ももちゃんの面白古代史

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ピラミット文化は日本積石塚古墳がルーツ(1)

2017-03-26 23:27:03 | クフ王・ピラミット・縄文のビーナス・エジプト・モアイ像・ツタンカーメン・ス...

ピラミット文化は日本積石塚古墳がルーツ(1)2017・2・26
・エジプト・ピラミット文化と日本積石塚古墳文化の類似点検討

・遠く離れた地域に存在するピラミットと日本の積石塚古墳の文化が類似点が多く見受けられることから、タイトルのようなピラミットは日本の積石塚古墳の発展形で、ピラミットのルーツは日本積石塚古墳にある・と考えた。その類似点を上げてみた。
①ピラミットも日本の積石塚古墳の両者とも積石塚であり類似点の最大点は積石塚だという事実②石室の屋根が合掌造りだということ。③王冠(冠帽)が類似している。④段差(階段式)のある積石塚古墳とピラミットが存在する⑤スフインクス≒人物埴輪など門番(狛犬)がいる。などがある。⑥実時代推定と縄文のビーナスとクフ王の時代の推定と違いは?

・エジプトピラミットの現在の高さ138.74m(もとの高さ146.59m)、底辺230.37mで日本の積石塚古墳は10mに満たない円墳が大半を占め、100m級の積石塚古墳が数基あるのみ。筆者はローマは一日にして成らずと信じているので、日本の小積石塚古墳から始まって石を高く積み上げる技術は、長年の研究で勝ち得たと推定した。だから小古墳の多い地域に積石塚ピラミットのルーツは求められると考える。

・時代で見ればピラミットは紀元前2700年頃、日本の積石塚古墳の年代は紀元後の500~700年頃の薄葬令が出た頃に時代設定されている。ピラミットと積石塚文化は遠く離れているとはいえ、類似した工法で作っただろう両者の間が3500年という時代の開きが大きいのは何故か。筆者としては最初から日本の土器編年基準が非科学的で間違っている、と主張しているのだが。ネットでは日本の積石塚古墳の年代は5世紀頃と書かれている。
・エジプトのピラミットは紀元前2700年頃とされているので、そのままを当てはめ、日本の積石塚古墳の実時代を推定検討したいが次回に結果を報告することとした。実時代推定と縄文のビーナスとクフ王の時代の推定と違いは次回に回し今回は他の点で検討した。

ピラミットと積石塚の比較

日本の積石塚古墳

①  エジプトのピラミットも日本の積石塚古墳も積石で築造している。日本の積石塚古墳の分布は四国の香川(岩瀬尾山古墳群)・徳島・長野(大室古墳群=北信長野市)山口(ジーコンポ古墳群)長崎の対馬・宮崎・愛知・静岡・群馬などに集中分布している。
・積石塚古墳は高句麗等からの伝来文化だと、各解説書等に書かれているが根拠はない。日本積石塚古墳は殆ど10m程度の小円墳で、中に長野の100m級の森将軍塚・前方後円墳や群馬の八幡塚の積石前方後円墳などがある。森将軍塚古墳も八幡塚古墳も初期的な埴輪が飾られている。埴輪は用途が解らないまま葬送儀礼だという事で円筒埴輪が並べ立てられ、葬送儀礼する人として形象埴輪の人物や動物埴輪が儀式的に並んでいると解釈されている。森将軍塚古墳では初期的埴輪を使った死体安置埴輪棺も出土している。

