象が転んだ

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リーマンの謎はコーシーにあり?〜リーマンの謎”3の1”

2020年10月22日 05時54分06秒 | リーマンの謎

 リーマンの論文(1859)が”オイラー積”から始まった事で、オイラーが起点となったリーマン予想だと、いや”リーマンの謎”だと思い込んでしまった。

 勿論、オイラーが発見したゼータ級数や、オイラーが2千年ぶりにこぎ着けた”素数が無限大である”事の証明と、それに不完全ではあったが素数密度に関する研究は、リーマンの謎を解くに十分に繋がるものだと思ってた。
 しかし、その”オイラーの鍵”を使ってリーマンの玉手箱を開けたものの、リーマン謎を解く鍵はそこにはなかった。事実、僅か8Pの論文の序文には、ガウスやディリクレに関する賛辞が、以下の様に述べられている。
 ”ベルリンの学士院が、私を通信会員に迎え入れてくれた栄誉に感謝の意を示すと共に、素数の密度に関する研究報告を表す事が最も適切だと思われる。
 ガウスやディリクレが長い間興味を持っていた様に、この主題「与えられた数より小さな素数の個数について」は、決して不適当ではないと思われます。
 この研究を私はオイラーが調べた積(オイラー積)か始めたい・・・”


リーマンとルイ・コーシー

 と記されてれば、誰だって、オイラーが起点になり、ガウスやディリクレの研究や考察を引き継いでるものだと思うだろう。
 勿論、最近ではオイラーやガウス以上に、ディリクレの算術級数の素数定理やL関数の発見によるゼータ関数の考察が、リーマンの研究に大きく貢献したとされる。
 しかし、リーマンに”複素解析”という最終兵器がなかったらと言えば大げさだが、リーマン予想はおろか、素数定理に関する解析公式(明示公式)も、複素領域にまで拡張したゼータ関数も、そしてリーマン幾何学(1854)も複素積分(アーベル関数)の確立(1857)もなかったろう。勿論、学士論文の「複素関数の基礎」(1851)も存在し得なかったかも知れない。

 つまり、リーマンの謎を語るには、コーシーの複素関数論を抜きには語れない。逆を言えば、コーシーの複素関数論を使えば、リーマンのスケッチの全てを記述する事が可能になると言っても言いすぎじゃない。

 しかし私はなぜ、こんな単純な事に気付かなかったんだろうか?オイラーがガウスが偉大すぎたのか?ディリクレやチェビシェフが天才過ぎたのか?アーベルやヤコビに惑わされ過ぎたのか?
 なぜ、目の前に”フランスのガウス”と称されたルイ・コーシーがいたのに気づかなかったのか?
 今や”複素解析の創始者”であり、”近代数学の父”とも呼ばれるコーシーをである。

 以下、「素数の音楽」(マーカス・デュ・ソートイ著、冨永星訳)から参考です。


コーシーという革命児

 バスティーユが陥落した数週間後に生まれた”数学の革命児”オーギュスタン・ルイ・コーシー(1798-1857=イラスト)は、文字通り革命の申し子だった。小さい頃からひ弱だった少年は身体よりも頭を使う事を好んだ。
 かつて、ジョセフ・ルイ・ラクランジュ(伊、1736-1913)は”あそこに小さいガキがいるだろ?あの子はいずれ我々にとって代わる数学者になるよ”と少年の父親に囁いた。
 しかし、”17歳になるまでは数学は触れさせない方がいい。それまでは文学的才能を刺激し、数学に戻ってきた時、自分の言葉で数学を語れる様になるから”と釘を刺した。

