医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

で、結局医療は何に支えられてきたのか

2005-02-17 00:08:00 | 医学ネタ
まとめです。まとまらないでしょうし、明日は違う事を言っている可能性も高いのですが。
医療がうまくいく方法は1つです。「人間の機械化」です。実はこれ、資本主義の考え方と全く一緒です。ようは消費者の規格化、標準化によって生産物も規格化、標準化させることができる。生産物が規格化されればまた消費者も規格化が進むという繰り返し。我々は気づかないうちにこのサイクルに入り込み能動的にドライブさせています。これが資本主義の「思惑」です。いちいち「個性的な人間達」相手に販売戦略など立てられませんから。あくまで消費者が規格化されているからこそ「戦略」などという概念が生まれる。

医療だって同じです。我々がまず学んだのは人間の規格化からでした。それは生理学、解剖学などによって進められ納得させられます。人間はこうすれば確実にこうなるのだ、と。この辺の分野はまだいいですよ。確かに規格化するに足る似た部分が多いですから。しかしこれだってちょっとした差異というものは無視されます。もちろん主体的に無視するのです。ところがそうもいかなくなってきたのが精神面です。こればっかりは規格化が難しい。分類はどんどん細かくなってゆきそれは要は差異の消滅する次元まで進められる。そこで初めて精神の規格化が完了するのでしょう。話をもどすと、こうやって医療によって人間は規格化されているから治療が可能となっているわけです。人間が個々にバラバラの身体、身体観、身体像を持っていればいちいち標準的な治療なんてできないのですから。

今我々がやっている医療の研究、治療の成果(EBMという概念で大流行ですが)はすべて医療に都合のいいように人間を規格化する作業です。いいですか、こうやって医療だけでなく特に経済の面でも我々は規格化されているのです。今や大量消費経済によって生活はほとんど同じ、メディアによって考え方もほとんど同じ、薬によって体質だって同じに。規格化する、ということは人間を「機械」だと思うことと同じです。こうすれば人ってこう動くよね。そうやってマーケティングはなされています。ある意味人を馬鹿にしていますが、実際我々はそう動いてしまうのでしょうがありません。移植医療だって人間を機械だと思っているからこそ出来る医療です。もし臓器に心が宿っていると考えればできないでしょう?脳を移植するってありえないでしょう?でもこうやってすべてのものを取り替えて不老長寿を目指す今の医療は人間を機械のように扱って故障したから取り替えましょう、と言っているのと同じです。大量生産のテレビと同じアイデアです。

我々は真の個性など望んではいません。それは生産者にとっても扱いにくいですし、消費者としても理解不能な個性など恐怖の対象にすぎないのです。(理由も解らず人を殺す事件。みんなが必死で理由をでっち上げますよね)結局中身の理解できるちょっとしたバリエーションを望んでいるだけです。標準化された商品の色が違うものを望んでいるだけです。そして標準化の為の戦略は次々と進められてゆくのです。

ただそれでいいのでしょうか?もちろん私は群れをなして生きる野性の水牛達にあえて外から「そこから離れろ!」などというお節介を焼くつもりはありません。標準化は生きる為の知恵でもあるし、それを喜んでやる人たちならこちらも喜んで規格化を利用させていただくつもりです。しかし本当にそれで楽しいのか?人生生き生きと生きているのか?そこを問い詰めたい。規格化、機械化された身体。そこにあるのはいつだって生気を奪われた物体が転がっているだけである。これを「健康」と呼んで良いのか。人が活力を持って、生きるために自分で生命を築いてゆく。それが「健康」なのではないか。そう思うとどうも機械化された身体は医療にとって扱いやすく健康に運びやすいのでしょうが、私の思う「健康」とは違うようです。

規格化はコントロールしやすい。そしてそれを一番利用したいのは国家であり、企業であり、医療である。仮に人間が全部同じ材料、仕組みで出来ていたとしよう。すべての人に標準化された治療をすればみな同じ結果が期待できる。医療の勝利です。今我々が困っているのは同じように薬を出しても同じように結果がえられないからです。もしかしたら薬を投与してコントロールする、という作業は身体を大雑把に管理することで標準化しようとする作業なのかもしれません。

結局私がやろうとしていた医療はそういった身体の標準化の解除なのかもしれないと、ちょっと思います。どんどんと現代医療に敵対し、遠ざかるかたちの。今あちらこちらで見られる社会問題。それは身体の標準化と関係がある気がします。世間によって身体は標準化されていくのに、やっぱり身体は人それぞれ違う。そのひずみで悲鳴をあげているのではないかと。私が目指しているのは治療できなくなる医療なのではないか。

ソメイヨシノは完全なクローンだと書きました。一斉に咲くあの姿は確かにきれいです。しかしあれがきれだと言うのは一糸乱れぬ北朝鮮の軍隊パレードが美しいといっているのと同じで一部の地域がそうだからまだいい、というもので日本中すべての草木がソメイヨシノではきれいでも何でもないでしょう。映画の黒沢監督が言っていたのですが、全く違うキャラを4人(確かそれくらい)生み出すのは神業であると。人間などというもの、それほど多くの違いをきちんとは認知できないのだと。あとは解らぬまま。そういうもんだと思います。占星術で12に性格を分類したり、整体で10に体癖を分類できるのは本当に神業だと思います。つまりいいたいことはこういうことです。人ってほとんど分からないものです。それをきちんと過不足なく分類することすら難しい。だからこそいいもの、興味をもって接せられるのだと思います。私は最近になってようやく「人間には恋をすると胸がドキドキしないで頭がバラ色になる」人種がいる事を知りました。だって、私は恋をすると確実にのどが、胸が苦しくなって呼吸困難に陥り湖の中で溺れている感覚に陥り、間違っても頭がお花畑でバラ色なんてことにはならなかったものですから。

そうすると結局ありのままをなんとなく、でいいんじゃないかと。もう人間をコントロールして規格化して機械化して整備しやすくする医療には飽きました。これから科学が経済が進歩すれば今の医療は魔法のようにうまくいくでしょうけどね。だって一般市民はそのタネ(自分たちが規格化されてしまっている)を知らないのですから。でも確実に「健康」ではなくなるだろうなと、そう予想します。私は今、もっと「生きる」ってどういう感覚なのか、追っていかなければならない。そう感じています。