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Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

Sweet Rain 死神の精度

2008-10-29 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2008年/日本 監督/筧昌也
「原作の映画化としては大成功」

原作を読んでいるのですが、正直この作品の映画化は難しいだろうと思っていました。なぜなら、6話程度のショートストーリィから成り、2時間という尺でうねりを出すような風合いの物語ではないからです。言わば、間を楽しむといった手合いの小説。しかし、観てみると期待以上の出来映え。ふんわりとしたムードを押さえつつ、3話のエピソードが死神を軸にしっかりと1つにまとめあげられています。これは、脚本がうまいですね。上手に削り、上手に付け加えました。原作に相棒の黒犬は出てきませんが、犬と死神が無言で会話するという現実離れしたシチュエーションも作品が醸し出す浮遊感をうまく盛り上げています。

何と言っても本作の面白味は、「何事も達観している死神」と「目の前の出来事に一喜一憂しているちっぽけな人間」の対比が実に良く効いていること。その一番の貢献者は、やはり死神を演じている金城武です。近年の彼の作品の中ではベストアクトではないでしょうか。浮世離れした風貌、飄々としたセリフ回し、どんな設定の人間になっても何色にも染まらない透明感。立場は人間より上ですが、全く嫌味がありません。しかも、その存在がでしゃばり過ぎていない。だから、3つのエピソードの人間たちの悩みや苦しみがきちんと際だっているのです。焦点の合わない目でヘッドフォンを付け、リズムに合わせて肩を揺らす様子も実におかしい。

また、3話のエピソードは時を超えて繋がってくるわけですが、ラストにかけてどうだと言わんばかりの仰々しさが全くないのも非常に好感が持てます。作り手としては、どうしても観客をあっと言わせたいがために、種明かし的な演出に走りがちですけれども、実にさらっとしています。そして、そのことによって、最終的には金城武演ずる死神の人生がクローズアップされてくるんですね。それまで語り部としての役割しか持たなかった死神に、初めてこの世の美しさ、人間世界の温かみといったものを体感させる。なかなかじんわりできるエンディングです。不安が多くて足が向かなかったのですが、こんなことなら、映画館で観れば良かったです。

サウスバウンド

2008-09-09 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2007年/日本 監督/森田芳光
「子供は大変だろうけど、面白いオヤジ」



あまり期待していなかったからでしょうか。とても面白かったです。

森田監督は好きな監督です。私の映画友が「出来不出来の差が激しい」と嘆いていましたが、そうかも知れません。ただ、私はとても安心して見ていられます。阪本順治監督の作品を見るときの安心感と近いです。校庭の外を捉えた映像が何秒かして、すーっと教室に移動していく。そんな安定していて、ゆったりしたカメラの動きが好きなのかも知れません。子役たちへの演出もガチャガチャしていないとでも言いましょうか、のんびりゆっくりやらせている感じが良いです。子役って、どうしても突っ走ってしまいますからね。妹の女の子の飄々とした感じがすごく好ましかったです。

さて、本題。ファン目線をさっ引いても、上原一郎を演じる豊川悦司が良かった。正直、この役どころを聞いた時に、私は怖くて映画館に足を運べませんでした。かなりイタい役どころなんじゃないかと思ってましたから。ところが、どっこい。バッチリじゃないですか。きょとんとした奇妙な間を作ったり、ニコニコしながら全共闘時代を思い出させる演説をぶったり。おかしなお父さんぶりが板についています。

「学校指定の体操服がこんなに高いのは、業者と学校が癒着しているからだ!」と常日頃言っている私としましては(笑)、上原一郎のやること、なすこと、共感してしまいました。彼らが西表島に移住して問題に巻き込まれた時に、妻が「どこに言っても同じなのね」とつぶやくセリフも同感。西表の問題なのに東京の有名キャスターだか、NPOだかが首を突っ込んでいる辺りを皮肉たっぷりに描いているのも、共感。このあたりの物語のディテールの面白さは原作の力なんでしょうね。

そして、沖縄キャストにいかにも素人くさい人たちにお願いしているのが、味があっていいのです。校長先生は「恋しくて」にも主演されていた女優さんだと思いますが、やはり沖縄の話には沖縄の人に出てもらわないと。そんな中、駐在さん役の松山ケンイチが光っています。彼はバイプレーヤーの方が存在感を出すと思うのは私だけでしょうか(Lは除く)。


三年身籠る

2008-08-24 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2005年/日本 監督/唯野未歩子
「静かな佇まいにのぞく強いメッセージ」




3年間も子供を宿すという奇異な設定なのに、非常にゆったりとしたカメラワークで、落ち着いた流れの作品。唯野未歩子、あのふわふわした標榜からは想像できません、これは恐るべし。すさまじく大きくなったお腹のために冬子が玄関でなかなか靴が履けない。そんな後ろ姿を鴨居ごしにじーっとカメラが捉え続けます。そのようなフィックスカメラがとても心地良かったです。

