LIPRIVERの部屋 (フォトブログ)

1日数枚の写真を掲載 花の写真、神戸の素敵な所、関西を中心とした写真を紹介。ただ、写真と記事とは余り連携していません。

自分史7

2007年12月19日 | 自分史

 昭和42年。この年に阪急ブレブースが初優勝を飾る。日本シリーズでの記憶がいまだ鮮明に覚えている。サブマリン投手山田。9回まで完璧に抑え最高の投球。あとわずかという所まできて、王選手にサヨナラホームラン。あれから巨人が勢いにのり日本シリーズ制覇。本当に凄い試合だと、私の中では一番思い出深いかもしれません。あの時の山田投手の姿。子供心に、ある意味感動しましたね。世間ではグループサウンズが全盛。余り歌に興味なかったけど、この頃の歌、どうしてか不思議に覚えている。今でもカラオケなんかで歌えたりしますものね。所で私はと言うとあいも変わらず少年野球に夢中になっていました。友達と遅くまでボールを追っかけていましたね。あの頃、勉強しろとは言われたが、今みたいな事なかったように思う。塾に通う子は、ええしの子(裕福な家庭)とか、そんな子がバイオリンやピアノを習っていたように思う。時代なのでしょうね。今の子供達は大変。でも、最近のテレビなんかで出て来るタレント、ホント、ひどい人が多いですよね。結構頭のいい子が大勢いるかと思いきや違いますもんね。解らないものです。勉強にも差がどんどん広がっているのでしょうか?恐い時代です。でも、社会に出たら頭が良いから仕事が出来るかと言われれば関係ないですし、かえってアホと言われる子が良く出来たりしますよね。今から考えれば私もアホだったから、結構、先輩の教えが素直に聞けたような気がします。良かったか悪かったかはわかりませんが・・・・・。


自分史6

2007年11月20日 | 自分史

小学生も高学年になった頃、相変わらず野球に明け暮れていた。そんな、少年時代、私が無知な事もあり、体育の時間にある友人に、ソフトボールを投げ、50メートルを超える遠投をした。その時に、何故か?あいつは強肩(狂犬)やからと言われ、オレそんな酷い人間かな、当時、私達が子供の頃、野良犬を捕まえる人がいて、狂犬病があるから野良犬には気をつけないといけないよ、とか言われていた時代。そんな時代のせいでもないけど、友人のその一言が随分悩んだ経験がある。今から考えれば笑い話になるが、その時依頼、友人とあまり喋らなくなった事を覚えている。友人にしたら何の事か解らずこれもまた酷い話ですよね。学年が1年進んで、強肩と狂犬が始めて理解し、あの時、友人は私の事を褒めてくれたのだと解り、偉く自己嫌悪になった事を今でも覚えている。アメリカ人の方が日本語は難しい、私の国ではアイですむのに、私の事を一杯言い方がある。僕、オレ、自分、私、ワタクシ、どう使い分けしたらいいかサッパリ解らないとか言っていた。ホント日本人である自分でも解らない事が今でもある。テレビなんかで教養のある人がたまに難しい言い方する人がいる、辞書で調べたら、もっと簡単に言えよとか思ったりするけど教養が邪魔するのだと思ったりしている。そんな、子供時代のきっかけから、何故か国語の授業が得意となり好きになった事を覚えている。

