前回(1/30)の”その1”(Click)では、ヤコビの生い立ちから私講師時代の入り口までを述べました。前回から50日程経ってますので、軽くおさらいをします。
ヤコビと言えば、”楕円関数の逆問題”で有名ですが。良き親友であり、良きライバルでもあるアーベルが僅か26歳で夭逝した為に、彼の偉業を伝承し、楕円関数の研究に没頭します。
この二人の超天才が同時期に同じ研究にて火花を散らした事は有名ですね。結果的にはアーベルが一歩先んじた形となりますが、後に楕円関数を数論に応用した”ヤコビの四平方定理”も有名です。
ヤコビを最も有名にした論文「楕円関数論の新たなる基礎」(1829)は現代数学に新たな地平を切り開き、特に超幾何級数における”テータ関数”は、彼の解析学における最も重要な発見とされます。
大学で解析学や微分方程式を学習する際には、しばし関数行列式”ヤコビアン”に、ベクトル理論では”ヤコビ恒等式”に遭遇する。故に、暗号学の研究者は”ヤコビ記号”を使う。
つまり、超人という名に相応しい数学者という事ですね。
ルジャンドルとの交友
”部分分数の分解”という普遍的な解析学のテーマで学位論文を書き、教授資格を得たヤコビ(1825)だが、ベルリン大の私講師として”無限小解析の方法”に基づく曲線論と曲面論を扱います。
つまり、この”無限解析”の根底には、オイラーやファニャノやランデンやラグランジュがいますが。その背景にはライプニッツとベルヌーイ兄妹が控え、無限解析のこの分厚い源流の先に、ガウスを始め、ヤコビやアーベルやリーマンらが血眼になって研究した、楕円関数が構えてたんですね。
つまり、数学という学問は切り売りの出来ない学問なんです。”伝承こそが継承である”というのも頷けます。
1826年5月、ベルリンで1年ほど講義をした後、ヤコビはケーニヒスベルク大学に移ります。私講師のままでしたが、当大学での教授職に欠員が出た為、ベルリン大に留まるよりも早い昇進が見込まれたからです。
この大学では当大学の天文学長のベッセル(1784-1846)に出会うという僥倖に恵まれた。ベッセルはベッセル関数でも有名な数学者でもありました。
お陰で2人はたちまち親しくなり、熱心の学問上の議論を続けた。
ディリクレによれば、彼の教師としての能力は既に大きく展開され、講義のテーマを極めて明晰に且つ刺激的な仕方で取り扱う手だてを心得ていたという。
故にこの”注意深さ”が評価され、高等教育庁はヤコビを一時的にケーニヒスベルクの私講師として継続する様に要請したとされます。
若い日のヤコビの心を捉えたのは、楕円関数論と数論である。1827年、ヤコビはシューマッハとルジャンドルに手紙で思索の成果を報告した。
シューマッハ宛には2通あり、ルジャンドルが手掛けた楕円関数の変換理論にテーマを求め、ルジャンドルが成し得なかった高みに登った事を告げます。早速シューマッハがこれを評価し、自らが主催する学術誌「天文報知」に載せますが、ヤコビが報告したのは命題のみでした。
ルジャンドル宛は1通だったが、証明を明らかにする様に要請した。ヤコビは苦心の末に証明を書き上げたが、その証明には第一種楕円積分の逆関数を諸性質を利用する、アーベルの創意が生んだアイデアが使われてた。
ガウスとの出会いとヤコビの数論と
因みに、このルジャンドルへの手紙の中にはガウスの楕円関数論と数論について書かれていた。ガウスが既に若い頃から楕円関数の研究をして、様々な特異な結果を得てた事。勿論公表される事はなかったが、ドイツで楕円関数に感心を寄せるものが自分一人ではない事などを伝えた。
数論の方面では、ヤコビはガウスの「アリトメチカ研究」第7章の円周等分論から出発し、3次の冪剰余、4次の冪剰余、更に高い次数の冪剰余の研究に向かう。因みに、ヤコビの論文には3次剰余の事が述べられてます。
剰余論の研究に関しては、1827年の頃だが、ヤコビはガウスと手紙でやり取りしてました。お陰で、”円周等分による平方剰余相互法則の証明”にも成功し、ルジャンドルに報告した。
