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Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

THE 有頂天ホテル

2007-12-09 | 日本映画(さ行)
★★★ 2005年/日本 監督/三谷幸喜

「ドタバタ劇にも群像劇にもなってない」


大晦日にホテルで起きた奇跡がコンセプトなんだろうが、豪華なおもちゃ箱をひっくり返して、適当に遊んでまた箱に戻しました、みたいな印象。で、一体どこが有頂天なんだろうか?タイトルからしてわからない。

まずこの作品は非常に登場人物が多い。ここまで多くさせるなら、とことん「あの人とあの人が!」という仕掛けやハプニングをもっともっと出してハチャメチャにしないと。この程度の繋がり具合なら、この手の作品の批評によくある「あの話はいらなかった」という意見が出ても当然だろう。「このネタはいる」「このネタはいらん」という意見そのものがまかり通ること自体、ひとつの作品としては大きな欠陥と言わざるを得ない。

大晦日の奇跡に絞ったドタバタ劇ならそれに徹すればいいものを、群像劇として心温まる物語にしようという無理矢理感も全体の統一感のなさの一因。ラストシーンはお客様を出迎える役所広司なわけで「ホテルはあなたの家、ホテルマンはあなたの家族」というコンセプトもこの作品には見受けられるが、これに関しては描き方が甘すぎる。これをメインコンセプトにして、「ホテルマンとゲスト」の衝突や対話、信頼などにスポットを当てれば、物語としてはもっと面白くなったと思う。伊東四朗、生瀬勝久、戸田恵子。この3名のホテルスタッフが全然お客様と絡んでこない。これはもったいない。

「好きなことをあきらめないで」というセリフや、鹿のかぶりもので笑いを取るなど、驚くほどベタな演出も多い。ボタンの掛け違いから次々と笑いを生みだすいつもの手法も、引っ張りすぎでつまらない。そうつまらないのだ。三谷幸喜ならもっとウィットに富んだ会話や笑いが作れるはずなのに、どうして?という悲しい声がぐるぐると頭を駆け回る。

結局ハチャメチャにできなかったのは、ハートウォーミングで上品な作品に仕上げたかったからだろう。(元ネタの『グランドホテル』ってそういう感じなんでしょうか?未見なのでわかりません)でも群像劇としてしっかり作り込むのには、登場人物が多すぎる。このジレンマに苦しんで生まれた作品と感じた。豪華役者陣勢ぞろいで舞台はホテルです!みたいな企画がまず最初にあったのかなあ。三谷幸喜は好きな作家だけにこの作品は非常にがっかり。見所は昔のワルに戻る瞬間の役所広司の演技。さすが、ドッペルゲンガー。

失楽園

2007-12-01 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1997年/日本 監督/森田芳光

「ちゃんと森田芳光の映画になっている」



今さら「失楽園」のレビューかよ、と思われるかも知れないが、今年「愛の流刑地」なるダメダメ映画を見に行ってしまったものだから、つい見比べ鑑賞のようなつもりで見てしまった。そしたら、何とこの映画、しっかり森田芳光作品として堪能できたので、驚いた。まあ、「愛ルケ」ががっかりしすぎたからかも知れないんだけど。

だって、この作品には「中年の悶え」がちゃんとあるもの。堂々と連絡を交わせない二人が互いの電話を待つシーンなどにふたりのやきもきした気持ちが実にうまく表れていた。やはり、それは映画一筋の森田監督だから作り出せる映像であったからに他ならない。

会社の隅でこそこそ電話をする久木を階段の上から捕らえた映像や、ふたりの隠れ家に向かう久木が買い物袋をぶらさげて坂の向こうから現れるシーンなどで感じる、いい年をした男が女に夢中になっている可笑しさやむなしさ。それは、ちょっとしたアングルの違いや、人物の配置なんです。やはり、セリフではなく、画面が醸し出す余白とか行間のようなものを体感できてこそ、映画。この「失楽園」には、これまでの森田監督の作品で表現されてきた「間」がきちんと存在している。

それから、ラブシーンが非常にいやらしい。下品な言葉で恐縮ですが、この作品はいやらしくないと、何もかもが根底から覆ってしまう。だから、できる限りいやらしいラブシーンでなければならない。ふたりが交わっている場面よりも、黒木瞳の表情だけをずっと追いかけるシーンの何といやらしいこと。あの行為を思い出して物思いにふける役所広司の表情の何といやらしいこと。

久木が家庭にいる時の様子、凜子が家庭にいる時の様子、それぞれを実に冷えた描写で描いているのも、森田監督ならでは。夫の浮気に気づきながらも何も言わない妻の背中、妻に異様な執着を抱く凜子の夫。心の冷気みたいなものが寒々しく画面を通り抜ける。こういった家族間の冷えた心理描写って、森田監督はうまいです。しかも、これがあるからこそ、二人は逃避行に出るのだと納得できる。原作の結末そのものは、なんでそうなんねん、というお粗末な展開ですが、それをさっ引いてもきちんと森田芳光の映画になっているではないか、と改めて感心した次第。

