ももちゃんの面白古代史

ももちゃんが生活科学の目で主に日本古代史解明します。新しい情報いっぱい。例えば日本の縄文時代に製鉄が行われていた根拠など

三角縁神獣鏡は100%日本製

2016-08-28 10:46:44 | 三角縁神獣鏡 銅鏡 ...
三角縁神獣鏡は100%日本製よ!
日本古代史の中で三角縁神獣鏡は大きなウエイトを占めているようだが、日本で500面以上出土している。その三角縁神獣鏡は中国から出土がゼロと言える状況(最近1点出土?)、それなのに三角縁神獣鏡は中国製という考古学会の認めた説が常識だが、日本では銅鐸も銅鏡も製造する技術がなかったというのだが、そんな常識が容認されている現状が私には不思議。三角縁神獣鏡は100%日本製とブログ書いたら、検索にもかからない不思議。あなたの常識はすごい何かに支配されてますよ。注意!注意!

三角縁神獣鏡は100%日本製 (生活科学の目で見た日本史)8・22

2016-08-22 23:44:01 | 三角縁神獣鏡 銅鏡 ...
三角縁神獣鏡は100%日本製 (生活科学の目で見た日本史)8・22
三角縁仏獣鏡・奈良県広陵町新山古墳 三雲・井原遺跡出・宇佐市赤塚古墳出土鏡
・生活科学の目で見た銅鏡・日本出土銅鏡は100%日本製
日本の古代史の中で全国的に関心の深い銅鏡、特に三角縁神獣鏡の問題点を今回と次回に分けて、また次回は特に三角縁神獣鏡と邪馬台国卑弥呼に重点を置いて問題点を投げかけたいと思います。
・日本で最も多出している三角縁神獣鏡は現在全国から540面程出土しているという。銅鏡は多くの点で日本古代史に重要な位置を占めているが、今、日本出土銅鏡の古代史の中での扱いは非科学的であり、時代設定や産地(製造地)、そして何故日本で各種の銅鏡が多く出土するのか等に対する大きな問題点など、検討していきたいと思います。
・現在日本で銅鏡の製造地分類が「邦製鏡=日本生産と中国鏡=舶載鏡」の区分が使われているがこの区分について、邦製鏡の定義は日本製で、銅鏡製造技術が幼稚なため日本製の銅鏡は模様がはっきりしない鋳上りの悪い銅鏡を指すという分類。だから鋳上りの悪い模様がはっきりしない銅鏡はほとんどが邦製鏡に区分されている。
・一方で漢式鏡(舶載鏡)は技術が高度だから鋳上りがよく、銅鏡の模様がはっきり出た美しい銅鏡は伝来技術で作ったか伝来品として舶載鏡に分類されている。
・日本出土銅鏡は邦製鏡と中国鏡(舶載鏡)という分類が古くから存在し、現在もその区分が使われているが、生活科学的な目で銅鏡・銅製品について考えると、技術が劣る焚火等の低温で銅を溶解した場合、(初期的な技術で銅鏡を作った場合)銅を低温(900℃前後の低い温度で銅を熔かす)で溶解し低温の熔解銅を粘土や石製の鋳型(銅鏡模様を彫り込んだ鋳型)に流し込み、銅が冷えた後鋳型を割る等して銅鏡を鋳型から取り出すのだが、原料の銅の溶解温度は低いから、鋳型の隅々の細かな模様にまで溶解した銅は鋳型に行き渡るので、美しい模様の銅鏡が出来上がる。要するに「鋳上りのいい美しい銅鏡」が銅の熔解温度が低い故に鋳型を融かすことなく、美しい模様の銅鏡が出来上がる。
・一方で火力温度が高温(銅を熔かす温度が高いので技術は高度になる)で銅を溶解した場合、高温の銅だから石などの鋳型の模様の細部まで、高温の銅が鋳型を熔かして固まるので、出来上がった銅鏡の模様は、はっきりしない出来上がりの悪い銅鏡や銅鐸が出来上がる。純度が高い銅の熔解は1200℃以上等高温を必要とするので鋳型を溶解し模様が汚い鋳上がりの悪い製品が出来上る。
