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”モートンの熊手”と危険な罠〜ドラマ「ファーゴ」に見る不都合な選択

2022年07月21日 13時27分48秒 | 映画&ドラマ

 ”わが国が裕福なら、永久に課税しても問題はない。逆に貧しくみえるなら、彼らは質素に暮らして莫大な貯金を蓄えてる筈で、やはり永久に課税しても問題はない”
 まるで自民党の消費税増税を正当化する様な嘘々しい発言にも見えるが、実は(この言葉は)英国貴族への課税についての論証を起源としている。
 これは、土地だけ所有してて税として徴収可能な流動資産がない貴族を考慮してないという点で、”誤った二分法”とされる。

 ”モートンの熊手”とは、どちらも望ましくない2つの選択肢から選ぶというもので、”誤った二分法”の例とされる事が多い。
 ドラマ「ファーゴ」のシーズン1のEp10にも登場するジレンマ(不都合な二項選択)だが、先日紹介した”砂山のパラダクス”はEp8で登場する。
 因みにドラマの中では、殺人鬼マルヴォが”熊手”に引っかかり、その傷が元で元警官のガスに射殺されるシーンに胸がすく思いがした人も多いだろう。つまり、腕の立つ殺し屋とはいえ、熊手に引っ掛かった時点で、その大怪我が元で死ぬか?射殺されるか?の”最悪の二項選択”しかなくなった訳だ。

 このドラマは1つ1つのエピソードにそれぞれのジレンマが隠されてるので、シリアスなサスペンスにしてはとても興味深くユニークに映った。
 全てのジレンマを紹介したいが限りがあるので、今日は”誤った二分法”を中心に紹介する。


不都合な選択

 誤った二分法、或いは誤ったジレンマ(false dilemma)は非論理的誤謬の一種で、実際には他にも選択肢があるのに、2つの選択肢だけしか考慮しない状況を指す。
 近い概念として、ある範囲の選択肢があるのにその両極端しか考えないという場合もあるが、これを”白黒思考”などと呼ぶ。
 こうした不都合な選択は、”俺たちの仲間になるか?敵になるか?”といった白黒の選択を相手に強いる状況で生じる。しかし、浅はかな希望的観測や単なる無知によって選択肢を網羅できない為に発生する事もあり、脅迫や詭弁とも限らない。
 事実、”友達だと思ってたのにお前だけが来なかった”と、白々しい難グセつけられるケースも多いだろう。

 つまり、選択肢が2つだけだと両極端になり、価値観が極端に偏狭になる。これは、選択肢が他にないという印象を与え、より大きな主張を信じさせる効果がある。
 一方で、選択肢が無数にあるかの様に提示しても、2つの選択肢以外の可能性を排撃する。仮に(ファジィ論理の様に)、可能性のスペクトル全体を考慮する事で明らかな誤謬だと指摘できるが、少なくともその効果を弱める事ができる。
 故に、自民党が選挙において常に勝利するのは、”誤った二分法”という最悪の選択というジレンマが存在するからでもある。

 こうした”誤った選択”(false choice) は、問題の中間部分を意図的に排除する試みである。作家のエルドリッジ・クリーバーは1968年の大統領選挙キャンペーンで、”あなた方は解決策の一部であるか、さもなくば問題の一部だ”と言った。これは7年前にTheGuthrian紙に載った”全ての人は問題の一部であるか、解決策の一部であるかのどちらかだ”という言葉を少し変えた引用である。
 騒音規制法に反対する意見は、誤った選択に陥ってる事が多い。NY市では、”騒音を規制したら市民生活が悪い方向に変化する”と述べる人もいる。”深夜の騒音規制にかからない様にするには店を閉めるしかない”という意見だ。しかしこれは、”バー側が防音の為に対策を講じる”という事を除外している。

 これは銃規制法案も同じ様なものかもしれない。銃規制に反対する人々は(意図的にだが)銃所持排除の可能性を除外してる様にも思える。
 ワクチンやマスク反対派もそうだが、可能性を排除する事で、”誤った選択”に持ち込もうとしてるフシがある。つまり、マスクがイヤなら3蜜を避ければいいだけの事だし、ワクチンがダメなら治癒薬を処方してもらえばいい。
 選択肢は幾つもあるのに、その可能性を自ら排除し、曖昧な陰謀説に惑わされる。
 消費税増税も限られた予算の中でやりくりするのが政府の一番の”仕事”であるのに、私腹を肥やす為に敢えて増税に持っていく。可能性は幾らでもあるのに、考察や思考を片っ端から排除し、最悪の選択を国民に強いる。