馬の赤ちゃんは産まれたらすぐに自分の足で歩くのに、人間の赤ちゃんはそこからの育児が実に大変。そこをすっ飛ばしてくれたらどんなにラクか…なんて、出産経験のある女性なら誰しも思ったことはあります。そこで、3年間お腹の中で育てるというわけです。育児はラクになるかも知れませんけど、気味悪いですね。不安ですね。だけど、冬子は全く動じない。医師の薦めを断って自然分娩にこだわる。そこに、全てを受け入れる母性の強さを感じました。冬子は徹底的に従順な女として描かれています。夫の浮気さえも受け入れている。しかし、それらの全ての受容の源は「私は命を宿している」というところから生まれる揺るぎない自信なのです。か弱くて、自分の意見も言わず、ほんわかした外見の内に秘めた強固な意志。

面白いのは、この作品の裏テーマとして、男はどのようにして父親になるのか、というのがくっきりと浮かび上がっていることです。赤ちゃんが生まれてすぐは男の人は父親の実感がないと言いますが、まさにこの作品ではそこを突いてきます。妻が3年も子供をお腹に宿していく、その時間の流れと共に当初浮気していて、全くその気のなかった夫(西島くん)が段々父親としての決意を固めるのです。3年という月日が彼に受け入れる決心をさせるんです。

冬子の妹、母、祖母など女系家族が織りなす「女とは?」のメッセージ。しかしながら、やはり女を描くことは、男を描くことと同じである、とまたしても痛感。のびやかなタッチの中にどっしりとした心構えと強いメッセージを放っている秀作だと思います。2作目が楽しみです。

純喫茶磯辺

2008-08-15 | 日本映画(さ行)
★★★☆ 2008年/日本 監督/吉田恵輔
<テアトル梅田にて観賞>
「役者とセリフの違和感」



前作「机のなかみ」がやたらと面白かったので、ちょっと期待し過ぎてしまいました。

まずキャスト。どうしようもないダメ女「モッコ」を麻生久美子が演じているのですが、私は彼女に対して清楚で儚げなイメージが強く、最後までそのギャップに苦しみました。前作同様、女子キャラにおいて大どんでん返しがあるのかと先入観を持ってしまったのもいけなかったのかも知れません。ぼんやりしていて頭のトロいモッコが、終盤居酒屋でトンデモ発言を繰り返す辺りは、何ともむずがゆい悲しいような可笑しいようなムードが流れるはず、なんですが、やっぱり麻生久美子なだけに笑えませんでした。また、宮迫はヘタに演技がうまいのが却って裏目に出ていたように思います。喫茶店の客として、前作で主演したあべこうじと踊子ありが出てくるのですが、並んでいるだけで笑える、笑える。主演は、有名俳優じゃない方が作品の空気感がストレートに生きた気がします。これ、「アフタースクール」でも同様のことが言えるかも。

前半部、どうでもいいカットが多数インサートされるのですが、これが面白さの効果を発揮せず、逆に間延びした雰囲気になってしまっています。例えば、自分の足の裏の匂いを嗅ぐ娘の風呂上がりのシーンとか。ユルいテイストで面白さを出すと言うのは、本当に高度な技術だなあとつくづく感じさせられます。この点においては、山下作品はほとんどハズレがなくて、すごい。

一番興味深かったのが、セリフ。「え?」「あ…」と言ったひとことにも及ばない、一文字ひらがなのセリフが異様に多い。そして、「なに?」「いや…」「だね。」「まあね。」など、ほとんどコミュケーションの体をなしていない会話のオンパレードです。 これは、監督の意図的なものでしょう。そうとしか思えない。相手に気持ちを伝えるのが不器用な人々ばかりで、そのもどかしさを表しているのかも知れません。また現代人の会話を少々誇張して見せているのかも。こういうセンテンスを成していないセリフだけで、1本の作品が撮れるのか、という実験作のようです。本来ならば、それが笑いやおかしみになればいいのですが、俳優陣がそれをうまく使いこなせていないと感じました。あべこうじなら、このニュアンスはうまく表現できたかも。高校生の父親ってのは、年齢的に難しいですけど。

エンディングにかけての咲子の切なさがもっとめくるめくような展開と受け止められたら良かったのですが、結局最後までノリきれませんでした。これに尽きます。わざと「ハズす」。そして、そのズレを楽しむ。こういうタイプの映画の場合、どこまでノレるか、というのがポイントで、私は置いてけぼりを食らってしまった感じです。

ストロベリーショートケイクス

2008-07-25 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2006年/日本 監督/矢崎仁司
「愛しい彼女たち」



4人の女優、全員すばらしい演技を見せてくれるが、特に中村優子と岩瀬塔子、この2人の存在感が秀逸。原作者である魚喃キリコ氏(岩瀬塔子)がこれほどまでに、良い女優だとは知らなかった。彼女の嘔吐シーンは、身を切られるほどつらかった。漫画は何作か読んでいるが、ぜひ女優業も続けて欲しいと思わせるほど、輝いていた。

あまりにも振り幅が狭い4人の女たち。これほど選択肢の広がった現代において、なぜそんな生き方しかできないのか、と見ていてつらくなる。男や神様(拾った石)が生きていく拠り所である、ということ。情けないし、ナンセンス。でも、そんな彼女たちを馬鹿にすることなど到底できない。もはや自分の足で立つ意思をもがれた女たちは、自分ではどうしようもないその孤独を「誰か」によって埋めてもらいたいと願い続けることしかできないからだ。その姿に、「いつかあの時の自分」を重ねられずにはいられない。

