
「ホモ・サピエンス再発見~科学が書き換えた人類の進化」(P・ペティット著、2024年)の第18章(家畜化への道~人は自己家畜化へ)では、ネアンデルタール人やデニソワ人にも劣る筈のホモサピエンスだけが生き延びれたのは、”自らを家畜化した事にある”と書かれている。
つまり、我らホモサピエンスは自己家畜化により進化してきたのだ。
事実、「人類の起源(後半)」でも書いた様に、約30万年前に、アフリカでは最初期のホモサピエンスの集団により、一方、ユーラシアではネアンデルタール人やデニソワ人により社会形成のプロセスが開始された。
そのプロセスは進化し、成長し、試され、変化した。特に、長くてウンザリする程の移動生活に疲れた我らの祖先は、定住的な生活様式に移行するにつれ、洞窟の奥で行われる儀礼の記憶は薄れていく。やがて、ホモサピエンスは次第に内向きになり、自らが作った物で満たされた世界だけで生き抜き、その事だけで頭が一杯になった。
こうした旧石器時代の人類が築き上げた非常に広範囲に及ぶ文化的な繋がりや創造力に満ちた世界や素晴らしい美術、そして地球上で最も苛酷な環境の中で生き延びてきた能力を”文明に値しない”というのであれば、それは大きな間違いである。
事実、我らの祖先は移動する狩猟採集民であり、巨大なモニュメントを建てたり、文字を書いたり覚えたりする必要もなかった。不快な程に汚い都会のド真ん中に住み、動物のそばで住む事で病原菌や病気に苦しむ事も、どこかの王様の為に兵士として命がけで戦ったり、我らの事情なんて全く気に掛けない神に農産物を奪い取られる事もなかった。
今や多くの人が気付きつつある様に、シンプルな生活の方が、仕事に追われ競争に駆り立てられるよりもずっと文明的であるのかもしれない。
家畜化と人類の進化と大衆の自由
今から1万年前頃に人間は農耕を始めたが、同じ時期に動物を家畜化した。イヌ・ウマ・ヤギ・ヒツジ・ウシ・ブタなどである。家畜は穏やかな性質を持ち、人間と同居する。つまり、飼い易い。しかし、家畜化が出来にくい種類の動物もいる。オオカミやキツネやアライグマ、大型哺乳類などだ。家畜化の特徴は人間に馴染む事で、つまり、攻撃性が低い動物となる事が条件である。
以下、「自己家畜化と人類、そして日本」より大まかに纏めます。
ソ連時代の遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフは1959年、キツネに関する野心的な研究を行った。普通キツネは人懐こくはないが、寄ってくるキツネだけを選び、そのキツネ同士を交配し、更に、その子供の中で人懐こい種同士を再び交配した。
彼はその交配を数十年間、数十世代に渡って行い、その結果、野生の種と全く違ったキツネが誕生。つまり、家畜化しない筈のキツネの家畜化に成功する。飼い慣らされたキツネは垂れた耳、巻いた尾、小さい歯、短い鼻面など家畜の特徴を備えていた。
更に、身体や外観以外の社会的な変化も生じ、家畜化以前には単独で生活してたキツネだが、家畜化された後は集団での生活を行う様になった。やがて性格は穏やかになり、集団内での揉め事も少なくなっていく。
例えば、ホモサピエンスが他の人類であるホモエレクトス(直立原人)やネアンデルタール人やデニソワ人に比べ、能力や腕力で劣っていた可能性が高い。それでもホモサピエンスが現在の繁栄を迎えたのは、集団内で互いに協力する協調的な遺伝子を持ってたからだ。
この協調的特徴は狩猟採集時代から農耕社会に移行し、集団が大きくなるとより進化に強く作用した。多人数の集団で暮らすには、協調性が重要な要素となるからで、ホモサピエンス以外の人類では出来なかった事だ。
この様な性質は人間が飼育した家畜の様な性質だが、他から強要されたものではなく、自発的に我ら人類は”自己家畜化”の道を歩む事になる。
つまり、自己家畜化とは安全の為に自由を手放した状態で、例えば、農業社会の集落には厳密な掟があり(幾つかの掟はなぜそうするのかの理由も判らなくなってるが)、それらを守る事で集団内で、或いは領主から安全を保障されていた。
しかし時代が進み、近世になると、都市化により人々は農村社会の相互に緊密な状態から経済的に自立した。更に、個人が独立した状態に移ると共に、次第に自由な思想が芽生えて来る。やがて協調する必要が乏しくなり、自己家畜化の傾向が低下する。
だがその後、資本主義が進展し、貧富の格差が生じ、社会の不安定感が増す。それまで民衆を抑圧してた国家に対し、社会に対する働きかけが期待される様になる。つまり、福祉国家の登場である。
