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ももちゃんの面白古代史

ももちゃんが生活科学の目で主に日本古代史解明します。新しい情報いっぱい。例えば日本の縄文時代に製鉄が行われていた根拠など

聖書に学ぶ

2018-04-03 00:48:23 | 東日本大震災・7年・聖書・仏教・供養

聖書を学ぶ           4・3

先日キリストの亡くなった記念式があった。日本人はキリストとは縁遠いと思う人が殆どだ。その上罪のないキリストが無知な人々によって死刑された。でもその無罪のキリストの命という代償で、私達人類は永遠の命をサタンから取り戻していただいたわけだから‥そのキリストの死を記憶し感謝を忘れないために毎年この時期に記念式が行われるという。単純に言えばアダムとイブが神の言葉に反抗して=神に罪を犯したその身代わりの贖いとしてキリストがサタンに捧げられた。何故なら父の神に対しアダムとイブに反抗させたのは、サタン自身に人間を従わせたいというサタンの支配権を得るための計略だったからだ。そのアダムの罪を人類はアダム父から引き継いで生まれているのだから、反抗心などある不完全な人間だが、キリストが人間の原罪を清めて下さったから、本来神の作られた「病もなく老化もなく涙の無い楽園」を悔い改めた人々によって地上に招き寄せられるという事だ。

・だから人間は楽園に入る神に近づくため神の律法を守り、神に認められるための人格を身につけなさい。という事のようだ。本来神は愛しいご自分の子供に、貴方も子に苦労させない美しい楽園を与え財産を残したいと思う以上に、楽園を作ってくださっていたのだけれど、アダムの神への不従順によってアダムの子孫の私たち人類も楽園に入るには、それなりの思考と行動が必要で、殆どの人類はアダム同様、神を裏切り続けていた。しかし中にキリストの様な清い心と神に喜ばれる行動をしてきた人々がいる。その神に近づこうとした人々の記録が聖書という事になり、聖書には多くの真理が書かれている。その一つが「神は全ての人々から涙を拭って下さる・・マタイ」という言葉で、絶大なる安心感が沸き上がった感動は忘れられない。こうした幾つかの苦しみの重荷から解放してくれる言葉に出会う楽しみは格別だ。貴方も心晴れる言葉を見つけてみませんか?。


聖書を学ぶ

2018-03-27 23:19:38 | 東日本大震災・7年・聖書・仏教・供養

聖書を学ぶ            26日

先日東日本大震災の体験を書いてから何故か時々年配のおばさんが思い出される。「津波に足をすくわれ(足元から30㎝位の波で立っていられなくなるそうだ)溺れかけていた時、母が大切にしていた植木(椿だったか?)が流れてきてやっと捕まり、命は助かり母のお陰と思った。でも今誰も居なくなった(知人は皆死んでしまった!)これからどうしたら良いのか解らない!」と呆然としていた。あれから7年、彼女は今どうしているのだろうか。未だ聖書を勉強していなかった私に答えは出来なかった。そして延々と長い間、先祖を大切に祀ってきた人々が何故このような悲しみに出会ってしまったのか・・大きな疑問が湧いた。

・長い間、先祖のお墓を黙々と守ってきた人々、そしてあの時の少年の泣き続ける涙と同じ、多くの人々の涙と嘆きが痛かった。そして未だ回答の聖句に行きついていない。でも少し学んできた範囲では「生きたかったおばさんと、その母への愛と生命の力に精霊が働いたのだろうかと自己流だが思う。死者である彼女の母親が天から助けた(死者に思考はない)訳ではない。

・問題は死んだ人の魂が働いたと考える日本の思考は仏教そのもの。しかしこの死者の思いが死後も残っていて働くという考えは、今、生きている人を過去の思い出・過去の世界に引きずり込む。結果今を生きられない。発展が無い。私自身、未来志向が出来ず参っていた。だが聖書は違った思考を教えている。

・人の死後は「人間は神が塵で作られたのだから、人間は死んだら当然チリに戻る」と聖書では教えている。肉体が死んだ後は肉体が腐るように脳(頭=思考の元)も腐る。その人の霊だけが生きていて何かを考える事は有り得ない考えだ。だが仏教では死人は死後も思考を持ち、今の人を支配できるという考えで、死者を祭り食物など備える。死人を呼び出すという「いたこ」という職業があるほどだ。仏教や占いなどで多く使われているようだ。

・この仏教的考えは私を精神的恐怖に陥らせ、人生長期間「今も未来を志向できない恐怖」に陥れていた。要するに覇気のない思考の人生だった。マインドコントロールを受けている感じの「繰り返しばかり」の感覚、仏教が人の過去を見る恐怖に追いかけられていた。しかし聖書は「神は人を益する神」とあり、聖書と仏教的思考の違いに今迄の苦痛から救われたと思った。仏教的思考だと今後大災害を経験した人々の中で又津波の恐怖が増してしまう可能性を、恐怖に思う。過去を懐古しても今後の未来は何も始まらない。未来は過去の中には無い事だ、輝かしい未来がある。TV番組等では懐古番組が多くなっている昨今だが、仏教思考から今私達は大急ぎで「未来志向」に切り替える必要を痛感しています


聖書を学ぶ

2018-03-20 01:03:32 | 東日本大震災・7年・聖書・仏教・供養

聖書を学ぶ          3・20

今朝は興味深い貴重な体験をした。聖書を学ぶ・宗教を学ぶという事は感情をあらわに人間にぶつけるのではなく神に「祈り」という形でぶつけるのがいい事のようだと理解した最近です。現実問題と心の問題でかなりの食い違いが出てきてしまう。現実に対人的にも可なりの食い違いが起こってしまう。ただ神への信仰と祈りだから、相手の人への思いは神に対するように害を持って裁きの心での祈りは神の律法に反すること・・してはならないこと・・のようで、…。この解釈がいいのかそのことも未だ聖書のどこに示されているのか皆目わからない。