あの時の自分をとうに過ぎた今の私なら、黙って彼女たちを抱きしめてあげられる。だから、たどたどしい日本語で語られる「あなたのお母さんは元気ですか?」というひと言に、みるみるちひろの表情が変わりゆくシークエンスが切なくてたまらない。ここは、淡々と続く作品全体に明るい光が差してくるような、冷たい氷が溶け出すような、そんな心地よい変化の兆しを見せるすばらしいシーンだと思う。みんな、おっきくて、あったかいものに抱きしめてもらいたいんだよ。

この作品を「女性向け映画」とくくってしまうのは、とても惜しい。確かに20代の女性特有の頼りなさや切なさ満載で、同年代の女性なら響くものは大きいだろう。しかし、現代女性が抱える孤独は、決して彼女たちだけのものではない。彼女たちを受け止められない、持てあましている男性の存在も表裏の関係として(作中には描かれなくとも)厳然と存在しているのだから。トイレでパンティをおろしたまま拾った石に見入る、それはいらないシーンだろうか。誕生日にどうでもいい男と寝て顔に精液をぶちまけられる、それは話題作りのシーンだろうか。そんなはずはない。それらのリアルな描写の向こうに見える切なさやつらさがぐいぐいと私の中に流れ込んできて、彼女たちが愛しくてたまらなくなった。

女王蜂

2008-07-21 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1978年/日本 監督/市川崑
「全てを物語る岸恵子の目」



さて、初期の市川+石川版は「犬神家の一族」「悪魔の手毬歌」「獄門島」で三部作的な印象が強いため、この「女王蜂」という作品の評価は一般的に低いような気がします。もともとこの作品が期待薄だったのは、当時資生堂CMとタイアップしていたこと(加藤武は「口紅にミステリーか~」とわざわざキャッチコピーを言わせられてた)と、紅葉まぶしい京都の野点のシーンが豪華女優陣大集合ってな感じで宣伝によく使われていたことが原因だと思います。資生堂&京都の艶やかなお茶会は、いつものどろどろ怨念うずまく横溝世界とは、ちょっとイメージ違いすぎますから。

でも改めて見直すと、とても面白くて、前3作に負けない出来映えに驚きました。ちょっとこの作品を過小評価していたな、と深く反省。

まず、オープニングのスピーディな展開が観る者を一気に引き込みます。昭和7年のひとりの女とふたりの学生の出会い。そして3ヶ月後の惨劇。そして、その惨劇の謎を残したまま、昭和27年のテロップが流れたらいきなり時計塔の惨殺死体。のっけから過去と現在の殺人事件が立て続けに起きて、ドキドキします。その後も前作までの犯人役の女優が次々と登場し、サスペンスとしても十分楽しめる。ここで悲劇のヒロイン、中井貴恵の演技力がもう少しあったならと思うのですが…

と、前置きが長くなりましたが、何と言っても素晴らしいのは、岸恵子の「目の演技」。彼女の目の演技が、中井貴恵のつたなさや、資生堂とのタイアップやら興ざめする部分を帳消しにしてくれます。男を誘う妖しい目、男を疑う哀しい目、報われない愛を知る寂しい目。見つめたり、下から見上げたり、驚いたりとまあ、実に様々な美しい目の表情を見せてくれます。これは演技が上手いという範疇のものではない気がするなぁ。かといって天性のもの、というのでもない。彼女が人生において築いてきたものが全て目に出ている、としか言いようがありません。

彼女の目が語り続けるからこそ、最後の悲しい決断が共感を誘う。彼女に思いを馳せて金田一が汽車で編み物をするラストシーンが余韻を放つ。さすが市川崑監督。岸恵子と言う女優を知り尽くしていると痛感しました。


ザ・マジックアワー

2008-06-10 | 日本映画(さ行)
★★★☆ 2008年/日本 監督/三谷幸喜
<TOHOシネマズ二条にて観賞>
「みんなから好かれたい作品」




三谷幸喜は、なぜここまで大風呂敷広げた作品ばかり作るようになっちゃったんでしょう。陪審員が集う小部屋、ふたりきりの取調室、ラジオ局の小さなブース。小宇宙の中で繰り広げられる悲喜こもごものドタバタ劇のあの密度の濃い面白さは、もう二度と見られないのでしょうか。評判も高く、客入りも上々なんて話が飛び交う中、原点回帰して欲しいと全く逆のことで頭がいっぱいになるのでした。

映画へのオマージュ、ですか。映画を愛する人たちへ、映画に関わる人たちへ、そのアピール具合が目に余ります。オマージュを捧げると言うのは、一部をパクって見せる、またはパロって見せる、と言うのとは全く別次元です。自分自身の作品がしっかりと地に足を付けて完成された上で、あるシーンをふと思い起こさせるものであったり、同じテーマをそこはかとなく内包させたりするもの。これ見よがしにつぎはぎで並べ立てるものでは決してない。もはやこれはオマージュではなく、コラージュ。

もちろん、脚本家としての彼の力量がこれらのつぎはぎを何とか1本のうねりに仕上げているのは、間違いないでしょう。それでもなお、なにゆえ今の彼がこれほど映画に愛を捧げるフリをしなければならないのか、全く合点がいかないのです。決して、つまらないストーリーではなく、所々笑わされる部分もありました。しかしながら、私にとっては彼の「映画愛」が全ての観客、全ての業界人に愛されたいという媚びに見えて仕方ないのです。市川監督の「黒い十人の女」のパロディシーンも出てきます。これまでの三谷作品が、市川作品の一体何に影響を受けたというのでしょう。カッティングですか?セリフ回しですか?

