超現実的手法で書いた散文詩がある。「とくとさんちまて」「おっとせいの歌」「足の歌」「沼の思い出」。感覚的にも方法的にも超現実のひとであろう。視覚にはいるものから視えないものへ転開する方法がこの作者の特徴だ。そこから像を発見していく。外部は透過され像を生み出す媒介となり、その先に発見するものが出てくる。絵画は描くものだが、詩は語るものだ。語ることで外部と内部を照らしだし、言葉が意味と像をつくる。題名がなんだろうと思わせた。人の名前かと思ったが、どうやらそれは得度山寺のよみである。だがどこにもない寺だ。かれがみつけた寺だ。
「あるひとつのまなざしでありたいと願う。地霊、亡霊、気配、また稲妻や星々、風や粒子……それらとの無言の会話。それらとの繋がりなくして僕の生に1ミリの深さも奥行も生まれない。」(あとがき)
とすれば、それは詩の言葉をえらぶしかない。詩は内面から選ばれた言語宇宙となる。無言、沈黙=詩の言葉。さらにこの視えるものと視えざるものとの交感は、神秘的な、超越したものの経験であり、日常的な自己からの脱却である。まなざしは何をみているのか。やはり超えたもの、包み込んでいるもの、視えないものへの往還からでてくるものだ。像の出し方や存在だ。他のものではない、実に詩でしかない。伝えるために書かれることよりも内面にうごめく精神の、つねに本質への行動が、夢想の、自己をあらしめるもの、自然や自他に存在する者のいのち、その形の奥を感じ取ろうとする。
ギリシャ神話から取り出した固有の神、かれの知的認識が、目の前に像を結んで登場する。島的臭さがなく、風土の匂いがなく、個の自由な世界を中心にしている、といえよう。個の眼は地域をこえて世界化しているのだ。これが特徴のひとつ。宮古島とギリシャ神話(西洋)……。
「大宇宙という無限の折り紙。その折り紙をそっと拡げ同次元に並べて見る。そんな不可能を可能とするまなざしそのものになりたい。ただその可能性のために詩を書く。それを可能にするのは心であり、それを不可能にするのも心だ。だから僕は、もはや心を超えた純粋なまなざしそのものでありたいと願う。」(〃)
詩で果たそうとしていることは、実に根源的で遠大なものだと思う。日常も変容する、変形する。現実はずらされる。自然も海も超越される。そこが彼にとっての詩だ。生と存在のかけひきだ。詩は存在と結びついて、存在を把握しようと努める。生も存在も超越される。そこで視た不可視のものを発見する。彼の独自な世界、かれと結びつき、<私>を超えてあるもの、宇宙に佇む、そこが至福と純粋な世界となる。
ヒロユキは<島>という矮小さを超える。だから彼を<宮古島の詩人>と限定的に呼ぶことは正当ではない。
島とはなにか。既存のイメージが寄生する島をイメージの新しさに変成しなおすことが、島の詩人の使命だ。これらの作品が宮古島から生まれたと考えるのは誤解だ。まず風土に加担しない。それが、この詩集の価値だ。超自然の光景。そこに感受した世界は神話的感覚だ。
「常にはるかに言葉の先を行く/風と陽と海と その深さに/私は<私>の思考を造形させたい」(無限の歌)
単なる島の風景、自然を歌うのでない。ヒロユキは眼に視えぬものへ依拠する。散文詩は夢のような記述である。超現実主義的な手法である。であれば、みえぬものの不可思議な、とらえがたきもの、夢魔のごとく、起こることに、眼をむける。
ロートレアモン→アンリ・ミショー→クレジオ、折口、悪魔祓い、シャーマニア
島に住む詩人たち。島の、ありきたりの風土、歴史、文化、現実を語るだけですますことが、詩人の役割ではない。詩の意味が、価値が、深さが、造形が、想像が、イメージが、闇が、表現されたものとしてとりだされなければならないのだ。光は多くのものを照らし出すが闇は多くのものをはき出すのだ。もっと広がりと深淵と多彩があるはずだ。発見がまだまだ足りない。新鮮さとは、既成を否定することでもあるのだ。固定と偏見はいけない。詩は常に日常、場所、現実、人間を超えようとする動的な芸術にあるのだ。
島は国家、資本、権力に略奪され占有化され、そのイメージに組み込まれている。自由な空間。狭隘。囲繞の現実。共同幻想の沸点状態。イメージを奪還すること。神話的世界=庭の話、おっとせい、0.1秒のマリア、足の歌。超自然的存在への憧憬。異界、原始的感覚、未知、見つける者。時空間の遠方と遠大なイメージと結びつけている。その気の遠さに……根源的な遠方の、虚構の創出、幻覚的、神話的な夢想、神話的感覚、宇宙的なもの、遠方のものとの間で築き上げられた言葉たち、修辞と比喩が引き裂いていればもっと広がってくる詩句の問題、言葉と詩的言語の衝突。手垢のついた民俗祭祀はいらない。琉球孤、南島宮古島の闇の彼方。霊、異界、他界、内部の神、自身の神話、それという夢魔。心性は古代と結びつく、共通の、記憶。不用意なあるいは過剰な現代意識。その現代、都市意識に拠りすぎるが故にあまりいい作品をださない例を我々は知っている。逆はもっといけない。霊感と想像力と風土の身体精神=琉球孤の島々の詩の闇。常に何かを発見しようとするまなざし、呪われているタマス。(続)
詩誌アブ第11号(2011年11月)
書評 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-184268-storytopic-6.html