ザ・中学教師

2007-11-24 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1992年/日本 監督/平山秀幸

「女王の教室の原形、ここにあり」


今から15年前の作品である。おそらく「悪い奴は見た目も不良」という時代から「普通の子がキレる」時代への扉が開いた頃だろう。出演者の中学生はどの子もいたって見た目はフツー。しかし、その飄々とした風貌とは裏腹に不穏な空気を教師に送り続ける恐ろしさは現代のキレる子そのものだ。

徹底した管理主義で子供たちを束ねる冷徹教師が三上先生(長塚京三)。で、ですね、この三上先生のキャラクターが「女王の教室」の阿久津真矢先生にとても似ている。もしかして、ドラマ作りにこの映画を参考にしたのでは?と勘ぐってしまう。しかも、生徒に媚びへつらう友だち先生の役を藤田朋子が演じているのですが、これがまさに真矢先生が鬼と化す前の姿にそっくり。

「女王の教室」もそうだったけど、結局先生って子供に嫌われてナンボの世界ってことでしょう。ドラマや映画では教師像の描き方が極端になるのは当然のことでね、本作では行き過ぎと言われる三上先生の管理教育がマラソン大会では花開くわけだから、結末としてはちょっとイージーかな、と言う気もする。

でも、この映画の良いところは、そんな三上先生も自分の娘の子育てはうまくいかないことを描いている点。厳しくて、良くできた先生ほど、実の子供はいろんなプレッシャーを受けて道をそれる。これは、現実社会でも非常に良くあること。親が先生って、子供がたいへんだな、とつくづく思っちゃう。

藤田朋子演じる先生の授業中に、生徒が好き勝手な行動を取るシーンやシンナーを吸った生徒が先生を襲うシーンは、「台風クラブ」を思い出させる。
そう、本作もウエットな演出は全くなく、非常に淡々と冷めた目線で中学生を描いている。その距離感は三上先生が劇中つぶやく「僕だって生徒は怖い」という意識とリンクしていて、つまり三上先生が行う管理教育というのは、生徒にべったりするのではなく、一定の距離感をキープするための手法であるわけだ。で、同じように観客も劇中の生徒たちとの距離感を冷めた演出によってキープすることができる。

先生がいい人かどうか、というのはあまり問題ではなく、ポイントは子供との距離の取り方。それが、寂しいと捉える人もいれば、現実的でいいと捉える人もいる。私は、三上先生大いに結構。わかろうとする、入り込もうとする、理解し合えると思っている。そんなのは大人のおごりだろう、って思うからだ。
三上先生は、見た目は冷徹だけど、責任を取ることに関しては、全て引き受けようという、志が見える。それは、教師という職業においてとても大切なことだと思う。

疾走

2007-11-10 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2005年/日本 監督/SABU

「神に捧げられたシュウジ」


公開時に気にはなってたんだけど、見られなかった作品。ジャニーズのメンバーが主役を演じている割には、取り上げられ方が今ひとつだったのは、とにかく暗くて重い作品だからだろう。SABU監督と言えば「弾丸ライナー」のようなスピーディで弾けるイメージだったんだけど、今作は非常にきりっとした鋭い映像で、思春期の少年の心を実に細やかに描いている。シュウジの人生は悲しいけど、彼はナイーブで心優しい青年全てを代表するシンボルのように思えた。

この物語を見るのに最も重要なのは「沖」と「浜」の位置づけだろう。「沖」はヤクザなどのよそ者が住みつく「異の世界」。「浜」は住宅地でいわゆる中流家庭の人々が多く住む「共同体の世界」。しかし、この共同体の世界は、よそ者を蔑み、世間体を気にする見せかけの共同で成り立っている腐った世界でもある。シュウジは、少年らしい好奇心と元来持ち合わせている心の優しさがきっかけで「沖」の人々と交流を持つ。つまり、境界線を越えてしまう。それが、最終的には彼に悲劇をもたらす。

しかし「浜」の住人である兄もまた、道を踏み外す。つまり、どちらの世界にいても、少年は傷つく。であるならば、シュウジのように人間らしい心映えを持って、境界線を乗り越える生き方にも意味はある。だって、とてもささやかではあるけれど、彼は最後に「のぞみ」という名の希望をこの世にもたらすのだから。

現代の日本にもし「沖」と「浜」しか存在していないのなら、シュウジはさながら希望を創り出すための「生け贄」とも受け取れるかも知れない。そう、シュウジは神に捧げられたのだ、と。聖書が物語で重要な役割を担っていることからも、そのような解釈は可能だと私は感じた。

さて、今作において、ヤクザの情婦を演じる中谷美紀が非常に印象的な演技を見せてくれる。私は「松子」より断然好きだな。驚いたのは、関西弁がとても上手だったこと。彼女は関西出身ではないと思ったんだけれど。それから、教師を演じる平泉成。いいかげんな大人を演じさせたら彼の右に出る者はいないかも。トヨエツは「ハサミ男」に次ぐおかしなヘアスタイルで神父を演じる(笑)。彼の演技の特徴的なのは、「何者かわからない」浮遊感。この神父にしてもいい人なのか、悪い人なのか正直わからない。シュウジを助けようと思えばもっと彼に深く立ち入ることはできたはずだしね。その辺の無記名性って言うのは、実にトヨエツらしい演技だったと思う。

