医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

何かを愛する能力を考える

2005-09-24 03:06:17 | 日記
何かを「愛する能力」というものがあると思うのだ。それは惚れるということとは違う。「惚れる能力」はいまいちしっくりこない。なんだか惚れることに能力はそれほど必要がない。惚れるとはいわゆるパターン認識パターン反応だということにしよう。既存の価値、既存の美意識に当てはめてゆく行為、だから萌えるというのも同じ。「猫耳萌え」も「メイド服萌え」も「デブ専」も「人妻」も「マッチョ好き」もすべて惚れる行為であって愛する行為ではない。

愛する能力の優れた人は未知の物に何かの興味を見出す。趣味が多彩な人が多い。また一見何もないところに美を見出す。人が好きな人達が多い。個々人が見つけた美的感覚ゆえ時々好きな理由が全く理解できない事もある。しかしその対象が好きというそれだけで十分なわけで。そういえば私の知り合いにとある女の目の下の「くま」が好きという男がいた。その娘は疲れてくると目の下に確かにくまができるのだが、どう見てもかわいいものではない。が、それがあまりにいいのだとか。たいしたものである。

恋愛は共通点でするものではない。何で好きになったかと言う話で「価値観がにていたから」とか「考え方が近いから」とか「趣味が似ているから」という理由をよくきくが、どうも違う気がするのだ。恋愛や結婚は他者を初めて真っ向から見つめ取り込もうとする作業ではないのだろうか。差異をどこまで愛せるかの極限の作業であり、異物を真剣に取り込む作業なわけで。そうなるとかれらの恋愛はスタンスが最初から違う。同種の価値観は友達で十分ではないか。異物の取り込みは必ずその人の栄養となるわけで、愛する能力はそこでも必要なのである。愛する能力を失った人たちは常に自分と同じ価値観の共通点を求めつづける。その結果生まれるのは共通点の中にも存在する微妙な差異の発見であり、それが膨らんでゆき亀裂が生まれてゆくのだ。このスタンスでは恋愛は長続きしないものだという世間一般の認識も納得が行く。

現代医療は客層が選べない。他の職業はある程度客層を絞り込むことも可能であり戦略にもできるわけだが。いろんな方々がくるとどうしても愛せない人もいる。無茶苦茶な人たちもいる。(あくまで私の価値観では、ということですが)その時に愛する能力の不足を感じざるをえない。この能力は明らかに個人差がある。飲み屋に集まって色んなことをしている人たちを見るとこういう能力が優れている人たちが多い。この能力差がどこからくるのか?そしてこの能力不足が自殺やいじめや引きこもりやうつや人格障害などの諸問題に重大に関係している気がしてならないのである。何を食べても下痢を起こしてしまい栄養失調で弱ってゆく人達、社会、国家。なまこを初めて食べた人は本当に偉いのである。

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