 ラグランジュの助言はそのまま的中した。コーシーの数学的思考は溢れんばかりで、彼の論文は膨大な量に達し、流石の「コント・ランヂュ」は、搭載する論文に枚数制限を課した。
 しかしパリの数学的権威は、”コーシーは抽象的数学に執着しすぎる”と非難した。
 当時26歳のアーベルは、”彼のしてる事は素晴らしいが、気がふれた様に混乱している。しかし、パリで純粋数学を実践してるのは彼だけで、数学者がどうあるべきかを知ってるのもコーシーだけだ”と高く評価した。
 一方で、このコーシーの新しいアイデアに心を踊らせた若き日のリーマンは、ベルリン大の学生仲間との付き合いを遮断し、一心にコーシーの論文を読み耽った。数週間後、仲間の前に姿を表したリーマンは言い放つ。
 ”これこそが新しい数学だ”と。


”虚数”の扉を開いたガウス

 コーシーやリーマンやアーベルを虜にしたのは、当時明らかになり始めてた”虚数の威力”でした。コーシーに関する詳しい自伝は他の機会で述べる事にするとします。

 この”虚数の扉”を大きく開いたのは、やはりガウスだった。
 彼は虚数を複素数という1次元の数直線ではなく、2次元の世界で捉えた。今で言うz=a+biの事で、x軸が実数軸でy軸が虚数軸の2次元の”地図”である。
 しかしこれは危険な賭けであり、ガウスはこの図を公表しなかった。
 というのも当時は、フランス学派が優生で、”数学においては、(直感的な)図よりも公式や方程式が望ましい”とされていた。
 事実、幾何学を数学と方程式に関する純粋な言明にしようとした17世紀のデカルト(仏)は、”(幾何学的)感覚による理解は、感覚による欺きだ”というのが口癖だった。

 しかしリーマンは、”こんな風に物理的な図をはねつけるのは嫌いだ”と、デカルトの考えを否定した。
 同じ様にコーシーも、若い頃は直感に基づき、数学に取り組んでいた。1811年、コーシーは多面体に関するオイラーの定理に最初の証明を与えたが、ある欠陥が見つかった。
 ”図を使うと一見明らかである観念を見落とす危険性がある”と、以来彼は誠実さを求め、公式や方程式に傾斜する。
 お陰で、解析学に厳密性を追求し、現代の解析学の規範を作った。
 同じ様にガウスも、”数は加えたり足したりするものであって、図に描くものではない”と自らを慰めた。因みに、ガウスが修士論文で使ったこの”地図”の事を白状したのは、何と40年程後の事である。


オイラーと虚数

 しかしガウスの地図はなくとも、コーシーを始めとした数学者たちは、関数を実数だけでなく虚数の世界に拡張する事に足を踏み入れてはいた。すると、数学世界の一見無縁に見える部分が虚数により繋がり始めたのだ。
 2乗して−1になる不可解な数である虚数iを関数に入れ始めたのは、オイラーの時代である。
 虚数という鏡の国を旅していたオイラーはある大きな発見をする。それは虚数を挟む事で、指数関数と三角関数が繋がるというものだ。今ではオイラーの公式(eⁱˣ=cosx+isinx)で有名だが、当時は画期的な出来事だった。
 例えば、2ˣという指数関数に実数を入れると急激な右上がりのグラフが得られる。しかしこれに虚数を入れると、オイラーの前に現れたのは、うねる波の様なグラフだった。
 これこそが、今では”音波”とされるsin関数である。

 そこでオイラーは、1つ1つの音の特徴がそれに対応する虚数の係数(大きさ)により決まる事を示した。つまり係数が大きくなり、虚数の地図の北にいけばいく程に音は高くなる。このオイラーの発見により、虚数が数学の風景に音という予想外の世界を切り開く可能性が明らかになった。以降、虚数の研究は伝染病の様に広まっていく。


リーマンとコーシーにとっての虚数

 リーマンは1849年にゲッティンゲンに戻り、博士論文を完成させた。ガウスは友人のエンケ宛に、少年時代に自分が発見した”素数定理”について書き送った、丁度その年でもあった。 
 多分リーマンもこの事は知ってたろうが、彼の頭の中には、”素数の謎”よりも虚数を入れた関数が作り出す奇妙な世界の事で夢中だった。
 一方でコーシーは、オイラーが躊躇がちに足を踏み入れた、この”新たな数学”を厳密な研究分野にしようと本格的な作業を開始していた。
 コーシーはこの”新たな”複素関数の領域でも、フランス数学が従来から得意としてきた公式や方程式に拘った。しかしリーマンは、複素関数をもっと概念的な世界観へと大きくシフトさせる。
 1851年11月に提出した「複素関数の基礎」は、”真の数学的頭脳を裏付けるもので、見事なまでの独創性だ”と、ガウスを驚嘆させた。

