波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

東京裁判研究会編『東條英機宣誓供述書』洋洋社 昭和23(1948)年刊を捲って

2005-08-03 00:58:42 | 読書感想
 勝谷誠彦氏の網上日記『勝谷誠彦の××な日々。』(http://www.diary.ne.jp/user/31174/)の今月一日の記入中に同書が言及されていて,未だ此方に届いていない『月刊WiLL』9月号に関連記事が二本掲載されているようだ.図書館で同本を手に取ってみると,戦後初期特有の酸化が進行した更紙刷りで170頁程度の内容だった.供述対象期間は,東條英機が昭和15(1940)年7月22日に第二次近衛内閣の陸軍大臣に任ぜられ国政に関与し始めた頃から始まり,昭和18(1943)年頃までの間の重要事項について述べているが,同書の最後の方で同期間外の事柄についても供述を行っている.よって,当該対象期間以前の昭和14(1939)年の日本海軍による海南島占領(支那事変の枠組みを越えた「南進」)等は供述対象になっていないようで,日米衝突の歴史的経緯を丁寧に振り返る点では物足らない仕上がりと言える.東條英機は日米開戦時の内閣総理大臣という貧乏籤を引かされた者で,真の責任者達は別にいる,という史観がある.東條英機によって陸軍を追われた石原莞爾は戦後,東條英機は意見・思想などなかった者(⇒懸案を実直に執行する官僚程度の器)という評価を下した.政治家ではなく,究極の官僚であった以上,自分が首班指名を拝命する以前の内閣が積み重ねてきた意思決定を政治家的な決断で突如覆すというような荒業は出来るはずもなく,政策の連続性を重んじる素直な官僚的意思決定を行い,日米開戦に首相として立ち会っただけ,という見方だ.即ち,東條英機のような官僚的思考法に囚われていた者であれば,あの昭和16(1941)年10月の段階で組閣の大命を受ければ,同じ決定(日米開戦)に至ったはずだ,と.東條英機に関する最近の論議で余り見られないのが彼の戦争指導のやり方,特に彼のやり方に反発した連中への対処や始めてしまった戦争を何時どの様な形で終結させるかという大局的判断などについての批判だ.政策実施の詳細にまで拘りがちであった究極の官僚としての東條英機には,戦争継続という既定路線を忠実になぞるようなことには向いていたかも知れないが,和平を何時どの様に開くかというような不連続的意思決定=政治家的決断は不得意であったに違いない.なお,政権末期に戦争指導や和平をめぐって重臣達との間に生じた確執等については当該供述書では触れられていない.
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