「無限に魅入られた天才数学者たち」(A・D・アクゼル著 青木薫訳)のあとがきに、”ゲオルク・カントールは単独で無限に立ち向かい、それまで神(の領域)であった無限を数にした”とある。
長いヨーロッパに精神史において、無限とは神に他ならなかった。有限な人類の世界を超越した無限なるものは神以外にはありえないし、絶対的な神ならば無限に違いないと人々は考えたのだ。
無限(実無限)は、無神論に傾倒しがちな数学者でさえも敬して遠ざけていた。勿論、カントール(独、1845-1918)が現れる前までは・・・
カントールが数学の世界に引き起こした激震は、コペルニクス転換と同様の反応を引き起こし、数学の世界において異端や破門に相当する扱いを受けた。
彼が並の人間なら二度と立ち直れない程の痛手を受けたのは間違いない。しかし彼を支えたのが”信仰”である事は以外と知られてはいない。
カントールについては、精神を病んだ天才数学者のイメージが強いが、著者のアクゼルはカントールのブレない信仰心にまで深く踏み込んでいる。
彼の母親はユダヤ系(父はカトリック教徒)だが、著名な音楽家や宗教家などを輩出した名家の家系でもある。更に、福音ルーテル教会で洗礼を受け、生涯に渡り敬虔なキリスト教であった。
つまり、カントールは信仰の力で(神の領域にある)無限を捉え、自分の生きる数学の領域に繋ぎ止めたのだ。故に、決してカントールが神の領域を犯したと言える筈もない。
連続体仮説と無限のお話
フォロワーの記事に、”科学は疑う事か始まり、宗教は信じる事から始まる”とあった。いい言葉だと思った。
これを言い増せば、科学は疑う事で飛躍し、数学と結びつく事で更に大きく飛躍した。一方で、宗教は信じる事で衰退し、腐った政治と結びつく事で更に腐敗すると表現できなくもない。
少なくとも”自民党は頭から腐り、統一教会と安倍の国葬は基本的に腐っている”という私の愚痴よりもずっと説得力がある。
神と数学はずっと昔の古来から、対等で蜜な付き合いで、お互いを切磋琢磨しあってきた。つまり、神は数であり、神学は数学を兼ねていたとも言える。
紀元前6世紀のピタゴラスは数を神様と宗教とに結びつけた。一方で、19世紀のカントールは数学を神の領域から開放させたが、彼の信仰心は揺るぐ筈もなかった。
当時は”無限こそが神様”だとされたが、神の領域である無限の存在とその種類までをも数学的に証明したカントールは、自身が主張した「連続体仮説」を証明する事まではできなかった。つまり、”数学は不完全である”(ゲーデル)が故に、(同じく不完全である)神様を超える存在を証明する事はできなかったのであろうか。
そのカントールが神や宗教を否定してるのかと言えば、そうではない。彼は信心深い数学者であり、信仰こそが彼の異次元の研究を支えてきたのだ。
つまり、(虚構と真実という相反する土壌を持つ)数学は疑う事と信じる事の間を行き来しながら、衰退しては成長し、その繰り返しで生き延びてきたともいえる。
「連続体仮説」とは、”可算濃度(可算無限)と連続体濃度(非可算無限)の間には他の濃度が存在しない”とする仮説で、19世紀に(集合論の祖と称される)ゲオルク・カントールによって提唱された。
ヒラペッたく言えば、”自然数の様なパラパラなある無限(可算濃度)と、実数の様にベッタリある無限(連続体濃度)とでは濃度(集合数)は異なるが、中間の濃度は存在しない”とできる。更に、”連続体とは数直線上の(ベタ塗りの)実数”と言い換える事も出来る。
しかし、現在数学(の標準的な枠組み)では”証明も反証もできない命題”という事が証明されている。
可算濃度(可算無限)より連続体濃度(非可算無限)の方が大きい事は、自身の「カントールの対角線論法」(参照)によって証明されていた。因みに、自然数の無限は全単射を満たす(可算な)集合数だが、実数の無限は全単射を満たさない為、より大きな(非可算な)集合数となる。
しかし、前述した様に「連続体仮説」は流石のカントールでも証明する事はできなかった。
後に、クルト・ゲーデルは連続体仮説が集合論と矛盾しない事を証明したが、60年代になるとポール・コーエンにより、連続体仮説の否定も矛盾しない事が証明された。つまり、連続体仮説が(カントールが確立した)集合論とは独立してる事を示し、”証明も反証もできない”事を証明した。
ここで、歴史を19世紀から紀元前にまで遡る。
無理数と実無限(連続体)
古代ギリシャでは、ピタゴラスの”数は万物”であり、特に”自然数(整数)は神様が創り出した”と考えられていた。
紀元前6世紀、ピタゴラス(紀元前569-500)は”あらゆる事象や宇宙の全ては数から成り立つ”と提唱した。この考えはやがてギリシャ中に広まり、精神的価値観や信仰や宗教をも支配する事になる。
