波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

地下鉄車内での暇つぶし

2005-07-13 01:05:30 | 江戸
 自宅と職場の間は徒歩で50分弱の距離であるが,地下鉄を利用すると,丸の内線の中野坂上から後楽園という趣の遠回りになり,また,始発と最終以外は実質時刻表がない悪名高き波士敦地下鉄の「柔軟」運行により,最短40分から∞となる(大抵は一時間前後).この1時間弱の間何をするか,今流行のiPodやCDで音楽を聴くという生活様式に馴染みがないので何かを読むことになる.各駅で無料で配布している地元密着情報系の日刊小報(tabloid)は回収利用条例等で後始末が面倒で,購読している新聞も,日本の日刊紙のように一冊ではなく,複数冊構成で分厚く携行性が悪い云々と持ち前のものぐさぶりで,結局,本か複写物等の刷り物に決まってしまう.
 最近は老眼の徴候が見え始め,余り明るいとは言えない車内で細かい文字に焦点を合わせるのが苦痛になってきた.ならば,どの様なものを読むか,救いは思わぬところにあった.江戸時代のいわゆる往来物(複写)である.往来物は,文字を覚えつつ同時に特定主題についての基礎知識も得ることを目指した教科書で,色々な主題について出版された(http://www.bekkoame.ne.jp/ha/a_r/indexOurai.htm).往来物は仮名漢字混じりの版本で,大抵文字も大きく,難しい漢字には振り仮名がついているので近世の古文書読解の上達にも役に立つ.
 かつて古文書読解の講義を受講した際には,読解辞典片手に地方(じかた)文書の典型である借用証に直接体当たりという学習方法だった.このような大学における正統的学習方法ではなく,版木物の仮名から漢字へ,そして実際の文書へという江戸時代の手習いの経路による勉強法を教えてくれたのは,吉田豊氏の『江戸かな 古文書入門』(柏書房刊)だった.今日日の日本人が,挨拶状,商業文,公文書を作成するに当たって各種の虎の巻を参考にするように,江戸時代の武士も町人も,先ず往来物で基本型を学んだ後に個々の書状を書いたのである.よって,書状作成の往来物を読んで当時の型を覚えておけば,よくある用件についての古文書の読解が楽になるのは言うまでもない.因みに,今読んでいるものは,『寿賀多百人一首小倉錦(すがたひゃくにんいっしゅおぐらにしき)』という小倉百人一首についての往来物だ(http://library.u-gakugei.ac.jp/orai/f014_055.html).
 明治維新以降の日本で筆字の役割が低下するに従い,江戸時代では直結していた読む作業と書く作業が分離してしまい,今では,先に触れた大学の古文書読解のように,文字を書きもせずに文字を読む事が当たり前になってしまった.何故,つづけ字(行書)・くずし字(草書)を書く事を通して行書・草書を読むことを学ばないのか,というのが従来の疑問だったが,数年前,故駒井鵞静氏の『つづけ字の知識と書き方』(東京美術刊)という本を読み疑問が氷解した.同書によると,江戸時代の手習いが実用本位の行書先習であったのに対して,明治以降,一時期を除き,楷書先習がとられため行書の学習が疎かになり,ここで最初の文化的亀裂が発生した.その後,行書学習に楔を打ち込んだのが,何と戦後のGHQによる書簡検閲だった.なぜならば,当時の大人の日本人は手紙を主に行書・草書で書いていたため,検閲官は判読に苦労し,その結果,文教政策に介入して「楷書体以外の学習は望ましくない」としたのである(前掲書29頁).駒井氏は現在の書道教育政策が当該介入を未だ引きずったものになっているではないかと見ていた.
 このような経緯で,今日の日本人は,江戸時代の御先祖様の残した書き物を直に読み彼等の心に直接触れる術を義務教育でしっかり学ぶ機会を失った.この先何処まで上達するか分からないが,せめて浮世絵等に書き込まれている仮名や簡単な漢字が自由に読めて,他人に説明できる位の読解力が付けば,と願いつつ電車の中で往来物の複写を捲っている日々が続いている.
 
註:草書・行書共にくずし方に一定の原則があり,これに従わない自己流で書くと,暗号解読と同じで,受け取った相手が読めないことになる.江戸時代の公用書体は,幕府が採用した御家流だった.因みに,幕末の志士達は若い頃から政事に奔走して手習いが疎かになったようで,明治の元勲達が残した書簡は字のくずし方がで自己流で読解が難しい.
註:GHQの郵便検閲の実態について,日本側関係者の証言は少ない.最近の例としては,西村幸祐氏の網站で「GHQの郵便検閲を振り返って 横山陽子さんに聞く」が閲覧可能:
http://nishimura.trycomp.net/works/010-2.html
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/13/2005/ EST]