 喜び勇んだ若きリーマンは早速、父親に手紙を書いた。
 ”私の将来は明るくなりました。それにもっと早く滑らかな文章が書ける様になれば尚いいのですが、これで人との交流も増えるでしょう”
 しかし、リーマンの将来は現実的に見ても決して明るくはなかった。ベルリン時代ほど心躍るものでもなく、ゲッティンゲンの陰湿な序列社会に失望し、”自分という人間は永久に理解してもらえない”と鬱の発作を起こし始めた。1954年には神経衰弱に陥ったが、ディリクレがゲッティンゲンを訪れるとリーマンの気分は大きく晴れた。


最後に〜コーシーの謎

 何だかリーマン物語になりそうな勢いですが、最後に寄せられたコメントを紹介して締め括ります。
 上述した虚数の世界に基づく複素関数こそがリーマン数学の中枢なんだろうか。
 リーマンは学位論文でコーシーの微分方程式を複素関数の定義とし、コーシーとは異なる見解を示します。その上、リーマン面などを新たに組み込む事で、複素解析の基礎づけと理論的な発展を促した。
 更に、この複素解析を元にリーマン多様体の概念を加える事で、リーマン幾何学の確立に繋げます。
 ベルリン大学でリーマンは、先輩で超新星のアイゼンシュタインと喧嘩したりして、精神的に不安定になったが、コーシーの複素関数論に出会った事で、新たな数学の未来を予見します。
 つまり、リーマンの数学者としての出発点は、コーシーが独自で研究していた複素解析にありました。そしてそれは、リーマンの基本デザインでもあった。

 序盤で述べた様に、リーマン予想はオイラー積から出発しますが、実はコーシーの複素解析が大きな起点と推進力となってました。
 この複素関数においては、先ずはアーベルが受け継ぎ、自らの楕円積分(アーベル関数)に組み込み、その後リーマンが引き継ぎ、アーベル積分(関数)論を確立しますが、それこそがコーシーの複素関数論の完成形とも言えますね。
 アーベルはコーシーに純粋数学の真髄を見たし、リーマンはコーシーに新しい数学の未来を描きます。

 ”複素関数論の創始者”とも言われ、19世紀前半の複素解析の研究をほとんど一人で担ったコーシーだが、アーベルやガロアの論文を紛失するという不可解な大失態を犯します。しかしそれらを差し引いても、超偉大な数学者でした。
 リーマンの謎をコーシーの偉業と結びつけ、これが”コーシーの謎”に繋がるとすれば、新たなリーマンの謎が生まれるかもです。



4 コメント

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渇き研ぎ澄まされた知の欲望 (#114)
2020-10-22 08:21:14
って感じなのかな
論文を一気に読破し理解し
一瞬にして自分の武器にする
リーマンの頭脳は

あるとあらゆる天才数学者の
知の融合体なのだろうか

コーシーからアーベル、そしてリーマンへの知の潮流の音がここまで聞こえそうだ
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#114さん (象が転んだ)
2020-10-22 09:45:55
人は血よりも濃いものを作るといいますが、リーマンは知よりもさらに濃いものを作ったんですかね。
”継承こそが数学なり”というのを地で行く偉大な数学者ですよね。

コメント有り難うです。
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不思議な国のアリス (腹打て)
2020-10-22 16:07:50
ではなくて、虚数の国に魅せられた数学者たちってところかな。
コメント引用してくれて有難う。
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腹打てサン (象が転んだ)
2020-10-22 18:19:04
面白い!
「虚数に憑かれた男たち」で本が書けそうですね(笑)。
こちらこそとても参考になりました。これからも宜しくです。
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