ご無沙汰です。皆さん、W杯見てますか? そうですか。
まぁ、私は一切見てませんけどね。いいじゃん、別に。頑張って欲しいけど、負けたって、引き分けたって、勝負の世界は仕方ないじゃん。
さて、今日はドイツ繋がりで話題を1つ。昨日(6/17・土)久方振りに映画を観ました。
『白バラの祈り』(2005年・ドイツ)
立命館大学国際平和ミュージアムにて上映会が企画されていたため、500円にて鑑賞。13時と17時の2回上映だったのですが、17時からバイトなので13時上映に間に合うように平和ミュージアムへ。どうやら、17時上映にはryogaちゃんや黒衣氏らも来ていたらしいのですが、そんなことは露知らず、前から6列目、黙々と鑑賞。
第二次世界大戦中、ドイツの大学生によって結成された「反・ナチス」組織「白バラ」を描いた作品。史実に基づいている分、受けるインパクトは大きいですね。
最終的に、人民裁判によりギロチン刑にかけられる主人公ゾフィーと仲間たち。これだけの記述であると「悲劇」と言われがちですが、そうではないと。作品の主題は、ゾフィーらの揺ぎ無い「誇り」と「希望」。最終的に、「死」を選ぶか、それとも「妥協」するか、迫られた時のゾフィーの言葉に、ドキリとさせられます。
しかし、反ナチを叫ぶビラを配布しただけで、「死」に値すると考えられた時代。これがどういうことなのか考えねばなりません。
思うに「希望」を何処に見出すか、ということが大きなポイントなのでしょう。ゾフィーらは、「反ナチス」に希望を見出した訳です。つまり、現状の政権打倒後こそが目指すべき世界だと。しかし……(少なくとも表立ったところでは)ドイツ人の多くは(そして日本人に関してもですが)、希望を見出す先は「ナチス」つまり現政権にあった、という事実も忘れてはいけません。後戻り出来ない状況に追い込まれれば追い込まれるほど、追い込まれる原因となったナチスにすがるより他なかったのでしょう。皮肉なものです。
が、もし私だったら……とやはり考えてしまいます。私だったら、何処に希望を見出すのか、と。
ゾフィーを担当する取調べ官は、ナチスに希望を見出した典型的な人間として描かれています。そして、残念ながら(?)この映画の中で今の私に最も近いであろう人物は、この取調べ官なのだろうなぁ、とも思った訳です。
彼はゾフィーらの行動を軽薄だ、馬鹿げている、と言いながらも、何故そんなことをやるのか、とも問いただしています。大学生という一定階級が保障されているにも拘らず、何故なのか、と。(実際、どうだったのかは分かりませんが)もし「白バラ」の活動が当時のドイツで公になったとしたら、多くの善良なドイツ市民はどのように捉えたのでしょうか? 心からの憎悪や憤り、または密かな賞賛を送る市民もいたのでしょうが、私は取調べ官同様、理解に苦しむ市民の方が多かったと思います。黙ってさえいれば、当面の生活は確保できるし、まして死刑を宣告されることなどないのですから。
今の時代から過去を見つめる際、ゾフィーたちは正しく、ナチスを支持したドイツ国民は誤りだった、と評することは簡単です。しかし、悪い言い方をすれば、そういった評価は結果論でもある訳です。少なくとも、ゾフィーたちが生きていた時代であれば、彼等の行動は国内では当然、評価されるべくもなかったのですから。
そんなことを考えているうちに、やはり絶対的な「正義」など存在しないのだろう、と考えてしまいました。加えて、現代人は自分たちの過去(それこそ、絶対的に信じられていた自分たちの正義や信念など)をどう評価するのか、大きな課題が課せられており、かつ応える責任があるのだとも感じました。
いずれにせよ、考える機会にはなりましたし、自己批判する機会にもなりました。
ただ気になるのは、実際、ゾフィーたちは「死」を恐れていたのか、いなかったのか、ということ。映画の中では、限りなく死を恐れ、しかし信念(良心)のために死んでいった、という印象が強かったのですが……実際はどうだったのでしょうか?