・また自然界の中では純度が高い銅が存在することより、多くが鉄分等と混合し岩などとして純度が低い銅や鉄の鉱石が存在している。古代では自然界の中の鉱石から純度の低い銅を溶解し鋳型に流し込み銅鏡を製造していたと考えられる。この場合(熔解技術が幼稚で初期的な場合)は鋳型を熔かさないから鋳上りのいい美しい模様の銅鏡が出来上がったと考えられる。
・不純物が多く混在し合った自然界の鉱石を溶解する場合の熔解温度は、百科事典によると純度の低い鉱物は熔解温度が低くなると書かれている。百科事典が正しいなら、技術が低い古代の鋳物(銅鏡や銅鐸)の模様は廻りを熔かすことは少なく鋳型によく流れ込み、鋳上りの美しい銅鏡や銅鐸が出来上がる。純度が高い鉱物(鉄や銅)は高温で熔解すると書かれている。ということは銅の熔解も鉄の熔解も各種の鉱物が混合して存在している自然界の中では、低温で銅や鉄等は熔解したと考えられるので、模様が美しく鋳上がいい漢式鏡・舶載鏡が出来上がったことになる。要するに美しい銅鏡の方が時代が古く技術が低い・古い時代に当たるという現実になる。
・一方で純度の高い鉱物の熔解温度は辞典によると1200℃等の高温で溶解する。高温な溶解銅は鋳型の模様の細部を熔かしてしまうので、模様がはっきりしない鋳上がりの悪い製品となる。自然界の中(弥生時代等土師器や赤い土器の古代)には、純度の低い銅は900℃程度の低温で溶解した可能性が高いということ。(須恵器の時代には高温を得る技術が発達していたから銅は高温で溶解し、従って鋳上りの悪い銅鏡が出来た可能性がある。
・また村の「野蹈鞴」を生業とした人々の伝承では、鉄が熔解すれば鉄の溶ける温度で自然と高温になり、銅の熔解は簡単に出来るといわれている。だから野蹈鞴で製鉄や製銅をした弥生時代等は火力温度が低く技術が未熟な900℃程度の低温の焚火等で銅を溶解していたと考えられる。
・ややこしいが、簡単にまとめると火力温度が低い等、銅の熔解技術が低い弥生時代等の銅鏡は銅が鋳型によく回り鋳上りが美しい舶載鏡が出来上がり、逆に熔解温度が向上して高温を得る技術の奈良時代等、後の時代に造った銅鏡は、鋳型を熔かしてしまう高温で鋳上げるので「鋳上りの悪い邦製鏡」が出来上がった事になる。過渡期とか地域や鋳型により技術の違いがあるので一概に時代だけで断定はできないが、今の時代設定や産地推定には邦製鏡とか舶載鏡の区分は当てはまらない。

<三角縁神獣鏡の問題点>
以上の銅鏡製造技術の問題を念頭に入れ、以下三角縁神獣鏡について考察した。
①三角縁神獣鏡は中国の出土は0・「無い」ということ、日本では500面以上の出土がある。
②三角縁神獣鏡等は邦製鏡(日本製と分類され=鋳上りが悪いので模様がはっきりしない)と、漢式鏡は高度な技術で製造しているので、鋳上りがよく模様が美しく出ている、という区分が使用されているが上記したようにこの区分は正確とは言えない。現在使われている日本製(邦製鏡)か中国製(舶載鏡)かの分類は科学的な分類ではないため廃棄されるべきだ。美しい銅鏡や銅鐸は上記したように銅を鋳上げる温度と使われた鋳型の材質で異なり、非科学的な分類が現在の古代史編年基準に使われている。この事実は日本古代史を現実の日本古代史から遠ざけた非科学的分類であり、即刻再検討すべき大きな問題だといえる。