フジテレビのバック、ということも大きいのでしょう。ここまで、有名俳優を出演させて、お金もかけておいて、お客さんが入りませんでしたというわけには死んでもいきませんもんね。でも、これで興行成績上がったら、三谷さん、もっと大きいセットでどーんとでかい映画やりましょうなんて話になるのかな。フジテレビは三谷幸喜の才能をつぶしてしまわないだろうか。私の周りでは大声で笑う人も結構いましたが、そんなに?という感じ。戸田恵子のヘアスタイルが違うのも、笑えるのは二度目まで。136分という尺も、長い。カメオ出演も、もう飽きました。95分くらいのミニマムな三谷作品が私は見たい。

接吻

2008-06-07 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 2008年/日本 監督/万田邦敏
<梅田シネ・リーブルにて観賞>
「どすーんと強い衝撃を胸に受けたような感触が残る傑作。」




彼を理解できるのは私だけ。彼を愛する資格があるのは私だけ。天啓を受けたかのように、殺人犯を一途に愛し始める女の孤独と狂気の物語。

万田監督のデビュー作「Unloved」の主人公光子は、仕事ぶりを評価されレベルの高い職を与えられるのを拒み、金持ちで分別もある若くてハンサムな男の愛を一途に拒否する。その拒否の物語は、世の中の価値観、とりわけ、女性ならきっと素直に喜ぶはず、喜んで受け入れるはずという価値観の真っ向否定だった。そこには、現代を生きる女性が抱える社会への矛盾が実に攻撃的な形となって現れている。まるで棒読みのセリフで淡々とした演出。しかしながら光子のあまりに刺々しい拒否反応が肌をざわつかせるほどの恐ろしさを見る者に与えた。

同じように「接吻」でも京子は、分別ある大人の代表としての役回りである弁護士、長谷川の再三の警告を拒否する。ただの思い込みと他人に見えるものも、京子にとってはもはや純然たる愛。唯一無二の愛だから、受け入れることなどできはしない。しかし、「Unloved」のように観賞者そのものを撥ね付けるようなムードはこの作品にはなく、極端な展開ながら、私は京子にどんどん呑み込まれていった。それは、この作品が恋愛映画としての強い吸引力を持っているからだ。

好きな男のそばにいたい。彼を励ましてあげたい。無理解な周りの人々に闘いを挑む我らは運命共同体なのだ。どんどんエスカレートしていく京子の行動を100%否定することができない私がいる。相手は、何の落ち度もない幸せな家族の命を奪った殺人犯。なぜそのような男を、と長谷川も言う。「あなたは彼が人の命を奪った事実を棚に上げている」と責める。だが、一度愛し始めたその感情は坂を転げ落ちるかのようにスピードをあげ、止めることができない。彼が殺人犯であること。それはそれ、なのだ。もはやそこに理性など存在せず、高ぶる感情がただあるのみ。その興奮、女性ならわかる、いや羨ましいとすら思えてくるのだ。そして、とうとう京子の狂気に長谷川までもが呑み込まれてしまう。なんと恐ろしい展開。

そして、驚愕のエンディングへ。あれは、一体どういう意味だろう、と頭が真っ白になった後、さらに追い打ちをかける京子のセリフ。そして、幕切れ。私は完全にノックアウトされた。エンディング時に味わうこの茫然自失な感じ。どこかで味わったことがある。ハネケの「ピアニスト」だ。

京子のあの行動、私は、坂口は運命共同体であるからこそ成し遂げられたが、長谷川には一瞬とまどった。そのとまどいに自分を愛する男への哀れみのような感情が侵入してきたからではないか、と推測した。しかし、恐らく正解などないのだろう。

無駄のない緊迫感に満ち満ちた演出もすばらしい。冒頭、事件の一連のシークエンス。襟首をつかまれ恐怖におののきながら、家に引きずり込まれる少女の表情がほんの一瞬映る。それ以外は直接的な描写はないが、これだけで背筋が凍った。また、坂口が獄中、事件当日を思い出す場面でも、前作「ありがとう」にも出てきた「手」の演出が登場。ぞくりとさせられる。そして、「私たちは謂われのない罰をたくさん受けてきた」と語る京子のセリフ、一つひとつが胸に刺さる。台本だけをじっくり読んでみたいほど、すばらしい脚本。

難役を自分のものにした小池栄子、お見事です。どこにでもいそうなOLがずぶずぶと狂気の世界に足を踏み入れていく様をリアルに演じた。田んぼのあぜ道で、刑務所のガラス越しで、切々と己の境遇を訴える京子のセリフにどれほど引き込まれたことか。そして、恐らくこれほどまでに凶悪な殺人犯は初めてであろう豊川悦司とじわりじわりと理性を失う弁護士、仲村トオル。まるでこの世には3人だけというほどの濃密な世界を見事に創り上げていた。もう一度、見たい。

ソナチネ

2008-02-24 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1993年/日本 監督/北野武
「死に向かう美しい舞踏」


