象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

”人の為”と書いて偽りと読む

2022年10月16日 16時05分01秒 | ブログ考

 イイねや香典や、そして善意やおもてなしを異常なまでに嫌う私だが、この詩には(全身に電気が走ったかの如く)”なるほど”と感じた。
 この言葉は、あるFacebookからの転載である。一昔前のネット上には、こうした質の高いコミュニティが存在してたのだと思うと、自分の無知さに反吐が出る。
 以下、KACKEYBIGTREEさんのコラムより抜粋です。2014年と少し古いですが、とてもいい詩だと思います。


頑張った成果は偽モノである

選ばれるため
喜ばれるために
昔は頑張ってきた。
仕事もプライベートも
お客さんのため
誰かのため
選ばれるため
嫌われないために
そして、
みんなが自分から離れていかない為に。

そんな"媚びた気持ち"で
仕事をしていた。
そんな"選ばれない自分”だから
”選ばれる自分”になる為に必死でがんばっていた。
その為には
無理をして、犠牲を強いて
楽しくないことも・・・

言ってられない
そんな自分の都合を言えば
嫌われるし
見離されるし
選んではもらえない

”お客さんの事をまず考えなさい”
”お客さんの立場に立って”
という言葉も
この様に恐怖から来る。
媚びと犠牲から発すると
”恐怖を伴う結果”になる。
つまり”もう止められない”

そう
”がんばって手にしたもの”は
”がんばるのをやめると失う”から
”がんばり続ける”しか
選択肢はなくなる。
そんな自己犠牲のもとに
手に入れた幸せは
ただの”苦しい幸せ”である。

自分の幸せが
”相手が喜ぶかどうか”
という基準においてしまうと
ただただ苦しくなるだけである。
そんなものは
ニセモノの幸せに過ぎない。

”お客さんのことを考える”
というのは
”第二の目を持つ”ということ
そして
”第三の目”つまり”俯瞰の目”(多様な視点)を持つということ
そして、その目を持ったうえで
自分がやりたい事だけをやり続ける
自分の事だけを考える

という事こそが
自分の幸せになり、
結果として
相手の幸せになる。

自己犠牲の上に成り立つ
相手の幸せは所詮、ニセモノである。
本当の意味で
お客さんの目線に立つのなら
無料と奉仕の二つしかない。
勿論、そんな事は出来っこない
でも、ちょっとは自分の利益も欲しい。

そんな中途半端な気持ちが
苦しみの商売
広がらない商売
ばりぼての商売
(食う為だけの)労働を作り出す。

お金は労働の対価
という考え方から
早く抜け出さない限り
一生死ぬほど働くしかない。

”もっとがんばれ”
”お客さんのために頑張れ”
なんて事が
通用する時代はもう終わった。
そんな
自分を下にする仕事はしてはいけない。
対等の関係の取引なのだから
・・・・

そこに
お金を”いただく”のではなく
”循環”が始まる。
仕事がうまく行かない時は
その循環が止まったとき
”おめー、ホントは自分の価値を下げて提供しておるやろ”と
自分に言い聞かせてみる。
ホントの自分は
そんなサインを送ってる筈だ。


最後に〜少しは自分を愛したら?

 本当はこの記事を書く前に、”自己愛”についての記事を紹介しようと思った。
 しかし、自己愛に関しては少し複雑で抽象的な論調が必要なので、序章として読んでいけたらと思う。
 因みに、今回紹介したKACKEYBIGTREEさんは自己愛に関しても、とても的確な論調を持っておられます。改めて、自己愛の大切さと(それを理解する)難しさを教えられた気がします。

 (私は)頑張れば必ず結果が出ると信じてきた。人を愛すれば、少なからずその愛は返ってくると思っていた。
 誰かの為に身を粉にすれば、誰かが気付いてくれると。たとえ気付いてくれなくとも、神様いやお天道様は見てくれてると、盲信に近い信念を持っていた。
 しかし、結果は見事に裏切られた。
 昔、付き合ってた彼女に言われた事を思い出す。
 ”少しは自分を愛したら?”

 確かに、私は自分を愛した事があるのだろうか?
 頑張る事だけを愛し、ひたすら悲運な境遇から抜け出す事だけを愛してたのではないか。 
 まるで金メダルだけを追い求める飢えたハイエナみたいに・・・
 そして、その結果が絶望という名の破滅だとしたら?