③銅鏡製造技術は中国から伝来したという非科学的な常識がある。だが日本には銅鏡技術以前に銅鐸製造という技術が存在していた。細部まで表現された銅鐸模様や銅鏡模様は、銅を溶解する技術が稚拙のため低温で層を溶解した結果の技術と推定できる。また銅鐸技術者が次の銅鏡文化に敗退したとしても銅鐸製造技術は三角縁神獣鏡等銅鏡製造者に伝わり、銅鐸製造技術で三角縁神獣鏡等新しいシンボルを作ったと考えられる。銅鐸製造技術は三角縁神獣鏡製造に生かされていたと考えられる。故に現実に中国の青銅技術が伝来したのではなく日本の銅鐸技術で次代の銅鏡は作られた。
④三角縁神獣鏡等銅鏡に漢字文が模様の一部の中に鋳込まれ書かれている。漢字は魏志倭人伝頃の時代に日本に伝来したと考えられている。だから三角縁神獣鏡等・銘文の書かれた銅鏡は、中国から漢字が伝来したから漢字を使った銅鏡は中国で製造したという編年基準・漢字のルーツに対する常識がある。しかしこの問題も科学的検討がされていない常識の一つ。動画「三角縁神獣鏡は100%日本製」で紹介したが、漢字のルーツは日本だと考えられる事実が幾つかある。

<漢字のルーツは日本にあり、故に日本の銅鏡は日本にルーツがある>
・三角縁神獣鏡の大まかな出土統計では初期的な時代の三角縁神獣鏡は静岡磐田市にあり、初期的な三角縁神獣鏡は漢文の銘(陳氏作鏡や天王日月等)が入っている。漢字が三角縁神獣鏡に書かれているから(漢字のルーツは漢の国・中国にある)漢字の明がある銅鏡は中国からの舶載鏡だといわれている。だが「生活科学の目で見て事実だろうか」と、筆者は出土品等から考察した。
・漢字の銘入りということについて、漢字の伝来は奈良時代頃でそのため漢字の書かれた銅鏡等は舶載(伝来)したもので、日本の技術で製造された銅鏡は邦製鏡として分類されている。しかし漢字は当初は墨書土器・炭を記号として使ったことから始まっている事が出土品(墨書土器や人面土器など)から推定できる。楔文字とか形象文字とかいろいろ文字のルーツが言われているが、日本の漢字の場合は「炭」による記録(いたずら書き?)から始まっていると考える。焚火の残り炭の活用(悪戯書き=記号)から文字そして木炭・黒色土器・墨・墨書土器への発明、発展であって、中国や韓国や西洋などから伝来した技術ではないという「漢字誕生」の大きな疑問がある。
・漢字文字の初めは日本の墨書土器の出土から大まかに掴める。炭の活用は土師器に炭を塗り水漏れを防止した黒色土器が作られ・使用され、間もなく高温で土器を焼く須恵器技術の発明当初まで墨書土器は製造されていた。その後須恵器の多量製造の窯の開発頃から土師器の赤い土器や墨書土器も黒色土器等「炭=墨」を使った土器は姿を消した。
・問題は「現在の土器編年基準」では黒色土器は中世の12世紀頃に分類される場合があり、非科学的この上ない由々しい問題だと声を大にして言いたい。何故なら須恵器が発明されることで、土師器系の土器の水浸み出し問題は全くなくなるので、酸化焼成土器は須恵器技術発明時点で用途はなくなる。その上須恵器焼成はカマド・窯の開発で一度に大量生産できるようになったので、土師器の黒色土器を作るのは手間がかかる。非効率的な黒色土器や土師器系土器を焼くメリットは皆無(美術品を除けば)だ。須恵器や釉薬を使用焼成していた紀元後12世紀頃の中世に、土師器分類の黒色土器や土師器等「野焼き的、酸化焼成の土器」を焼成したはずがない。土器編年基準の時代分類の大間違いという結論になる。