・文化は突然大きな立派なものが形造られるのでなく、積石塚古墳の場合も小さな円墳が初めに作られ始めて、次第に大型化したり飾ったり、文化勢力者のお墓ならなおの事、対抗者に自己の経済力や技術力を見せるために古墳を飾り立てただろう。日本の積石塚古墳は小古墳が500基程群集して作られた大室古墳群などや他日本の各地に群集分布していることから、積石塚古墳のルーツも、日本の長野県の北信州地域の大室古墳群などが充てられると推定できる。そして常識とは逆に日本の小円墳の積石塚古墳の築造技術が発展して、漢国やアジアを経由してエジプトのピラミット建築に繋がったと考えられる。
・エジプトの巨大なピラミット築造技術は「ローマは一日にして成らず」で、日本の積石塚古墳築造技術は小円墳から次第に大きな古墳を築造できる技術に発展し、100m級の巨大前方後円墳も積石塚技術で築造されている。日本からエジプトに積石塚築造技術が伝来していく間に、巨大で美しいエジプトのピラミットを作る技術に発展したと考えられる。
・長野市周辺は縄文中期には赤い土器の箱清水式土器文化が生まれている。出土品は余りはっきりしないが、赤い土器時代頃から積石塚古墳が作られ始めたと筆者は出土品等から推定している。赤い土器(箱清水式土器や樽式土器)は当時北信地域から群馬・東京等関東一円で鉄釧と言われる腕輪が集中分布地で、この鉄釧や赤い土器文化の古墳が積石塚古墳ではないかと推定できる。特に群馬の八幡塚古墳(積石塚古墳)の人物埴輪は衣装や赤い入れ墨など、赤を強調していることから、赤い土器勢力に強く関係していることが考えられる。
・その後全国で銅釧・石釧・貝釧他鉄剣・鉄刀が関西等でも多く出土するようになっているので、銅釧等は鉄釧文化に対抗した文化のシンボル的な品物として他の勢力者が古墳に副葬したと推定。
・だから初期的積石塚古墳は北信地域中心に発展し、大室古墳群に多くの積石塚古墳を築造し、最盛期には合掌造り石室も作るようになった。この文化の最盛期に積石塚・鉄釧・赤い土器文化勢力は交易等で、ウズベキスタンなど経由してエジプトにたどり着き、エジプトの文化勢力と共同開発して積石工法で積石の巨大ピラミットを作るまでに技術は向上し発展した。日本では2段・3段のある階段式積石塚古墳は作ったが、ピラミットのような巨大な技術はエジプトで生まれた技術だろう。日本では100m級の古墳を積石塚や貼り石で森将軍塚古墳や群馬八幡塚古墳などを作り、初期埴輪を飾った。
・しかし埴輪文化は急速に文化を一変させる鉱物熔解技術だったために土師器文化の赤い土器文化は埴輪文化勢力に敗退し、積石塚勢力はエジプトでその技術をピラミット築造という形で後世に謎を秘めたまま残した。
②合掌型石室・ピラミットの石室(王の間)の屋根が合掌型という事が発見されて大きなニュースになり、ピラミットの不思議の一つとなった。合掌型石室は日本で40件前後の数が見つかっている。動画でも扱ったが長野の大室古墳群の中に合掌型石室型屋根の積石塚古墳が10基程集中して存在している。大室古墳群の中では石室の三角屋根(合掌型の)の上に更に積石を載せ内部に屋根を包む、要するにピラミット型の高度な技術でなく、まだ初期的と言える屋根の三角部分を地上に出しての合掌型積石塚古墳だが、日本の文化がエジプトに伝播し研究発展して王の間は合掌型石室が作られたと考えた。合掌型石室の屋根は確実に長野からエジプトに伝播したといえるだろう。逆にエジプトから技術が日本に伝播したとは考えられない。エジプトに初期的合掌屋根技術が生まれていないのだから。

③冠帽の形態が類似していることからクフ王の王冠文化と縄文のビーナス文化と同じ文化勢力だった!?。形状の類似は動画で見ていただければ納得いくと思います。また何かの理由があって王冠が四角形になったのだろうが、イースター島のモアイ像も同様な王冠を被っている。世界に同類の形が四角王冠的に利用されていることは、同類の文化が近似時代に世界的に存在していた≒世界は統一文化だった≒交易も地球的な規模で行われていた可能性が考えられる。

④差(階段)のあるピラミットはエジプトにも日本にも存在する。日本の階段がある積石塚古墳は動画の写真でも乗せたが、福岡の方墳ではきれいな2段式方形積石塚が築造されている。又中国の将軍塚も可なり大きな積石塚古墳が作られるようになっている。日本では  積石塚古墳の2段目に壷を飾り、その後円筒埴輪や形象(人物など)埴輪が飾られるようになって(群馬の八幡塚前方後円古墳や長野の森将軍塚古墳など)100m級の前方後円墳が作られた頃から積石塚古墳は積石塚文化が衰退したためと考えられるが、積石塚は作られなくなっている。
・ちなみに日本でピラミット級の250m前後の前方後円墳が作られたのは銅鐸時代から銅鏡時代の、文化が其々異なった勢力者が幾つも生まれた弥生時代と言われる時代で、群雄割拠の時代に当てはまりそうだ。日本では250m級の前方後円墳を作ったのは畿内の大阪・奈良・京都辺に限られてきた時代で、もう積石塚は廃れて埴輪全盛期になっている。