1827年12月、23歳のヤコビはケーニヒスベルグ大学の員外教授(助教授)に昇進したが、ルジャンドルよりも高く評価されたという事実がその背景にはあった。
1829年にはクレルレ誌に自身初の著作である「楕円関数論の新しい基礎」を刊行し、第一種楕円積分の逆関数を楕円関数と呼ぶ事を提案します。因みに、ルジャンドルは楕円積分を楕円関数と呼んでたが、ヤコビが異を唱え、ルジャンドルの言う楕円関数を”楕円積分”と呼ぶ事にした。
因みに、ルジャンドルの(第一)楕円関数ですが、∫dψ/√(1−κ²sin²ψ)で示される積分です。ヤコビはこの楕円関数を、楕円積分∫dθ/√(1−c²sin²θ)という形にし、∫dθ/√(1−c²sin²θ)=n∫dφ/√(1−c²sin²φ)が成立する様な”変換”を探索します。これは、n=2、3、5の時にも成立し、ルジャンドルを驚かせました。
これを書き換えると、∫dx/√(1−x²)(1−c²x²)=n∫dy/√(1−y²)(1−c²y²)となり、これこそが”ヤコビの変換理論”と言われます。本当はもっとややこしんですが。
このヤコビの若干24歳での著作は、アーベルの「楕円関数研究」と共に今日の楕円関数論の根底を確立します。
数学の世界でヤコビの先輩格になるのはルジャンドルとガウスの二人ですが。前述した様に、ヤコビはルジャンドルから楕円関数論を学び、ガウスから数論を学びました。
ガウスの数論はガウスの創意の産物ですが、ヤコビはこれを理解し、ガウスを越えた地点に進もうとしました。
因みに、ガウスの数論とは”冪剰余の相互法則”の事に他ならないのですが。ガウスは”4次剰余相互法則”をテーマとする論文を書き、3次剰余や高次の冪剰余の相互法則の存在をも示唆していた。
そこでヤコビは、ガウスの円周等分論から出発し、高次の相互法則の世界に向って独自に歩み始めたんです。この等分理論こそが楕円関数に繋がるんですね。
ヤコビの楕円関数論
数論の他に、ヤコビの心をとらえた数学の領域こそが”楕円関数の理論”でした。
ヤコビは他の研究を通じ、楕円関数の研究を取り出した。この研究はまもないうちに彼に大きな名声をもたらし、この時代の第一級の数学者たちの中に彼の地位を割り当てる事になります。
ヤコビは既に多くの方向に挑戦して成果を収めてたんですが、楕円関数論では長期に渡り幸運の支援を得られない状況にあった。
ヤコビは1829年に1歳年下のディリクレと出会い、生涯の友となるが、ルジャンドルの楕円関数論に関する書物にイライラ感を募らせてた事をディリクレに漏らしてます。
つまりヤコビは、ルジャンドルを超える理論を目指す意向を既に暗示してたのです。
1829年夏、24歳のヤコビはフランスへ向かい、途中ゲッティンゲンにガウスを訪問した。パリでは初めてルジャンドルに会い、フーリエやポアソンなどのフランスの数学者とも交友を深めた。
そして、1832年7月にはケーニヒスベルグ大の正教授に昇格します。彼の講義はゼミナールという独自の形式を取った。教える方も超一流だったんですね。
しかし、肝心のアーベルに会う機会はなかった。彼は1929年4月に既に他界してたのだ。
ヤコビはアーベルに深い友情を抱き、アーベルの没後、楕円関数と超楕円関数に関してアーベルが残した研究を継承します。
一方でアーベルは、「楕円関数研究(第一部は1827年9月、第二部は1828年5月)」の前に、既に「パリの論文(1826)」を書き、完全に一般的なアーベル関数(積分)の世界を視圏に捉えていました(アーベル”その1”と”その2”をClick参照)。
アーベルの「ある種の超越関数の2、3の一般的性質に関する諸注意(1828)」では、専ら超楕円積分(楕円関数)の加法定理が取り上げられた。
ヤコビはこの論文に手がかりを求め、「アーベルの定理に関する観察」(1832)、「アーベル的超越物の一般的考察」(1832)、「アーベル観察ノート」(1846)にて、超楕円積分の逆関数を試み、”ヤコビの逆問題”の原型を提示します。