・一方で木炭の炭について考えると、悪戯書き的に木炭で書いた人面土器や漢字を書いた墨書土器、そして墨で土器を真っ黒に彩色した黒色土器(黒色土器は墨を土器に塗り込み土器の侵水性質を防止する働き利用)を作り、文化の中で利用された故に、黒色土器が流行・多用された地域と時代があった。続縄文文化の北海道や東北地域などでも黒色土器は多く長期間作られ出土している。
・「木炭」は日本土器の文化の最初から、木炭使用による野焼きの木材=火の材料として日本では土器を焼いた紀元前13000年以上以前から多用されている。その薪の火の燃えかすが、炭であり、悪戯書きに最適であり、当然「炭」が日本文化の中で研究され利用されてきたことは考えられる。一方で縄文時代も砂漠の多い中国で・また石炭が多く産出する中国で、日本程に木材による土器の焼成が盛んであったか不明だ。日本では少なくも世界一縄文土器の出土量の多い縄文中期の中部山岳地帯の長野県諏訪一帯では木材による土器焼成が行われていたことは明らかな事実だろう。
・そして少なくも弥生時代の土師器等に炭で土器に書いた人面土器などが、名古屋や奈良などで多く出土している。漢字は同様に土器に炭で書いていることから人面土器と前後する時代の文化といえる。黒色土器は赤い土器の時代に赤い土器と共伴出土しているから、弥生時代中頃という時代は考えられる。ただし赤い土器の時代設定も縄文中期には縄文土器に赤彩されていることから編年基準の時代を考え直す必要が大だ。少なくも縄文中期後半には漢字文字の時代を考えられるのでは?
・一方で三角縁神獣鏡の初期時代に銅鏡そのものに「シンボル的に漢字銘文」が書かれている。三角縁神獣鏡勢力者が敵対者に対し「我々には漢字を使っている高度な文化がある」というPRを銅鏡に込めていたとも考えられる。
・漢字のルーツは日本松本盆地・・私は漢字は日本中部の松本・塩尻辺りにルーツがあると推定した。その理由は日本出土黒色土器の時代に漢字は墨書土器として土師器などの土器に書かれ始めている。初期は一文字で次第に熟語的に漢字が使われている。漢字は当所から黒色土器と同等の炭から墨に変化している。漢字のルーツはヘラ書きや刻印文字ではないということ。炭で書いた文字ということ。炭は墨書土器と同じ材料(焚火の残骸の消え残りの炭)で書かれている。炭=墨のルーツの焚火の炭は土師器時代や縄文時代に日本文化の中で大きな役割があった。一方漢字の発展経過は中国では見つかっていないと考えます。
・漢字が三角縁神獣鏡の初期頃から中期頃の銅鏡に書き込まれ鋳出されていることから、銅鏡の出現ころすでに漢字文化が存在していたと推定できる。
・墨書土器の出現は松本地域では赤い土器が一般化され始めた時代で、赤い土器は長野地域では弥生後期に時代設定されているが、縄文中期には赤い色は縄文土器模様に一般化して使われていた事実(出土品)が存在するから、縄文中期後半には長野地域で赤い土器文化が始まっていたと考えられる。以上長野の赤い土器文化は縄文中期後半には松本に既に伝播していると考えられること。黒色土器は赤い土器より少し遅い時期に松本では出土しているので、縄文中期後半から後期前半の紀元前2000年頃には黒色土器の出現や墨書土器の漢字文化が考案され始めていたと推定できる。
・この時期の紀元前2000年頃を漢字のルーツと考えた場合、三角縁神獣鏡の初期に漢字銘文入り銅鏡は紀元前1000年頃辺りに当てはまると推定できる。