ポートアイランド北公園にて


自分史5

2007年10月19日 | 自分史

 昭和39年オリンピック。この年に阪神タイガースの優勝。思い出深いものがある。阪神優勝パレード。国道2号線をオープンカーで、カッコよかったな。でも、この時、私なりに傷ついた事がある。当時、村山投手。子供心に、村山投手、村山投手と声を掛け大声で叫ぶも知らん顔、友達と村山に馬鹿野郎と叫んで逃げた記憶。あれ以来阪神タイガースが大嫌いになりずっと負けてしまえと子供心に思った。それ以来、嫌いになったと思う。優勝に縁が無かった不遇の時代、回りは巨人ファンが多かった。当時、阪神ファンは少なかったかな?。巨人はテレビで毎日見れるし、それが影響していると思う。子供の頃、関西でも確か巨人の帽子をかぶった子が多くいた。私の家と言えば親父は広島、兄貴は阪神。家族みんなばらばらだった。関西では阪急が全盛期、それでも中々巨人を倒す事が出来ず悔しい思いをした時代。この頃、私も三角ベースの野球から、少年野球のチームに入り、神社の境内でキャッチボールをし、夕方暗くなるまで基本を教えて頂いた記憶がある。監督がくしかつ屋をしていて、よくご馳走になった記憶。5円だったかな。それも飛びっきり硬い肉(関西で「捨てるもの」を意味する「放(ほお)るもん」から採られたという説)何時まで噛んでもなかなか口の中からなくならなかった。それでも当時は美味しい食べ物であったような気がする。今ではホントあの硬い肉の正体。一体なんだったのでしょうね。でも、小さい頃の思い出の味です。野球においては、キャッチボール。そして最後には毎日境内のブロック塀にボールを投げつけ、下もガタガタの砂利道。まともに手元に帰ってこないし、そんな練習が4年生の時、半年ぐらい続いた。あの時の練習が良い練習になって後々のグラブさばきにつながったと思う。最初は気のないボールを投げ、良く叱られ、頭を叩かれコブを作った記憶。今じゃ考えられないけど、良い思い出として残っている。

コスモス


自分史4

2007年10月07日 | 自分史

昭和30年代、今の私の原点にもなる。日光写真。感光紙の科学変化を利用した写真を真似たおもちゃです。何故か小学生の時不思議にはまった事。上手く感光紙へ焼き付けた時嬉しかった事を何故か昨日のように覚えています。あの時の自慢は今のネガの元になるものを工夫し、切っては貼り付け自分なりのものを作っていました。友人と違うものを作ろう、そして目立とうそんな事ばかり考えていた気がします。俗に言う。ええかっこしだったように思う。それからビー球、べったん。正月になれば独楽まわし、凧揚げ。今の子にはなんの事という感じでしょうね。毎日暗くなるまで外で遊び、勉強なんかしてなかったような気がします。今から思えば幸せな時代でしたね。何時までも汚い靴に、穴のあいたズボン。今はファッションになっているけど、あの頃は恥ずかしかったですよね。そんな貧乏人が多くいたような気がします。長ズボンなのにくるぶしの上までしかないズボン。ピエロが履いているような格好が不思議でなかったような気がします。お兄ちゃんのおさがり。今はみなそれがファッションの一部。信じられないですよね。私達の年代には。そしてこの頃、ラジオがまだ主流。映画館で映画をみるのに終われば拍手。それも3本立て、今から考えたら良い時代だったかも知れません。歌も多くヒットがありました。と言うより。あの頃の歌は不思議に頭の中にスポンジのように吸い込まれ。今でも歌えたりします。最近の歌は何度聞いても歌えないし。覚えられない、可笑しいですよね。


自分史3

2007年09月26日 | 自分史

小学生の頃は、自分で私の言う事はおかしいけど、物静かなおとなしい目立たない子供だったように思う。母が昔、親戚の叔母の花屋の横でたこ焼き屋を何年かした事がある。今から考えるとたこ焼きといいながらも当時、烏賊が具になっていた。今なら笑えない話ですけど、その時は安い具財を使用することで必死だったのだろう。高学年頃、手伝いに行った事もある。だから今でもたこ焼きを焼かしたら上手いものである。昭和30年代、オリンピックの時代にやっと家庭にもテレビが普及した頃。昔は電話も呼び出しの時代。今から考えると、それがかえって隣のつながりを親密になっていたのだと思う。夕方になれば近隣の食事の匂い。今日はさんまだ、カレーだ、焼肉だと色んな匂いが各家庭から。今は家をしめきり、その匂いさえわからなくなってしまった。今は良くプライバシーの侵害だとか、色んな事で問題。隣の人がどんな仕事をしているかも知らない時代。良くもあるが寂しくもある。そうそう家に新しい家電が来ると何か嬉しかった。テレビ、洗濯機、冷蔵庫が。今の子からしたら想像も出来ない時代。洗濯機といっても最後は自分の手で絞る。ローラーを回していた。何もかも便利になり、裕福になったけど、心の何処かは満たされない現代。贅沢になり、それになれ、考えたら恐ろしい時代です。もし、電気が来なくなったら、もし、水道の水が出なくなったら、考えただけでも・・・・・。でも、何処か昔に帰る事も必要なのでしょうね。京都へ行っていた時、店の前に打ち水をしていた。昔では各家庭から家の前を毎日のように掃除、夏になれば打ち水、それが自然にあったような気がする。そんな心使いが嬉しく感じるのは歳行ったせいなのでしょうね。 <o:p></o:p>

