沖縄の詩・年末回顧(2015年)
一篇の詩が何を素材にしようとかまわないが、 その素材の描き方に私は注目する。表現の面白さと同時に本質的なものに触れているようなポエジーを求める。担当した今年2月の沖縄タイムス「詩時評」でも「誰も経験しなかった詩的表現を生み出す格闘こそ詩人の闘い」「詩が面白いのは未知の創造的な新しい世界をつかんだ言葉の発見に成功したときだ。」と詩作への希望を述べたが、場所性と自己性と現在性への想像力が入るとなおいい。
今年も詩集発行は活発だった。印象に残ったものでは、まず波平幸有『小の情景』である。小(ぐゎあ)は沖縄独特の親和的表現。「ひと、ものすべてがぐゎあの中で成り立っている町」(町小)。「今日は思いきり泣くために来ましたと 若い娘は張り切っていた」(涙小)。ノスタルジアへの生のほろ苦さ、ウイットが絶妙だ。山之口貘賞に選ばれたのは納得する。この詩集は連作形式にみえる。連作は下地ヒロユキの「アンドロギュヌスの塔」シリーズ(宮古島文学)もある。作品のテーマに連続性を持たして素材を引き出し表出する書き方が詩的探求を面白くさせている。
網谷厚子『魂魄風』。事物、風景に分け入ってそこにみえる空間の綾を散文でとらえる。宮城信大朗『恋人』。性愛、感覚、イロニーの繊細なささやきを表出。高橋渉二『死海』。聖地訪問の光景を信仰の内的情景で語る。矢口哲男・石田尚志『李村(スモモムラ)』。意味を排した自在なイマージュ、言葉が拓くものと掴みかたがある。
ほかに飽浦敏『トゥバラーマを歌う』。白井明大『生きようと生きるほうへ』。浦崎敏子『フィンドホーンの雨』。千葉達人『全存在の組成祭詩集』。『びぶりお文学賞受賞作品集』は県内の大学生を対象にした詩・小説文学賞の作品集。
昨年逝去した詩人の本がでている。東風平恵典遺稿・追悼集『カザンミ』と石川為丸遺稿詩集『島惑い 私の』。読みながら改めて惜念を感じた。
高良勉の論集『言振り』。高良の広範な知識には感服する。日本語詩と琉球語詩という発想、展開がある。「相互批評が不在の場合は〈評価〉の権威化につながる危険性も指摘しておかなければならない」(沖縄戦後詩史論)。こういう言説は楽しい。
詩誌での作品発表も旺盛だった。辺野古を意識した作品が多く目についた。最近、ある人から、あなたの代表作は何ですか?と聞かれて困った。書き散らすばかりで、そんなふうに考えたことはなかったからだ。みんな代表作ですとかわしたが、詩作はいつでも代表作を書くように心してかかるべきかもしれない。
『あすら』は10年目で40号の大台。『脈』同様に勢いのある詩誌だ。年4回発行はすごい。サイクルは早いか適当か。ページ数も多い。これだけの詩誌であれば、特集を組んだ出し方もあるのではないか。新しい個人誌がでた。八重山在住の砂川哲雄の『とぅもーる』。『宮古島文学』とあわせて先島での文学活動が楽しみだ。
『あすら』39~42。『アブ』16~17。『EKE』47~48。『KANA』22。『非世界』29~30。『宮古島文学』11。『脈』83~86。『万河』13~14。『縄』29。『うらそえ文藝』20が詩アンソロジーを特集。『だるまおこぜ』11。『小文芸誌 霓』5。『とぅもーる』1~2。若い世代が結集する『1999』が今年も出ないのはさみしい。
詩論で目立ったのは新城兵一の「沖縄―現代詩の現在地点 その詩的言語に対する熾烈な自意識」(宮古島文学11)である。昨年出した松原や市原千佳子の詩集を丁寧に分析しながら評価と批判をしている。詩意識から繰り出した鋭い批評には迫力を感じる。方言詩を沖縄回帰として批判している。私が島言葉を使うのは芸術言語=詩語として生成する詩想からきている。このことについては別の機会で触れたい。
アンケートに「沖縄の詩人は各々、自らの詩論、詩法を持たなければならない。」(あすら40)と応えた八重洋一郎の文章や本土出身と地元沖縄の詩人の距離をあげ「本土生まれの詩人に、たとえ失敗しても、沖縄を描く可能性があるのか」と問う、中村不二夫「沖縄と不可能性の詩学」(うらそえ文藝)が印象に残った。
日本現代詩人会の西日本ゼミナールが来年2月に那覇で予定され、地元会員を中心に実行に向けて活動している。成功を祈るとともに沖縄からの詩的メッセージを強く発信することを願う。
(詩誌『アブ』主宰)