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Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

サード

2010-11-23 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1978年/日本 監督/東陽一

「帰るべきホームがない」

野球部で活躍するサードというあだ名の少年。クラスで仲のいい友人はなかなかの秀才。ある日、クラスメイトの女子と街を出て東京に住みたいがそのためのお金がないという話になり、資金稼ぎに売春と斡旋に手を染めるようになる…。

すいぶん昔に見たんですけど、改めて再観賞。脚本が寺山修司なんですね。スポーツマンと秀才のふたりの高校生が「何となく」始めた売春斡旋で人生の坂を転がり落ちてしまう。彼らの行いを分別のつかない若さゆえ、と判断するのは難しい。だって、売春だもんね。昔見たときは少年院で行き場のないモヤモヤを心に溜めるサードに心奪われていたけど、今回見て感じるのは、売春を始めるふたりの少女の空虚感。

「あたしたちの体を売ればいいじゃん」喫茶店でコーヒーを飲みながら、あどけない顔の森下愛子が言う。それをサードはこう述懐する。「まるで大根を売るみたいだった」と。実に印象的なセリフです。そして、少年院にいるサードは知る。事件後、彼女たちは東京には出ずに田舎で普通に結婚したと。

何となく体を売り、それが駄目になったら、何となく誰かと結婚する。きっと、彼女たちは何となく子供を産み、何となく年を経ていくのだろう。彼女みたいな子たちは現代にもいっぱいいる。最近の映画「蛇とピアス」や「M」にも同じような女が出てくる。

しかしそうして、女たちは何となく自分の居場所に着地するのに対し、サードたち少年たちは帰るべき場所を持たない。ただひたすらに黙々と少年院のグラウンドをランニングする。一塁ベースを踏み、二塁、三塁と回るけれども、なぜかホームベースが置かれていないグラウンドがそれを物語っている。

さて、永島敏行と森下愛子の若手俳優陣が光る中、異彩を放つ脇役がいる。島倉千代子だ。「溺愛する母」と「反抗する息子」の組み合わせは、この時代の日本映画によく登場してくるモチーフだけれども、本作でもこのテーマは重要な位置を占めている。風呂上がりに上半身裸で出てくる息子に対して、「あら、いやだよ。母さんだって女なんだから」と猫なで声で言う。何だか気味悪くて背筋がぞぞっとしてしまうのだった。


ジャーマン+雨

2010-03-23 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 2006年/日本 監督/横浜聡子

「松本人志は見ただろうか」


ゴリラーマンと名付けられた少女、よし子。ヘンな日本語をしゃべるドイツ人。よし子にまとわりつく小学生。まるでコントのごとき人物構成。周りとうまくいかずに傍若無人な言動を繰り返すよし子がおかしくて溜まらず、ふふふと笑っては、時折爆笑。こりゃあ、私のツボにドンピシャ。初期の山下敦弘作品の雰囲気に通じるものがある。

ところが、後半部。この調子でいくのかと思いきや、だんだんとよし子の孤独と不遇をとことんブラックに描ききり、俄然シュールな展開に。地獄の憂き目を笑っていいのか、と罪悪感さえ感じつつ、独特の世界に引き込まれる。そして「ジャーマン+雨」。なんつー不可解なタイトル?の意味もそうきたか、のオチ。こりゃあ、完全にやられました。

ゴリラーマンというネーミング。つまはじきの悲哀。異形人と子供の交流。そして、オフビート。これはもう、松本人志の名作「トカゲのおっさん」を思い出して仕方がないのですよ。彼が映画制作において目指す世界観って、これじゃあないのか、なんて余計なお世話なんだが。まあ、そんなことはさておき、久しぶりに個性の炸裂する邦画を観たなあという満足感でいっぱい。若い女性監督ってことの衝撃も含めて五つ星。こりゃ、「ウルトラミラクルラブストーリー」も見ないと。



曽根崎心中

2009-12-02 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1978年/日本 監督/増村保造

「浄瑠璃の世界そのままに」


抑揚の効いたセリフ回しに大げさな演出。最初は「何じゃこれ?」と思って見始めましたが、次第にぐんぐん引き込まれます。しばらくして、ふと頭をよぎる。これは、人形浄瑠璃の世界観をそのままスクリーンにもってきたんではないか?と。そう考えれば、全てに合点がいきます。