・銅鏡のルーツだがこの黒色土器の松本地域で、まだ鉄鐸時代(銅鐸の前の時代)に八稜鏡の出土が松本西部地域の鉄鐸ルーツ地に近い地域で出土している。銅鏡の八稜鏡の形は他に珍しい形状で、八稜鏡はその後中部から北信東信の山岳地域で出土分布がある。そして松本北東部にはアマノ岩戸伝承が残り、アマノ鈿女の尊が鏡を腰に飾って踊った・また田力男の尊が岩戸を開いた時、鏡で太陽光を世界に反射した等の地域伝承が残り、この時岩戸が北信の戸隠に飛んで行った伝承と共に信仰の上で銅鏡の必然性が出土品と相まって実証される感がある。松本地域に銅鏡の一つのルーツ地があるといえそうだ。銅鏡の発展は北信で鈴鏡の出現≪鳴らす信仰=鉄鐸を鳴らす信仰)から「光」の活用の信仰に移っていることで、その後の銅鏡文化の発展に繋がっているようだ。光活用の信仰は信仰対象を見せる対象になっているので、銅鐸信仰でも見せる銅鐸(銅鐸の巨大化時代)に文化が移行している。
・以上検討したように漢字は日本にルーツがあると考えられる。

<三角縁神獣鏡勢力の>の真実
・統計で見た三角縁神獣鏡の実情・・簡略的に統計結果を記載し三角縁神獣鏡勢力が現実に日本国内で、ある一定時代(土師器時代=赤い土器・黒色土器・緑釉陶器・土師器等の時代等)に文化上で強く影響を与えていたことが実証できる。
・以下は三角縁神獣鏡共伴出土品・分布(銅鏡の出土数でなく三角縁神獣鏡が出土した古墳数の統計だ。例・20面の銅鏡が出土しても一古墳として集計した)日本古墳大辞典より統計
<前方後円墳>からの出土・静岡9・福岡5・奈良3・兵庫5・岐阜4・京都8・大阪8・他
<前方後方墳>同上 ・奈良2          <方墳>島根5・大阪2
<円墳> 同上 ・奈良4・滋賀3・群馬3・兵庫4・山口3・福岡3 (数値は古墳数)
(この数値は三角神獣鏡出土古墳数で鏡の出土数ではない。三角縁神獣鏡出土2基以上の県別)
・三角縁神獣鏡が出土する前方後円墳の分布を見ると静岡9(内磐田市6)・大阪8・福岡5・兵庫5・京都府8・他で、方墳で島根5・円墳で奈良4他。以上は4基以上出土で、古墳形としては前方後円墳は静岡・京都・大阪での出土が多い。共伴出土品は鉄刀・鉄剣・筒形銅器・石釧・銅ゾク・鉄斧等が出土し筒形銅器や石釧など古い時代の共伴出土品が目立つ。
・三角縁神獣鏡が集中出土している静岡市と兵庫両県を比較すると兵庫県の場合は他の模様の鏡との共伴が多いが、静岡特に磐田市では三角縁神獣鏡が集中出土し、静岡磐田市の三角縁神獣鏡出土前方後円墳は他鏡との共伴出土が少ないことから、磐田市の文化・政権が三角縁神獣鏡を政権のシンボルとした初期的な状況が推定でき、純粋性があることで三角縁神獣鏡政権のルーツといえる。
<三角縁神獣鏡との共伴出土品(前方後円墳のみの統計)>
・三角縁神獣鏡共伴出土品(表1)
  古墳数 鉄剣 鉄刀 他鏡 銅ゾク 銘鏡 鉄斧 甲冑 埴輪 車輪石 土師器
静岡・埴輪 1 1 1 0 1 0 1 1 1 0 0
〃・ナシ 8 2 3 2 0 5 1 0 0 1 1
兵庫・ナシ 5 3 2 3 2 1 1 0 0 1 2
京都・埴輪 6 5 4 3 3 0 4 3 6 2 1
〃・ナシ 2 1 2 0 1 0 1 1 0 1 土師器 1
大阪・埴輪 4 1 4 3 1 3 4 1 4 3 2
〃・ナシ 3 1 3 2 0 1 2 0 0 1 0
福岡ナシ 6 5 3 1 0 0 0 0 0 0 0