以降、ピタゴラス学派は幾何学と算術を結びつける重要な研究に傾斜する。中でも三角数はその代表的なものであろう。因みに三角数とは、その数に等しい数で三角形を作る数である。3→6→10→15→…etc。
ピタゴラス学派は偶数を男性数、奇数を女性数と考え、最初の平方数4は正義のシンボルとされた。特に”神聖の数”とされたのが三角数の10(4つの数の和)である。
やがて、彼らは2つの整数の比では表せない数が存在する事に気付く。
そーう、”ピタゴラスの三角形”ですね。
ピタゴラスが発見したかは未だに不明だが、そこには何と無理数が登場する。例えば、短辺が共に1の二等辺三角形の長辺は√2となる。(今更だが)無理数とは、2つの整数の比で表せない数です。
しかしこの無理数の発見は、ピタゴラスとその学派にとっては壊滅的な打撃となる。(神の創造物である)整数だが、その比で表せない無理数の存在は、信仰体系の根本を揺るがした。
この恐ろしい発見がなされたお陰で、ピタゴラス学派は数の力とその不思議さを探求する怪しげな宗教団体(教団)となっていく。
やがて、”整数こそが神”という教義は死に絶え、それに代わり、連続体(無限)という豊かな概念が新たに生まれた。
この様に、(皮肉にも)無理数を最初に発見したピタゴラス学派だったが、2500年後に”無限には階層が存在する”という重要な発見は、(彼らが発見した)無理数なしには存在し得ないものである。
こうしたピタゴラス学派が、数への崇拝を数学と宗教の両面において高い次元にまで引き上げたのは間違いではなく、それに1という数があらゆる数を生成する事を彼らは理解していたから、無理数を発見する前に既に、無限(連続体)という概念をある程度は理解してたと思われる。
プラトンの無限とゼウスのパラダクス
ギリシャで幾何学が誕生したのもこの頃である。幾何学でいう線や面や角度は全て連続量つまり連続体である。つまり、有理数は有限の形で記述できるが、無理数を表現するには”無限”は避けては通れない。例えば、π=1.7320508…とランダムな数が無限に表出する。
プラトンは、ピタゴラス教団の数の崇拝に深く踏み込んだ。お陰でアテネは数学の中心となり、特に彼が設立したアカデミアは古代世界屈指の数学者を生み出した。
中でもエウドクソス(紀元前408~355)は、連続体つまり無限の威力を十二分に理解し、”幾何学を知らぬ者、ここに入るべからず”との看板をアカデミアに掲げた。これは、アテネの数学者たちがピタゴラス学派(教団)を凌駕した象徴とも言える。
事実、ピタゴラス教団は数の大きさを小石の個数で表していた。数が線分に関係付けられ、算術化された幾何学がピタゴラス教団の小石に取って代わったのは、プラトンのアカデミアの学生やアレクサンドリアのユークリッド(紀元前330~275)のお陰である。
数は相変わらずアテネのアカデミアが支配してたが、ユークリッドは方程式を代数的に解くのではなく、幾何学を使って解く方法を論じた。
お陰で、数と連続体(無限)との間には大きな壁が立ちはだかり、哲学や宗教をも巻き込む事となる。事実プラトンは「国家」の中で"算術は我々を高きに導く力があるが、抽象的な数という大きな壁が立ちはだかる"と述べている。
このプラトンが数学史上成し遂げた最大の貢献は、”無限に関する理解を深めた弟子たちを持った”という事である。
無限という概念をパラダクスとして最初に提示したのは、ギリシャのゼノン(紀元前495-435)である。彼が主張した「アキレスと亀」は非常に印象的で奇抜だが、このパラダクスでゼノンは”空間と時間が何度も分割可能ならば、運動は起こり得ない”と主張した。
”二分法”のパラダクスがこれを上手く表現してる。例えば、1+1/2+1/4+1/8+1/16+…=2を見れば、距離の半分だけ進むという事を無限に繰り返しても1回目に進んだ距離の2倍しか進めない。
この無限に関するゼノンのアイデアは前述のエウドクソスやアルキメデス(紀元前287-212)に受け継がれ、無限小の量、つまり無限に小さい数を利用して面積や体積を求める事を考えた。
特に(非常に貧しい出の)エウドクソスだったが、彼は無限に多くの無限に小さい量を利用したが、次々に分割していけば”必要なだけ小さな量が得られる”という可能無限(可算無限)という概念を数学に持ち込んだ。
19世紀の数学者たちが微積分に堅固な基礎を与える極限の概念を発展させる事が出来たのも、この可能無限のお陰である。
エウドクソスが開発したテクニックは、アルキメデスにより更に拡張され、可能無限や無限小量を駆使すれば、球や円錐の体積が実際に求められる事を示した。