因みに、ヤコビの言う”アーベル的超越物”は超楕円積分を指すが、当時は積分という概念はなく、ルジャンドルは”超楕円関数”と命名していた。ヤコビはこれを退け、”アーベル的超越物”(超楕円積分)と名付けます。
この超楕円積分の加法定理を”アーベルの定理”と名付けたのもヤコビでした。ここにてもアーベルに寄せる敬意と熱い友情がありありと感知されますね。
”ヤコビの逆問題”とは
この”ヤコビの逆問題”の原型を解くと2複素変数関数が出てきます。ヤコビはこの関数が4重周期を持つ事に着目し、「アーベル的超越物の理論が依拠する2変数4重周期関数について」(1835)を執筆。この2変数4重周期関数を”アーベル関数”と名付けます。
お陰で、アーベル関数の発見は今日の多変数関数論の泉となります。
簡単に言えば、”ヤコビの逆問題とは第一種楕円積分の逆関数としての楕円関数の探求”です。そこでヤコビは、まず種数1の第一種楕円積分にて、アーベルの超楕円積分(超越関数)になる様な関数を求め、そこで2つの逆関数が4重周期を持ち、2個の複素係数を持つ2次方程式の解になる事を発見します。リーマン”その3”をClick参照です。
この2つの逆関数の等分理論と種数1の超楕円積分の”変換理論”をヤコビは書き留めます。アーベルの超楕円積分は2変数4重周期なので、ここにて”ヤコビの逆問題”の原型が完成したんですね。
因みにヤコビの逆問題は、アーベルの逆関数のアイデアがベースとなってますが。上述した様にアーベルは、ルジャンドルの第一楕円積分の逆関数が極を持つ事と二重周期性を発見し、楕円関数が初めて複素平面上で定義され、2重周期を持つ有理型関数として確立されました。
アーベルの楕円関数論の目的はヤコビとは少し異なり、この逆関数(楕円関数)そのものではなく、楕円積分の変換理論と逆関数の変数分離型微分方程式の積分にありました。
つまりアーベルの逆関数は、変換理論にては有用な補助ツールとして、等分理論は研究の実体にすぎず、アーベルが目指した”特殊等分方程式の代数的可解性の考察”こそが、楕円関数の道を大きく切り開いたんですね。
この様に、ガウスの示唆を見抜いたアーベルの等分理論において、解の表示式を具体的に書き下したアーベルの驚くべき独創性こそが、ガウスやヤコビを驚かせました。お陰で、等分理論を加法定理と変換理論を展開する事が可能になり、楕円関数の研究は大きく前進します。
このアーベルの真意を継承したのがヤコビの逆問題です。等分理論と加法定理と変換理論は楕円関数の3つの柱とされますが、アーベルの加法定理の背後には、ヤコビの変換理論が包み込むように構えてました。
アーベルの「パリの論文(アーベルの定理)」では、加法定理が導かれ、楕円積分の基本的な性質が記述されますが、この楕円積分の逆関数が楕円関数を表すのは明らかでした。
この様に、”アーベルの加法定理を背後から眺めたヤコビの独自の解釈”こそが、ヤコビの逆問題と言えますね。
以上、paulさんとUNICORNさんのコメントからの補足でした。
楕円積分の逆関数の等分理論と変換理論は、楕円関数の大きな2つの泉です。これに関しては次回で述べる事にします(予定)。
長々とややこしくなりましたが、ヤコビのこの変換理論もアーベルの加法定理と並ぶ、楕円関数の大きな礎となったんですね。
因みに、ガロアもアーベルの論文がパリの学士院に無視された事に憤りを覚えてたという噂ですから、天才は天才を知るとはこの事ですね。
貴重なコメント有難うです。
ガウスが死ぬ直前に自らが書いた遺書(論文)をパリの学士院には見せず、ヤコビとガウスに意見を求めるよう親友に言い残したのは有名な話。
つまりガウスも最初からフランスの数学界を全く当てにしてなかった。それにアーベルとヤコビの偉大さに既に気づいていた。
そのガロアもアーベルを追うように、彼の死の3年後に21歳の生涯を閉じる。この偉大な数学者二人の早世は、ガウスが言うように数学界の大きな痛手となるが。リーマンのお陰で何とか崩壊を防ぐことになる。