そこで民衆は再び、自由を差し出し、安全を願う様になり、再び自己家畜化の傾向が世界的に強くなる。安全には限界はないが、安全や平和というのが民衆の欲求となり、その後は自己家畜化とそれから脱する動きが交互に起こる。つまり、自己家畜化と自由は相反すると言える。
太平洋戦争後の日本では、アメリカの保護の元に経済の拡大が続いた。いわば安全を保障されてる状態で、自己家畜化の傾向が強まったと言える。だが、東西の冷戦が終結し、多極化の世界となり、もはや安全は保障されず、自由と安全の関係を選択する事を自ら強いられると、日本経済は急速に停滞した。
1990年からの”失われた30年間”の状態を見ると、一時的な問題というよりも根本的な問題が日本には存在する。一方で現代では、安全と平和が第一なので危険な行動は避けるべきだとされ、住民が決めた基準に沿った安全な生活が求められる様になる。
この世界では、人が無意識に抱く本能的衝動や感情は、無謀な企てとみなされ、安全な行動が要求される。
つまり、それは自己家畜化の蔓延であり、アメリカ依存の自己家畜化傾向を脱し、集団主義的な傾向から抜け出し、何かに頼って生活する事をやめる事を意味する。故に、自分で考えて行動する原則を誰もが決意しない限り、日本の低迷は続くと思われる。
以上、オピニオンズから長々と抜粋しました。
自己家畜化と協調性とヒトとしての進化
でも、我らホモサピエンスは他者と協力し、友好的に振る舞う事が出来るのに、そんな協調性のある我ら人間はなぜ、残虐な戦争を引き起こすのか?言い換えれば、見知らぬ他人を助けようとする一方で、なぜ忌まわしい程に他者に対し残虐になれるのか?
その答えも実は、自己家畜化にあるらしい。
「ヒトは”家畜化”して進化した」(ブライアン・ヘア著、藤原多伽夫 訳、2022年)では、”自己家畜化と言うヒトを捕食者の頂点に押し上げ、文明を創らせた<進化圧>が同時に他者に対しての残虐さにも繋っている”と指摘する。
一方、私たちに共通する人間性が自己家畜化によってもたらされたとしたら、ヒトの協調性も残虐さも人間性なのか?
例えば、「サピエンス全史」(2016)の著者ユヴァル・ハラリは1万2千年前の農耕革命が私たちを家畜化したと指摘した。つまり、狩猟生活から脱皮し、その後の農耕社会こそが人類を家畜化させたとなる。
確かに、狩猟社会にも捕食者と被食者がある様に、家畜化にも家畜化する側とされる側がある筈だ。が、本書の指摘では”人が人を(自己)家畜化した”となる。
つまり、この”自己家畜化”により人は従順な攻撃性の弱い個体となり、協調性を備え、一方で生態系の頂点に立つ為に、捕食者としての文明を創り上げ、他者に対する攻撃性の強い残忍性を獲得した。
一方、本書の原題は「優しくなければ生き残れない」だが、協調性の視点で言えば”他者と協力しなければ生き残れない”となり、残忍性で言えば”強くなければ・・”となる。
著者のヘア氏は”ヒトは自己家畜化により友好的な性質を獲得し、更に自己家畜化によりその友好性を進化させ、他の人類が絶滅する中で繫栄できた”と語るが、ホモエレクトスも恐竜も人類よりずっと長く地球上に生存した。
但し、これだけでは生存期間と友好性と自己家畜との間に相関関係は見えにくい。
勿論、動物を家畜化する事で、彼らが従順に友好的になる様に、ヒトも自己家畜化する事で協調性を獲得し、更に進化させ、広範な集団社会や高度な文明を創り上げてきた。その一方で、そうした社会や文明を守る為に攻撃的かつ排他的になり、残忍な生き物にもなり得た。
しかし、自己家畜化の特徴である友好性や協調性に限って言えば、家畜以外のどんな動物にも最初から存在する。
つまり、友好性(又は協調性)とそれに相反する残忍性(攻撃性又は排他性)こそが、矛盾にも聞こえるがヒトを進化させ、作為的な文明においてだが、捕食者の頂点に立ったとも言える。
また、「反穀物の人類史」(ジェームズ・スコット著、2019年)では、1万2000年程前に初期の農耕定住型集落(ドムス)が現れ、それまで小さな集団で暮らしてた狩猟採集民は”仲間にしてくれ”と頼んだが、友好性に優れたドムスの民は喜んで彼らを受け入れた・・との仮説を立てる。
これは、友好性こそが定住型集落を大きく広げ、農耕革命を引き起こし、協調性と相まって、ヒト社会を大きく発展・繁栄させたと言える。勿論、友好性が高まる事で自己家畜化傾向が加速する事はヘア氏も述べているが、”友好性ありきの自己家畜化”とも言える。
更に、動物実験では友好性を求めて交配を続けると共通の特徴が現れる事が判っているが、彼ら家畜が残忍性を獲得し、攻撃性の強い捕食者になり、人類の戦争の様な大規模な集団間の共食いにまで発展するだろうか?