庶民が愛した人情浄瑠璃。悪いヤツは最後にお仕置きされるのが常のようですが、本作で悪役を演じる橋本功がめった打ちに合うシーンが圧巻です。額からダラダラと血を流し、スクリーン正面に向かって(!)裾のはだけたふんどし姿の股間をさらし、女郎屋の玄関先でのたうち回ります。「騙される奴が阿呆なんじゃー」と最後の最後まで悪態を付いて。いやはや。あまりに露骨な演出に思わず笑いそうになっちゃいますが、こういうオーバーアクトがいかにも増村監督らしいです。しかも、橋本功の演技の何とまあ憎たらしいこと! 時代劇の悪人役としてよく拝見していたのですが、この方50代にして亡くなられていたんですね。残念です。

さて、梶芽衣子が心の奥から叫び、嗚咽する。大きな目を見開いて、何としても徳兵衛さんとあの世で添い遂げたい、と懇願する。後半部は梶芽衣子の独壇場で、一挙手一投足に思わず自分の手を強く握りしめてしまうほどでした。互いの体を木に縛り合い、刃物で傷つけ合う心中のシークエンスは、まさに男と女の情念がめらめらと燃え上がるよう。そして、血に染まった手と手を握り合い、額と額を付き合わせ、くの字の姿で命尽き果てたふたりの姿は、まさに人形そのもの。まるで太夫の語りが聞こえてきそうな、ラストシーンでした。


サマーウォーズ

2009-10-11 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2009年/日本 監督/細田守
<MOVIX京都にて観賞>

「脚本の良さに大満足」


アニメーションには大変疎いので、宮崎駿や押井守らと比べて評することは全くできません。いつも見ている映画と同じ土俵で見ていたわけですが、凄く良かったです。

OZのバーチャル世界がちょっと私の嫌いな村上隆っぽいのが気になりましたが、とにかくストーリーの吸引力が強いし、様々なエピソードがあちこちで飛び火するテンポの良さ。最初から最後まで全く飽きることなく、エンディングを迎えました。前作「時をかける少女」では少々毒を吐いてしまいましたが、本作はアニメ特有の少女性の嫌悪感はほとんど(全くではなく、ほとんどね。笑)感じることがありませんでした。

長野の田舎の原風景とOZというバーチャル世界が交錯するストーリーですが、これらは一見対比する存在として描かれているようで、そうではない。このさじ加減がバツグンです。武田信玄の家臣の末裔という陣内家は昔ながらの旧家で大ばあちゃんを筆頭にした古き良き大家族なのですが、旧家の屋根には立派な衛星アンテナが3本も立っています。孫たちも携帯やPCを使いこなす今ドキの男たち。この辺がリアルなんですよね。「田舎VSバーチャル」なんて単純な二極化の方が嘘くさいです。

OZのハイパーな感じのアニメーションに比べて陣内家の描写はタッチがすごくゆるいんですよね。これはこの監督の持ち味なんでしょうか?それとも、両者のバランスを取るためにそうしているのでしょうか。その辺はよくわかりませんが、あまり3D風にガッチリ描き込んでない線が私のようなオバサンには見心地が良かったです。

高校野球を始め、日本人が夏休みと言えば思い浮かぶ数々のシチュエーションがうまく散りばめられていました。世界を救うのは家族の絆。ベタと言えば、ベタですが、物語の運び方の巧さにとても引きつけられたし、大変満足しました。もう公開時期も終盤ということで小さめのスクリーンに移っていたのですけど、もっと早い時期に大きいスクリーンで見たかったです。

最後に一点。気にかかったのは、ことにあたる男性陣、女性陣の描き方。世界が滅亡する瞬間まで、ことの重大さに気づかず葬式の準備しているのが女性陣って言うのは、どうなんだろうと。敢えてのその描写に私は違和感を感じます。やっきになって、戦闘準備をするのは男どもで、バーチャル世界で先頭に立つのは少女で、おばはんは飯を作っているというねえ。そこの未だステロタイプな描き方から、前進して欲しいと切に思いますね。アニメは擦り込み能力が大きいので。


実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

2009-06-18 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 2007年/日本 監督/若松孝二

「思想と暴力~私の中の区切り」

映画監督の強い意志と熱意をまともに喰らうことができるのは、映画ファンとして至高の体験ではないでしょうか。その作品の背景についてどれほど知っているかとか、監督の意図をどれほど理解できたかなんて、究極のところ関係ないと思う。それは、ゴヤがどんな時代を生きて抜いてきたなど知らなくとも、見た者が「我が子を喰らうサトゥルヌス」に圧倒的な力を感じるのと同じでね。勇気を振り絞って言わせてもらうならば、連合赤軍って何?という人にもぜひ見て欲しい。私だって、彼らのことを詳しく語る知識も力量もない。でも、このスクリーンにみなぎる若松監督の凄まじいパッションを1人でも多くの人に受け止めて欲しいと感じるのです。