個人的な意見ですが、願わくば映画のようであって欲しいなと願います。最初から「死ぬ覚悟」で何事にも臨むというのは、どうにも狂気的な感がするので……。
まぁ、私は一切見てませんけどね。いいじゃん、別に。頑張って欲しいけど、負けたって、引き分けたって、勝負の世界は仕方ないじゃん。
さて、今日はドイツ繋がりで話題を1つ。昨日(6/17・土)久方振りに映画を観ました。
『白バラの祈り』(2005年・ドイツ)
立命館大学国際平和ミュージアムにて上映会が企画されていたため、500円にて鑑賞。13時と17時の2回上映だったのですが、17時からバイトなので13時上映に間に合うように平和ミュージアムへ。どうやら、17時上映にはryogaちゃんや黒衣氏らも来ていたらしいのですが、そんなことは露知らず、前から6列目、黙々と鑑賞。
第二次世界大戦中、ドイツの大学生によって結成された「反・ナチス」組織「白バラ」を描いた作品。史実に基づいている分、受けるインパクトは大きいですね。
最終的に、人民裁判によりギロチン刑にかけられる主人公ゾフィーと仲間たち。これだけの記述であると「悲劇」と言われがちですが、そうではないと。作品の主題は、ゾフィーらの揺ぎ無い「誇り」と「希望」。最終的に、「死」を選ぶか、それとも「妥協」するか、迫られた時のゾフィーの言葉に、ドキリとさせられます。
しかし、反ナチを叫ぶビラを配布しただけで、「死」に値すると考えられた時代。これがどういうことなのか考えねばなりません。
思うに「希望」を何処に見出すか、ということが大きなポイントなのでしょう。ゾフィーらは、「反ナチス」に希望を見出した訳です。つまり、現状の政権打倒後こそが目指すべき世界だと。しかし……(少なくとも表立ったところでは)ドイツ人の多くは(そして日本人に関してもですが)、希望を見出す先は「ナチス」つまり現政権にあった、という事実も忘れてはいけません。後戻り出来ない状況に追い込まれれば追い込まれるほど、追い込まれる原因となったナチスにすがるより他なかったのでしょう。皮肉なものです。
が、もし私だったら……とやはり考えてしまいます。私だったら、何処に希望を見出すのか、と。
ゾフィーを担当する取調べ官は、ナチスに希望を見出した典型的な人間として描かれています。そして、残念ながら(?)この映画の中で今の私に最も近いであろう人物は、この取調べ官なのだろうなぁ、とも思った訳です。
彼はゾフィーらの行動を軽薄だ、馬鹿げている、と言いながらも、何故そんなことをやるのか、とも問いただしています。大学生という一定階級が保障されているにも拘らず、何故なのか、と。(実際、どうだったのかは分かりませんが)もし「白バラ」の活動が当時のドイツで公になったとしたら、多くの善良なドイツ市民はどのように捉えたのでしょうか? 心からの憎悪や憤り、または密かな賞賛を送る市民もいたのでしょうが、私は取調べ官同様、理解に苦しむ市民の方が多かったと思います。黙ってさえいれば、当面の生活は確保できるし、まして死刑を宣告されることなどないのですから。
今の時代から過去を見つめる際、ゾフィーたちは正しく、ナチスを支持したドイツ国民は誤りだった、と評することは簡単です。しかし、悪い言い方をすれば、そういった評価は結果論でもある訳です。少なくとも、ゾフィーたちが生きていた時代であれば、彼等の行動は国内では当然、評価されるべくもなかったのですから。
そんなことを考えているうちに、やはり絶対的な「正義」など存在しないのだろう、と考えてしまいました。加えて、現代人は自分たちの過去(それこそ、絶対的に信じられていた自分たちの正義や信念など)をどう評価するのか、大きな課題が課せられており、かつ応える責任があるのだとも感じました。
いずれにせよ、考える機会にはなりましたし、自己批判する機会にもなりました。
ただ気になるのは、実際、ゾフィーたちは「死」を恐れていたのか、いなかったのか、ということ。映画の中では、限りなく死を恐れ、しかし信念(良心)のために死んでいった、という印象が強かったのですが……実際はどうだったのでしょうか?
個人的な意見ですが、願わくば映画のようであって欲しいなと願います。最初から「死ぬ覚悟」で何事にも臨むというのは、どうにも狂気的な感がするので……。