つまり、友好化や自己家畜化の延長上に捕食者どうしの戦争がある筈もなく、それとは別に文明とヒト社会を守るという内に向けられた思考の産物なのかも知れない。
事実、冒頭でも述べた様に、”やがてホモサピエンスは次第に内向きになり、自らが作った物で満たされた世界だけで生き抜き・・”とあるが、こうした我ら人間の内的思考が仲間意識を生み、自己家畜化により協調性を増した。その一方で、人類が構築した文明や社会の急速な進化が、捕食者の頂点にいるとの錯覚を生み、他者や他の動物に対する排他性と共に攻撃性や残虐性を増強したのではないか。
ともあれ、家畜化と進化は相容れない筈だが、家畜化された動物と自らを自己家畜化した人類との共生という点では、人による自己家畜化が大きく貢献したとも言える。
一方で、自己家畜化による我等人類の協調性と残忍性の相異なる二面性だが、「ヒトは”家畜化”して・・」のヘア氏の主張だけでは論理的にみてもイマイチの様な気がする。
協調性と残虐性のパラドクス
一方で、上で述べた様な、最も温厚で最も残忍な種であるホモサピエンスのこうした二面性の矛盾を「善と悪のパラドクス」(リチャード・ランガム 著、依田卓巳 訳、2020年)では、”自己家畜化による華奢化”を起点にし、その進化の過程を明らかにする。
著者はまず、攻撃性には反応的と能動的があるとし、それぞれを”激情”型と”冷静沈着”型に分類。前者は動物全般によく見られるが、後者は殆ど見られない。
故に、能動型攻撃性こそが人類の特徴の1つであるとし、”冷静沈着”型の攻撃性がどのように進化したのかの考察を始める。
そこで、ランガム氏はチンパンジーとボノボとの違いに注目した。特に、チンパンジーは人類に一番近い種とされるが、攻撃性に関しては人類の対極に位置する。事実、チンパンジーがいかに反応的攻撃性の動物であるかは、オスによる子殺しやメスへの暴力、仲間内での殺し合い(リンチ)などの事例をあげて、説明する。
その一方で、ボノボはチンパンジーより能動的攻撃性、つまり”冷静沈着である”との結論を導く。確かに、性行為によりストレス発散をするボノボは反応的攻撃性を抑えてる様に見える。
この考察の過程で、ランガム氏は能動的攻撃性を”寛容または忍耐”との言葉に置き換え、”自己家畜化による華奢化”とのテーマを”なぜ人類は寛容的(又は忍耐的)になったのか”に置き換えた。
確かに、我ら現代人は進化の過程で衝動的で刹那的な行動を控え、紳士的に振る舞う様になったのだとすれば、この置き換えもガッテンではある。つまり、反応的攻撃性の減少と自己家畜化による華奢化がどう結びつくのか?
そこで、家畜動物の例としてイヌとオオカミの違いが語られるが、犬は家畜であり人に従順で、オオカミは野生動物であり反応的攻撃性の塊で、家畜にするにも檻が必要だ。
では、なぜ犬は人に対し、反応的攻撃性を封じ込めたのか?つまり、寛容かつ忍耐強くなったのか?それは、先にも述べたベリャーエフの研究で証明された。
この家畜化症候群の研究では、キツネの継代飼育を従順さを優先すれば、僅か数代で家畜特有の傾向が表れた。その特質は従順性の他に、華奢になった体の特徴全体にも及ぶ。
ランガム氏は、これら家畜化の特徴の全てが”発生時における神経堤細胞の拡散に依存する”との仮説を主張した。即ち、ある恣意的な選択を行なえば、家畜的傾向を遺伝子レベルで達成できるのだ。つまり、遺伝子組み換えみたいなもんだろうか。
仮に、家畜化が特定の遺伝子選択で説明できるのなら、人類の家畜化もその遺伝子がなぜ恣意的に選択されたか?を探ればいい。だが、人間(主人)が選択する家畜動物とは異なり、”人の人による家畜化”はどうやって行われたのか?