加えて言うならば、連合赤軍の歴史を語りつつも、思想、信念、暴力、組織というテーマが渾然一体となって見る者を強くとらえます。例えば、ひとつの思想を貫徹するために作り上げた組織が分裂し、崩壊していく様。信念に縛られて、人が人の命をもたやすく奪ってしまう様。閉鎖した空間がやがて人を狂人たらしめてしまう様。これらは、例えば「ヒトラー最期の12日間」や「マグダレンの祈り」や「es」と言った作品にも通じるでしょう。ましてや、ここで描かれているのは、紛れもないこの日本で、たかだか40年ほど前の出来事なのです。

と、言いつつも「かろうじて世代」の私は、やはり自分自身の歴史に重ね合わせてしまいまいます。そして、本作をもって、私は一つの大きなけじめがつけられた、という感慨で一杯なのです。もちろん、これで全てがわかったと言うつもりは毛頭ありません。けじめというより区切りかも知れない。

リーダーと同じ大学だったからでしょうか、私が通う大学の正門にはヘルメットをかぶった学生が毎日立っていました。開始ベルが鳴ると教壇で演説を始め、先生と押し問答になり授業がなくなることもしょっちゅう。「今日もヘルメット君が来て授業がつぶれればいいのに」なんて、呑気なことを言っていたものです。一度学内に機動隊がやってきたこともあったかな。時は、すでに1985年。バブル経済の真っ只中。コンパだ、高額バイトだと浮かれポンチな時代の中で、自分の通う大学は何てダサイんだろうと思ってた。でも、あの狂騒の時代だからこそ、彼らが放った思想の残滓は、私の心にへばりついた。喉に刺さった魚の骨のように引っかかり続けた。

あれから、20年以上経ち、様々な書籍や映画で彼らとかろうじて接触してきたけれども、これほどインパクトの大きいものには出会えませんでした。3時間という長い尺の中で語るべき部分は山のようにあるのだけど、やはり最も印象深いのは、リンチ事件の元となる「自己批判」と「総括」。現代日本人が犯した過ちをきちんと振り返り、考察する手段を忘れてしまったのは、この経験がトラウマになっているのか。とにかく「総括」を通じて行われる無惨なリンチを若松監督は執拗に描き続ける。なぜその思想はこれほどの暴力を必要としたのか、そして、なぜあのヒステリックな状況から彼らは脱却することができなかったのか。あの死に一体何の意味があったのだろうと、今なお様々な思いにとらわれつづけています。そして、リアル世代ではなく、「かろうじて」の世代の私は、ここで感じたことを今後どう残していけばいいのかと自問自答するのです。

坂井真紀の女優魂に感服しました。壮絶な演技に心からの拍手を贈ります。そして、私財を投げ打って本作を完成させた若松孝二の監督魂。天晴れです。





十九歳の地図

2009-06-05 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1979年/日本 監督/柳町光男
「邦画好きの原点」

<story>地方から上京してきて、新聞配達をしながら予備校に通う19歳の吉岡まさる。毎日300軒以上もある配達先を回る単調な労働。集金に行けば、どこの家からも胡散臭がられ、無視される。まさるは、地図上で、配達先である各家々に×印を付けランク分けしていく。


本作は確か夜中のテレビの再放送で見たのが初見。おそらく10代だったと思います。そして、すっかり魅了されてしまったのです。この手の邦画の佇まいに。主演の本間優二がまるで自分を見るようでした。私も大学に入り立ての頃、大学に向かってずらずらと駅のホームを歩く学生たちをひとり残らずホームに突き落としたい。そんな衝動を覚えることがありました。何が原因というわけでもない、内からふつふつと沸き立つ破壊衝動。青いも青い。こっぱずかしいほどの青さです。

久しぶりに見直して、やっぱりすばらしくて感激してしまいました。この作品が突き付けてくるものが、今見ても全く色褪せていないのです。新聞配達先のムカつく住人たちに公衆電話から嫌がらせの電話をかける。そして、ノートに家族の名前を書き出し、×印を付けていく。まさるはチンケでヘタレなアホ野郎なんだけど、ノートに書かれたムカつく住人のプロフィールが詳細になればなるほど、彼が抱えるひん曲がった疎外感がどうしようもなく迫ってくるんです。「ひとりは怖いよ」ってまさるの声が聞こえる。×印のついた地図の下にはいろんな人間の喜びと憎しみと哀しみが渦巻いているというのに、そんな世界から隔絶されたちっぽけな自分。そんなまさるを本間優二は淡々と投げやりに演じている。デビュー作でつたない演技だからそう見えるんだろうけど、変に達観したり、すれたりしてなくてね。抱きしめてやりたくなる。そして、誰も真似できない存在感の沖山秀子も強烈な印象を残す。