「沖」と「浜」を繋ぐために生き抜いたひとりの少年の物語。彼の人生は確かに短かったけれど、彼の行いは、決して愚かなものではなく、尊いものだった。大人の私はそう信じたい。

深紅

2007-10-15 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2006年/日本 監督/月野木隆

「ふたりの女優が光る」


昨年亡くなった脚本家、野沢尚の遺作。吉川英治文学新人賞受賞。原作は既読。
常に脚本家としてヒットメーカーであり続けた野沢尚は、題材の選び方と時代を反映させたストーリー展開が非常に巧い作家だ。遺作となった「深紅」では、一家惨殺殺人というショッキングな事件と「被害者の娘」対「加害者の娘」という明確な設定の中に、犯罪が人の心に与えるもの、過去とのトラウマからの決別、罪は受け継がれるのか、など非常に深いテーマがふんだんに盛り込まれており、とても見応えがある。

大体、原作を先に読んでしまった場合、映画はなかなかそれを越えることはできないのだが、深紅は、物語がわかっていても引き込まれる。それは、やはり原作そのものが面白いからなんだろうと思う。とはいえ、東野圭吾や横山秀夫などベストセラー作品の映画化は、やはり原作を越えることはなかなかできない。しかし、今作は原作を書いた野沢尚本人が映画の脚本を書いているので、原作が持つパワーが損なわれることなく映画化されたと思う。

父と母、ふたりの弟を一度に殺される被害者の娘、奏子役を内山理名、加害者の娘、未歩役を水川あさみが演じているが、ふたりとも過去のトラウマに苦しみ、崩壊しそうな自我を懸命にこらえている女性を好演している。今作は、物語のほとんどをこの二人のシーンが占めており、登場人物が少ない映画なのだが、このミニマムさが見ていてふたりの感情に移入しやすくて、とてもいい。

物語で重要な役割を持っているのが「4時間の追体験」という主人公が抱える発作だ。小学6年生だった奏子は修学旅行中、突然家に帰るように言われる。家族が事故にあったと聞かされた瞬間から家族の遺体が眠る病院に着くまでの4時間は、奏子に凄まじい恐怖体験を残す。以来、奏子は何かの拍子でフラッシュバック現象を起こして気絶し、この4時間をそのまま体験してしまう。奏子が抱える闇を表現する方法として、この着想はすばらしい。しかも、このフラッシュバック現象を通して、奏子と未歩が相対するというアイデアが秀逸。

さて、映画が原作と違うところ。それはラストシーンである。いや、ラストシーンだけが原作と違う、というべきか。通常、物語の終わりが異なるというのは原作ファンとしては納得行かないことが多いのだが、本作ほど原作の改編が心にしっくりとなじむものも少ないだろう。それは、原作では曖昧だった結末に、原作者本人が映画の中で答を出しているからだ。

犯罪は犯した本人よりも、巻き込まれた者たちに深い深い影を落とす。そのつらさとやりきれなさを乗り越えて、二人の女性は再生する。凄惨な事件を扱っているが、サスペンス的要素もあって、娯楽作品としても楽しめる映画になっている。このあたりの盛り上げ方もさすが人気ドラマを手がけてきた脚本家だ。もう、彼の作品が見られないというのは、本当に悲しい。

2007-03-26 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2007年/日本 監督/黒沢清
<梅田シネ・リーブルにて鑑賞>

「絶望と孤独を喰らう赤い服の女」



(ラストシーンについて触れています)
まず、黒沢清監督の作品について、好きか嫌いかと聞かれると嫌いである。で、すごいかすごくないか、と聞かれると、すごいと答える。だから、しょうがなく見る(笑)。こういうのを、いやよいやよも好きのうち、と言うのだろうか…。

さて、最新作「叫(さけび)」について。これまでの黒沢作品というのはおおむね「目に見えない存在がもたらす恐怖」について描いたものが多かった。しかし、新作では「幽霊」がちゃんとした人の成りをして登場してきたのが非常に新鮮であった。ただ、これまたややこしいのは、一応「赤い服を着た幽霊」は映像として登場しているけど、これは何かの象徴であるかも知れないし、実ははなから存在していないなんて解釈も可能なのが、黒沢清。私は基本的にパンフレットを買わない主義なので、その辺は勝手に想像するしかない。

で、まさにこの「勝手に想像する」ことが黒沢作品の一番大きな醍醐味なんである。以前、「SAW」のレビューでも触れたけど、映画を見終わってあれこれ検証するのが私は好きではない。「答を求めて検証する作業」と「勝手に意味を想像する作業」には雲泥の違いがある。何せ後者の方は自分の出した答が正解なんだもの。

赤い服の女(葉月里緒菜)は、耐え難い孤独を抱えた人間の前に現れる。彼女は彼らに「全部なしにすること」を示唆する。おそらく赤い服の女は、さまざまなの人々の前にも現れているのだろう。役所演じる吉岡のカウンセリングを行う精神科医(オダギリジョー)も、幽霊の話になった途端、動揺し机の上のものをぶちまけたりしている。彼もすでに赤い服の女を見ているのかも知れない。