およそ映画作家であるならば、物語の起伏や役者の演技に頼らず、「映像の力」だけで、とめどないイメージの喚起を呼び起こせる、映画にしかなし得ない力強くも美しい瞬間を創りたいと誰しも願うはず。「ソナチネ」における浜辺での相撲シーンはまさにそれでしょう。私は、このシーンを見るというだけでも、この作品をお薦めできる。

浜辺に打ち上げた藻で土俵を作り、シコを踏む男たち。一糸乱れぬ相撲の所作は様式的な美しさを見せるし、これから死にゆく男たちの儀式のようにも見える。映像が醸し出すイメージに胸を打たれるということほど、映画鑑賞における至高の体験はなく、北野武は、4作目にしてその至高の瞬間を作ってしまった。

間違いなく俺たちは死ぬ。その確信を目の前にして繰り広げられる男たちのお遊び。それは、時におかしく、時に切なく、時に美しい。私は、この作品を見てなぜだか一遍の舞踏を見たような感慨に見舞われた。人間は誰でも死ぬのだとするなら、この作品は全ての人に訪れる死の前のダンス。無音の舞台の上でしなやかな体の男が静かに粛々と踊り続け、そしてまた静かに舞台の上で死んでいく。そんな映像が頭から離れない。

北野武は決して「そのもの」を描かない。銃声が響き、血しぶきが湧いている場面でも、画面に映し出されるのはそれを傍観している男たちの顔だ。殴り込みに出かけすさまじい殺し合いが起きても、そこに映っているのは明滅する弾丸の火花。それらの静かな映像は常に「死」と隣り合わせであるからこそ、切なくリリカルに映る。

また本作では武ならではのユーモアも非常に冴えている。殺し合いに行くのに遠足バスのように見せたり、スコールの中シャンプーをしていたら雨が突然止んでしまったり。これらの「笑い」は何かの対比として描かれているのではなく、もしろ「死」そのものが「笑い」を内包しているから描かれている。つまり、人は誰でも死ぬ、そして死にゆくことは滑稽なことである、という武独特のニヒリズムがそこに横たわっている。

繰り返すが、浜辺での一連のシークエンスは本当にすばらしい。北野武以外の誰も思いつかない、誰にも描けない映像だと思う。

3-4x10月

2008-02-19 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1990年/日本 監督/北野武
「間の才能」


原案・脚本・監督全て北野武メイド。本来の意味では、これが監督デビュー作と言える本作。実に面白いです。もちろんサスペンスやエンタメ映画を見て「あ~おもしろかった」という「面白い」ではございません。やはりこれは北野武にしか作り出せない面白さ。しかも、出演者のほとんどが「たけし軍団」。演技という演技は、全くと言っていいほどない。それでこのような映画が作れるのだから、全く演技って何だと叫びたくなる。

「HANA-BI」でも書いたけど、「間」の使い方がうまい。もう、ほんとそれに尽きる。タイミングと長さが絶妙。例えば、ぶんぶんとバットを振っているだけのシーン。それが、やけに長いと何かが起きるのかなと言う期待が生まれる。例えば、バットが飛んでいっちゃうのかな、とか、ボールがどっかから飛んできて頭に当たっちゃうのかな、とか。ところが、何も起きなくて突然ぱっと違う画面になってしまう。そこで観客は裏切られたような感触が残るのだけど、それはバットを振っているという映像と共にしっかり心に焼き付いていて、「バットを振る」という行為に何か意味があるのだろうか、という考えにまで及んでいく。「間」のもたせ方ひとつで、こんなに観客の感じ方に奥行きが出せるところに、北野武の才能があるんだと私は思っている。

主人公は、柳ユーレイ。その他、比較的出演シーンの多いのが、ガダルカナル・タカとダンカンなのだが、この3人の演技が非常にいい。それは「演技している」とはおよそ言えたものではない。セリフは棒読みだし、でくのぼうみたいに立ってるし。だけども、武が描き出す世界の雰囲気にぴったり合っている。たぶん、監督による表情の切り取り方がうまいのだと思う。人物はバストアップで捉えた画面が多く、語り手は手前で映っておらず、ぼんやり話を聞いているダンカンだとか、ユーレイの間抜け顔が映っているだけなのだけど、やはりその間抜けな雰囲気に独特の「間」が存在していて、どうしても画面に引きつけられる。ぼんやりしたムードなのに、画面に吸い寄せられてしまうという感覚も、これまた北野武ならでは。

目の前では実に直接的な暴力が描かれているにも関わらず、全体のトーンはあくまでも一定で、波風が立たない。しかし、だからこそ、ドキッとするんですね。ピストル出して、何かセリフ言って、ツカツカ歩いていって、と言う暴力描写は、観客に対して「さあ、これから始まりますよ」と教えてあげているわけだけども、北野武はそうやって観客を甘やかしたりしない。予告もなければ、余韻もない。撃たれたら、もんどり打って苦しんで死ぬまでのたちうちまわるようなこともない。ゆえに暴力のリアリズムが際だつ。

さて、沖縄のインテリヤクザとして、豊川悦司が出演。彼は今までの役者人生で最も大きな影響を与えた人は誰かというインタビューで、渡辺えり子と北野武だと語っているのだけど、影響云々を語れるのかしら、というほどのちょい役。でも、現場での衝撃は強烈だったと語っており、北野武の何がそれほど彼にショックを与えたのか、実に興味深い。

