象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

世界は結局、理屈で出来ている〜人は理屈がないと生きてはいけない

2023年09月05日 17時16分02秒 | ブログ考

 壁に向かってボールを投げると跳ね返ってくる。これは、世の中に自然法則という理屈があるからだ。少なくとも精神力や神通力で跳ね返るものではない。
 つまり、理屈のお陰で多くの自然現象が成り立ってるし、逆を言えば、自然は理屈の上で成り立っている。そうした理屈を通じて私達は自然や物事を理解する。 
 コインもそうだが、コイントスでは半々の確率で表と裏が出る。 これも理屈のなせる技だし、コインを使った賭博でも”胴元が儲かる”という理屈(ルール)の上で、ギャンブル業が成り立つ。
 頭で考えた事が実際に起こるのも理屈であり、AIが人類では計算できない問題をあっさりと解き明かすのも理屈である。少なくとも根性ではない。


理屈が存在しないとしたら?

 これは世の中に理屈が存在してるからで、穴よりも小さい物はその穴を通過する。もつれた紐をほどくにも段取りがある。故に、タイトなセキュリティーを掻い潜るにも小難しい理屈が必要になる。決して精神力では掻い潜れないのだ。
 平らな面の三角形の内角の和は戦時中でも180度だし、少なくとも独裁者によって三平方の定理が覆る筈もない。
 もし理屈がなければ、こうした決まりは一切なくなる。人類は永久に地図は描けないし、飛行機を飛ばす事も不可能で、宇宙旅行は勿論、海外旅行は夢のまた夢である。
 つまり、人類は神通力や根性でここまで成り上がった訳ではない。

 一方で哲学は、世界や歴史や人類の認識を覆したりもするが、そんな哲学にも理屈が入りこむし、演繹も帰納も集合も論理も生まれない。つまり、世の中を記述する事も出来ないし、哲学そのものも存在できない。
 論理や理屈が正しい正しくないとは別に、(数学も含め)哲学はずっと昔から存在できている。
 つまり、数学や哲学は人類が誕生した時から存在してた様に、世界は既に理屈で出来ていたのだろう。

 言い方を変えれば、世界は(いや地球は)理屈で出来ていて、人類はそのほんの一部しか発見出来ていないし、理屈に十分に追いつけてはいない。更に言えば、理屈は世界に万遍なく埋もれていて、埋もれたままの理屈が数多く存在する。
 仮に、”世界が理屈で出来てない”にしても、理屈を組み合わせる事で世界を構築する事は可能であろう。もし、世界の一部だけが理屈で出来てるとしても、その一部で全ての世界を記述する事も可能だろう。
 これは、現実には”象のしっぽだけを見て象の全体を知る事は出来ない”かもだが、身近な重力の仕組みを解明する事で、人類は月旅行を可能にした。
 これは理屈が数多くの自然現象を解明し、更に宇宙の一部を覗く事を証明した瞬間でもある。
 それでも多くの人は、”理屈で世界は語れない”とか”理屈では説明出来ないものが沢山ある”確信してるフシがある。
 でも、果たしてそうだろうか?いや、”理屈で世界を語る日は来ない”とは言い切れるだろうか。


人類社会を支える理屈

 理屈と言うと、私の田舎では殆どが悪い意味で捉えらてしまう。少し小難しい話をすると”男なら屁理屈を言うな”と罵倒される。少なくとも”アナタの言ってる事は理屈に合わない”と指摘される事はまずない。
 事実、理屈には”(理に叶う)道理”や”物事の筋道”という意味の他に、”こじつけ”や”(現実を無視した)無理につじつまを合わせた条理”という意味がある。

 確かに、理屈に偏りすぎても堅苦しくなるが、精神論や経験論に偏れば悲劇を生むだけで、これは歴史が証明してる事でもある。
 仮説通りに事が進んでも、いや理屈通りに事が進まなくとも、理屈が前提である以上は理屈の領域内である。
 事実、我が人類は理屈な生き物であるが故に、サル(猿人類)からホモサピエンスへと変異し、文明を構築し文化を謳歌し、現在に至っている。言い換えれば、人類は理屈を発掘する事で生き延びてきたとも言える。
 その理屈を発掘する過程で、数学や哲学や神学という学問が生まれ、哺乳類の中では論理なしでは生き伸びれない唯一の生き物に変異したとも言える。
 しかし、数学や哲学は我らに何を語り続けてきたのだろうか?少なくとも単に理屈をこね続けてきた訳でもない。