 
選択という矛盾の行為

 前述した”白黒思考”とは”誤った二分法”の典型である。例えば、物事がうまく行ってる時は無条件の楽天主義だが、初めて挫折した時に全くの悲観主義に陥る。また、他人を”いい人”と”悪い人”に無意識に分別するといった傾向もこれに当たる。
 つまり、人や物事を”いいか悪いか”の二項選択で考える人種は、”謝った選択”に陥る傾向にあるが、権力者も弱い立場の大衆を”誤った選択”に追い込む傾向にある。

 ”他に選択肢はない”という一見大胆で頼もしい主張も、両極端だけを選択肢とする”誤った二分法”の例である。この場合、選択肢はそう主張する人の提案だけに絞られるという危険な状況に陥る。
 以上、ウィキを一部参考に纏めました。

 ムラ社会の井戸端会議でも、こうした”誤った二分法”的議論はよく目にする。
 ある議題を話し合う時、力のある者は強引に自らに都合のいい選択肢へと引きずりこもうとする。当然、反対意見も噴出する。
 それが”誤った選択”だとしても、正論である反対意見を力で排除されたら、論理も正義も何も話し合いさえもいらない。しかし、力で正義を通そうとすれば、逆に権力に潰され、多くの犠牲者が出る。
 だったら最初から権力に従ってれば、矛盾があろうが犠牲は少なくなる。
 ”ワニのパラダクス”(人食いのジレンマ)じゃないが、どっちに転んでも矛盾となる。
 つまり、正義を駆使して人食いワニに殺されるのか?人食いワニに従い、最後には食われるのか?
 勿論、権力に従属したふりをして権力に近づき、権力を排除するという中間の選択肢もあるが、かつてのロベスピエール(の恐怖政治)みたいに正義の剣が再び権力の(いや恐怖の)剣に変わらないとも言えない。
 この人食いのパラダクスでは、母親が”ワニが赤ん坊を食ってしまう”という最悪の予想を敢えて答えた事で、ワニは赤ん坊を食う事も食わない事もできなくなるという矛盾が延々と繰り返され、母親には最悪の事態を逃れる事が出来たのだ。
 事実、「ファーゴ」Ep1では警官のサゾは迷った選択の末、殺人鬼のマルヴォを逃してしまうが、最後には復習を果たす。
 最初は最悪の誤った選択だったが、最後は最高の正義の選択でもあったのだ。
 つまり、誤った選択は最悪の事態を生むが、最悪をいち早く正確に想定する事は最悪を避ける最高の手段なのかもしれない。


選択しないという矛盾

 一方で、数学の世界では空集合∅という集合が存在する。ブッダの世界でも無の世界が存在する。つまり、”何もしない”という行為が存在する。
 選択も同じで、何も選択しない(できない)という行為も許されるべきだ。勿論、選択に値する真っ当な選択肢があれば理想だが、現実はそんなに単純じゃない。
 10の選択肢があっても、それら全てが”誤った選択”というケースもありうる。逆に1つの選択肢しかなくても最高の選択というケースもないではない。一方で、何も選択しないという事が最高の選択になる事もありうる。

 Ep6に登場するジレンマ”ビュリダンのロバ”(Buridan's ass)とは、おなかを空かせたロバが左右2方向に道が分かれた所に立っており、双方の道の先には同じ距離に同じ量の干草が置かれていた場合、ロバはどちらの道も選択せずに餓死してしまうという思想的決定論における矛盾である。
 ロバには、”右の道を進み干草を食べる”と”左の道を進み干草を食べる”と”立ち止まったまま餓死する”の3つの選択肢がある。
 3つ目の選択は他者に比べ明らかに痛みが大きい筈だが、最初の2つには”選択の壁”があり、その壁が餓死という痛みよりも大きかった為に、ロバは3つ目を選んだ。

 つまり、人はある選択をする時、かなりの確率で”別の道が良かったのでは?”という後悔や不安の念に駆られ、それは大きな苦痛となる。
 こうした選択の迷いは、やがてデッドロック(行き詰まり)を生み出す。人はこうした苦痛を回避する為に、サイコロや鉛筆転がし等に頼る。”棒がこちらに倒れたから”とか”神のお告げがあった”などの理由により、選択の痛みを和らげる。
 また3つ目の選択肢は”不作為”な事に注意したい。仮に、3つ目の選択肢にも大きな壁があれば、ロバは最初の2つの選択肢のどちらかを選択する事もあっただろうが、”不作為”には大きな壁はなく選択しやすい、という特徴がある。
 但し、あくまで”不作為”が餓死という大きな痛みを伴う場合の話であり、時には(結果的にだが)不作為が一番痛みの少ない場合も存在する。