前作「その男、凶暴につき」では、子供が遊ぶバットが一瞬のうちに凶器になってしまうシーンがあったが、本作でものんびりした草野球チームの様子とそんな彼らが暴力に呑み込まれる様子が淡々と描かれ、静かな日常と暴力を同じ平野で捉え続ける北野武らしい作風を堪能できる。興行的には失敗したらしいが(そりゃそうだろう)、興味深い作品であることは間違いない。暴力映画でありながらも、冴えない男の少し遅れた青春ストーリーとしても見ることができるところもこの作品のすばらしいところだと思う。

新宿泥棒日記

2008-02-06 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1969年/日本 監督/大島渚

「盗まれる言葉たち」


これはとても詩的で実験的な作品。紀伊國屋書店でジュネの「泥棒日記」を万引きをした青年、横尾忠則が彼を捕まえた女性店員、横山リエと性をめぐる観念の世界へ逃避行に出る。そんな感じでしょうか。
本を盗むということは、言葉を盗むということ。故に、言葉の洪水のような作品でもある。言葉によって喚起される数々のイメージを頭に思い描きながら、新宿の街を泥棒気分で逃げ回るのだ。

性科学権威の高橋鉄によるカウンセリングシーンや佐藤慶や渡辺文雄がセックスについて大まじめに語り合うシーンなどのドキュメンタリー的なシーンと、様々な文学の一節を朗読するシーンや唐十郎率いる状況劇場の舞台などの観念的なシーン、それらが虚実ないまぜ、渾然一体となって進んでいく。

ひと言で言うと「映画は自由だ!」ってことかしら。物語とか、辻褄とか、わかる、わからないとか、そういうところから一切解放されて映像を紡ぐこともこれまた映画なり。わかるかと聞かれると全くわからんのですけど、面白いかと聞かれると間違いなく面白い。この面白さっていうのは、やっぱり作り手の「自由にやってやる」という意気込みがこっちに伝わってくるから。その鼻息が通じたのか、ラストは撮影中に出くわした新宿の本物の乱闘騒ぎの映像が入っており、当時の生々しい空気感が感じられる。

シーンとシーンの間に、時折文字のみの映像が差し込まれるのだが、冒頭は確か「パリ、午後二時」とかそんなんなのね。その中で「ウメ子は犯された」って文字がでかでかと出てくるシーンがあるんだけど、つい吹き出してしまった。犯されたことが可笑しいとか、そういう不謹慎なことではなく、そんなことわざわざ文字にするなよ、見てりゃわかるじゃんってこと。とことん性に対して大真面目に突進していく様子が何だかおかしいのだ。

それにしても、この時代の作品は大島渚だけでなく、女と言うのは、常に「犯される存在」だ。今で言うともちろんレイプということになるのだけど、この時代はやはり「犯される」という言葉が一番ぴったりくる。それは、征服するための行為というよりは、むしろ「聖なるものを穢すことで何かを乗り越える。そのための儀式」に感じられる。

それだけのリスクを冒さなければ、向こう側に行けない。手に入れたいものが見えない。そんな時代の鬱屈感を表現する一つの方法。それが女を犯すという描写ではないかと感じるのだ。このように言葉にすれば、女をコケにしたとんでもない表現方法に感じるかも知れないが、逆の視点で見れば、当時の女という概念はそれだけ聖なるものであり、乗り越えなければならない高みを示していたのかも知れない。

犯し、乗り越えていくためのシンボルとして女性が描かれることは、今やほとんどなくなってしまった。それは果たして、喜ぶべきことなのだろうか、それとも悲しむべきことなのだろうか。横山リエの妖しげな表情を見ながら、ふとそんなことを考えてしまった。

新宿マッド

2008-02-05 | 日本映画(さ行)
★★★★1970年/日本 監督/若松孝二

「新宿の“中"と“外"」


私が映画ファンになったのは、学生時代「大毎地下劇場」という御堂筋に面した小さな地下劇場で、日本やヨーロッパの古い作品をたくさん見たのがきっかけだ。今は子供も小学生になりハリウッド映画も見るけれど、個人的には60年代後半から70年代のATG作品が大好きだ。

モノクロームのATG作品を見て強く感じるのは、私もこの時代の息吹をリアルに感じてみたかった、というストレートな願望だ。この時代をリアルに生きた人が羨ましい。体制への反抗、あふれ出る創作意欲、表現することが生きることと同じ価値を持っていた時代が放つ圧倒的なエネルギー。それを、この自分の肌で感じてみたかった。

本作「新宿マッド」は、新宿で劇団員をしていて殺された男の父親が、息子が殺された理由を知りたいと、九州の田舎町から上京し、新宿をさすらう物語である。前衛的な作品も多いATG作品の中では、この「新宿マッド」は比較的わかりやすい物語だと思う。

息子の父親は田舎で郵便配達夫をしている。地方都市の郵便配達夫というのは、おそらく「自分の意思もなく体制に呑み込まれてしまった人間」の象徴ではないか、という気がする。なぜ、息子は殺されなければならなかったのか、息子の友人を訪ねまわり、新宿の街を徘徊し、新宿の狂気を目の当たりにするに従い、真面目に生きることだけが取り柄のような田舎の中年男の価値観が崩れてゆく。

