貴方は「悪と知っていながら悪を繰り返す人」を何度でも許せるか!?
最近は発信する気力も減退で、時々気力を奮い立たせるのですが、仏教の過去を見る強さに、私は聖書で言うロトの妻になりたくないのに、世を支配する過去を見る宗教者達の力の強さに、私の過去に引きづりこまれて、ちっとも前に進むことが出来ず、そんなこんなのストレスで体力も精神的にも使い果たして、混迷しています。
・若い人はその若さで過去の感情的体験も少ないから、若さで夢に突っ走れる特典がありますが、私の様な高齢者の場合は今の物価の高騰やら生活にタジタジで血液の巡りも滞っているのでしょう、その上の未来志向はおぼつきません。
・イエス・キリストが人々の罪の身代わりに犠牲になられた、そんな話は今の若者たちは知っているのでしょうか?。私は人々の身代わりになる事は嫌だから断りますが、若者達はどの程度犠牲という言葉を理解しているのでしょうね。
・先日私が書いた許せない!という話しと少し重なりますが、聖書では何度でも許しなさい・・と書かれています。キリストのように!!キリストが囚われたのは罪の故ではなく、人々の世論に負けた裁判人たちの暴挙でした。罪を犯した暴挙に加担した人、本人が罪を償うべきだと考えているのですが、イエスはイエスを杭に掛けた人々をも冤罪をイエスに着せた人々をも許しなさいと言っているのです。私は其の暴挙を自分で償いなさい!と若者たち・イイエ・人々に言いたい!。自分の罪は自分で償うべきです。それなのに自分を殺した世論に加担した人々を許すというのです。私は許さない。知っていて行った罪だから許さない。
・罪は許すと罪を犯した人は「許されたから罪はない」とでも勘違いしてしまうのか、ずるい人は其の罪を承知で何度でも罪を繰り返すのです。この厚顔無恥が無くならない限り私はキリストのように何回でも罪を許せとは思いません。
・日本には「仏の顔も三度迄」という諺があります。三度以上の悪事は仏も許さないことを言っていると思いますが、キリストはそれを超えて何度でも許しなさいと言います。貴方にはそれが出来ますか?
・本当に悪かったと神に懺悔しても私にはそのざんげは届きません。私も魂だけの人間ではないから、日本風に懺悔を「形で表さない人」は決して許しません。
・だから聖書を学ぶと言っても難しいですね。頭では理解していても行動に表さないと「口先の戯言」とか「口約束」では本当の和解ではないことに成るのですから、聖書でもよく行動を伴わない信仰の事が書かれていますが、口が上手いだけでは信頼されないと思います。日本の仏教も宗教全体もこの点疑問に思っています。口先・頭では理解して上手く言い繕うとして行動を伴わない「言行不一致」の自分にはなりたく無い。今後の学びです。
・本当は私は頭だけの人・行動が伴わない人は大嫌いなのです。口先ばかりの人・・「その口から出した言葉を勝手に、言った本人が、いつ反故にされるか解らない、下手に信用できません」。日本では「憎まれっ子、世にはばかる」ですか?。憎まれるような悪ガキが、世を堂々と生きていく・・悪さをしてもずる賢く生きている人の姿を言うのでしょう。人の演技は誠実な言葉かウソの誤魔化しの言葉か見分けは難しいですからね。最近「△△は言葉と共に生きていく」と言うキャッチフレーズTVでよく見聞きしますが、言葉ばかりで実行が伴わないことは困りますね!?何を私は信じればいいのでしょうね?。
・余談ですが聖書の信仰では個性は認めない!!ように私には思えるのですが、個性無視は、それは私は困ります。一生をかけて研究してきた私独自の目線の生活科学の目で見た「日本の超古代史」は他の学説と異なって、各所に私の目線で日本の超古代史を、文化の結果の出土品で検討しているのですから、それを否定したり聖書で言う愛を与えよという言葉通りAさんが欲しがったからAさんに与えよなんて出来ません。私が研究してきた私に与えられた才能だから、私の物です。この研究結果を人に与えては、盗まれては私の努力は水の泡、盗んだ者勝ちでは、私は虫けらと同じに何もしなかった人生という事になってしまう。!!!。嫌ですね例え大好きなキリストに「その古代史の結論をAが欲しがっているからAに与えよ!」と言われたって、私は死守しなければいけないと思います。ここが魂の世界の難しさなのでしょうね。今マインドコントロール(洗脳)が私にひっきりなしに送られてきます。私は許さないし与えない!でも聖書では何度でも許せと説く。キリストを尊敬し信頼し、大好きなんですよ!どう解決されるか??洗脳される私は頭が重く苦しい!!!❣助けて!(変換したら面白いマーク付きました!)宗教はだから嫌いだ!
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