最後に

 我々人類は矛盾という大海に彷徨い続けている。こうした矛盾の海から抜け出すにはどうしたらいいのか?
 しかし、それら矛盾を論理的に考察・分析する事で、矛盾の本質を探る事はできる。矛盾そのものを排除する事は不可能かもだが、矛盾の中に潜む曖昧さを排除し、矛盾の見通しを良くする事は可能である。

 ドラマ「ファーゴ」は、連続殺人ネタの不気味な展開でありながら、奇怪で滑稽な人間ドラマでもある。追い詰められた人間の欲望丸出しの矛盾やジレンマが人々を混乱の渦に巻き込む。
 殺人鬼はそうした矛盾の海をスイスイと泳ぎ楽しむかの様に、次々と殺戮を犯す。そこに正義が入り込む余地はない様にも思える。
 しかし、最悪を想定する事で矛盾の見通しは良くなり、正体不明の殺し屋の本質を次第に炙り出していく。
 追い詰められた殺人鬼は、(前にも言ったが)”なぜ人は緑の中で最も目が利くのか?”と元警官に再び問いかける。
 ”大昔から大自然の中で人は目を凝らして(敵や獲物を分別し)生活していた”というのがその答えだが、目を凝らして殺し屋を追い続けていた元警官は答える代わりに銃をぶっ放す。

 つまり、人は現代社会の中でも常に目を凝らし、本質を見抜く癖をつける必要がある。でないと、マルヴォみたいな殺人鬼が矛盾という銃を次々とぶっ放す。
 同じ様に、自民党も消費税増税や原発推進や安保改定という殺戮いや自殺に近い行為を次々と犯す。我ら国民は政権という悪の本質を見抜く必要がある。
 太古の人間は森の中で目を凝らし、敵や獲物を分別していたが、我ら国民は今、自民党という森の中でその悪政に目を凝らすべき時である。
 でないと、最悪の選択が待ち構えてるかもしれない。



4 コメント

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赤い手袋 (hitman)
2022-07-21 17:04:43
前から不思議に思ってたんですが
最後に副所長のモリーが
前妻殺害の容疑者のレスターに語った
赤い手袋の話の意味がイマイチ分からなかったのですが
転んださんはどー考えます?
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hitmanさん (象が転んだ)
2022-07-21 22:56:52
片方の手袋を偶然にも線路上に落とし、もう一方の手袋も敢えて落とすんですよね。そうすれば、拾った人は再び使えると・・
でも、前妻を偶然にも殺したレスターは後妻を間接的にですが意図的に殺します。

つまり、レスターの殺人も赤い手袋も偶然の後に必然が重なった訳で、そういう意味では答えは曖昧にしてた方が流れとしてはスムーズだったか・・

”なぜ、もう片方の手袋を落としたと思います?”とモリー。
”さぁ〜単なる気まぐれかな”とレスター。
”気まぐれというより計画的だと思うの。特に2つ目はね”とモリー。
”計画的とはどういう意味かね”とレスター。
”だって、もう1つの手袋も落とせば、拾った人は使えるじゃない”とモリー。

と、私的にはこんな流れに持って行きたかったですね。
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Unknown (♡マブリー)
2022-07-24 10:08:31
「ファーゴ」と言えば、監督脚本家のコーエン兄弟、主演のフランシス・マクドーマンドの映画を思い出しますが・・・ドラマ化されているのですね。偶然がもたらす不条理 、でもそもそも偶然自体が選択した結果の行動でしょうか? 数学?で行動を考えるって、なかなか面白いですね。先日観たドラマでは、"モンティホール問題"がキーワードでしたが、私など無知なので、解ったような解らないような💦 こんな時、像が転んださんのように頭が良い人が羨ましくなります。

>我ら国民は政権という悪の本質を見抜く必要がある

そもそも政治と経済に正義などあるのでしょうか?(特にトップ政治家など)
平気で嘘をつける人、だけがなれる職業、とは言い過ぎでしょうか?
選挙には行きますが💦💦

ドラマの「ファーゴ」は、我が家のケーブルテレビでは視聴できませんが、いつか機会があったら観たいと思います。
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マブリーさん (象が転んだ)
2022-07-24 15:49:08
モンティの疑似パラダクスですよね。
結局、モンティが途中でハズレを1つだけ開けるという特殊な条件が加わるから混乱する。私達が直感で当た前と思ってる事は、(実と虚が混じり合う)数学ではそうでもない。

言われる通り、政治と経済に正義など最初からないんですよね。それにヨーロッパと比べ、日本は政治に要求するハードルがとても低過ぎます。
”嘘つき”というより平民以下の脊椎反射系しかなりたがらない職種に成り下がってしまいました。悲しい限りですね。

「ファーゴ」ですが、スマホやタブレットやTVでも見れます。月500円のアマプラとの契約が必要ですが、1ヶ月の無料体験もできます。
コメントありがとうです。
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