波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

めざまし艸 総説篇 知的営みの足跡記憶としての図書館

2005-05-04 02:23:12 | 近現代史
 私が現在利用している図書館は1990年代になって分類体系を変えたため,旧分類体系によって分類された図書は高い階に,新分類体系によるものは一階に配架されている.旧分類体系の階を徘徊していると,過去利用した日本の普通の図書館では催すことがなかった不思議な感慨が湧き上がってくる.特別な文庫や図書館を除いて,日本の図書館の多くは戦後設置されたもので,当然のことながら収蔵している資料も戦後特に高度成長期以降のものによって占められている.たとえ戦前の資料が有ったとしても別置されていて簡単に利用できなかったり,また戦中・戦後占領期の資料になるとその希少性も相俟って滅多にお目にかかることもない.よって,今の日本において,ある特定の主題について明治以降現在まで出版された和文の書物を書架上に一望にできる機会・場所は非常に限られている.先に触れた図書館は,海外でありながら明治以降1990年代迄の日本人の知的営みを一望する機会を提供している貴重な場所なのだ.

 後日の記入で詳しく触れることになると思うが,過日当該図書館で,占領下の昭和25年,朝鮮戦争勃発直前に刊行され占領軍の事後検閲で発禁になった単行本を発見した.戦後の物不足時代を反映して粗悪な更紙に印刷されていたため,現在は酸化が無惨にも進行していて頁捲りにも注意が必要な状態になっていた.そのような少数限定出版であったと想像される当書をこの図書館は発刊2年後の昭和27(1952)年に受け入れていた.私は,この書との邂逅を通して,当該図書館の収書方針や当時の収書担当者の執念に対するある種の畏敬を感じると共に,今の日本,就中(なかんずく)日本の図書館に欠落しているものが何であるかを悟った.7年間に亘る占領という日本にとって未曾有の体験が日本に刻み込んだ文化的断絶に対して,戦後60年経ちながらも未だ日本人が精神的占領状態から脱却できず,この断絶という傷を放置して,すなわち自分達と過去との連綿・紐帯の回復を果たすことなく,過去との断絶こそ未来を開くというような錯覚に陥り,徒に彷徨を続けている状況が今の日本の図書館に具現されている.占領終了後,日本人がいち早く占領期の洗脳から脱却していたならば,21世紀の日本の図書館においては,昭和20年以前に刊行された書物がそれ以降のものと同じ棚の上に配架されていたに違いなく,今の日本人は過去との紐帯を書架上の図書を通して体感できていたはずだ.しかし,実際の歴史はその様な経路を辿らなかった.過去との紐帯を取り戻すためには,道に迷った時と同様,何らかの地図や道標に頼るしかない.この「めざまし艸」シリーズでは,寸断された過去との接点を再発見し今と過去を繋ぎ戻す試みを色々紹介していきたい.
 
 昨年,米国の北東の角にあるメイン州政府のサイト上で,マルクスによるとされる箴言(しんげん)が引用されている(http://www.maine.gov/sos/path/student/quotes.html)のを発見した.
“If you can cut the people off from their history, then they can be easily persuaded.”

西遊記で,御釈迦様の掌中を飛び回っていただけなのに,天界の果てまで来たと尊大にも思い込んだ孫悟空の迂闊さは占領終了後の日本にも当てはまるのではないか.

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