赤い服の女は、律儀にドアを開けて出て行く時もあれば、スパイダーマンのような飛行で空高く飛んでいくこともあって、この行動の一貫性のなさはどう考えればいいのか、非常に悩むところ(笑)。私は、ドアを開けて出て行くような描写の時は、実は死んだ恋人の春江(小西真奈美)が赤い服の女として目の前に現れているんではないかな、なんて想像してみたりもした。ラストシーンは、春江の叫びである。ただし、音は消されている。その叫び声は、劇中赤い服の女が発していたものではないかと思うのだ。そもそも、最初の死体も赤い服を来ていたし。

しかし、あの叫び声はすごかったですね。声でR指定出されてもおかしくないんじゃないでしょうか。落ち込んでる人が聞いたら狂ってしまいそうです。

埋め立てられる湾岸地帯が土壌となり、人間の孤独を糧に赤い服の女は増殖し続ける。ただひとり「許してもらった」吉岡は、誰もいなくなった湾岸地帯をひとり彷徨い続けるのだろうか。この「許される」ということをどう解釈するのか、というのも面白いところだろう。

あなたもふと、鏡をのぞくと、赤い服の女が見えるかも知れない。なぜだか知らないけど海水を汲みたくなるかも知れない。そう思ってしまう人は、十分に鬱状態。黒沢作品は、カウンセリングに行くより簡単なリトマス試験紙だ。


それでもボクはやってない

2007-02-13 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2007年/日本 監督/周防正行
<新京極シネラリーベにて鑑賞>

「私は、なぜ映画が好きなのかと考えてみる」


正直に言っていいですか?私はこの映画、あまり楽しめなかった。「映画を楽しむ」ってことは、私にとって何なのか、自問自答したくなるような映画でした。

「楽しむ」と言っても、笑ったり、喜んだりすることだけを指すのではもちろんなく、つらかったり、悲しかったりしてもそれは「映画を楽しんだ」ことになるのです。ところが、この作品はそうは感じなかった。まさにこの映画は日本の裁判制度の不備を広くいろんな人に知らしめたい、という周防監督の並々ならぬ思いが詰まった映画です。それは役所広司自身も劇中語っています。痴漢冤罪事件には日本の司法制度が持つおかしな点が全て詰まっていると。だから、周防監督は徹底的にリアリズムを追求した作品を仕上げた。それは、重々承知しているのです。

その徹底したリアリズムを出すために、この映画には情緒的な演出が一切排除されている。そこが私が入り込めなかった一番の理由。例えば無実の罪で3週間も留置されて徹平がようやく外に出てきた時、彼は何だかんだを力を尽くしてくれた友人(山本耕史)にありがとうのひと言をかけることもない。それが、すごくひっかかってしまった。何も「おまえのおかげで俺は助かったよ。なんていい友人を俺は持ったんだろう」と泣きながら加瀬亮に言って欲しいわけじゃない。そういう演歌的世界って、私は好きじゃないから。

心の動き、なんです。そこが何だか物足りないって一度思ってしまうと、淡々と続く裁判制度の歪みばかりが重くのしかかってくる。しかも、何だかみんなすごく「かたくな」な人物ばかりだなと思うのです。どの人物も裁判を通じてでしか、そのキャラクターが伝わらない。勝手な調書を作り上げる刑事も、嫌々ながらも裁判を引き受ける新米弁護士も、この裁判に関わることで様々な心の揺れがあるはず。だけども、その心の向こう側を感じられない。

おそらく、周防監督は敢えてその心の揺れを排除している。だから、観客はそのまま受け取るしかない。そこで、私はなぜ映画が好きなんだろうという自問自答に戻ってくるわけです。あまりにも絶賛レビューが多いので、私が鈍感なのかなあと思ったりもして。日本の裁判ってヘンだ!ってのは、よーくわかったんですが、私の心は揺れなかった…。

いい人、悪い人ということは抜きにして、裁判官役の二人が光ってましたね。この2人の演技には、向こう側を感じました。特に小日向文世。裁判官が彼に変わったことが、この映画で最も大きなうねりを出していた。公判が始まってからの描写があまりにも静かに淡々と進んでいたのでなおさらです。

日本の裁判制度がいかにおかしなものか、それ1点のみを痛烈に伝えたかった。ええ、周防監督、それはとてもよくわかりました。心して受け止めました。でも、私はもっと心を揺さぶられたかった。それは、次回作にお預け、ということなんですね。

Shall we ダンス?