すぐ誰とでも寝る女、麻薬に溺れ働かない男たち。新宿の人々は、真面目な田舎者の父親を嘲笑する。しかし、彼らが繰り返し叫ぶ観念的な言葉は、最終的には田舎者の父親の生きた言葉の前に屈する。映画の冒頭に出てくる新宿の街で横たわる若者たちの死体、そして新宿マッドなんてカリスマはいない、とする結末を見ても、新宿的なる世界の終焉を見事に切り取った作品と言えるだろう。

しかしながら、目の前で繰り広げられる退廃的でけだるい新宿の街の描写は、私を惹きつけて離さない。およそ、この時代に生きる人々は、新宿の“中にいる者"と“外にいる者"。その二通りしかいなかったのではないかと思わせる。「あいつは、この街を裏切った。新宿を売ってしまったから殺された。」父親が息子の友人から聞き出したこのセリフがそれを物語っているように感じるのだ。

細雪

2008-01-08 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1983年/日本 監督/市川崑

「女優を魅せる映画だが、真の主役は大阪弁」


女優を見せる映画、というのがある。日本映画でのルーツにおいては、高峰秀子とか原節子などの往年の大女優を真っ先に述べるのが道筋なんだろうが、60年代生まれの私としては、スクリーンで映える日本の女優と言えば、岸恵子、岡田茉莉子、佐久間良子などが真っ先に思い浮かぶ。

というわけで、この細雪は、これでもかと私の大好きな女優陣を美しく魅せてくれる映画。女優を撮らせたら超一流の市川崑の面目躍如といったところ。着物を脱いだときの襟足、はだけた着物から覗く足首など、着物での立ち居振る舞いから日本女性の艶めかしさが匂い立つような映像が続く。そして、はっとしたり、振り返ったり、泣いたり、笑ったりする女優たちの顔、顔、顔…。どれもこれもが美しい。

冒頭、岸恵子のアップがあるのだが、まあ、その美しさにはオンナの私でもうっとり。これが、、市川流「女優真正面斬り」のカットで、とにかく正面斬りが次から次へと出てくる。

しかし、四姉妹の中で特に印象深いのは、つかみどころのない三女・雪子を演じる吉永小百合。姉の言うことなら何でも聞く大人しそうに見える女性だが、次から次へと湧いてくる見合い話にも一向に首を縦に振らない頑固さがある。また、おしとやかで潔癖に見えるのに、義理の兄の前で着物をはだけたりして無防備な一面もある、実にミステリアスな存在。清純そうな彼女が時折見せる微笑がやけにセクシー。吉永小百合という女優には、私は何の思い入れもないが、この作品は、とても良かった。もともと彼女が持っている清純さをうまく利用して、その裏にある物を引き出そうとした監督の手腕がうかがえる。

しかし、これほど女優陣の美しさが前面に出た映画でありながら、一番強く印象に残ったのが、実は大阪弁。大阪弁と言えば、今ではお笑いブームもあって「えげつない関西弁」というイメージが強いが、この船場の四姉妹が話す大阪弁の何と艶やかなこと。そのおっとりした語り口を聞いていると、京都弁かな?と一瞬思うこともある。

原作が谷崎なので、実は京都弁もまじっているのかも知れない。このあたり、厳密なところを突っつくと、怪しい部分もあるかも知れないが、生粋の大阪人である私でも、船場のええとこのお嬢さんがしゃべるおっとりした大阪弁は、すんなり耳に溶け込んできた。きっと、生粋の京都弁ならば、もっともっちゃりした(失礼^^)感じになるだろうし、京都弁独特の「~どす」という表現もなく、大阪弁として脚本は書かれていたと思う。

で、この大阪弁のニュアンスを楽しめるかどうかは、この映画の大きなポイントだと思う。雪子の結婚がようやくまとまりそうな予感を見せる「あの人ねばらはったなあ」「ん、ねばらはった」と言うおねえちゃんとなかんちゃんのラストの会話。「ねばった」という事実には、なかなか見合いを決めなかったことへの非難が込められているが「~しはった」という敬語がそれを和らげている。そして、「~しはったなあ」と感心していることで、ねばって意中の男を射止めたことを称えてもいるのだ。雪子の見合いに翻弄されてきたふたりの姉妹の悲喜こもごもが込められた、いかにも関西人らしい会話だと思う。

このように、「含み」を持たせた大阪弁がこの作品の中にはふんだんに盛り込まれていて、本家や分家という立場の違いで本音が言えない部分だとか、夫への文句を言いたいがストレートに言えない部分などで実に効果的に使われている。そして、その「含み」のあるのんびりした大阪弁が四姉妹そのものをも魅力的に見せている。生粋の大阪人である私も、あのような大阪弁をしゃべれば、「ちょっとは、おんならしい、見えるのんとちがうやろか」と思った次第。スローテンポ大阪弁、私も努力してやってみよ。

さよなら、みどりちゃん

2007-12-27 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2005年/日本 監督/古厩智之

「がんばれ、ゆうこ!」



この際、正直にいいます。女はね、ダメな男に弱いの。ゆうこみたいな全くどうしようもない男が好きな女たちの群れは、確実にいるの。だから、この映画の人物は誰も悪くない。ゆうこと言う女の子がほんの少し、背伸びをする、ただそれだけの話。