ヤコビも30を差し掛かる頃に体調を崩したが、親友のディリクレの支えもあり、ケーニヒスベルグ大を辞めベルリン大で講義をするが、このときの受講生にリーマンがいた。リーマンがヤコビと出会ってなかったら、リーマンを世界的数学者にしたアーベル関数の論文は成し得たであろうか。
これからも貴重なアドバイス宜しくです。
一応、24時間無休で受け付けております。
1000のポチより1つの貴重な追記コメで私のブログは成り立っておりますから(^^♪。
これからも拙い補足となりますが、宜しくお願いします。
コーシーもルジャンドルも一時の勢いがなかったんでしょうか。
コメント有難うです。
でもそのアーベルがガウスやヤコビに敵愾心を燃やしてたっていうのも面白い。
本当はアーベルはガウスにあって、ギャフンと言わせたかったんでしょうか。
それをクレルレが止めたという噂ですが、辻褄が合ってきますね。
貴重なコメントとても参考になります。
ドイツもフランスに倣い工芸大学や師範学校を設立しようとするが、ガウスは辞退、招聘予定のアーベルは死んだ。つまり19世紀初頭のドイツには著名な数学者がいなかった。
しかし19世紀後半にベルリンがパリに変わって数学の覇権を握るようになったのは、ひとえにクレルレの数学雑誌によるもの。このクレルレの数学誌の創刊にはアーベルが多大な貢献をした。
アーベルはクレルレの数学誌創刊の計画に関与し、クレルレもアーベルに全ての望みを掛け発行の決心を決めた。そしてこのクレルレ誌をヨーロッパ中に広める役割を果たしたのがヤコビでした。
それを神の力で楕円にした。事実ケプラーは万有引力を神の引力とみなしました。
ニュートンはそれは万能の力(万有引力)と名付けましたね。
この話信じるか信じないかはあなた次第?
アーベル⇒ヤコビ、ディリクレ⇒ガロア⇒リーマン、クロネッカーと伝承にしては凄すぎる顔ぶれですね。
コメント有難うです。
これもリーマン”その4”で述べてましたね。すっかり忘れてました。アーベルもヤコビという存在がなかったら、ここまで楕円関数に拘ることもなかったんですが、逆に二人の名声を大きく持ち上げる結果となりました。
これも補足しときますね。毎回どうも有難うです。
慌てて書いたんで、ヤコビの逆問題の所は説明不足だったですね。お陰で助かります。
ガウスの等分理論とオイラーとアーベルの加法定理、それにその加法定理を包み込むヤコビの変換理論の2本(+1本)の柱でしたね。それと、アーベル方程式と虚数乗法論も見逃せません。
paulさんのコメント補足しときます。何時も何時も有難うございます。
だけど「楕円」には興味あり
太陽系惑星の公転軌道は
どれも程度の差はあれ
楕円軌道を描く
完全な真円は存在しない
何故なんだろう
ヤコビにディリクレを経由し
ガロアが引き継ぎ
リーマンに結びついた
この継承伝は凄いものがあるね
この僅かに10年間で4人もの超人を
生み出した18世紀初頭のヨーロッパ
タイムマシンがあれば行ってみたい
アーベルはこの論文で、ガウスの示唆を継承し、加法定理を一歩進め、等分理論と変換理論を展開します。
このように、アーベルの加法定理を背後から眺めたヤコビの独自の解釈こそが、ヤコビの逆問題と言ってもいいのではないでしょうか。
アーベルの楕円関数論の目的はヤコビとは少し異なり、この逆関数ではなく、楕円積分の変換理論と逆関数の変数分離型微分方程式の積分にありました。
つまりアーベルの逆関数は、変換理論においては有用な補助ツールとして、等分理論では研究の実体にすぎず、”特殊等分方程式の代数的可解性の考察”こそが楕円関数の道を大きく切り開いたとも言えます。
このようにアーベルの等分理論において、解の表示式を具体的に書き下したアーベルの驚くべき独創性こそが、ヤコビやガウスを驚かせたんです。
これらアーベルの真意を継承したのがヤコビの逆問題です。楕円積分の等分理論と変換理論と加法定理は楕円関数の3つの柱とされ、アーベルの加法定理の背後にはヤコビの変換理論が包み込むように構えてたとされます。
以上、リーマンその4のコメントから余計な補足でした。