2007-02-07 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1996年/日本 監督/周防正行

「ウンチクを捨て、男の居場所を描いた」


修行僧、相撲と来て社交ダンス。マイナーな世界にスポットを当てた周防作品のトリを飾った作品がこれ。「ファンシィダンス」「シコふんじゃった」と連続して見て気がついたのは、この作品は社交ダンスのウンチクを訳知り顔で語ったりはしていない、ということだ。「ファンシィダンス」では主人公の生活ぶりをていねいに見せながら修行僧の作法や寺の習わしを語っていたし、「シコふんじゃった」では穴山教授が相撲の歴史や面白さを語ってくれた。

しかし、「Shall we ダンス?」では、社交ダンスってのはね、とあれこれ語るシーンはほとんどない。しかし、主人公の心の流れとオーバーラップさせながら社交ダンスを見せることで、最終的には「社交ダンスって面白いもんなんだ」という気づきを観客に与えている。その押しつけがましくない手法こそが、社交ダンスをここまでブームにさせた一因ではないだろうか。

また、マイナーな世界をおもしろおかしく紹介するだけではなく、周防監督は今作で「男の居場所」について提示して見せたことが多くの人々の心を捉えた。会社でもない、家庭でもない、ダンス教室こそが主人公杉山(役所広司)の居場所だった。ステップ一つ踏めない杉山が努力してどんどん上手くなる姿は、まわしが似合うようになるモックンよりも様々な意味を含んでいる。

しかも、杉山の思いはいったん断ち切られる。上手になりました、バンザイ!という結末にはしないところがニクい。杉山はダンスを好きであったと同時にダンスに逃げていたのだと観客に示すのだ。そうしていったん、落としておいてから再び心温まるラストのダンスシーンへ。この流れが実に巧みだ。

杉山に手紙を書いた後、ひとりダンス教室で踊る草刈民代のダンスシーンがいい。夕日の差し込む誰もいない教室で、白いワンピースを着て軽やかにターンする姿は、さすがバレリーナの美しさ。監督が惚れるのもわかります。

シコふんじゃった

2007-02-03 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1991年/日本 監督/周防正行

「木漏れ日と‘間’」

始まりはいきなりジャン・コクトーですよ、ジャン・コクトー。周防監督ってのは、実に粋なことをする人です。しかも、相撲の美しさを例えるのにシスティーナ礼拝堂を引き合いに出してくるような詩なんですから、この弱小相撲部にも果たしてそんな美しい一瞬が訪れるのか、実に胸躍らせる始まり方です。つかみはオッケー!って感じですね。

主人公山本秋平を演じるのは前作「ファンシィダンス」に引き続き本木雅弘。卒論の担当教授である穴山教授(柄本明)から単位と引き替えに相撲の試合に出るよう強制されますが、酒の勢いで絶対勝つと約束してしまい、次第に相撲の面白さに引き込まれます。

キャップをかぶって今時の大学生を演じるモックンがまわしをしめて土俵に立つ姿が次第に凛々しくなっていく様子は「ファンシィダンス」と同様。引き締まったお尻が実にきれいです。立ち姿の美しさはまさに主人公と呼ぶにふさわしい。モックンの存在感が存分に引き出されてます。

さて、前作「ファンシィダンス」での成功により、周防監督は自分の好きなテイストをより今作に取り入れたんだろうか。固定カメラによる静かなセリフ回しのシーンがとても多い。これは文字通り周防監督が敬愛している小津安二郎の空間。穴山教授の部屋や相撲部屋にはいつも木漏れ日のような陽光が差み、穏やかな口調のセリフと絶妙な間が我々の心を暖かくする。そしてこの「静」のシーンが際だつほど、相撲の取り組みの「動」のシーンが生きてくる。

スポ根コメディなんて言われ方とは実は全く違う。確かに相撲の取り組みのシーンもいいんだけど、私は「静」のシーンの方が好きだな。セリフにあまり抑揚はないけど、だからといって無機質かというとそんなことはなくてねえ。どうも年取って、わーわーうるさいが苦手になってきたのかも。この映画って、こんなに静かな映画だったっけ?と驚いちゃった。音楽の影響も大きいかも。要所要所にいわゆるBGM的効果音が流れるくらいで音楽が全然うるさくないの。

竹中直人のお腹がゆるくなってお尻を押さえる演技はね、これほんっとに何度も見てるんだけど、笑っちゃう。次は笑わないぞと心に決めてるのに、笑っちゃう。よく考えてみると、竹中直人に限らず周防監督作品ってのは、何度見ても楽しめる映画なんだよね。すっごいありきたりな言い方で情けないけど。何回見ても同じシーンで笑えるし、同じシーンでほっこりできる。これって、実はとてもすごいことなんじゃないのかしら。

<追記>
本作がすごいのは、いとも自然に土俵に女性をあげてしまったことだ。というある方の評を聞いて、なるほどと思った。周防監督を見直しました。


69 sixty nine

2006-10-09 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2004年/日本 監督/李相日
「モテたいゆえの思想」


「パッチギ」の時に、主人公の康介がなぜそれほどまでに「イムジン河」に入れ込むのか伝わらなかった、と書いた。が、しかしこれは少々違うのかも知れない。それはその世代なら当然わかってしかるべき共通認識かも知れないからだ。だから、彼がこの曲に入れ込んだ理由などいちいち描写することでもなかったのかも知れない。「イムジン河」と聞いただけで目頭がじんと熱くなる世代の方々なら、何を言ってるんだオマエ的な感想だったんだろうな…。

