Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

うつせみ

2007-12-15 | 外国映画(あ行)
★★★★★ 2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「究極の愛の形を求めて彷徨うギドク」


レイプだの、ロリータだの、ギドクって男は女を何だと思ってるんだと思ったら、こういう女性の願望をそのまま投影したようなロマンティックな作品を作ってしまうから本当に参る。結局、彼はとどのつまり“愛”って何なんだ?という旅を続けているのだろう。いろんな角度から愛を眺め、出ることのない答えを求めて作品を作り続ける愛の殉教者とでも言おうか。

通りすがりの男に何かも預け、連れ去って欲しいというのは、女の究極の憧れかも知れないと、「ヴァイブレータ」でも書いた。あれがトラックに乗った王子様なら、こちらはバイクに乗った王子様。しかも、このふたりに言葉は無用。何も言わなくても全てが通じる。夫に責められようが、警察に捕まろうが何もしゃべらない。これが実に象徴的。言葉にした途端にふたりの関係は実に陳腐な代物に成り下がってしまいますから。

テソクがソナを連れ去り毎夜留守宅に泊まる前半部を “動”だとすれば、ふたりが警察に捕まってからの後半部は“静”の展開と言えましょう。しかし、鑑賞後心に深く残るのは、“動”ではなく“静”の方。ソナがふたりの名残を求めるかのように、泊まった留守宅を再び訪ね歩くシーン。そして、テソクが「影」を体得するために刑務所で見せる幻想的な舞踏。映画とは、映像で心に語りかけるもの。その幸福感が私を満たす。

ラストはギドクには珍しく愛の成就が感じられてカタルシスを覚える。肩越しのキスシーンもいいし、影の朝食のシーンも素敵だ。しかし、抱き合ったふたりの体重計の目盛りはゼロ。最後の最後になってギドクはわずかな毒を残したか。だが、その毒は私の心を汚すことなどなかった。だって、実に映画的な恍惚感に包まれていたから。

ただ、ギドクってこうやって、幸せな気持ちにさせておいて、また突き落とすようなことするのよ。これが、ギドク・マンダラならぬギドク・スパイラル。一度はまると抜け出せません。