ちっぽけな人間が小さな輪の中でいじいじいじいじ…。そういう物語が苦手な人にはオススメしません。私は、好きなんです。そういう、いじいじ、してるのが(笑)。だから、ゆうこができたほんの少しの背伸びにも「よくやった!」とポンポンと肩を叩いてやりたい。もちろん、この後ゆうこが変われたかどうかは、わかんないけど。

スナックでのゆうことヤンキーの会話など、とりとめのないシーンが実にリアル。「そうなんだ」「ふうん」みたいな何でもない会話と間延びした空気感。邦画の小さい映画にはよく見られる演出で、ものによっては嫌みを感じることがあるけど、この作品は大丈夫。この間延びした空気がユタカやゆうこのキャラにピッタリ合っている。

優柔不断な女の子「ゆうこ」を星野真里が好演。ぼんやりしたしゃべり方、あどけない仕草、頼りなげで男の言うままに動く都合のいい女。正直この手のキャラには、女の目は厳しいですよぉ。でも。星野真里は、不快感がない。等身大という言葉がまさにふさわしい。そして、西島クン…。もう反則でしょう。ここまでのダメ男をこんなにステキに演じちゃ、日本中ダメ男だらけになっちまうよぉーってくらい、いい味出してます。

最後の最後になって、ゆうこが意を決して行う愛の告白。それに対するユタカの反応が一番の見どころ。すさまじい「間」があります。この「間」を堪能してください。わたしゃ、ソファからずり落ちました。ゆうこには悪いけど爆笑。西島秀俊という俳優に興味のある女性なら、このシーンを見るだけでも見る価値アリ、です。

ラストシーン、ゆうこが歌うユーミンの「14番目の月」に何だか切なくなる。漫画にもこの歌が、挿入されているのかな?これ映画のオリジナルだとしたら、この選曲にはすごいセンスを感じる。見終わってからも、ずっと口ずさんじゃった。ダメ男に振り回されてる女の子は必見。

その男、凶暴につき

2007-12-20 | 日本映画(さ行)
★★★★★1989年/日本 監督/北野武

「排除の美学の始まり」



深作監督が急遽降板して…と言われている本作だけども、そこから一体どこまで北野色に変えることが可能だったのだろう。この徹底的に乾いた暴力描写と、物語の排除という北野スタイルがすでに本作で確立されているのを見るに北野武の中で作りたいものがくすぶり続けていたのは、間違いなかろうと思う。代打に備えて、十分にバットを振ってきたということだろうか。

まず主人公吾妻という人物に関しては、ほとんど詳細を語られることはない。しかし、静かな日常にもたらされる突発的な暴力を通して浮かび上がるのは吾妻の絶対的な孤独感である。また、サティの音楽に合わせて歩道橋を登ってくる吾妻の登場シーンが実に印象的。しかも、この登場シーンからすでに死の予感が漂っている。後輩の菊地がラストで同じように歩道橋を上がってきて、吾妻をオーバーラップさせる見せ方なんて、とても代打とは思えない旨さがある。

物語の排除の最たるものは吾妻の友人岩城が麻薬の密売人になったいきさつを全く見せないところだろう。その核心は、吾妻と岩城が喫茶店で話している姿をガラス越しに映す、という数秒のワンカットで過ぎ去る。警察内部に麻薬を回している人物がいること、しかもその張本人が主人公吾妻の友人であるという2点において、物語上大きな起伏が出る場面である。こういう物語のターニングポイントを、無言のワンカットで済ませてしまうという大胆ぶり。そして、続けて岩城の死体。岩城のいきさつが何も語られないからこそ、突如現れるこの「死」のイメージが強烈に刺さってくる。

この物語の排除というのは、「観客の想像にお任せします」という類のものとはまるで異質なものだろう。例えば、ラストを意味深なものにして後は「自分で考え、感じて欲しい」というシーンには作り手が観客に想像を委ねるという意図がある。しかし、北野武は浮かび上がらせたいイメージをより鮮烈に見せるために、物語を排除していく手法を使用しているのだと思う。そういうテクニックをすでに処女作で自分のものにしていることにも驚きだ。

そして、凶暴と言うよりも静けさの際だつ演出の中に、時に浮かび上がるホモセクシュアル的匂い。黒幕仁藤と仁藤のためなら何でもする殺し屋清弘との関係はもちろん、清弘と主人公吾妻においても追いつ追われつの関係性の中でふたりの魂は互いを惹きつけ合っていることを想像させる。もちろん感情的な演出は全くないため、そのような匂いをかぎ取る私の感じ方は監督の意図からは外れているのかもしれない。それでも、ストーリーとは別のイメージが自分のアンテナに引っかかってくるというのは、おそらく排除された物語を埋めながら映画を見ているからに他ならないからだと思う。

そして、この乾いた暴力描写は、近年多数公開されている韓国映画の暴力シーンに影響を与えているのは間違いなかろう。

このデビュー作において「お笑い芸人ビートたけしが作ったんだから、わかりやすい映画のはずだ」という人々の勝手な思いこみは根底から覆された。この時広がった拒否反応は未だにくすぶっている。「お笑いの人が作る映画=面白くてわかりやすい」という勝手な認識と「北野作品=わかりづらい映画」という後付けの認識がいつもねじれを起こしているように感じる。しかし我々は映画作家、北野武の作った映画をただ受け止めるだけだ。