波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

故 坂本多加雄氏の著作

2005-05-04 01:30:14 | 読書感想
1.歴史教育を考える (PHP新書:042) 1998年
2.国家学のすすめ (ちくま新書:311) 2001年

3.日本の近代 2 明治国家の建設 1871~1890 1999年
4.20世紀の日本 11 知識人 1996年

 坂本氏が残された著作を私が手に取ったのは不覚にも極最近のことで,何か別件でgoogleしていたところ,彼の著作紹介情報に行当たり,既に他界されていることを知った.彼の残した歴史解釈に関する文庫・新書本(上記1,2他)を読むと,ある共通の大筋があり,それを基に各個別の主題,状況・対象に応じて論の肉付け・展開をしていたのではないか,という印象を受けた.此れが上梓予定をこなすための効率化によるものなのか,それとも日本の状況が余りにも悪化していた為,繰り返しの力説が読者の覚醒のために不可避と認識されていたのか,逝去された今となっては永遠に不明である.
 ともあれ,朝日・岩波等系の左翼文化人の識別指標となっている趣の「国家」に対する彼らのアレルギーについて,その問題点・盲点を丹念に指摘・論難されていて,このような批判が1990年代ではなく,数十年早く出版されていれば文化人の生態も随分変わっていたのではないかと思われてならない.また,最近,阿世的ないし機を見るに敏な学者が,曾て帰依していたはずのマルクス主義から破戒した後の止り木的に利用している趣のBenedict Andersonによる「想像の共同体」論についての批判が展開されているのも注目に値する.理詰めで論難されると,まともに反論できないため,論争対象の「国家」というものは所詮「虚構」であり,それような空虚な物を彼是論じることは無意味である,というような禁手に縋るような反論の手口は,マルクス主義の威光が霧散した21世紀において,今後増して行くに違いないが,坂本氏の慧眼はその可能性を確り捉えていたようだ.

 3.については,昨年日本放送協会が「新選組!」を一年に亙り放映して,戊辰戦争に至る経過を新政府側の視点ではなく主に旧幕府側のものから描いたというような脱・官製「明治維新」観的潮流の前兆の一つと言えるかも知れない.標題を素直にとると1871年以降を扱っていると予想されるが,実際は大政奉還の慶応三年まで戻り,戊辰戦争に至る経過を含めて,より広くなされた議論の結果を具現した政体とはどの様なものなのかという問いについての角逐を,大日本帝国憲法発布までの約四半世紀に亙り描いている.義務教育の歴史科目で近代日本史について勉強した者にとって,慶応四年=明治元(1868)年はある種の大分水嶺のように認識しがちだが,明治官製の「明治維新」の神話から解脱すれば,慶応三年から明治22年はあるべき国家像をめぐる長い勝ち残り戦の期間であった,という解釈も可能となる.戊辰戦争誘引で旧幕府系有力者が土俵から弾き出されたのを手始めに,その後,新政府内での争いで排除される者が続出し,戊辰戦争を誘引し勝ち組であったはずの西郷隆盛までが明治十年には負け組みに名を連ねてしまう.また,西郷亡き後,遂に勝ち残り組みの頭目と思われた大久保利通にしても敢え無く兇刃に斃れ憲法発布まで生き存えなかった.世間に根強く残っている官製「明治維新」観では明治初期の政府内での角逐や試行錯誤についてはさらりと流している.しかし,今のような前例踏襲では未来が拓けない時代においては,明治の元勲達が前例無しの状況においてどの様に意思決定し,試行錯誤を重ねた末いかに道を切り開いて行ったのかを温故知新することは非常に有益ではないだろうか.(続く)

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