どん底に暗い物語にフリージャズのBGMが妙に合う。そして、額に汗をして新聞配達を続けるまさおをとらえるラストシークエンスもいい。「ネット匿名嫌がらせ」、「デスノート」、「ワーキングプア」と現代社会を表すキーワードもオーバーラップしました。今、みんなに見て欲しい作品。中上健次の原作も読んでみたい。


重力ピエロ

2009-05-31 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2009年/日本 監督/森淳一
<梅田ガーデンシネマにて鑑賞>

「言うことなしの仕上がり」

映画化の話があがった時から、誰が“春”の役をするのだろうというのが最大の関心事でした。なぜなら、この春という少年の存在感こそ、映像化でのキーポイントだと思っていたからです。 春は、兄と違い背も高くていい男。 絵もうまく、スポーツ万能。 しかし、その持って生まれた才能は、彼にとって忌まわしい物でしかない。 彼は自分のDNAを呪っている。 若いくせに厭世的で頭の切れる虚無的な春。そんな春に岡田将生がバッチリはまりました。美しい青年という役ですので、きっちり美しく撮ってますね。惚れ惚れしました。「天然コケッコー」からよくぞここまで。感無量。

さて、現在を軸に過去の家族のエピソードが挿入されてくるわけですがこの繋ぎ方がスムーズ。編集が巧いです。現在進行している物語は連続放火事件というミステリー。本来は犯人捜しに興味が行くため、あちこちで過去のエピソードを入れられると流れが断絶して苛ついたりするものですが、そうはなりません。これはひとえに家族の物語として描こうという姿勢が徹底されているからです。過去のエピソードが入るに従い、家族の抱える闇と希望がじわじわと表出するその様に観客は引き込まれます。

原作を読んだ時、これは「新しい父性」の物語だなと感銘を受けました。本来授かった命を受け入れるのは、身籠もった母親です。しかし、この物語では、産む決意をするのは父親なんです。自分の子ではありませんから、これはこの世に生まれ来る全ての命に対する受容の精神と言えましょう。実際に身籠もってしまった女性の心情が置いてけぼりに感じることもなきしにもあらずですが、母親が亡くなった後、父親がひたすらに「最強の家族」を作り上げてゆくそのぶれのなさにそのような疑念もかき消されてしまいます。

これまで、男は子供の成長と共に父性を獲得していくと言われていましたが、本作はそういう概念に対する真っ向勝負。そして、受け入れ包み込むと言われる母性の役割を父親に与えた。その発想の転換ぶりに虚を突かれた感じでした。この尊き父性というテーマが全く損なわれることなく、むしろ小日向英世の見事な演技によって、さらに深められていたことが本当にすばらしい。冒頭、岡田将生がバッチリハマったと言いましたが、小日向英世がこの美しく、強い家族の物語を支えていたのは間違いありません。

そして、「二階から春が落ちてきた」「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」を始め、原作の中の重要な言葉がうまく際立っていました。何度も泣かされてしまいました。




さくらん

2009-05-28 | 日本映画(さ行)
★★★ 2007年/日本 監督/蜷川実花
「目がチカチカする」

公開前に「装苑」で衣装に関する記事を読んで興味はありましたが、あまり評判よろしくなくスルー。しかし、「赤い~」と「百万円」が面白かったタナダ・ユキ脚本と言うことでトライしてみましたが…。

絢爛豪華な遊郭の世界。「装苑」の記事によれば、本物の着物では莫大な費用がかかってしまうため、転写プリントの技術で製作しコストダウンさせ、多種多様な着物を作り出したとか。どんな柄の着物が見られるのか楽しみにしていたわけですが、なんとまあ、ギンギラギンの世界。若沖がCOOL!ともてはやされる昨今、屏風や襖に凝りたいのもわかります。しかし着物が派手なら、屏風は格子柄や幾何学模様などという組み合わせでも十分和モダンは実現できるはず。なのにド派手な牡丹の屏風の前じゃ、どんな着物も埋もれてしまう。プリント物大好きの私でさえ、だんだん目の奥が痛くなってきました。

派手ON派手というスタイルには異議を唱えません。十分それで美しく見えるスタイリングもあります。しかし、120分間やみくもにそれが続くのはどうでしょう。ド派手なシーンの後は、落ち着いたトーンを持ってくる。絵がド派手なら、物語、特にセリフ回しは落ち着ける。そうしてバランスを取らないと、見ていて疲れます。ここに椎名林檎ですからねえ。んまあ、こってりし過ぎでしょう。ストーリーもよくある話だしなあ。遊郭の女を金魚鉢の金魚になぞらえるなんざあ、そのままの発想じゃない。遊女たちを、今を生きる女たちに重ね合わさなくてどうする。それが、第一線で活躍する働きマン、蜷川実花の視点になるんじゃないの。