さて、この「69」は、作家村上龍の半自伝的小説が原作。全共闘時代、そしてウッドストック。世代としてかすりもしない若い人たちが観たら、ちっとも面白くないんだろうか。いや、そんなことはない。それは「パッチギ」と同じだ。体制への反抗心、そしてどこかにぶつけなければ処理できない若者たちのエネルギー。だが、今作は基本的にそれらの行動が「モテたい」という、下心にのみ集約されているのが微笑ましい。時代とか、そういうかったるいことは抜きにして、モテたい故のハチャメチャぶりをただ笑い飛ばせばいいのだ。

ただ、悲しいかな、私のような村上龍好きならば、彼がこの後上京してフーテンのような生活を過ごし、福生に移り住んだ後はアメリカ兵たちと生死をさまようほどドラッグに溺れたという事実を知っているだけにそれなりの感慨もあろうけど、そうではない人に取ってはドンチャン騒ぎを見せられただけ、という感想になるのもうなずける。

でも、学校のバリケード封鎖、映画制作、フェスティバルの開催と彼らがエネルギー全開で突っ走る様子は十分に楽しめる。学校中に落書きしたり、校長室で大便したり、とまあやりたい放題。どっぷりの佐世保弁も面白い。叩かれても叩かれても起き上がる主人公ケンを演じるのは妻夫木聡。親友アダマが安藤政信。どう観ても60年代の学生には見えないけど、それがかえって当時を知らない人たちには、身近に感じられて良かったんじゃないかな。

青春の1ページを描いただけには違いないけど、こんなにディープな時代だってあったんだって思えば結構楽しめる。全共闘なんて言うと、暗いし、小難しくなるけど、こんなバカバカしい描き方でこの時代を振り返るのも、それはそれでアリなんじゃないのか、と私は思う。美術教師であるケンの父親を演じるのが柴田恭兵。キャスティングを聞いた時は合わないと思ったけど、これが案外良かった。

SHINOBI

2006-09-05 | 日本映画(さ行)
★★★ 2005年/日本 監督/下山天

「この映画のターゲットはどこなんだ?」



忍者が好きな子供たちなのか、アクション好きな若い男性なのか、それともラブストーリー好きな女性なのか。大体エンターテイメント映画ってのは、このターゲットに響くようにという「核」があるはずで、そこにしっかり力を入れれば、そのターゲット層の周りにいる人たちも取り込める。これは商業的なモノ作りの基本だ。でも、この作品は誰に見せたいのか、よくわからなかった。

あと、日本のCG技術って、まだこんなものなの?もともとアクション系はあんまり見ないのでわからないけど、ちょっと動きのなめらかさがハリウッド映画に比べるとまだまだって感じで。これは予算の関係なのかな。

さて、甲賀VS伊賀、しかもその長同士が恋人って設定。アクション映画として見せるのでも、ラブストーリーとして見せるのでも、このシンプルな設定はわかりやすくていい。でも、どっちが甲賀でどっちが伊賀なのか、わかんなくなった。グループ毎に同じ衣装とは言わなくとも何かシンボリックなものを統一させて欲しかった。5人のキャラ説明もちゃんとして、キャラクターを立たせれば、バトル物としてもっと面白くなったはず。

そして、主人公ふたりの術が「目力」ってのも、アクション的な迫力出せないし残念。せっかく、最後は愛する者同士の戦いなんだからボロボロになるまで戦うべき。愛しているけど、殺さねばならない。なのに、やけにあっけない幕切れだったなあ。その点、「Mr&Mrs スミス」は徹底的にやってた。あれくらいやらないと。大将同士の戦いで盛り上げないでどうする。

オダジョーは、仮面ライダー出身なんだからもっと開き直ってキャラになって欲しい。彼のいいところ、あんまり出てなかったよ。こういうのは「なりきり君」にならないと。俺はもうこんなのやりたくないムード漂ってませんでしたか(笑)。

なんだか子供だましなゆるさだよな~と思っていたのに、最後の朧の決死のシーンで不覚にも泣いちまった。つまり、仲間由紀恵でなんとかこの映画は持っていた、ということか。さすが、功名が辻(見てないけど)。


サマータイムマシン・ブルース

2006-08-29 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2005年/日本 監督/本広克行

「どうして私は乗りきれないの」



「面白かった!レビュー」が多くて期待し過ぎたのだろうか。最後までなんだか乗り切れなかった。こういうテイストの作品はすごく好きなんだけどなあ。なぜだろう。面白い!と言い切れない私がいるのです。なぜ、なぜ?

突然タイムマシンが目の前にあって、とりあえずすることと言ったら壊れたリモコン直すために昨日に戻るってね、そういうバカバカしさはすごくいいんです。でね、昨日に戻ってしまったがために、結局あっちこっち時間移動しなきゃいけなくなって…。そこをですね、私はすごく「それでいいの?」と冴えない脳をいろいろ働かし過ぎちゃって、乗り切れなかったんですよ~。

えーっと昨日に戻ってやったことは、今日はすでに現実化してる。でも、過去を変えちゃうとすべてが消滅するって、佐々木蔵之介演じる大学助手は言ってたし。じゃあ、落書きするのはいいけど、物を動かすことはダメなの?なんて、もうずーっと頭の中が疑問符だらけでね。いちいち検証している自分がいる。もう性格だね。あれ?と思ったことがスッキリするまで、ストーリー追えないの。これって、結構損な性格かもなあ。