⑤スフインクス≒人物埴輪など門番(狛犬)が飾られている点も、強いて言えば類似すると言えよう。群馬の八幡塚古墳の人物埴輪は中心の大王と両脇に三角帽子の脇侍が構えている。その脇侍が仏教では大仏の両脇侍の日光・月光菩薩など、更には寺院の門には狛犬が控えているが、神様の門には鳥居が存在している。仏教的には警護が堅固だが、死者の古墳の入口はどうであったか??古墳には門はないか少なかったような気がするが筆者としては不確かだ。日本では建造物の寺が作られるようになって狛犬や仁王様が作られているようだ。
・門がない古墳と考えると、古墳の初期は余り死者を祭るとかお墓参りなどしなかったのかも知れない。

次回は日本の積石塚古墳の生活科学の目で見た実時代とエジプトクフ王の時代の3000年間以上の違いはなぜ起こったのか。真実の時代は何時なのか。等検討してみたいと思います。

 


エジプト・ピラミット文化のルーツは日本縄文時代

2017-03-18 19:57:08 | クフ王・ピラミット・縄文のビーナス・エジプト・モアイ像・ツタンカーメン・ス...
エジプト・ピラミット文化のルーツは日本縄文時代
・金持ちのサウジの王様が静かに訪日、日本滞在3日間は曇り空だった。
・今まで検討し貯めていた日本古代史の真実やルーツの情報を動画で発表しても殆ど見てもらえない。つまらない!。こんな時、サウジの王様の来訪だった、それでサウジ石油国とかエジプト等中近東の歴史を私風に疑問点から調べたら、日本史だけでなく世界史解明にまで入り込んでしまう出土品の事実が並ぶ。日本の縄文時代中期までは穏やかな文化の流れが世界古代史の中では感じられるが縄文中期(紀元前3000年頃)から文化が激変している。
・出土品から見ると縄文時代中期に縄文のビーナスが(土で作られた人類の祖の女性?)出土する。縄文のビーナス像が被っている冠帽は横長で四角い形。この横長冠帽は世界各地で出土する石像やレリーフに書かれている。故に特定文化の象徴的シンボルの役割があったと推定できる。
・特に古代に世界的に分布している縄文のビーナスと類似の冠帽で有名なのが、イースター島の王様の赤帽の中心のモアイ像。更にエジプト・ピラミットの早期王とされるクフ王の像が同類の冠帽を被っている(写真参照)。さらに古代エジプト王朝王妃ネフェルティティ(ツタンカーメンの義母)の冠帽は同型で立派だ。この王妃は日本も含めたアジア系の女王という。
・冠帽≒王冠を被った人物埴輪が群馬・埼玉等出土埴輪の中に幾つか確認できる。
・クフ王は古代エジプト王国時代のファラオ。紀元前26世紀のエジプトの王だ。
・ネフェルティティ・・紀元前14世紀中葉・有名な黄金の棺のツタンカーメン王の義母
・縄文のビーナス・・紀元前4000年~5000年頃といわれる時代で、縄文時代中期の茅野市出土土偶。
・モアイ像・・イースター島・ポリネシア人の移住と言われる。炭素年代測定の調査手段での時代は4世紀〜5世紀頃とするが、西暦800年頃とする説が有力という。だがモアイ像は赤い帽子(王冠?)と赤彩像などから日本の赤い土器時代に赤い土器部族が他の部族に負け、故郷を追われた人々の可能性が考えられる。日本からの渡航途中の船の難破等でイースター島に漂着した縄文の人々の像だと推定する。
・また日本には静岡辺に空を飛ぶように軽い船を作り世界の海をまたにかけて航海する人々がいた伝承が残っていることや、青森三内丸山遺跡出土品等からも縄文中期には各地の貝殻等の交易がおこなわれていて沖縄等の貝殻が青森等で出土している事実がある。
・そうした優秀な船を造り操り、時に難破してイースター島などに漂着し定住した縄文人もいたことだろうし、ナイル川河口にたどり着いて、エジプトでピラミットや狛犬ならぬスフインクスを築造する文化を伝えた可能性が高い。何故ならピラミットの主と言われるクフ王の像は縄文のビーナス同様に頭にかぶった王冠?が類似形の王冠だという事実。日本縄文時代の人々がエジプトのナイル川の河口に船を乗り入れエジプト文化の元(ピラミット)となったと筆者は考える。勿論日本の縄文時代の方が1000年程早い時代だ。
・そうした日本の船が縄文時代から太平洋・大西洋を交易道として使い海洋族として活躍していたことは縄文時代遺跡出土品などからもいえる。近日中に「エジプト・ピラミット文化のルーツは日本縄文時代」の動画をアップします。見て下さい。画像をブログに乗せられないので。