そこで著者は”処刑”を例に挙げ、反応的攻撃性を頻繁に示す個体に対し、他の個体が謀議の末、組織的な力で闇に葬ったと仮定した。つまり、”処刑こそが激情的遺伝子の選択排除を行い、人類を自己家畜化した”と説明する。つまり、処刑によるヒトの遺伝子組み換えとも言える。
ここに至り、著者がなぜ”能動的攻撃性”の言葉を使ったのかが理解出来よう。つまり、能動的攻撃おける寛容と忍耐が、長期的には組織の力及び謀議の計画による攻撃性の強い個体の排除に結びつくとの仮定と上手く合致する。
確かに、攻撃的な種から難癖を付けられ、抹殺される社会において、排他的な意識を持ちつも道徳的な行為を演じ、一方で同調圧力に屈する事も生存戦略だった事の証明にもなる。
協調性と凶暴性のパラドクス
ランガム氏は、この様な能動的攻撃性はチンパンジーにも見受けられるとし、彼らの集団によるリンチ殺害を例示した上で、言葉で謀議を行う人類のそれはチンパンジーを遥かに上回り、人類という種全体に対する自己家畜化の”淘汰圧”はチンパンジーとの比ではなかったと結論付けた。
最終的に著者の視点は、反応的攻撃性と”寛容と忍耐”と能動的攻撃性との間を彷徨いつつ、其々を”悪・善・悪”と規定し、これらをパラドクスとして言い表そうとした。
つまり、本書は自己家畜化について論理的な考証を与えた事で斬新な理論書となり得る。勿論、人類の”自己家畜化による華奢化”には、言葉の進化の過程を考慮する必要もあるが、少なくとも”骨食仮説”により、二足歩行が証明され、更にネアンデルタール人に至る最強肉食獣の系譜がホモサピエンスの時点で転換した理由が、本書では強い仮説で述べられている。
ただ、その後を乗り切ったのはネアンデルタール人を華奢にした我々ホモサピエンスであるが、我ら現代人が反応的攻撃性と能動的攻撃性を”寛容と忍耐”で結びつけ、協調性と残忍性という相反する二面性を上手く使い分け、何とかここまで生き延びてきた。
更に言えば、友好的で協調性という”善”と、凶暴的な攻撃性という”悪”のパラドクスを容認する事で、我々は高度な文明を築き上げ、ヒト社会を構築し進化させてきたとも言える。一方で、人類を中心とした生態系を維持するには、捕食者の頂点になる必要があり、人類の存続を脅かす他者に対しては、攻撃的で排他的である必要がある。故に、時には残忍に凶暴に、更に狡猾に共謀になる。
但し、人類が地球上の支配者であるという傲慢と自惚れは否定できず、協調性と攻撃性の議論は突きない。
かつて人類は自己家畜化による自然発生的な決め事であるルールを進化させ、法律や規律・規範を作り、更には倫理や道徳を義務付け、言葉を進化させて高度な文化や教養を身につけてきた。その一方で、攻撃的な種には徹底して処罰を与え、排除してきた。
だが、処罰も排除も残忍な攻撃性には変わりがなく、”悪に対してはそれ以上の悪で対処する”という「選択公理」にも似たパラドクスでもあり、それは逆に自己家畜化され続けてきた華奢な人類だからこそ容認できたのであろうか。
つまり、”善と悪のパラドクス”は”悪の悪に対するパラドクス”でもあり、そこに深くメスを入れない限り、論理的には解決できない気もする。勿論、自己家畜化は高度な協調性や友好性の十分条件にはなりうるが、その先に自己家畜化による強い”淘汰圧”があってこそ、我ら人類が生き残った説明とみなせる。
最後に〜自己家畜化のパラドクス
しかし、テーマとしてみれば”自己家畜化による華奢化”とは、我ら人類の優しさがもたらした”弱さ”であり、その弱さを理解し自覚する事で生き延びてきたとすれば、ヘア氏の”優しくなければ生き延びれない”との主張も頷ける。
確かに、自らの強さと有能さに慢心した最強肉食獣の頂点に君臨していた筈のネアンデルタール人が絶滅し、華奢になり弱さを自覚し、協調性を増す事で様々な困難に打ち勝ち、生き延びてきたホモサピエンス。
我々はホモサピエンスの相反する”協調と破壊”という二面性のパラドクスを背負いつつ、未来が待ち受ける困難と対峙する訳だが、”戦争と平和”という似た様なパラドクスを生み出してしまった。
家畜のまま死に絶えるのか?自己家畜化から脱し、家畜化の外にある新たな何かを獲得し、自己家畜化の上を跳ぶのか?
協調と破壊(いや破滅)というパラドクスに結論を出すには、自由化された家畜から何かを学ぶ必要があるのだろう。
ともあれ、自己家畜化した人類のごく一部が凶暴化し、独裁者という捕食者の頂点に立ち、大衆を全て家畜化したら、これこそが自己家畜化のパラドクスと言えるのかも知れない。
ただ、その先には悪に対し悪で対抗するという矛盾した手段だけが残された。
即ち、善と悪のパラドックスというより、悪と悪のパラドックスとも言える。
戦争と平和ではなく、戦争と戦争の矛盾した時代とも言えますよね。
自己家畜化の行き着く先が”共食い”という名の戦争だとしたら
これ程の矛盾いやパラドックスもないですよね。