象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

「TOKYO2020」〜記憶に残らない記録映画

2022年06月17日 05時58分42秒 | 映画&ドラマ

 この記録映画を、”記憶に残らない(オバサンの)記念アルバム”といったら失礼だろうか。

 河瀨直美さんが監督を務めた東京五輪の記録映画「東京2020」の興行が全く芳しくない。
 フォロワーの記事「観客ゼロの大爆死」で知った事だが、東京五輪と同様に”悲しすぎる”結果になる事は、火を見るよりも明らかだった。 
 勿論、河瀨氏の映画監督としての手腕や能力にも疑問符がつくが、カンヌ映画祭ではグランプリを受賞した事もあるから、ド素人の記念アルバムとは何かが違うのだろう。

 そういう私は、彼女の名前すら知らなかった。いや、彼女を初めて見た時、正直”このオバサンでは駄目だ”と思ったが、その通りになりつつある。
 事実、彼女はフランスではそこそこ認められてはいるが、日本でとなるとサッパリというか、”疎んじられた”存在であるという。
 例えば、”映画学校の一年生のごとき脚本で、てんで人生が描ききれていない。文字を持たぬ・・・映画ではまったく困る”(淀川長治)と、かなり手厳しい。
 以下、「河瀨直美の評価はなぜ国内外でズレている・・・」を参考です。


私を認めてちょうだい

 そんな河瀨氏は”私”を売りにする傾向にあるとされる。典型の”認められるのなら何でもする”タイプの女性だろうか?
 事実、河瀨作品への批判として、”自己愛”や”ナルシシズム”という表現が用いられる。つまり、”私を認めてほしい”という強烈な意思の発露が存在し、それを観客がどう受け止めるのか?
 答えは、言わずもがなである。

 事実、彼女は”子供の頃から私を認識してほしいと強く感じていた。それを埋めてくれたのが映画でした”と語る。
 つまり、彼女にとっての映画は自身を肯定する存在であり、この世界に生き続ける意味そのもの。しかしそこには、自身が承認されない事への不安も常に見え隠れする。

 河瀨さんは、生まれてすぐに実父と生き別れ、母親とも幼い頃に離別した為、母方の祖母の姉の養女として育てられた。
 つまり、親に棄てられた苦い心情や苦しみを映画の中に吐露する事で、もう1人の”私”を描いてきた。
 彼女が”私”と(私を取り巻く)”私たち”の世界を必要以上に意識するは、そのせいでもあろうか。
 つまり、週刊文春が報じた河瀨氏の(問題の)行動は、”私を認めてほしい”という(承認されない事への)不安が、暴力的な形で露呈した結果とも考えられる。

 カンヌグランプリを獲得した「萌の朱雀」の脚本執筆に助言を行った是枝裕和氏は”彼女が<私はこんな風に世界を愛してる>と伝えようとしたのに対し、僕はそういう形では世界を愛せていない”と送り返したという。
 つまり、”世界を美しく切り取る”事への懐疑が常に横たわってる是枝に対し、彼女とっては”私”を取り巻く世界を美しく切り取る事こそが映画を撮る事=生きている意味そのものなのだ。
 四方田犬彦は、そんな河瀨の性癖を1999年の時点でいち早く言葉にしていた。
 ”自らの物語の起源にし、ある種の欠落から出発した彼女の探求はファミリーロマンスにあり、自伝的な格闘を経過した後に、精霊信仰的な世界観へと向かおうとしている。それが観光的な郷愁へと風化するのか、それとも新たに歴史という問題を抱え込むかは、今後彼女に与えられた課題であろう”

 そして彼女は、この”歴史という問題を抱え込んだ”東京オリンピックの記録に挑んだ。


「SIDE:A」

 「SIDE:A」では、何人かの競技選手に焦点が絞られ、彼ら彼女らの置かれた環境や裡にかかえる迷いや悩み、五輪に出場する事の意味などが(無難に)描かれている。
 そこには、選手である”私”とそれを見つめる”私”がはっきりと存在している。
 その合間を埋めるのは、まさに四方田氏が指摘した”ツーリスティックなノスタルジア”に彩られた—(外苑の水面に散る桜、木洩れ日、戯れる子どもたちなど)、つまり”私たち”を取り巻く美しい世界の断片である。

 河瀬氏は、”日本に国際社会からオリンピックを7年前に招致したのは私たち。そしてそれを喜んだし、ここ数年の状況を私たち皆喜んだ筈。これは今の日本の問題でもある。だからあなたも私も問われる話。私はそういう風に描く”とNHKに語った。
 この発言を受け、特に五輪開催に反対していた人々からは(当然の如く)大きな批判や反発の声が沸き起こる。
 ”オリンピックを招致したのは私たち”と言うが、日本国民の中には、当初から五輪招致に反対してた人が大勢いた。
 今大会の招致に至る過程では、安倍元首相の欺瞞的言動が多々見られ、開催が決まってからも新国立をめぐるゴタゴタや森組織会長の女性蔑視発言など”この状況をみんなは喜んだ”とはとても言いがたい。