 若い頃、もっと自分を愛してたら?いや、少しでも自分を愛してたら?
 そこには、今とは違う自分が存在したかもしれない。いや或いは、今よりも酷い境遇に陥ってたかもしれない。
 単様な視点で自分を愛する事はバカでも出来る。しかし上の詩にもある様に、多様な視点で自分を愛する事は簡単そうで単純でもない(多分)。

 自己愛も1つ間違えれば、ナルシシズムに走り、エゴイストに変貌し、最悪はサイコパスにいや、(後天的サイコパスとされる)ソシオパス成り下がるのだろうか。
 いい人ほど過剰なまでに頑張り、また頑張る人ほどその(頑張る事の)犠牲になり、最後には不可解な犯罪に手を染める事も少なくない。
 私も頑張り続けたままでいたら、自分が死ぬか?人を殺すか?最悪、そういう状況に陥ってたかもしれない(多分)。

 私はある時から、頑張る事をやめた。というより、頑張る事と距離を置く様になった。
 そして、頑張るだけのいい人が嫌になった。むしろ、頑張らないエエ加減な人?に不思議な魅力を感じる様になった。
 どんないい人でも尊敬に値する偉人でも、犯罪や悪事に手を染めれば、悪い人以下に成り下がる。 
 頑張るのをやめる事で、”循環”という利益が手に入るのなら、私は躊躇なくそっちを選ぶ。

 結局、人生は楽をした奴が最後には勝つのだろうか?
 ”苦あれば苦あり、楽あれば楽あり”とは、私に対する格言なのかも知れない。



6 コメント

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人生を半分降りる (平成エンタメ研究所)
2022-10-17 10:26:26
KACKEYBIGTREEの詩、いい詩ですね

僕は、中島義道さんが書いているのですが、「人生を半分降りる」を信条にしています。
タモリさんの言う「いい加減」=適当な加減も好きです。

半分、自分のために生きて、半分は社会と折り合いをつけて生きていく。
ゼロか、100かという発想はまずい。

ゼロは徹底した個人主義=利己主義であり、100は象転さんの書いていらっしゃる、人のため=偽善ですよね。

その100が究極に行き着く所が「国家主義」。
この社会になると「滅私奉公」「個人は国家のために奉仕しろ、犠牲になれ」と要求して来る。

この傾向は、自称愛国右派や一部自民党議員に見られるので、要警戒ですよね。
たとえば
「国が滅びてしまえば、個人の自由などなくなってしまうのだから従え」
「防衛予算捻出のために増税を受け入れろ」みたいな言葉。
そして、そういう連中こそが利権を貪ったりしているんですよね。
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エンタメさん (象が転んだ)
2022-10-18 10:41:17
”人生を半分降りる”という言葉は、私が30代中頃に知った教訓で、今でもいい言葉だなって思います。
掛布さんの”諦める勇気”というのも好きな言葉です。

言われるように、今の政権は自民党に”全てを差し出せ”っていう令和の恐怖政治です。
故に、今の政治家には”全てをさらけ出せ”って逆に言いたいですね。
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Unknown (1948219suisen)
2022-10-19 11:44:05
私は「偽る」を「人の為」と分解しないで「人が為す」と解釈します。

他人を偽ることのできるのは人=人間だけです。

動物はそんな悪いことはしません。

逆に、「人の為」に働くことができるのも人=人間だけです。

私は、転象さんは優しい人だから、人に偽られることもあるかもしれませんが、しかし今のまま、人の為に尽くす人であってほしく思っています。

私は「情けは人の為ならず」のことわざは、この世の真実を教えていると思います。
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ビコさん (象が転んだ)
2022-10-20 05:45:55
世代の違いでしょうか。
私には、人の為って無理があるようにも思えます。でも、昔は”人の為に”って教育を受けてきましたが・・・

この言葉は、あるお寺の提示版に書かれてたそうで、”偽”の語源は、”手”と”象”から来てて、人が象を手なずける様子を表し、”為す”に”人”がつくと人間が作為的に手を加え、本来の性質や姿を矯め直すという意味になると。

ま、言葉をどう捉えるかは人それぞれであり、言葉を様々な角度から眺めるとその本質が理解できたりもします。が、言葉やことわざ通りにならないのが人生であるから難しいところです。
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世界平和統一の為に (#114)
2022-10-21 09:45:12
旧統一教会なんか
現在は世界平和統一家庭連合と
庶民レヴェルでの
世界平和を声高々に掲げるけど
やってる事は偽善だらけ
人の為にって信仰に近い思考も
度が過ぎると
巨悪な盲信に様変わりする

普通に生きてりゃいいものを
自分をよく見せたいという欲望が
偽善という危険思想を生む
結局、自己愛と他者愛も
度が過ぎると大きなやけどをする

人のためにっていう偽善ほど
罪なものはない
頑張るって事は
我らが思ってる以上に
価値のないものかもしれない 
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#114さん (象が転んだ)
2022-10-22 02:14:51
世界平和統一家庭連合っていうんですね。
まず、名前からして怪しいですよね。
今の時代、全てが怪しいんですが・・・

”頑張るって事は
我らが思ってる以上に
価値のないものかもしれない”
確かに、頑張って得られるものっていい加減なものが多い。
私なんて、頑張って得たものって殆どない。逆に、マイナスになった事の方が圧倒的に多い。

人の為にと徳を積むって、似てるようで似てないんですすかね。
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