 そんな理屈の代表格である数学と哲学が混在した学問がある。
 ”数理哲学とは?”といきなり問われても、多くの人は小難しい屁理屈ばかりで、我々の生活には何の役には立たないと思うだろう。
 数理哲学とは、数学や論理といったツールを用いて、社会を支える理屈や言葉に様々な角度から光を当てる学問である。
 目には見えないが、我々が共有している”ものの考え方”や”概念”とは一体何なのか?そして哲学とは何なのか?
 以下、「哲学がないと人類は生き残れない!?」より簡単にまとめます。

 日本の哲学界を牽引する出口康夫氏(京都大学)は、哲学を”知的な公共事業”と呼ぶ。
 例えば、人権という言葉がある。現在では、”人権は守られるべき”という考えが広く共有されている。が、人権という言葉は昔は存在しなかった。誰かが思いついて言葉を与え、様々な定義を作り、守るべき理屈を考えてきた。
 つまり、人がつくった”ものの考え方”で言い換えると”概念”と呼べる。少し悪く言えば、より良く生きる為の”こじつけ”と言えなくもない。

 今私たちは、社会生活を営む際、色んな概念(こじつけ)を共有する事で、社会の仕組みを作っている。社会活動に組み込まれた概念をつくり、伝え、新しい意味を与えて現代に適した形に組み替えていく。これが哲学の1つの役割で、社会を支え、よりよいものに変革していく。だから哲学は”知的な公共事業”だと言える。別の言い方をすると”知のインフラ”という知の整備事業となる。
 今は人権なんて当り前の言葉だが、昔は人権という考え自体がなく、今よりも酷い人権侵害がまかり通ってた。つまり、人権という概念が社会で広く共有されてるからこそ、ある程度人権が守られてる。
 哲学が扱う概念は水道の水に似てて、蛇口を捻れば水が出る事は、凄い事でも目新しいものでもない。でもそれがないと、私たちの日常生活は一日として成り立たない。
 水道やガスは目に見えるインフラだが、哲学は社会を支える概念装置という”目には見えないインフラ”である。


理屈がないと人類は生き延びれない

 実は、概念や理屈の共有がなければ、人類は生きのびる事すら出来ない。
 例えば、近代医学が成立したのはせいぜい18世紀で、特効薬がつくられる様になったのは20世紀に入ってから。つまり、医学で病気が治る様になったのはここ百年位の事だ。
 言い換えると、何万年或いは数十万年という人類史の殆どの期間にて、我々は医学なしで生きてきた。仮に医学がなくなっても、それだけでは人類はおそらくは絶滅しない。
 でも、知的公共事業としての哲学がないと人類は生き残れない。
 人類は(他の動物に比べ)とても弱い生き物だ。では、どうやって生き残ってきたかというと、言葉を用いて複雑な概念を共有し、チームワークで狩りをしてきたからです。
 ”考え方の共有”は、人類にとって決定的に重要なサバイバル戦略。それを学問として、高度に組織的・専門的に押し進めているのが哲学。
 つまり、概念装置の洗練と共有という広い意味での哲学的活動がなければ、人類は生き残れないと、出口氏は考える。

 もう一つ、哲学は、学問の専門分化が進む中で、社会に対し、専門を超えた”見通しのよさ”を提供する役割も担う。
 例えば、現代物理学は様々な分野に分かれ、各分野の専門家は自分の専門の事で手一杯で、他の分野まで手がまわらない。結果、専門家は個々の分野を超えた大局観を持てなくなる。 
 しかし、僕たちは日々の暮らしの中で、大局観を持った選択をする必要に必ず出くわす。
 哲学は、飛び離れた複数の学問の分野に目を配り、見通しのよさを確保する”領域横断的な知”という側面を本来持つ。この領域横断知としての真価を発揮し、選択を迫られてる個々人や社会に、見通しのよい大局観を提供する事も、哲学が果たすべき重要な役割だと。

 哲学は(数学と共に)非常に抽象的な学問で、日常生活にて”抽象的”という言葉は、ネガティブな意味で使われがちだ。でも、抽象的とは、広い適応範囲を持つ事を意味する。逆を言えば、抽象的レベルで考える事で、目先の事実に拘る事なく、広い視野で物事を考える事ができる。
 つまり、具体的な事柄についての知識をしっかり持った上で抽象の領域に飛びこみ、見通しのよい絵を描く。それが数理哲学のあり方でもある。
 以上、SEKAIからでした。


