殖旺盛なキノコのような住宅増加は、<緑がたわむれる島>をどんどんとうしなっていく。そこには、自然よりも人間の生活を優先する思考がある。その結果、島が都市化し、人工の空間が増大し、自然から人間が遠ざかる。いや、人間から自然が遠ざかるような生活を強いられる。墓地のすぐそばにも住宅、聖地を囲んでいた樹木を切り倒す。鬱蒼としていた墓地や聖地は尊さがない。広大な基地がどんと居座り続ける。普天間基地の移転も同じ島のなかで模様替えや増改築のように進められようとしている。

「ここでは二千年前と同様に、何の変化もなく人が暮らしているのだという思いがして一驚されるであろう。人も情熱も仕事もーすべてが素朴で単純で原始的である。自然には依然として美と安寧がある。陽は暑く真っ赤に輝き、水は静かに流れ、果実はたわわに実っている。書物も火薬もその他のそれと類似した堕落も存在しない。今後どういうことになるか注目しよう。果たして新しい文明がこの忘れられた古代の片隅にふれることがあるのだろうか。」(〃)

このゴンチャローフの言い方は、琉球の歴史をあまり知らない書き方である。まるで文明と関係ない、なにもない手つかずの自然の島、自然人が住んでいるという印象である。岡本太郎の「何もないことのめまい」につながるような見方だ。だがこの頃の琉球は強固な封建国家の島であり、本屋はないが書物はあったし、また当時ペリーの来航であたふたしている時期である。那覇や首里の邑民は異国人の来訪を恐れ、路で会うと女子供たちは逃げ惑うが、男たちはだいたいお辞儀して礼儀正しいという印象であった。
ゴンチャローフ一行がベッテルハイムにあったときの話が面白い。ベッテルハイムが琉球人の実情を訴え、琉球人が礼儀正しいとみえるのは嘘で「迎えるより送るほうが好き」「警察のスパイ」「大変な酒飲み」「賭博する」「宣教師(自分)を殴った」「バジル・ホールを信用するな。なにもかも真実と反対」などと刑事犯的論告をするのにうさんくささを感じ、ゴンチャローフはバジル・ホールも信用しないが彼も信用しないと断じる。幕府の鎖国制度が薩摩を通して、琉球にも示達されていて日本人が後ろにいてキリスト教を迫害していることは、ゴンチャローフも知っていたから、「あまり功を急ぐな」と彼に忠告したりする。
そして那覇を離れるとき、「自然と、いくら独特でも動物的な生活だけでは人間は満足できない」という感想をもらすのである。

ドストエフスキーが書いたものには、宗教への懐疑心と自問自答と内部の人間と他者への接近と乖離に引き裂かれた人間があるが、ゴンチャロフの「オブローモフ」には他者との関係を回避した臆病な煮え切らない、しかし無為無欲なおっとりした人間がいる。ドストエフスキーはロマン主義者にたいして「破滅するのがお似合いだよ」とけなしたが、絶望しても光を求める精神だけはうしなっていなかった。それにくらべたら、いわば富裕層のおぼっちゃまあがりのゴンチャロフは社会のシステムにどこか鈍感な人間のように思える。このプチャーチン提督の日本渡航の秘書役として志願したのも、スランプ生活の気晴らしのような軽いノリで決めている。どこでもいい、なんでもいい、計画性のない、旅の生活を楽しもうといい具合だったろうか。関わりを避け、ものごとを面倒くさいというのは、もはや女性の心理をつかめない。おかげで生涯独身だったのは自ら選択した生き方だったかもしれない。
オブローモフ的人間は現代にも存在する。

「君は、このお伽噺めいた風景や森の中に隠れている茅屋や美しい小川を一笑に付すであろう。すべてこうしたものは苔生す木々が生え、透き通った水が流れ、判で捺したような人間が登場する風景画に似ているように思われる。しかし原物を見たら、現実に似たようなものを何かつくろうとする絵画の無力をもっぱら笑うであろう。」(〃)
                                 


伝説の詩人 清田政信

2014-05-05 | エッセイ

 読まれる清田政信と書かれる清田政信                  松原 敏夫 

時代は速い。今日であった言葉が明日は色あせてみえることがしばしばだ。過剰と速度。これにいまの我々はさらされている。人間が作り出した社会のシステムが増殖している。その社会とは資本主義という生き物だ。消費資本主義は中毒化し財政再建という脅しのスローガンが踊り冨の分配を分極化し、一億総中流幻想は崩壊した。さらにグローバル化=競争・戦争というイメージを生産し、地上に存在する人間は世界系流動社会の影響にさらされ、人間が作り出した怪物に人間は脅やかされている構図になっている。そして、思惟を語るものは全体を語る言語を価値論的に優先させ、個を語る言語を無力化しようとしている。その傾向は保守もリベラルも同様にあるようにみえる。

戦闘的に過激に個を謳い語った清田政信が文学の前線から姿を消してからもう30年にもなる。そして彼が書いて残したものはいま若い読み手によって再評価が起こっている。僕にとって清田政信は個の存在を基力として組織と対峙した「反権力・反暴力」の詩的言説者であった。無自覚な言語は常に権力化や暴力を正当化する全体化の危険性に充ちている。彼がある党から離脱して文学で自らの表現を展開したのは、個を問うトポスから政治が権力化し暴力化することを察知していたからだし、組織(全体)のなかに自閉していく<表現>の虚偽をみていたからにほかならない。彼が残した詩集や評論集で展開している言語を<現在>から読み解いていくことによって、閉塞を切り開く言語を発見する可能性があるかもしれない、と若い言説者たちは思っている。しかし、まだなお彼の言語の深層にまだ追いついていないという気がする。触手をのばしたくなるような<現在を語る文章>に出会えるのが少ない。