でもね、伝説の亀がSF研究員の男の子だったってオチはかなり笑えたし、なぜか未来から来た奴がダサイファッションだとか、そういう細かいところもいちいち面白かった。つまり、面白いか、面白くないかと聞かれれば面白いんだ。しつこいけど。と、いうわけで辻褄を確認するためにも、何度も観た方がいいのだろうか?それとも、そんなことするとますます頭が疑問符になるんだろうか。スッキリ面白かった!と言えない自分が悲しい。

12人の優しい日本人

2006-08-11 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1991年/日本 監督/中原俊

「日本のコメディもやるじゃん、と初めて思った」


名作シドニー・ルメットの「12人の怒れる男」をベースに、もしも日本に陪審員制度が導入されたらを描くコメディ。この当時は鼻で笑っていたけれども、あれから15年。なんと日本にも陪審員制度が導入されることが決定。もしかしたらこの映画のようなことが、実際に起きるかも知れない、と思うと安易に笑ってもいられないのだが、まあそれはさておき、これは実に面白い映画です。

これを観て日本のコメディも悪くないな、と思い、脚本家の名前を頭に入れて、以来ドラマの三谷幸喜作品は欠かさず見るようになった。演劇好きの人であれば、まず東京サンシャインボーイズから入るのだろうが、演劇が苦手な私はこの「12人の優しい日本人」を経由して三谷ファンになったのだ。

登場人物が12人と多いのだが、観客はすぐにそれぞれのキャラクターを把握できる。それが、審議を始める前に喫茶店に飲み物を注文するくだりだ。何でもいいという人、誰かの注文に合わせる人、メニューにない物を無理に頼もうとする人、ぎりぎりになって注文を変える人…。この短いシーンで12人の個性が顕わになるのだ。私は冒頭のこのシーンで三谷幸喜のセンスにすっかりやられた。しかも喫茶店の注文一つまとめられない状況が、今後の審議の進まぬ状況を予感させるのだ。

シーンは、裁判所の一室の中。最初から最後までセリフの洪水。まさに脚本力がないと、116分ももたない。それにしても、各出演者のかけあいの間が絶妙。セリフがまるで「合いの手」のように次から次へとぽんぽん投げ出される。聞いてて、心地よいリズム感がある。「責任を取りたがらない」「人の意見にすぐ左右される」といった、日本人気質を逆手に取った自虐的なセリフが次から次へと飛び出し、大爆笑。

また三谷幸喜は12人それぞれに非常に深いキャラクター性を与えている。12人の人と成りを作り込んで、それぞれが突っ込みの矢を放ち合いながら、議論をあっちへこっちへと振り回す。裁判所の部屋の中、というシチュエーションが全く変わらない状況で、これだけスリリングな展開が作れるなんて、本当にすばらしい。一体、どんな結論になるのか、ハラハラドキドキだ。

さて、この映画。監督は、三谷幸喜ではなく、中原俊である。私は、中原監督の誇張しすぎない静かで丁寧な作り方が、この映画を実に品の良い作品にしたと思う。ドタバタコメディにしようと思えばできる素材である。それを、比較的ゆったりとしたトーンで描いているのが、非常に良かった。判決が決まり、ひとりずつ部屋から出て行くラストシーン。初めての部屋以外の場面になること、ドアを開けて去ることが、12人の開放感を表している。一人ずつ去ってゆくことで観客も映画の余韻をしみじみ味わうことができる。

最後に。この映画を見て弁護士を演じる(実は俳優だったのだが)、ひと際存在感を示す若い役者に私は一目惚れ。エンドロールが流れる中、その俳優の名前を頭にたたき込んだ。豊川悦司。以降、私は彼の大ファンになったのだ。


下妻物語

2006-06-13 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 2004年/日本 監督/中島哲也

「新しい、と感じたのはいつ以来だろうか」


これだけ多くの作品が生み出される映画というメデイアで、「なんだこれは!?」という新鮮な驚きを感じることは、めったにない。だって、突き詰めれば基本的に創作するというのは、どっかでパクリであってさ。何だかこのシーン、観たことあるなあ、とか、この展開はどっかにあったなあ、とかそういうのの集合体が今の映画。これは、何も悲観的に言っているわけでなく、それは全ての創作活動にあてはまることだと、リアリスティックな私は常々普通にそう思っている。が、この下妻物語は、私を含めそういういじけた人々に強烈なパンチを喰らわせてくれる。新しいもんなんて、なんぼでも作れるんだよ!と。

なるほど、この人はトヨエツと山崎努のピンポンCMを作った人なんだね。あのCM私も大好きだったよ。先日、めざましテレビにこの人、出ててさ。言った言葉に、実は私すごく衝撃を受けたんだ。「目標は持たないことにしてます。」ってあっけらかんと言ったんだよね。確か、目標を持っちゃうといろいろ縛られちゃうし、自由でなくなるみたいなことを言ってたんだけど、そういう考えもアリだな。なんてまじめ人間の私は感心しちゃった。社会も企業も学校も、「まず、目標を立てよう!」な世界の日本だから、新しい発想が出てこないのかな、なんてミョーに考え込んでしまったよ。