さて、脚本の方ですが、原作漫画があるからでしょうか。とても「赤い~」や「百万円」と同じ人が書いたとは思えませんでした。そして、エンドクレジットに「蜷川組」と出てきたのは苦笑。初監督作品で「組」もなかろうと思います。鼻息の粗さばかりが目に付く作品でした。カメラマンとしての蜷川実花は決して嫌いじゃありません。念のため。

少林少女

2009-04-26 | 日本映画(さ行)
★★★ 2008年/日本 監督/本広克行
「方向性が全くわからない」

少林寺を広めたい。そのためのきっかけとしてラクロスに挑戦する。ほとんど、少林サッカーと同じプロットですね。じゃあ、なんでラストは超絶ラクロス対決にしなかったんでしょう。ラクロス挑戦と悪玉対決の2軸が全く融合していないんですよね。どっちかにすりゃあいいじゃん、という実に簡単な話です。

B級なのか、マジ路線なのか、これもどっちなの?ってことです。岡村隆史にしても、カンフーの素養があるのは、わかりますよ。わかりますけど、カッコつけてどうすんのよってこと。とことんアホキャラになれるのは、この人しかいないのに。デブキャラ(少林サッカー」にも出演していた彼)に対抗して、チビキャラでとことんいじられればいいんです。

振り切れないんですよね。で、どっちつかずのグダグダな仕上がりになっちゃって。豪華キャストがもったいない。柴咲コウをどうこう言うのは、彼女に気の毒。忙しいスケジュールの中、トレーニングだってしたんだろうし。

ハリウッドでは、脚本をいろんな人間がいじっちゃうなんてことをよく聞く。最初の草稿を書いた人間にしてみたら、ズタズタにされてかなわないなんて不満もあるらしいけど。でも、完成度を高めるという点においては、それもアリなんだろうと思う。なんたって、投資の額がハンパじゃないし、それだけ観客が満足できるものを作って回収しなければならにという使命があるから。本作にしても、結構な投資をしているはずで、それがこの完成度で回収できると思ってるんなら、観客をナメるなよってことじゃないかと思う。私がプロデューサーなら、この企画書にGOサインは出さないなあ。作品の意識がどこへ向かっているのかわからないっていうことで、広末涼子主演の「バブルへGO!」を思い出した。


サッド ヴァケイション

2009-04-24 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2007年/日本 監督/青山真治

「青山流ギリシャ悲劇にてとどめ」


「Helpless」「ユリイカ」と続けて見ましたが、私にはこれを「母性の物語」と捉えることはできません。その件は、後回し。

本作、私には健次の悲劇が完結したという印象です。「Helpless」というタイトルは、本作の方がふさわしい。美しい髪を蛇に変えられたギリシャの魔神メドゥーサは、見るものを石に変えることができる。健次は、まさにメドゥーサのごとき実母によって石に変えられてしまいました。成り行き上とは言え親友の妹を引き取り、密航者の子供をかくまい、女を愛することも知り、人としての優しさを随所にかいま見せる健次に何という仕打ち。兄が弟を殺し、実母が兄を地獄に突き落とす、さながらギリシャ悲劇のような顛末に唖然とします。

「会うべき人に会うのだ」という川津裕介の言葉もあり、人には抗うことのできない宿命が用意されている、とも捉えられます。千代子が健次を捨てたのも、健次が偶然千代子に再会したのも宿命であった。その人生を受け入れなければならなかったのに、健次は浅はかな復讐劇を企てたがために人生を狂わせてしまったのでしょうか。健次が哀れでなりません。

さて、千代子という女性の資質を母の包容力と捉えることには違和感を覚えます。包み込むというよりも呑み込む、と言った方が適切でしょう。もし、「母性」という言葉を「母親が持つ性質全般」を意味するならば、彼女から母性の「ひとつの側面」として際立ってくるのは、子供を手中に収めておきたいという支配欲です。これは、実に一方的な欲望で、子供を苦しめることはあっても、幸せにはしません。そういう類の母性です。この支配欲は子供が小さい時には守られている安堵感を子供に与えるため、良きことのような錯覚を母親自身に与えますが、子供が成長するに連れて手放さねばならない代物です。しかし、千代子は小さい頃に健次を捨てているため、その続きを間宮運送で行おうとするのです。こんな横暴な女性は、母と呼ぶにすら値しない。しかも、千代子は健次に刑務所の面会室でとどめを刺します。子供を救う母親はいても、子供にとどめを差す母はそうそういません。しかし、考えようによっては、それもまた母の権利と言えるのかも知れません。「自分で生んだ子供に自分でとどめを刺して何が悪い」と。

