波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

米保守系雑誌「ナショナル・レビュー」掲載のロウリー論文と犬の引き綱

2005-07-12 03:20:51 | 雑感
 昨日或る保守系網誌を覘くと,産経新聞の古森義久記者の記事「日本は憲法改正し軍事面で「普通の国」に 米誌、論文を掲載」(7月10日付朝刊)が引用されていたので,同社の網站で記事を確認し,当該米誌であるNational Reivewの網站で原論文を探した.雑誌の最新号の主要論文を網站上で全文無料で閲覧させるという米雑誌は最近少なくなったが,当該雑誌も御多分に洩れず,蒲焼の匂いを嗅がせておいて購読を勧めるという手口だったので,図書館で読むか,それとも買うかを決めるため,雑誌売店に寄ってみると,頁数も3頁弱あり,また表紙の構図が当該論文をあしらったものだったので購入した.
 
Time for the Sun to Rise: How a newly confident and engaged Japan would help the United States, and the world by Richard Lowry
vol.57, no.12(July 4, 2005), pp.29-31.
http://www.nationalreview.com/lowry/lowry200506220753.asp

当論文を読んでみると,親米保守の日本人にとっては「慈雨の雨」と言いたいところであるが,筆者の語彙選択を走査していくと,30頁右罫中ごろに,古森記者の要約と重なる以下の件がある:

The Chinese government is dependent on nationalism to give it legitimacy, so must beat up on the Japanese, who are wildly unpopular given their past atrocities.

この"atrocities(残虐行為の数々)"という語の前に,例えば"alleged(一方的に言い立てられた真偽不明の)"というような形容詞があれば,或は他の語気の弱い名詞を換わりに使っていれば,筆者の極東裁判史観からの解脱を認定できるのだが,剥き出しのままであるので,筆者の日米開戦以前の対支・対日認識は現在米国で支配的なものと大差ないと推量される.
 古森記者は,当論文の標題を「日本の縛を解け」と書いているが,これは上記の原標題の直訳ではない.原標題の和訳は「陽が昇る秋(とき)」あたりだろうが,古森記者の訳は,掲載雑誌の表紙上の全く異なる見出しに由来する:

Unleash Japan: Why the U.S. needs Tokyo to abandon its pacifism and counterbalance China
 
更に,当論文の最終段落において,当該見出しの名付けの背景が以下のように解き明かされている.

... Now, Japan should be increasing its security role in the region, unashamedly. It is a new government, with new norms, in a new time. The traditional restraints on it only serve to hobble what should be one the world's key players on the side of decency and civilization. The old rallying cry of American conservatives was ― referring to Chinese nationalist leader Chiang Kai-shek, who never gave up the dream of reconquering the mainland ― "Unleash Chiang." Given the state of play, they now should be saying, "Unleash Japan," to be the kind of ally we need in Asia.

古森記者は何故「縛」という語を選択したのであろうか.動詞unleashという語は名詞・動詞のleash(猟犬等の引き綱,引き綱でつなぐ)から来ていて,公園等の御法度(飼犬を解き放つな)で馴染みの語である.よって,unleashの目的語が,第一義的に,或は暗喩的に,犬等の獣(けもの)であることを考慮すると,古森記者は同語を直訳するには余りにも忍びなかったのかもしれない.
 このような暗喩の読み解きに拘泥していると,何やら,岩波臭・朝日臭の自虐史観文化人と同じ穴に落ち込むでこの辺で止めておくが,この様な語彙・表現の選択がNational Reivewその他の新保守系米人に対して日本人が,表面上はともかく,内心では注意して確り真意を見定めなくてはいけないことを示唆している.この点については,後日別の記入で論じたいと思うが,日本が普通の国家として独立する事を願っている日本人にとって,長期的に安定した提携集団を米国中に求めるのは容易ではなく,国際環境等の根本条件に何らかの変化があれば,掌を返したように提携解消已む無しという状況がいつでも出来する可能性がある.
 戦争に負けたことの重みを忘れがちな日本であるが,今の日本は米国の管理する監獄での仮出所中の服役囚と同じような立場にある.占領中の朝鮮戦争勃発の折,米国側から朝鮮戦争への海外派兵の打診という,将来の米国にとって日本が信頼できる同盟国になれるかという踏絵が課せられた.この踏絵は海外派兵と刑の終了の取引という趣で,日本が隠忍自重して米国側の意向に従えばで講和後実質的な占領終了が考慮され,従わない場合は,占領という体制変革による反米的傾向の矯正が不十分で,講和後名目上独立国になっても半占領状態(仮出所)が継続するというものである.踏絵の結果は,掃海艇の極秘派遣という中途半端な協力に終わり,日本は信頼できる同盟国であると認定されるには至らず,観察付き仮出所となった.
 この監獄の中の日本という構図において,左巻き系の「戦後民主主義」派は,占領という監獄から出所して普通の国家の一員として歩まざるを得なくなると,娑婆の厳しさ(再軍備等)に直面するので,看守の米国に対して,1945年以前に日本が犯した罪は甚大であり子々孫々に亘って償うべき未来永劫の終身刑であると称して仮出所を拒み,出来れば娑婆に出て一人立ちすることなく監獄内に留まり長閑な生活を送りたいと望んでいる服役囚と言える.この他,受刑中から米国の敵国と通じるなどの素行不良の問題を起こし,仮出所後逃亡の恐れありとのことで厳しい要観察処分をうけた親中共・親ソ派の連中もいる.
 その後,第一次湾岸戦争の際にも同様な踏絵を米国から求められたが,獄内の安逸忘れ難く,踏めなかった.第二次湾岸戦争では,何とか踏絵を踏み,補助車付きではあるが,米国の意向に従って海外派兵に踏み出し,刑の終了に向けて新たに見極め中ということなろうか.結局,戦争に負けるということの重みを知り,犬程度の扱いにも隠忍自重して,引き綱無しでも,調教師の手を噛んだりすること無く,米国にとって信頼できる同盟国であることを海外派兵等で証明するのが,21世紀を生きる日本人にとっての「不羈独立」への早道ではないか.まさに,終戦の詔書における「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」は未だ現在進行中なのである.

註:上記引用段落中で触れられている,1950年代米保守派がTruman政権の台湾封鎖(蒋介石の引き綱)を解いて大陸反攻を認めるよう主張した経緯については,以下の網頁を参照:

First Taiwan Strait Crisis:Quemoy and Matsu Islands
http://www.globalsecurity.org/military/ops/quemoy_matsu.htm

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