        

埴輪の用途とルーツ

2017-03-06 23:03:11 | 埴輪の用途とルーツ・古墳時代・日本の古代史
埴輪の用途とルーツ
埴輪は日本の多くの古墳に飾られ日本でのみ出土する出土品の一つだが、何故円筒埴輪を飾るのかという用途や埴輪の90%以上が円筒埴輪で、人物や動物や器材埴輪と言われるものも出土するが、円筒埴輪に比較すると僅かの数で何故円筒埴輪を古墳に飾るのか現在は謎に包まれたままだ。
・さらに埴輪のルーツも不明のままだが、生活科学の目で見た古代史を検討すると、動画で検討したようにはっきり推定できる。
・結論では円筒埴輪・朝顔形埴輪は製鉄や・製銅の鋳物炉だという事。又何故古墳に多く飾られたかと言えば、この時代は魏志倭人伝で言うように日本には100を数える多くの勢力が存在し、各勢力は自己の勢力の力・文化力を他の勢力に誇示するPRとして古墳頂上などに並べたと考えられる。
・では埴輪のルーツはどこかというと、埴輪の形状や焼成方法など、検討の必要があるので断定はできないが、今埴輪のルーツとして最有力の吉備地域が言われているが、筆者としてはプレ埴輪とされる「底穿孔壷」を古墳に飾った時代に、その前方後方墳勢力に対抗して朝顔形壷を古墳に飾って、円筒埴輪に改良された経過が出土品等から見える「松本~対抗した埼玉~同じ頃群馬」等辺りではないかと推定している。群馬では円筒埴輪というより、形象埴輪の人物や馬など文化内容を表した埴輪が飾られていることから、と推定している。
・ただ未だ資料集めが不十分なために断定できない。
・生活科学の目で見た古代史の観点から製作した動画「埴輪の用途とルーツ」を見て下さい。

新説・製鉄のルーツ(日本縄文時代)

2017-03-02 13:06:38 | 製鉄のルーツ 日本縄文時代 たたら製鉄のルーツ 
新説・製鉄のルーツ(日本縄文時代)
「製鉄のルーツは日本の縄文時代」という動画をアップしました。見てね。何度か類似記事を書きましたが、新しい写真を何枚か増加したし、新説製鉄のルーツは日本縄文時代という説が浸透していないので、また書きました。念を押しておきたい事実は土器や生活の焚火を木や草などで同じ場所(炉等)で1万年も火を燃やし続けても決して囲炉裏の跡は赤くならないという事。所が縄文時代の住居跡と言われている遺跡の跡に多く赤い炉跡が存在している。赤いから生活の炉跡として考古学上認定されているが、単なる囲炉裏で火を焚いているだけでは白くなるだけで赤くは残らないのが生活科学の目で見た古代史です。炉や火の跡で赤くなるのは鉄が酸化されて赤く酸化鉄が残されているという事実です。赤い炉跡は鉄分が焚火等の火で酸化鉄が作られ跡が残っているという事実を見逃しては、人間の文化としての製鉄のルーツは何時までも明らかに出来ない事を認識していただきたいと思います。是非真実の日本古代史を新説・製鉄のルーツ(日本縄文時代)を見て下さい。