 勿論、五輪反対を叫ぶ一般市民の姿も映し出されるが、この映画では彼らはありふれた群衆でしかない。そこに”私”はいないし、”私たち”とは一体誰の事を指してるのか? 
 第2部となる「SIDE:B」では、河瀨氏は”私”と”私たち”をめぐるこの乖離を乗り越える事ができるのだろうか。
 以上、文春オンラインからでした。

 彼女は、あたかも日本国民が東京五輪を誘致し、その問題を描くと言い放つ。が、誘致に積極的だったのは一部の政治家と(大会の)関連企業や組織だけで、福島の未だ復興されない現状を見れば、国民の大半は五輪誘致に反対してた筈だ。
 彼女の無教養な学のないオバサン顔を見た時、東京五輪の本質を見抜いてるとは到底思えなかった。
 ”バカにやらせときゃ、人畜無害で無難な記録映画を作ってくれるだろう”とスポンサー側は判断したのだろうか。

 
”悲しい”部分を美しく描く

 観客が殆ど入らない映画をなぜ二部構成にしたのか?
 「SIDE:B」では、舞台裏を支えるスタッフなどを描いたそうだが、正直”歴史という問題を抱え込む”作品にはなりそうもない。
 結局、政治家や電通にヨイショした無機質な映像に成り下がり、(彼女が理想とする)”100年後も記憶される”作品というより、”記憶に残らない記録”となるだろう。

 権力やスポンサーの圧力で問題の部分を描けないのなら、せめて(東京大会の)正の部分と負の部分を交互にドキュメンチックに、その対称性を美しく描いて欲しかった。
 それに、今回の”悲しすぎた”祭典は、ネタ的には恵まれてたので惜しい気もする。
 つまり、”歴史という問題を抱え込む”作品に仕上げるには、いや”自らを認めてもらう”には、格好の檜舞台であった筈だ。
 しかし、五輪誘致を喜んだ彼女には、今大会の負の部分の本質を描こうという勇気と気概が全く見えない。

 彼女にとって「東京2020」とその記録映画は、”自分を認めさせる”為だけの虚しいイベントに過ぎなかった。
 しかし、今大会の本質は”失望の中に棲みつく絶望”である。少なくとも私たちが喜んで誘致したお祭りではなかった。
 ”悲しすぎた”祭典は私たちに何を与えてくれたのだろうか?少なくとも”美しい日本”や感動ではなかった筈だ。 
 それでも河瀬氏は、悲しすぎた祭典を美しくかつノスタルジックに描こうとしている。まるで、「1964TOKYO」の再現の様に・・・

 失望と絶望に塗れた「東京2020」をどう描くかは、監督に全てが掛かっている。
 負の部分を繊細にリアルに描くほど、(数少ない)正の部分がより美しくクッキリと浮かび上がる。
 絶望を美しく表現するのもプロの映画監督の手腕だろう。失望を悲しく醜く描くのは誰でもできる。

 希望と失望と絶望の間で憂い続ける大会というヴィジョンにすれば(政治や企業の圧力を受けても)、コロナ渦で崩壊寸前の医療現場をリアルに映し出すだけでもインパクトは十分にあった筈だ。
 カメラも映像も角度が全てである。
 物事の本質に鋭い角度で踏み込む勇気のない者は、美しさを映し出すどころか何やっても中途半端に終わる。
 彼女の作品が全て中途半端に思えるのもそのせいであろうか。


最後に

 (言い方は悪いが)このオバサンには最初から期待はしてなかったが、製作予算も大会同様にドブに捨てた様なもんだ。
 それでも彼女は、(100年後も)しぶとく映画界で生き残るつもりなのであろうか?
 それこそが悲しすぎる現実であり、彼女の生き様なのかもしれない。

 「東京2020」の行方と彼女の生き様が”悲しすぎる”という共通点で結ばれてるのも、皮肉な運命である。
 因みに、映画「ノクターナル・アニマルズ」のオープニングでは、高齢なご婦人のヌードダンスが披露された。
 勿論、それが拙かったのではない。私たちの目に醜く映ったのは、それが作品の本質とは大きくかけ離れていたからだ。

 今回の東京五輪の本質は、こうした矛盾と醜さと不正の中に埋もれた失望とその中に棲みつく絶望にあった。そして、(失望だけでなく)その絶望を描かない限り、国民は納得しないし、世界の評価も得られない(多分)。
 オマケみたいな賞をナンボもらっても、悲しいだけである。
 真に認められたければ、まず(悲しい)自分の負の本質を理解すべきであろう。しかし、その悲しさの本質を認めるには年齢的にもキツイように思えるのだが・・・
 同じ様に、「東京2020」も2021年の悲しすぎた東京の本質を描いてほしかった。



8 コメント

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沢木耕太郎と河瀬直美 (平成エンタメ研究所)
2022-06-17 09:11:27
>正の部分と負の部分を交互にドキュメンチックに、その対称性を美しく描いて欲しかった。
>負の部分を繊細にリアルに描くほど、(数少ない)正の部分がより美しくクッキリと浮かび上がる

まさにこれですよね。
作劇としてすごく面白いと思います。
……………………

文春の記事に拠れば、河瀬直美作品は「私映画」。
この五輪映画も同じ意図で描かれているようですね。
子供が遊ぶシーンが唐突に挿入されたりしているようですが、果たして、それを五輪ファンが見たいのか?