この様に、ピタゴラスに始まり、ゼノン、エウドクソス、アルキメデスに至るギリシャ黄金時代の哲学者や数学者たちは無限に関して多くの発見をしたが、意外な事に、それ以降2千年もの間、無限の数学的性質についてそれ以上の進展は殆どなかったのである。
しかし無限の概念は、宗教という数学とは別の文脈の中で生まれ変わる事になる。
少し長くなりすぎたので、今日はここまでです。
次回の後半では、無限と宗教について述べてみたいと思います。
宇宙飛行士が宇宙から地球を見て神の存在に目覚めたという話も聞きます。ということは、科学を極めれば神に行き着くということだと思います。
逆に、空海の仏教のように宗教を極めれば科学になるということかもしれません。この場合の宗教は、言うまでもありませんが、拝金主義の宗教でなく、純粋な宗教です。
仏教は宗教や神とは異なり、非常にユニークな存在ですね。
エンタメさんが言ってたように、仏教は祈る事で心の平穏を保つ。
故に、疑う事で成立する科学と信じる事で成立する宗教の中間にあるような気もします。
数学は疑う事と信じる事を行き来する(虚と実が融合した)学問ですから、そういう意味では仏教との親和性が高いと言えますね。
事実、ブッダの無の教えは算術(古典数学)を大きく飛躍させましたから。これからはインドは間違いなく数学大国にのし上がるでしょうね。多分その時は中国を超える大国になると思います。
日本には世界でもオーバー・ザ・トップな(数は少ないけど)数学者がいますから、これも仏様のお陰ですかね。
ただ、虚と実が融合するという曖昧な部分では、数学も神も近い存在にあるかとは思いますが、証明は連続体仮説と同じで不可能でしょうね。
ピタゴラスが無理数に気づいて戸惑ったという所まで理解できました。笑
無理数は統一教会流に言えば「サタン」なのかもしれませんね。
そして数学者。
ひとつの定理を解くために一生を費やす。
一生かけても解けないかもしれないことに身を投じる。
これはある種の狂気か信仰ですよね。
あれもしたいこれもしたいと考える凡人には到底できないこと。
そして宗教と科学。
近代は宗教と科学の結びつきを否定しましたが、これが否定されなかったら「錬金術」「数秘術」など別の知的体系が出来ていたかもしれませんね。
現代人がオカルトに魅かれるのは近代の価値観が行き詰まっていて息苦しいから。
オウム真理教や統一教会などは、そこにつけ込んだのでしょうね。
言われる様に、狂気と信仰こそが数学者を数学者たらしめる。
神の領域を超えたとはいえ、カントールも晩年はその2つの間で苦しんだのかもですが、クロネッカーとワイエルシュトラスとの確執、デデキントとの決別は不幸そのものでした。
ガウスやリーマンにも匹敵する数学的才能を持ってただけに、とても惜しまれます。
連続体の理論(解析学)は勿論難しいんですが、代数学は天文学的に難しいんですよね。これが数学者を狂気に追い込む。
でも昔の宗教家はとても優秀で勤勉家も多く、数学や科学と対等に渡り合ってましたから。
言われる様に、現代の息苦しさから逃れる為のはけ口としての宗教と考えれば、腐敗するのも理解できます。が、政治と同じで粗悪な人種が上に立つとどうにもならんのですよね。
堅いテーマにコメントありがとうです。
無限数が統一教会の”サタン”に相当するのでは?とありましたが。
まさにいいとこ付いてると思います。
実は、ユダヤ系のカントールは自らが発見した無限数(超限基数)をヘブライ語の”アレフℵ”と名付けました。・・・かのオウム真理教のアレフ(今はアーレフ)ですよ(@_@)
この超限数についてカントールは、”神に告げられたから”と語ってます。
以後、相当な異端児扱いされますが、このカントールを救ったのがローマ法王レオ13世というから、話は長くなります。
という事で、この話も含め、次回に持ち越しです(多分)。
って感じだわね
無限って単純に
有限ではない無限以外の何モノでもないと思うんだけど
無限にもいろんな種類があって
それらを数学的に証明したカントールは
神様を数学的に記述しようとした
初めての数学者じゃないかしら
もし神様に卓越した知能があれば
人類の英知でその神様を解明できるとカントールは信じてたのかな(^^)v
でも神様にどれだけの知能があったのか?までは証明出来なかった
で結論はどうなの^o^;
神に卓越した知能があれば、同じく数学者の卓越した知能は神にどこまで近づけれるのか?
もし神を超えたとしたら?そこにはどんな世界が開けるのか?
それこそが真に賢い神のお告げだとしたら?
神様も2種類存在し、(可算無限に相当する)人類により近い神様と(非可算無限に相当する)人類とは大きくかけ離れた神様。
つまり、カントールは神の立場から数学を眺め、神を数学で表現しようとしたんですかね。
という事で、答えと真理は無限に存在するということで・・・