カンブリア宮殿という番組が好きで、ほぼ毎回観ている。
録画してあった1月末の放送をようやく観たら、あまりに共感するところの多い内容で、涙が出て来てしまった。
テーマは「在宅医療」だった。
私の父は、癌で何度も入退院を繰り返し、闘病虚しく5年前に亡くなった。
未だに後悔していることが一つあって、
それは坊っちゃんの顔を見せてあげられなかったこと。
不妊治療をしていた私は、孫が生まれれば何か父に希望とか喜びを与えられるかもしれないと、
不妊治療も長引いていたので、ちょっと思い詰めてしまっているところもあった。
こればっかりはどうしようもないことなのだけれどね。
父は最初から自宅で死ぬことを希望していたのではなく、
生きようと闘ったのに、病院での治療はもうできることが無くなってしまって、
余命宣告をされての選択肢だった。
自宅に戻ってしばらくは、車で1時間かかるその病院に通院していたけれど、
いよいよ移動が辛くなり、そうまでして通院する意味ももう見出せず、
在宅で診てもらえる先生を探した。
父の希望ではあったけれど、自宅で看取るのは大変だった。
食べたいけれど食べられないジレンマ。
これなら少しは食べられるかな、食欲湧くかな…と作る方も必死だけれど、
やはり何度も吐いてしまうし、少しでも食べなくてはと一生懸命だった父も、刻一刻と弱っていく現実を受け入れられずに辛かっただろう。
トイレに起き上がるのさえどんどん大変になるのを、見ているのも辛かったし、
痛みが強くなりモルヒネの量が増えると、うわ言のような、時間の感覚が交錯しているような発言が増えて、希望通りに動いてあげたいと思っても聞き取れないこともほとんどだった。
いつその時が来るのかと先の見えない気がした、父が自宅で過ごした最期の時間は、
3ヶ月と少しくらいだった。
諦めきれずにもがいていた父が、体力が落ちるのと共に気力も落ちていき、
あんなにエネルギーに溢れていた父の生命力がどんどん弱まっていくのを目の前で見続けて、
同時に私たち家族も覚悟ができて行ったような、
そんな時間だった。
番組の中で、
「そこを見ている家族は確かに大変だと思うけれど、その大変なところを、自分が見ていないところで起きていればいいのか」
「大変なところも含めて、亡くなっていく過程を見る、それが一緒に生きるということ」
「その時間を家族が一緒にいることが大切。死に様を見せて、何かを受け取って欲しい」
と医師が言っていた。
もう5年も経つのにこんなに涙が出るのかと思った。
あの時、在宅医療を受けてくれるところも探した限りでは一つしかなかったし、
どんどん弱っていくのを毎日胸が締めつけられるような思いで見ながら、
とにかく父が望むようにと手探りで、
死を目の前にする父に何かをしてあげられたのかと後悔のような思いもあったけれど、
でも「一緒に過ごした」=「死への時間を共有した」ってことが、残された私たちに必要なことだったんだと、
5年経って整理できた気がした。
もし夫が先に死を迎えるなら、自宅で私が看取りたい。
でも私が先に死ぬのなら、私は病院か施設で…と漠然と思っていたけれど、
なんだかこの放送を観て考えが変わった。
私も自宅で死にたいな。
最期は夫と一緒に過ごしたい。
坊っちゃんは…どうだろう。
想像すると可哀想過ぎて、やはりそんな日はしばらく来ない方がいいけれど。
もうすぐ、父の命日。
今年も父が大好きだった桜の花を持ってお墓参りに行こう。
坊っちゃんと一緒に。