私が、この千代子を通じて感じるのは、あくまでも「母性」の負の側面です。とりわけ、長男に対する異常な執着ぶりというのは、是枝監督の「歩いても、歩いても」や西川監督の「蛇イチゴ」でも、見受けられます。しかし、青山監督は母への復讐を許さない。前作「ユリイカ」でバスジャックの生き残りとなった直樹はとある行動に出るのですが、私はあれは自分を捨てた母への復讐の代替行為だと感じました。そして、健次同様、彼も刑務所に入ってしまう。

「生まれてくるものを大事にすればいい」という千代子の言葉。施設の園長(とよた真帆)の突き出た腹のクローズアップ。命を生み出す存在としての女が再三に渡って強調されています。確かに、出産は女性にしかできない行為でしょう。しかし、青山監督の意図がどこにあろうとも、女は子供を産むから太刀打ちできない、という印象を与えてしまうのは罪深いと私は思います。「だから、女は強い」なんてことは決してないのです。子供を産むのは女にしかできないからこそ、そこに苦しみが宿っていることも多々あるのですから。

さて、命の連鎖の呪縛のようなものから解放されている女性は、宮崎あおい演ずる梢です。そういう位置づけとして、彼女は間宮運送に配置されているのかも知れない。彼女は間宮運送に骨は埋めないでしょう。梢には、あらゆる束縛から解放された自由な存在として、旅立って欲しい。地獄に堕ちた健次を哀れに思いながら、私の希望は梢に向けられて仕方ないエンディングなのでした。

スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ

2009-03-04 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2007年/日本 監督/三池崇史
「高水準大空想世界」

<伊勢谷クン巡り①>
白州次郎で伊勢谷クンにハートをぶち抜かれてしまった私。彼の出演作をもれなく鑑賞することにしました。まあ、今まで結構見てはいるんですけどね。

これは三池監督ってことで避けてました。食わず嫌いってのは、このことを言うんだね。もう、随所に私のツボにさくさくハマって、痛快痛快。

マカロニ・ウエスタンを源氏と平家の対立に置き換えて、スキヤキ・ウエスタン。西部劇は完全にジャンル外だし、「ジャンゴ」って何?な私ですけど、この壮大なパロディ劇のチャレンジ魂がびんびんに伝わってきましたよ。俳優陣が豪華過ぎて、いつもの三池監督よりハジけっぷりが不満、という声を聞くのですけど、その「いつもの三池節」を知らないからでしょうか、豪華俳優陣の気合いの入り方も凄いなと感心しました。

全編英語ってのがいいんです。どうせパロディにするなら、ここまでしないと。英語の発音?全然気になりませんって。どうも日本人はネイティブ発音じゃない英語に嫌悪感持ちすぎです。これくらいの発音の人、イギリスやアメリカに行けばうようよいます。

冒頭の北斎のアニメっぽい背景も面白いし、衣装も世界観を盛り上げています。衣装担当は北村道子さん。彼女のスタイリングそのものは嫌いじゃないけど、主張が強すぎるので、私は結構斜めに見てます。音楽を坂本龍一に任せるようなもんですね。ひとり歩きするんです。「アカルイミライ」の時は、なぜこの衣装なのか、正直理解しがたかったですけど、今回はバッチリ作品イメージと合っています。また、木村佳乃の舞踏シーンの音楽がディジリドゥなんですよね。「どろろ」なんかはこういうイカした音楽をもっと入れて欲しいです。

「シューテムアップ」を見た時は、私はガンアクションに食指が動かない人間だと思ったんですけど、これは面白かったのですよね。なぜでしょう。ガンガンに銃をぶっ放すというのは、そもそもありえない設定なんですよね。特に日本人である私にとっては。結局、この作品が完全に空想世界であるため、ド派手なガンアクションもスムーズに入ってくるのかも知れません。

どのキャラクターも勝手な解釈と想像でぶっとんでますけど、源氏側か平家側かに付くのに悩まされて精神分裂を起こす保安官(香川照之)のキャラが面白かったなあ。

お目当ての伊勢谷クンは義経ですよ。はい~ピッタリです。剣さばきも美しい。もちろん、伊勢谷クンの着こなしがダントツで良いですね。英語もお上手です。ラストの伊藤英明との対決もカッコいい~。とはいえ、これで、木村佳乃と付き合うことになったのか…という邪念を振り払うのにひと苦労でした。まあ、そんなことはさておき、遊び心満載の空想世界がとても気に入りました。三池作品、他にも見てみよっかなあ。「着信アリ」と「妖怪大戦争」しか見てないんだよね。