ミント神戸より

 


自分史2

2007年09月20日 | 自分史

 小学生の低学年はあまり良い思い出がない。何故か勉強が嫌いであまり良い成績をとる事はなかった。人並み以下だったように思う。そして最大の原因は今でも覚えているけど、非常に嫌いなタイプの先生だった。3年から5年の担任は忘れているけど。今でもその担任の先生の名前を覚えている。これが不思議だ。1、2年生と担任で気分の上では最低な低学年時代を過ごした。小さい頃はあまり喋る事がなく、どっちかと言うと今から考えるとすごくかけ離れたおとなしかった。でも、親から勉強しろとか言われた事がなかった。カバンを家に置いたら夕方遅くまで友達と近所の田んぼとか神社で遊び回っていた。誰も塾なんか行く人はいなかったし、あの頃は子供も自由に楽しんでいましたね。今の子は、塾へ行かなかったら落ちこぼれ、不思議ですよね。学校で高学年では6時間近く勉強し、そして夜は夜で塾通い。一体何が今の子供達、楽しみなのだろう?家でゲーム、ホント外で鬼ごっこしている子など見ないし、何か可愛そうな気がする。よくドラマで受験をテーマにしているのを見るが、その都度、親父の情けない様子。そのたびに子に向かってお父さんのようになったら駄目だからと叱る母親。テレビに向かって叫びたくなる馬鹿な母親。それに対して何も言えぬ父親。世間的にどうだろう。こんな親が多いのでしょうか?寂しくなりますね。給与が振り込みになり、その時点から父親の威厳がなくなったと言われる。そうかも知れませんね。昔は父親が給料日を持って帰る日はご馳走がでた記憶があるな。それも遠い昔か・・・・・・。<o:p></o:p>

移情閣

明石大橋


自分史1

2007年09月17日 | 自分史

自分史と言えば大袈裟になるけど、 私の記憶している事をブログで残そうと思う。私の生まれは広島、小さな町で育つ。前は海、そして裏は山、段々畑が何処までもつづいていた。小さい頃から、良く遊び、幼稚園行く振りしてはサボって遊んでいた記憶がある。今から思えば大胆な幼稚園児である。良く母に心配かけた子であったに違いない。ある日、山で遊んでいるうちに空腹になり、畑に出来ていた赤い実を採り、それを頬一杯にほおばり、口を動かした瞬間に激痛が走り、目を白黒した記憶。その日は熱を出し、大変だったよう。兄に聞かされた事がある。口一杯唐辛子を頬張ったようです。よそ様の物を盗ってバチが当たったのでしょうね。でも、あの時はあの赤い実が美味しそうに見えたのでしょうね。お腹すかしているから。
小さい頃からあまり父の姿、こうしてくれた、あんな事、してくれた記憶がない。でも、兄、姉がいて心細いと思ったのはなかったように思う。母は内職で良く家で着物を縫う仕事をしていた。それは私が高校を卒業するまでしていたと思う。そんな家庭に育ち、母の苦労は大変だったと思う。良く私たちをここまで育ててくれたと感謝している。今は父も母も亡くなりましけど、今から思えば厳しかったけど愛情が一杯あったように思う。<o:p></o:p>

神戸森林植物園にて