今日は長崎「原爆の日」。広島・長崎と立て続けに原爆が投下された65年前、小生は動員学生として軍需工場で働いていた。当時は軍部が報道管制をしていたので、原爆だとはすぐには分からなかったけれども「特殊爆弾」という表現で、これまでの通常爆弾とは違う被害を齎したことを伝えていた。
仙台は7月10日のB29による爆撃で市中心部が焼け野が原となり、釜石などの港湾都市に対する艦砲射撃や艦載機による攻撃が繰り返されるようになり、日本の敗色は日一日と濃くなっていた。仙台にも「特殊爆弾」が投下される恐れがあると思ったかどうか知らないが自宅待機を命じられ、敗戦は自宅で迎えた。
広島・長崎の惨状を知ったのは敗戦後しばらく経ってからだった。新聞とラジオしかマスコミと言えるものがない時代で、それすら占領軍の検閲の元に置かれていたから、日本国民に知らされたのは事実のごく一部に過ぎなかった。
一般国民は放射能の恐ろしさを知る術もなかった。もしそのような知識が行き渡っていたら、後から原爆被災地に入って放射能を浴び、長い間苦しむことになる犠牲者はより少なくて済んだだろうにと思われる。敗戦の混乱でとてもそれどころではなかったと思うが残念なことである。
広島・長崎は原爆投下から65年経って放射能に怯えることもなく平和な暮らしが営まれているが、世界的にみればまだ放射能の危険に曝されているところがある。その地域の一つがイラクである。アメリカ軍はイラク軍を壊滅させるための攻撃で劣化ウラン弾を多用した。鋼鈑の貫通力に優れていて敵の戦車破壊に威力を発揮したからである。
被弾した戦車の残骸からは今でも強い放射能で出ている。それに汚染されたチリやホコリを吸い込んだ住民、特に子どもに白血病や奇形児など放射能による病気が多発している。アメリカは科学的な根拠がないと反論しているけれども、劣化ウラン弾と病気の多発には深い因果関係があると見るのが自然であろう。
核廃絶のなかには核兵器製造の過程でできた、いわば核のカスを利用した兵器の廃棄も含めて考えるべきだと思っている。