サイドカーに犬

2009-02-18 | 日本映画(さ行)
★★★☆ 2007年/日本 監督/根岸吉太郎
「主役はどっちだ」


小4の薫という少女が過ごすひと夏の物語。夏休みのはじめ、母が家を出て、その数日後、ヨーコさんという若い女の人が家にやってくる。母とは対照的に大ざっぱで破天荒なヨーコさんは、父の恋人らしいのだが…。

根岸監督は好きだし、プロットも面白そうだし、ずっと観たかった作品なんですが、大きな引っかかりがありまして。それは、私は竹内結子が苦手だということ。で、嫌な予感は的中。

離婚した竹内結子の復帰第一作という色合いが濃すぎるんです。だから、最初の1時間くらいはイライラして仕方ありませんでした。はすっぱな女を演じることによるイメチェンのアピールぶりが鼻につきます。ソバージュヘアも似合っていないし、ぶっきらぼうな言い草や演技も魅力的ではないし。困ったなあと思っていたら、後半部、作品の軸足が少女薫にシフトされてから、俄然面白くなりました。

サイドカーに乗った犬を見て、自分を重ね合わせる、という薫の心情がとても子供らしくて切なくて、いいですね。風を切って走る。運転するのは自分を守ってくれる大人で、その姿を自慢気に大勢の人に見て欲しい、という。ですから、本当は母が出て行ってしまう前半部の薫の心情にもっと感情移入できれば良かったんですけど、何せヨーコさんばかりが気になって、気になって。

この作品の主役は、薫ですね。最初からそのスタンスで観れば、もっと面白くなったと思わずにはいれません。どこへ行くともわからぬひと夏の旅。大人のワガママに付き合わされているのか、はたまた、自分のためにヨーコさんはバスに乗ったのか。とまどいと不安に揺れる薫に、幼い頃迷子になった時の自分を重ね合わせてしまいました。ほんの少しだけ、宿屋の婆さんとして樹木希林が出てくるのですけど、これが舞台あらしなんですね。彼女の凄さまじい存在感に驚きを感じつつ、ややもすると作品のトーンを狂わせてしまう危険性もある。端役で出てもらうには、大変難しい女優さんだな、と痛感しました。




砂の女

2009-01-31 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1964年/日本 監督/勅使河原宏

「美しい、あまりに美しい」


人間存在を巡る問題に匂い立つエロス。めちゃくちゃかっこいい。カッコ良すぎて悶絶。なんでこういう映画が今撮れないんだろう。

昆虫採集に来た男(岡田英次)が村人に騙されて、砂丘のすり鉢の底にある家に泊まらされる。脱出不可能なこの家で来る日も来る日も砂掻きをやらされる男。「俺がいなくなれば家人が捜索願を出してくれる。そのうち警察がやってくる」という男の弁をせせら笑う村人たち。

掻いても掻いても砂にまみれる家で作業をし続ける不毛さ。そんな住まいから離れられない村人。この物語には様々な隠喩が隠れている。端的に言えば男が文明で、村人が未開の象徴。男から見れば、何の理屈も通っていない無知極まりない生活様式も、そのコミュニティの強固さの前には為す術がない。しかし、最終的には男は取りこまれてしまう。人間の弱さ、生きるための拠り所とは何か、文明社会の空虚さ、本当に様々なことを考えさせられる。

物語を追えば、この作品。「砂の家」というタイトルでもいい。または、ハメられる男の嘆き、もがきもまたメインテーマであるなら「砂の男」でもいい。しかし、本作は明らかに「砂の女」だ。それほどに、岸田今日子の妖婉さは際立っている。汗ばむ首筋、くびれた腰にへばりつく砂、砂、砂。時に鮮烈に、時に舐め回すようにカメラは岸田今日子の体をとらえる。それがなんともまあ、エロティックで、美しい。ポスターにして飾りたいほど。

砂の家に棲む女は、ただ落ちてくる獲物に食らいつき、むさぼり食うアリジゴクのよう。その真意の見えぬ妖しさに私もすっかり虜になってしまった。ひたすら砂を掻き出す不毛な毎日でも、この女と暮らす日々の方が何倍も官能的で魅力的ではなかろうか、と。




戦場のメリークリスマス

2008-12-03 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1983年/イギリス・日本 監督/大島渚
「映画を包み込む音楽のすばらしさ」


何度も観ていますが久しぶりに再観賞。公開当時は、坂本龍一が好きというただそれだけの理由で映画館に行きました。何だかとっても感動して、2回映画館に足を運びましたが、当時16歳だった私がこの作品の何に感動したのか、あまりの月日の経過に思い出せません。よくよく考えれば、大島渚を好きになったきっかけも、この作品。改めて見て、作品と音楽の一体感のすばらしさに感動してしまいました。