・京都・大阪では三角縁神獣鏡と埴輪が共伴出土するのに静岡・兵庫・群馬・福岡では埴輪の共伴出土が殆どない。このことは埴輪や馬具の出現以前に静岡・磐田市に三角縁神獣鏡勢力が存在していた。その三角縁神獣鏡勢力の初期の段階の埴輪がない時代に兵庫・群馬・福岡等に遠征隊を送り出したと推定。その後の時代に埴輪文化が出現し、埴輪が近畿に伝来した頃には京都・大阪等に発展していた三角縁神獣鏡勢力は、その地で勢力を強め埴輪文化も取り入れたと考えられる。ただし埴輪文化が東日本から京都に伝来した頃は、三角縁神獣鏡勢力の中心(都)があった磐田市では三角縁神獣鏡勢力は衰退していたが、衰退以前に京都等に勢力の中心を移していたと推定できる。
・静岡で三角縁神獣鏡に漢文が記入された銘鏡が多く出土する。連福寺古墳(磐田市)で張氏作鏡や上平川大塚古墳(小笠町)で天王日月銘鏡や吾作銘鏡、午王道山古墳(清水市)から君宣高官銘鏡など等多い。銘入り三角縁神獣鏡と共伴出土品は埴輪も馬具も須恵器もないことから、馬具や埴輪文化が東日本から静岡等西日本に伝来する以前に、漢字文字文化が存在していたことになる。
・磐田市に生まれた三角縁神獣鏡勢力は発展し、埴輪文化が伝来した頃に馬具伝来勢力等の連合軍により本家の磐田市では敗退し、衰退したと言えそうだが各地に広がった三角縁神獣鏡勢力の分身は、その地で発展や衰退等様々な様相を見せ、日本古代史の中で重要な位置を示している。
・三角縁神獣鏡が出土する他県の三角縁神獣鏡出土勢力の動静を追うと、京都の三角縁神獣鏡出土古墳は12基(前方後円墳8基・円墳2基他)と多く、埴輪が7古墳から共伴出土し、他の模様鏡も共伴出土している。京都の三角縁神獣鏡出土前方後円墳8基のうち6基は埴輪と共伴出土し出土率は高い。そのことから兵庫県より後の時代に京都で三角縁神獣鏡勢力は発展したといえる。また奈良の三角縁神獣鏡出土古墳は少なく別の銅鏡が多く出土していることから、奈良の都(や近辺)に三角縁神獣鏡勢力とは別の、三角縁勢力が入り込めないほど強力な勢力が存在していたと推定される。奈良の都を中心に畿内に君臨?存在していた銅鏡文化勢力はどんな勢力だったのか。
・京都の三角縁神獣鏡前方後円墳の分布は向日市2・山城町2・八幡市の各2基・他円墳2・前方後方墳1基から出土。古墳形は前方後円墳に集中しているが地域的には集中度が低い。京都府に大きな前方後円墳勢力が存在していて一帯を治めていたということではなく、三角縁神獣鏡勢力の遠征軍的立場だったような分布をしている。奈良での三角縁神獣鏡出土が少ないことから奈良に巨大な政権が存在し三角縁神獣鏡勢力の侵入を阻止していた、そのため三角縁神獣鏡勢力は他の勢力と同盟関係など結んで京都の地から奈良の勢力に対抗していたと推定できる。
・奈良の銅鏡出土統計では52古墳でその中、三角縁神獣鏡出土は7基(内・前方後円墳3基・円墳2基)、一方内向花文鏡は14基から出土し、方格規矩鏡7基(三角縁神獣鏡との共伴出土は4基)の出土があり、奈良は内向花文鏡勢力の中心地と考えられる。シンボルとしての銅鏡の出土状況から見ると強い内向花文鏡勢力が奈良を中心に畿内を支配し、三角縁神獣鏡勢力は奈良の内向花文鏡勢力を包囲した形が推定できる。
・京都山城町の椿井大塚山古墳(前方後円墳・190m)は三角縁神獣鏡32面・方格規矩鏡・他鏡・刀剣・農耕具・甲冑等出土し日本各地の古墳と多くの同范鏡を持つ古墳として有名で、椿井大塚山古墳に葬られた首長は方格規矩鏡勢力と同盟を組み互いのシンボルの銅鏡を交換し、奈良の内向花文鏡勢力に対抗していたことが推定できる。
・だが椿井大塚山古墳からは埴輪・馬具・貴金属・須恵器の出土がない。出土品は銅鏡文化の全盛期を推定させる。椿井大塚山古墳は馬具も貴金属も須恵器もない古い時代の三角縁神獣鏡勢力の中心的首長だったと推定できる。