最後に

 出口氏は、数理哲学を”数理科学の哲学”の略として用いる。
 因みに数理科学とは、何らかの現象を
数量的かつ数学的に扱う科学の事で、例えば 物理学や経済学がその典型で、一方で社会学や文化人類学などは数理科学とは異なる。
 数理科学は対象の”量”に着目する。量を測定し、その規則的な関係を見つけ、数学的に表現した上で実験や観察で検証する。物理学なら物理現象、生物学なら生物現象を量として捉え数学的に記述し、分析する。
 こうした作業を行う科学が数理科学で、その様な数理科学の正体を暴き、批判的に検討するのが”数理科学の哲学”=数理哲学。

 数理哲学にはもう一つの側面がある。それは、数理的な道具立てを用い、過去の思想や哲学を分析する。過去の思想の研究する際のツールとして、数理的・論理的な道具立てを使う。つまり、理屈で思想や哲学を再検証する。

 処理水の海洋放出の件もそうだが、もし数理哲学の様な批判的な理屈の学問が存在しなければ、処理水の正体を暴き、批判的に検討する事もないだろうし、再検証する事もないだろう。
 言い換えれば、今の日本政府と東電幹部には理屈が存在しないとなる。一方で日本は技術大国である。つまり、理屈抜きでは日本は日本ではあり得ないし、存在し得ない。

 確かに、農耕民の田舎社会では理屈抜きの方が上手く行くケースが多い。
 ”オレとアンタの仲やっかん”とか”昔からやっとる事じゃけんの”とか”上が言ってる事だから逆らえん”とか、そういった理屈抜きの慣習で今まで生き延びてきた。
 隣組も自治会も消防団も、更に年に一度の伝統行事もお祭りも公民館の運動会も、理屈抜きの世界で存続してきた。
 そうでなくとも、スポーツの世界でも未だに根性論や精神論や経験論が蔓延っている。
 ”感動を世界に”とか”スポーツの力で”とか理屈に合わない事が堂々とまかり通る。
 誰とは言わないが、合コン女を力づくで犯すのも理屈抜きの世界では通用する。

 農耕島民は”理屈抜き”という言葉が大好きなようだ。
 処理水の海洋放出も”理屈抜き”で決められたとしたら、いや、中国の嫌がらせが理屈を無視して行われたとしたら、理屈にとってこれほどの屈辱もないだろう。
 世の中にいらないものほど歓迎され、必要なものほど煙たがれるのは、世の常なのであろうか。
 という事で、今時の理屈のお話でした。



2 コメント

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理屈とスポーツ (腹打て)
2023-09-06 09:22:22
大谷ファンの多くは、ここに来ても本塁打と打点とかを期待するんだよな。
解説者も含め、<休ませよう>とか<手術したほうが>の言葉は一切ない。

NHKのワースポMLBなんて未だ大谷一色。
大谷が三冠王に輝こうが、NHK受信料がタダになるでもないのに
日本という民族は戦時と全然変わんない。
降伏するタイミングが遅れたから原爆を投下されたのも事実で、全てにおいて限度という理屈ってもんがある。
今回の大谷のケガも7月末には判ってたのがここまで放置していた。

その為に理屈があるんだけど、日本人は理屈の本質を理解してないみたいだ。
とにかく<頑張れ>の一色だもの。
<休む>とか<手術する>とかいうのは勇気や覚悟ではなく理屈なんだけど、未だに日本人の多くは理解出来てないんだよな。 
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腹打てサン (象が転んだ)
2023-09-06 11:43:39
日本の大谷ファンは
高い確率で出れないと判ってても、わざわざアメリカまで大谷を応援しに来ている。
哀れというかバ◯というか・・・

球団は大谷の右肘のケガが発覚した時点で、DL入りして治療するか、手術に踏み切るかを既に決めておくべきだった。
結局、理屈を無視し(大谷の)気持ちを優先したが為に、右指や脇腹や脹脛まで痛めてしまった。

そんな状況下でも日本人は”頑張れ頑張れ”と尻を叩く。
大谷本人も(理屈抜きで)頑張れば何とかなると信じてる節がある。
そこに理屈なんて一つもない。
自分を守る為に理屈があるのに、多くの日本人は理屈を毛嫌いする。
これからも、その傾向は変わらんでしょうね(悲)。
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