本作で、映画音楽家としての礎を築いた坂本龍一。物語が始まってすぐに映し出される「Merry Christmas Mr.Lawrence」のタイトルにかぶさる、タララララン♪というあのあまりにも有名なテーマ曲。このたったワンフレーズ、たった数秒のメロディが、作品を一気に大島ワールドへと誘う。すばらしい「ツカミ」。全くこのメロディが放つ力が圧倒的です。坂本ファンの私は一時期このサントラを聴き過ぎて、ちょっと飽きたなんて思ってたんですが、改めて映画と共に聴くと違います。いい音楽は、サントラだけ聴いていても楽しいのですが、やはり映画音楽は映像ありきなんだ、ということをしみじみ痛感します。俳優としての出演を打診された坂本龍一は「音楽を担当させてくれるなら出演する」と大島監督に交渉したと言われており、その自信と覚悟が見事に結実したと言えるでしょう。

さて、映画について。ローレンスとハラ軍曹、セリアズとヨノイ大尉。主にこの二組の間で交わされる、東洋と西洋の価値観の違いから生ずる感情のすれ違い。それが、支配する者と支配される者という関係性の中でぶつかったり、同情したり、突き放したり、揺れに揺れる様が描かれていきます。しかし、最も漂うのは、極限状態における男たちの愛憎劇と言った趣。男だけで形成する特殊な閉じたコミュニティでは、支配することで得られる高揚感がやがてサディズム的なねじれた愛を生み出す。そんな、男社会に通底する秘密を暴露されたような気にさせられます。この辺の興味が次作の「御法度」つながっていたりするのかも知れません。

また原作者はイギリス人ということなんですが、日本軍兵士の目線で描くことで、いわゆる外国人に対する日本人のひけめ、劣等感のようなものがさらけ出されているのです。それもまた、ねじれた愛を生み出すスパイスなんですけれども。

大島監督と言うのは、エネルギッシュな生々しさが魅力の作品も多いのですが、こと「戦メリ」に関しては、とても情緒的で、かつスケール感を感じさせます。きっと、それは坂本龍一の音楽によるところが大きいんでしょう。

しゃべれども、しゃべれども

2008-12-02 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2007年/日本 監督/平山秀幸
「静けさの一体感」


やっぱり映画って、自分で見てみないとわからない。平山作品は好きなので、公開時に見ようかと思ったのですが、あまりいい話を聞かなくて辞めてしまいました。ところが、蓋を開けてみると、俄然私好みの作品でした。

とても静かな映画です。カメラもゆっくり動きます。そして、「間」がいいです。音楽も少ないです。無音で下町の景色をするする~っとカメラが動いていくシーンが大変心地いいのです。主人公の男女は、典型的なテレビ俳優ですが、平山監督は見事に変身させています。国分太一演じる三つ葉のぶっきらぼうな東京弁と、香里奈演じる五月の仏頂面。この実に味気ない、素っ気ないムードが最初から最後まで徹底されていて、ある意味平山監督、己を貫いたな、と感心しました。

描かれている世界も大変小さい。教室を開いたとはいえ、生徒はたった3人。後は祖母役の八千草薫と師匠の伊東四朗くらい。余計な人物設定はありません。小さく始まって、大して膨らみもせず、小さいまま終わっていく。三つ葉が「火焔太鼓」をやり遂げても、五月が三つ葉の胸に飛び込んでも、すべてがゆるゆると一定のスピードで流れていく。それに、身を任せてただぼうっと眺めている、そんな映画でした。また、八千草薫が庭先でほうきを片手に三つ葉の落語を真似してみせる。ほんの少し挿入されるこれらの何気ないシーンにしても、どうでもいいわけではなく、むしろ絶対に必要なシーンだろうと思わされます。しかし、それぞれが突出することは決してなく、見事な一体感を保っています。

敢えて、心理描写には迫っていないですね。先日、「エリザベス」の感想で「もっと心の揺れをクローズアップさせて欲しい」と書きましたけど、それが欲しくなる作品と、そうでない作品があるのだな、と思います。本作の場合、一番心情がわからないのは、五月でしょう。いくら男と別れたとは言え、あの性格ブスの根源は何だろうと思うし、そんなに三つ葉に惹かれてたか?とも思いますし。でも、敢えてそこを突っ込んでくれなくとも、私には十分満足できる映画でした。このゆるやかなの流れの中で展開される小さな、小さな人情劇、その佇まいに魅了されました。