・福岡では埴輪と共伴出土する三角縁神獣鏡副葬古墳は出土していない(統計は日本古墳大辞典によるからその後の出土については未調査)。だから福岡に渡った静岡磐田市の三角縁神獣鏡勢力はその地、福岡では衰退消滅したと推定、他の勢力と合併等したのだろう。
・沖ノ島遺跡は日中の中間地で嵐の時など多く利用したようで、多くの遺跡と出土品が確認されている。沖ノ島遺跡は500年間の利用が確認されたというが、嵐の時の日中航海途上の船の避難島だったと考えられているが、中国からの出土品というより日本から中国に渡ろうとした日本からの輸出品の出土が殆どだと考えられ、三角縁神獣鏡の出土も、三角縁神獣鏡文化勢力が中国に向かったが嵐で渡ることがでず、渡中国を諦めた三角縁神獣鏡勢力者たちが残した遺跡だと推定できる。
・以上の統計数値から三角縁神獣鏡文化と勢力の本当の姿の一部が推定できます。本当の日本の文化の姿の一部であっても、重大な漢字銘文とか、技術の発展の原料の銅の熔解温度が高温になると銅鏡の模様がぼやけてしまった「鋳上りが悪い銅鏡」という超古代と自然界の面白さが見える。
・以上三角縁神獣鏡勢力者の動静(ルーツから衰退まで)を大まかに追ってみましたが、三角縁神獣鏡勢力が畿内で活躍した時代は埴輪文化が全盛期の時代だった。しかし西日本の古墳からは馬具や貴金属はほとんど出土がない。又奈良で多く出土する内向花文鏡文化がどんな文化内容を持っていて、三角縁神獣鏡勢力とどんな違いがあったか調査・検討すると面白いと思うが、次回の課題とする。しかし今、三角縁神獣鏡は100%日本製だということが断言できると考えます。

<その他の三角縁神獣鏡文化・勢力の問題点>
・「生活科学の目で見る」と漢字は日本にルーツがあるとは納得いただけたと思いますが、景初3年銘等の実年代入り三角縁神獣鏡が数面出土している事実は古代史で何を物語っているのか。統計でみると三角縁神獣鏡の島根県出土は多くない。それに三角縁神獣鏡の多くは前方後円墳から出土しているのに、島根県の方墳から景初3年銘三角縁神獣鏡は出土している。他県では三角縁神獣鏡が多く出土する前方後円墳とのかかわりが問題だ。
・国内に散らばっていた三角縁神獣鏡勢力の一部の人が景初3年の時代に存在していた。だから合併か単独か婚姻かどんな形であれ静岡・磐田市で生まれた三角縁神獣鏡勢力の末裔は、景初3年頃までは出雲で存在していたと推定できる。景初3年の時代、日本を統治する政権争いが継続して激化していたため、政権奪還の思いの強い島根県に存在していた三角縁神獣鏡文化勢力の一部が、他の勢力が魏国に渡航したという事実の情報を受け、景初3年銘を自分たちのシンボルの三角縁神獣鏡に鋳込んだ可能性を筆者は推定した。同じような考えと行動をした政権が同様な景初3年銘を鋳込んだ政権が他にもあったために、幾つかの魏国の年銘鏡が日本で出土していると推定できるが?・・。魏の国では景初3年銘などの銘鏡の出土はあるのだろうか。
・この後の三角縁神獣鏡勢力の動静はどうなったか。大いに興味がわく問題だ。
次回は卑弥呼の鏡が三角縁神獣鏡だという説の検討をと初期の三角縁神獣鏡をシンボルにした三角縁神獣鏡勢力の衰退など、その後の方墳との関わりなど検討します。「藤原氏のルーツを追って・彩流社」を参考にしてください。


リオオリンピックの金・銀・銅のメダルの酸化

2016-08-12 16:14:12 | 銅鏡 三角縁神獣鏡 ...