先日さるところで清田政信ネットワークという会合があり、そこに呼ばれて参加した。近代史をやっている金城正樹君が先頃共著で出した『植民者へ』という書物のなかで清田政信を素材に書いた論考があり、それを基にして清田政信を語ろうという企画であった。参加者は清田政信と同時代のものから彼から影響を受けたと自認するもの、彼から学びつつ表現を思考するもの、誰よりもよく付き合ったであろうというもの、彼の言葉が壊れていったことと狂気を問い直すという学者、清田政信のアーカイブスを集めているもの……清田政信という共通の言語ステージで語り合うことを期待したが、清田政信を<ほんとうに読んでいるもの>はいないなという感想を持った。たしかに清田の言語は状況と緊密に対峙しながら出てきた難解な言語だ。詩や文章が緊張を手放さず、彼自身が心身もろとも、きついところまでいってでてきた言葉に圧倒される。自己表出と指示表出の対立や乖離が深く沈潜して、このひとは一体どこまでいったのかという恐ろしささえ感じさせる。ほんとに難解な詩人ではある。しかし個の語りと全体の語りを対峙した言語は現在でも読み解くことで新しい言語を生み出す源泉にみちている。詩とはなにか。そういう切り口ができる。言葉が権力化することに抗して読み解いていくことが求められているのではないか。
とうぜん清田の言語がでた時代と今の時代はちがう。そこはきちんとおさえておく必要がある。これらの若い言説者たちに感じるのは、歴史の後追いのような、たとえば、遅れてきた全共闘のような情緒心性で前世代を追っている気がするのは僕だけだろうか。

                                                                                        (「詩誌アブ第4号」2008年9月)

 

 

 


沖縄県立図書館「山之口貘文庫開設展」と詩の朗読会に寄せて   松原敏夫

2010-11-22 | エッセイ

沖縄県立図書館が創立100周年記念企画として、貘の原稿、作品初出雑誌、年譜、アルバム、遺品などを展示する「山之口貘文庫開設展」を開催する。ひとつの詩を書くのに、百枚、二百枚もの原稿用紙を使ったという貘の詩的生活の〈よすが〉をみることができる。まえに生原稿をみたとき実に丁寧で端正な字であったことに感心した。早書きではない、ゆっくりと噛みしめるような書き方なのだ。おそらく貘は紙に詩を書きつけるという〈瞬間〉に自分を賭けていた。ダダイスト詩人高橋新吉に自慢した、あのダンヒルのブライヤー・パイプも展示されるだろうか。興味はつきない。

「詩人としてはまるで/貧乏ものとか借金ものとか/質屋ものとかの専門みたいな/詩人なのだ」(年越の詩)

日本の詩人でもっともポピュラリティのある詩人はだれか、ということになると僕はまず山之口貘をあげる。ほとんどが詩の発生するところ、その作風が誰にもあるような生活にあるからだ。では生活詩か、というとそれは一面的だ。貘の詩を「読者の年齢に応じて新しく発見しなおすことの出来る想いの深さ」と書いたのは山本太郎だ。よく的を得ている言い方だ。うかつにも僕は、「座布団」という詩が32歳の時のものであることに最近気づいた。観念と心が一致し、存在の知へむかう世界なのだ。もっと歳取った頃に書いたものとばかり思っていた。意識が上に重層化して深まって知となっていく言葉はまるで宗教的でもある。どうにもならない生活に「自殺をしたつもりで生きる」と「自伝」に書いていた。自殺という極限までいったものに残されたものはニヒリズムか自然の生かもしれない。その境涯に未来や幻想や社会的地位や物質の幸福がなんであろう。僕らは山之口貘の詩を読むとき、等身大の詩のなかに、自然性と宇宙という精神を差し込んで生きるしかない、赤裸な人間の生き方をみるはずだ。貧乏と詩。この即時的な見方だけではもはや貘は読めない。読み方によって多様な深さと広がりを持っているのが貘の詩だ。色んなことを想いながら展示を味わいたい。

展示期間中、詩の朗読会(11月6日、14日)も行われる。山之口貘賞受賞者(貘の詩と自作朗読)と沖縄国際大学、琉球大学の学生達による朗読だ。学生は貘の詩を趣向と時間をかけてリレー朗読するという。こういう若い人達をまきこんだ朗読会はいままでなかったことだ。ある意味ではこれからの沖縄の詩の活動を活発にするエポックになるかもしれない。楽しみだ。(詩誌『アブ』主宰)

                   

「山之口貘文庫開設展」は11月3日から14日まで、県立図書館3階視聴覚室で。朗読会は11月6日(土)14 時~16時。山之口貘賞受賞者(佐々木薫、高良勉、松原敏夫)・沖縄国際大学文芸部。/11月14日(日)14時~16時。山之口貘賞受賞者(大城貞俊、中里友豪、仲村渠芳江)・琉球大学国語科教育専修。いずれも県立図書館3階エントランスで。

(琉球新報2010年11月2日)