さて、さて、映画に戻って。オンナの子の友情物語って、なかなか感動作にはできないもんですぜ。やっぱね、女同士ってのは、お互い計算し合って、牽制し合ってるもんなのよ、悲しいかな。だけども、桃子とイチゴは、ものすごくピュアな人間だよね。だから、感動できる友情物語が成立する。でも、そのピュアっぷりを徹底的に描くやり方が、実に新しかった。ここまでやるか、と思うものをさらに超えてやる!、そんな意気込みを感じる。実際「くだらん!」と思えることを徹底的に作り込めば、ここまで面白いもんになるのか、というのは驚きを通り越して、感動したよ。
主人公のふたりがね、他の奴なんて気にしない。私は私の道を行く!ってメッセージがホント気持ちよくって、それはそのまま中島監督にも当てはまるんじゃないかなって気がした。

で、脇役が登場するところは、もう爆笑しまくり。好きな場面がありすぎて、困るな。やっぱ一番笑ったのは、生瀬勝久から阿部サダオ登場のくだりかな。生瀬は、さすがやりまくり三助。で、阿部サダオのステップも最高。篠原涼子もいいねえ。カンにさわるヘンな関西弁がこの映画にはめちゃめちゃ合ってたわ。こういう監督のセンスもすごいな。宮迫博之、岡田義徳に樹木希林、極めつけはジャスコの荒川良々。もう、文句なし。つっこみどころ全くなし!「見終わってあそこがなあ…」と思うところがホントにない!

フカキョンのおフランス妄想シーンも、茨城の自宅のセットも、非常にていねいに作り込んでる。始まってから、終わるまで、びしーっと一つの世界観がある。蘊蓄たれたり、説教くさい世界観ではなく、ひーひー笑って泣ける世界観。これは、なかなか作れるもんではおまへんで。

ジョゼと虎と魚たち

2006-03-10 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2003年/116分
監督/犬童一心 主演/池脇千鶴、妻夫木聡

「邦画ラブストーリーの秀作」

大学生の恒夫(妻夫木聡)は、坂道を暴走する乳母車に遭遇する。バイト先の雀荘ではあの乳母車の中には何が入っているのか噂が絶えなかったが、果たして乗っていたのは、包丁を握りしめた少女(池脇千鶴)だった。脚の不自由なその娘は、自分を“ジョゼ”と名のり、料理した食事を恒夫に振る舞う。その美味しさに感激した恒夫はたびたびジョゼの元に通うようになり、彼女に惹かれていくのだった…。

邦画の純粋なラブストーリーで、これは!という作品に出会えることはあまりない。大体旬の若手女優を起用して、センチメンタルな音楽とありきたりなストーリーで泣かせようという作り手の魂胆が丸見えで、見終わったら「アホか」という言葉しか出てこない。だけど、この映画は違う。正直妻夫木くんは、この映画を見るまではただの人気俳優の1人だと思ってたけど、この映画を見てからはれっきとした映画俳優だな、と認識を改めた。それぐらいいい。

(以下ネタバレ)妻夫木くん演じている恒夫は、いわゆるどこにでもいそうな軽薄な大学生だ。そんな彼がジョゼというへんてこな女に出会って、自分自身も変わってゆく。でも、結局最後の最後に軽薄な大学生の根っこの部分は変わることがなかった。結末は悲しい。だけど、私にはこの結末があまりにリアルに感じられて怖いくらいだった。ジョゼの部屋を出て行った恒夫が、そのすぐ後で女友達と待ち合わせをしていて、しかもその女の目の前で別れのつらさに泣いてしまう。ほんとにどうしようもない男。だけど、なんか許せてしまう。そこは妻夫木くんの演技力によるところが大きいと思う。カンチは許せなかったけど、恒夫は許せるぞ。

そして、ジョゼを演じる池脇千鶴。もう、強烈なキャラクターを自分のものにしてます。この子、すんごい口悪いんです。初めて出会った恒夫に「アンタ」呼ばわりやし、「アホか」とか「どっかいけ」とか大阪弁で連発。普通、こんな子好きにならんやろう、と思うのだが、なんとも魅力的なんですね。まっ、こんなにぶっきらぼうな女が料理を作らせるとうまい。そんなギャップがいいんです。足が不自由ということで台所の椅子から突然ドサッと落ちるシーンは、毎回ドキドキしてしまいます。ジョゼの危うさとかぶっきらぼうさを象徴したシーンです。

好きになればなるほど、相手のために何かしたいと思う。でも、それが行き過ぎると空回りしたり、相手はそんなこと望んでなかったりして、臆病になったりする。でも恒夫は、ジョゼの笑顔が見たくて、がんばる。他人から見れば、同情や偽善と言われかねない行動も、恒夫にとっては純粋な愛情から出た行為。その末に行き着いた結末だからこそ、二人は受け入れられる。恒夫の愛という贈り物をもらったからこそ、ジョゼはようやく外界に飛び出す勇気を得たのだ。しかしまた、あんなに人を愛することはもうないことも、ジョゼはわかっている。いつも通り鮭を焼く彼女の表情は、晴れやかで、そして、切ない。


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