リオオリンピックの金・銀・銅のメダルの酸化
・リオの日本勢のメダル獲得は嬉しいものだ。このメダルは金・銀ともに自然界ではほとんど酸化しないようだが、三位の銅は現在は赤銅色のメダルだが、自然界の中では酸化して何十年後かには青く変色してしまう可能性がある。メダルは防酸化剤が塗布してあるだろうから色が変わるほどには腐食はしないだろうが、日本の超古代の銅鐸は掘り出されて酸化して、博物館等で展示されているもののほとんどは青い銅鐸。
・4位は鉄のメダルがあれば面白いが、自然界の中で多いのが鉄で、私たちの生活の中で一番身近な鉄も自然界の中では酸化しやすい物の第一位?で、鉄の場合は酸化して赤く錆びる。赤さびた鉄くぎなどよく目にするものの一つ。赤い川など山に行けば時折見かけるが、鉄が錆びて酸化鉄が川石などに付着して赤い川として見かけることがある。
・自然会は面白い。神のちょっとしたいたずらか?赤銅色の銅は赤から青に変色し、黒色の鉄は黒から酸化=錆びて赤い色に変化する。神のいたずらから人は勘違いを時々起こす。その最たるものが土器に含まれた鉄や銅。焼くと(酸化させると)鉄の釉薬は赤く・銅の釉薬は青く変色するが、また不思議は高温で焼く(酸素を断つ還元焼成=窯焼き)すると鉱物の土の中の混合割合や焼く温度でいろいろの色に変化するのが、焼き物陶器の面白みというものです。この問題が今の古代史の編年基準に反映されていない大問題が横たわっています。

卑弥呼の鏡 三角縁神獣鏡は100%日本製

2016-08-02 09:34:45 | 銅鏡 三角縁神獣鏡 ...
「三角縁神獣鏡は100%日本製」
について動画はアップできたけど、詳しい説明をしたいのでホームページ作ろうと頑張っていますが、今までの「ももちゃんの古代史」ではタイトル変えたくてもできず、上手くいかず、新しく「忍者ホームページ」作ろうと、でも新しい事なかなか思うようにいきません。最近タブレットを始めたら、今まで頑張って学んできたパソコンの操作など何も必要なくなっていて、新しい単語覚えて記号を覚えれば指一本で簡単操作。世の中は50年の努力も一瞬で変えられちゃう。良いのか悪いのか。戸惑うばかり。
・「三角縁神獣鏡は100%日本製」の説明、お楽しみに。来週にはホームページを作り上げるつもりです。見てください。動画だけでは・・でも結構動画でも古い常識を排除した頭では受け入れ易いかも知れないと思いますけどね。若い考古学会の学生さん達も古い非科学的常識を少し卒業する必要があると思いますね。
・最近はウルフの死・小池女性都知事誕生・永さんの死・ザピーナツの死・リオオリンピック間近・等々話題が問題が目白押し。私もエホバの大会に3日参加で、此の世の問題から少し離れて温和な時を過ごすことができた。そして精神的に大問題の「母や好まない男の念力の強い負担に勝てない苦しい日々を卒業」できる思考法「見えない未来を夢見る・楽園を考える」ことへの重要性を感じながら帰宅できて大収穫でした。