とも各自分では神に相手の事を告げるのだから悪意を持って祈れない‥と思いながら、相手は神への信仰が長い方だからと、まさか私への憎しみ・嫉妬を露に思っているとはつゆ知らなかったのだが、その被害を私は被ったと気が付いた時・気が付いた今どう自分の心を安定させたらいいのか?
・人はそんな時の心の処し方なども、許しとか忘れるとか思い煩うなとか、聖書はふんだんに教えているが、感情をこじらせてしまった自分は、この思いが心理的にはトラウマとして人々を何時までも悩ませる問題として一生トラウマに振り回される人生になってしまう。私の自己反省だが、この点なども聖書では最良の心の持ち方を教えている。

今悩みの多い人は一日も早く聖書の思考に習う事で気楽に安楽に過ごされること請け合いですよ!

私は長い人生で幾つかのトラウマにはまって次から次と問題が押し寄せてくる。それを好む悪魔の私(?宗教?)がいて、自分が苦しむように仕掛けてくる感情も潜んでいる。それが内に潜む悪魔サタンの存在だと思うのですが、何時も読み続けている聖書を、今朝の内容がその問題にピタリとはまる回答になって、考えさせられました。

さて先日・日本的考え方の人の書き込みがあって、万物が神的・仏的「尊い存在」なのかもしれないと考えるというような考えが書かれていましたが、私にはよく理解できませんでした。私はやっぱり神が宇宙に存在していて、神が人間も大自然も宇宙も作られて、規律の下に宇宙を動かしていると考えるので、人間が人間や宇宙を作った訳でなく宇宙の作り主(設計者)がいるから今も地球も宇宙も回って存在している、その神は「あなた人間を益するもの」と言われて(聖書に書かれて)いるから、本当は神に従っていればいいと思いますよ。ところが人間は不遜で、他人を支配したくなったり、みんなで渡れば怖くないといった「集団の力≒組織の力」等で集団暴力やパワハラに発展する。この私の考え方は聖書に反する考えか未だ未熟な私には断定はできませんが、これが今の私の理解範囲です。

でも聖書の内容理解できなくても読んで通読していれば不思議に問題の解決の回答と思えるところにぶつかって驚きです。悩める何方かの参考になればと思います。人生を考えている貴方にとって、とても参考になると思いますのでお勧めです。(万物に神・仏が宿る考えでは恐れ多くて、木の枝で焚火も焚けなくなってしまいます!)

今人類はハルマゲドン問題に直面していると思える現象がいろいろ起こっているので、一日も早く聖書に触れてみることをお勧めします。


聖書を学ぶ④

2018-03-15 09:55:04 | 東日本大震災・7年・聖書・仏教・供養

聖書を学ぶ              15

ご存知のように私は日本の超古代史を「生活科学の目で見て」きて少しでも科学的に古代出土品を見てみようと研究してきた。だから今まで聖書など考えもしなかった。しかし日本出土品の多くからなんとも仏教的な原始仏教の初期的な考えではないかと思える出土品が多い事に10年位前から気が付いた。そして実生活でも多くの問題を抱え悩んでいた。

・そんなことなどあり、また子供の頃からキリストの美しい生き方が不思議で憧れてもいたので聖書をこの年になって学ぶこととなった。聖書の言葉は多くの私の精神的苦しみ・縛りからパッと驚くほど開放し軽くしてくれた。その一つを少しずつご紹介していきたいと思った。そして同時に日本古代史も出土品が生活科学の目で見ていくと、繋がるように思えて来るので発表してみたい。
・今回は聖書では仏像・諸々の像などへの神頼み?を厳格に禁止しているという理由を、なるほどと一瞬にして納得させてくれた聖句を皆さんにご紹介したい。また皆さんはどう思われるか書いてみます。言っておきますが私は日本古代史を研究して来た故に多くの仏像・特に阿修羅像の清純な清い憂いの高潔と言える美しさや天空にそびえ伸びようとする美しい塔などを、美しと思い彼方此方に何回も通って見に行ったものだった。しかし「何々を叶えて下さい」的な信仰は持ってはいない。美術鑑賞以上ではなかったことははっきりしておきたい。

・さて課題の聖書の言葉だがイザヤ44-:15の後半から19の言葉で要約すると、巨木伐採し半分で火を焚き肉を焼き食べ、一方の半分の切れ端で彫像を彫り彼はその彫像に平伏すし祀り手を合わせ、祈り願いを叶えて下さい!と祈る滑稽さに気が付いたこと。日本の仏教は特に多くの原始仏教は仏像を並べたり野仏はあちこち至る村落に存在している。家々では仏壇が輝いてもいる。

・それらの人間が作った物・木の切れ端で作った仏像に信仰を抱く愚かしさを聖書は書いている。自然界の中に「神以外は貴方達の利益を考えてくれるものはない」と言っている。その聖書の言葉に本当に納得だ。肉を焼いた木の一部で仏像を作り願いを祈ったり跪く事の馬鹿らしさは、滑稽な漫画になってしまいそうなことに気が付かず、何とは無く今迄容認していた事への懺悔があるばかりだ。難しく言う訳ではない。神は「あなた方を益する神」とも聖書では書いている。神を信仰することは「物・金などに執着してはいけない事」で「清いのみの生活」と思っていたが、益する(魂を?)という神の言葉は、「魂の益」という意味に慣れない現状だが、霊的益を味わう心境が未だ余り味わえないことが自分の心の未熟さなのだろう。