沢木耕太郎さんの作品も「私ノンフィクション」と言われ、「私」を素材に投影していますが、河瀬直美氏はオリンピックにどんな「私」を投影したんでしょうね?
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象が転んだ様へ。 (りくすけ)
2022-06-17 09:59:55
お邪魔します。

僕はとあるご縁から、
河瀬さんにお目にかかった事があります。
カンヌ受賞直前の頃でした。
1時間弱、言葉を交わしたでしょうか。
不思議と「印象に残らない方」でした。
何一つ満足に覚えていません。
時が経ったからではなく、
別れた直後から記憶から抜けてしまった。そんな感じです。
まるで「幻」のようです。

エンターテイメントの宿命でもありますが彼女の監督作品に対する評価は人それぞれ。観客に委ねるしかありません。
---ま、僕は観ることはないと思います。

では、また。
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Unknown (1948219suisen)
2022-06-17 10:53:42
河瀨直美の名前は聞いていましたが、どういう人なのかは、この記事で初めてしりました。しかし私映画という批判を読んで、そういえば、私のブログも私ブログだと気付かされました。映画とブログの違いはありますが、私も、もっと視野を広げた記事を書かなければならないと常に反省していますが、根がナルシシズムにできていて、つい自分のことを書いてしまいます。ですから、ある意味、この河瀨直美さんに共感したかもしれません。

ただ、2020か2021か知りませんが、今年の五輪を映画にしても、面白いものができるとは最初から思いませんでした。五輪そのものがお呼びでない行事でしたから。

一部に感動したという声も聞きますが、もともとスポーツ嫌いの私は、もうオリンピックなんて未来永劫やめてしまえばいいのにと思っています。特にお涙頂戴、感動をどうぞというオリンピックなど要りません!←きっぱり
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エンタメさん (象が転んだ)
2022-06-17 16:43:00
記事を勝手に引用させて頂いて、お世話かけます。

沢木さんの”私”は、
ルポルタージュの対象となる他者を自分に投影したもう一人の自分の(客観的な)本質なんですよね。
それに比べ、河瀬さんの”わたし”は”何が何でも認められたい”という私欲に近い主観そのものに感じます。
でも、東京大会が如何に悲しい祭典だったを再認識する上でも、こうした”悲しすぎた”記憶は残すべきかなと思ったりもしますね。

コメントありがとうございます。
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りくすけサン (象が転んだ)
2022-06-17 16:44:25
実際にお会いになったんですよね。
それはそれで、とても羨ましいです。

私は彼女のことを何も知らないで勝手なこと書いてますが、実際にお会いして1時間も話せば、情もわく筈ですが、それでも”印象に残らない”とは少し悲しすぎますよね。
決して悪い人とは思えないんですが、言われるように、この記録映画も”幻”で終わる可能性もあります。
勿論エンタメの世界では評価も必要ですが、アピールやパーフォーマンスは映画の生命線であり、それらが欠如すれば悲しい記録で終わるのかな・・・

でもカンヌ受賞の映画監督と1時間弱もお話された事は、記録と記憶として永久に残るものかもですよね。
コメントありがとうございます。
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1948219さん (象が転んだ)
2022-06-17 16:45:23
名前は知っておられたんですよね。

いえいえ、1948219さんは興味が内面に向かってるだけで、ナルシシズムとは異なるような気がします。
五輪の記録映画を引き受けた事こそが”悲しい”現実かもしれませんが、言われる通り”お涙頂戴”にすらなり得ない記録映画になりそうですね。

個人的には、記録映画として残すにしてももう少し時間が経って(国民の反応を見ながら)、地味にひっそりと作って欲しかった気もします。
コメントありがとうです。 
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悲しい記憶 (tokotokoto)
2022-06-18 14:58:21
でも
なんでこんな記録映画を引き受けたんだろ
失敗するとわかってるのに、あえて引き受けたんかな。
結構な自信家か?それとも白雪姫伝説を信じ続ける愚かなロマンチストか。

多くの国民が思ってる事をそのままフィルムにすればいいのに、全てを私中心のハッピーエンドで終わらせたいというメランコリックな乙女心?

淀川さんも厳しい事言ってたけど、脚本が書けない監督じゃ記録映画すら無理なのだろう。
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tokoさん (象が転んだ)
2022-06-19 05:32:46
言われる通り
淀川さんのコメントが彼女の全てを物語ってますね。
そういう事もあってか、彼女に記録映画の依頼が来たんでしょうか。
結局、”認めてちょうだい”という欲望は最後には攻撃性に変わるのかもです。

コメント有り難うです。
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