LanguageStyle

■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

初ゴルフ

2008年11月30日 | 放言
 本日、初ゴルフ。どうなることやら・・・。
 結果は散々。なかなか上手くはゆきません。左肩が痛いとの、ドライバーがすべてスライスするのと。golf devoteeにならなければ。8時20分くらいにスタートし、昼をはさんで2時30分過ぎに終了。舎監のため急いで帰宅。ボイラーに火をつけて(火は誰かがすでにつけていた)、近くのゴルフ練習場へ。ドライバーのスライスに関して少し小手先のワザを会得したかもしれない。これまではきちんと当たってもスライスがひどかったのですが、ここで練習した打ち方をすれば、きちんと当たったときにはまっすぐに飛ぶ。意識の持ちようで結構変わるものです。
 

成長へのリズム感

2008年11月28日 | 放言

 「単語が楽しい」「英単語が楽しい」

 生たちがこのように感じるのはどんなときだろうか。Octoberにoctopusをつなげ、octagonにつなげる。octagonからpentagonに行き、hexagonに行く。aidからBand-Aidに行き、pull upからhand brakeに行く。生徒たちがどのような語り口に興味を示すのかはわからない。ただ、ここ最近考えていることは、私自身が楽しいと思う単語の示し方をすればいいのではないかということ。私が楽しんでみせる。私が感じる単語の面白さのひとつを2つ挙げてみたい。ひとつは私たちの日常の世界、つまり日本語の世界に英単語が踏み込んできたときである。

 サッカーの試合、サドンデスまでもつれるというのはそれはそれで面白みがあろうが、そのサドンデスという語自体の意味が英語におけるsudden deathであり、「突然死」であると知ったときの感動はそれをもしのぐかもしれないほどの何かを私に与えてくれる。「リス」と「トラ」が合体するとどのような動物になるのかとかんぐれば、その正体は「リストラ」であり、「トラ」と「ウマ」で得体の知れない四本足の動物になるかと思いきや「トラウマ」というもはや私たちの日常語に成りすましている語であることに気づく。こういった語との私たちの出会いは「リストラ」が社会問題となったり、「トラウマ」という語が活発に自分の周囲で聞かれるようになったりする社会的状況が前提である。状況を指し示す言葉を無条件で与えられ、それを使わざるを得ない世界に生きる私たちはそれらが実のところ何を意味しているのかなどとは改めて考えたりはしない。私たちの日常は慌しいのだ。しかし、英語の学習は慌しい日常の中で足を止める時間を私たちに与えてくれる。言葉の意味について普段よりは高い意識が向く状況を私たちに与えてくれる。

 英単語が楽しい、改め、英語が楽しい。そう感じる2つめの要因は量をこなしたときである。「こなした」というよりは「こなせた」というほうがいい。ある一定の量をスラスラと、ある程度のスピードでこなす。私の場合は音読であったが、それは文ではなく語の単位でもいい。私の場合は単語帳ではなく教科書であったが、それは単語帳であってもいい。とにかく時間との勝負でスラスラとやる。これがひとつの快感だったのである。

 ひとつの決め手は「繰り返すことに喜びを感じられるか」ということである。「繰り返す」ことは一見単調に思えるが、実は繰り返すことは「喜び」に繋がるものだと思う。「繰り返す」ことは同じ作業で退屈に思えるが、実はそれは「自分ができる作業」であり、「充実感を味わえる学習」なのだと思う。繰り返すことに失敗はない。問題集をやったり、テストをやったりすればどうしても「失敗」が出てくる。その失敗を見直し、次は失敗しないようにするというのはひとつの学習方法であり、学習の中心であろうが、英語学習はそれだけではないだろう。失敗のない学習というものを常日頃から積み上げておく必要がある。繰り返しは繰り返すことが前提であるから、結果として失敗することはありえない。唯一の失敗があるとすれば、繰り返すことが前提のはずの繰り返し学習において繰り返すことができなかった場合である。なるほどこれは失敗である。

 何かしらのよい成果を期待するには、俗に言われるように、失敗を繰り返すことに本質があるのではない。成功を繰り返すことにその本質はあるのだ。失敗を成功につなげるという言い方があるが、最初から成功してもいいではないか。失敗しない学習を積み上げてゆくことこそが成果への第一歩である。欲張ってはいけない。かならず失敗するから。欲をおさえて、成功体験を繰り返す。成功するリズムがなければ成長にもリズムは出てこない。

 風呂のお湯がやっとでるようになった。さて、入浴タイム。


迫力抜群

2008年11月16日 | 放言
 ラグビー部が勝利した。花園だ。ルールはよくわからないが、迫力だけは誰にでもわかる。2:00試合開始の10分前にスタジアムに到着。予想外に多い車の数。駐車場所に困った。ルールがわかりませんので試合内容はよくわかりませんでしたが、勝利おめでとうございます。ラグビー部のみなさん。
 試合後、学校へ戻り舎監。ボイラー点火は5時10分。その後、近くのTUTAYAに。『英語の歴史―過去から未来への物語 (中公新書 1971)』(寺澤盾)、『外国人学校―インターナショナル・スクールから民族学校まで (中公新書 1970)』、『数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書 (1925))』を購入。感想は別の機会に。また、DVDを5本1000円でレンタル。タイトルはそれぞれ、『ぼくを葬る』、『チャンス・ボール』、『アメリカン・ギャングスター』、『僕のピアノコンチェルト』、『温厚な上司の怒らせ方』である。最後のはかなりのお茶らけ。来週末に実家のみんなと見ようと思う。
 明日は1年と2年。両方とも文法。1年は不定詞の最後。2年は名詞構文の最後。今回の授業が終わったら復習として授業で扱ったプリント類をもう一回りさせる。授業でみんなと一緒にこなした問題を自分で解くこと。1度やった問題でも正答までの道のりは遠い。何度も同じ思考パターンを繰り返してゆく中で問題パターンになれ、問題の解き方に慣れる。問題を解いてゆくことが英語の力の向上に結びつけばいいと思っている。

手の皮は練習とともに

2008年11月15日 | 放言

 奇数週の土曜日は出講日。土曜日授業は1年2コマ。今、不定詞を扱っている。知覚動詞に使役動詞。原形不定詞がテーマであり、受動態におけるtoの出現がポイントである。説明は次のような手法で行った。

I saw the girl cross the street.
 
 ①意味を推測させる。
 ②英文を4つの単位に分解し、四角で囲ませる。
 ③SVOCを指摘する。
 ④「SはVした」と言い、「OがCするとう状態を」という具合に分析。
 ⑤これを4題ほど繰り返す。

 最初はしっかりと構造を「意識」することが大事だと力説。SVOCという4つに分けられること。「OがCする」という関係が分かること。Cには「原形不定詞(+α)」が来ることを理解すること。基礎の基礎のところは色ペンできちんと意識化することが大切である。

 授業後、提出物の期限を守らないものを職員室に呼んで追加課題を出す。「この日までに」と言われたらその日までに出さなければならない。出せない正当な理由があるならば事前に申し出なければならない。これらは「常識」なのだと説教。2年生には2人ほど何を言っても変わらない生徒がいる。お手上げである。授業中に大声で叱ってもダメ。廊下にて反省させてもダメ。授業後に私のところに呼びつけて話し合ってもダメ。もう手を上げるしかないのか。なぜこんなところで駆け引きをしなければならないのか。無駄な労力のように思う。

 12時30分までが勤務時間であったが、生徒が課題をやりに来るというので6時まで学校にいることに。4時ごろきて6時までかかった。事前にもっと準備してくれば10分もかからない課題である。ただ、本人は熱心にやっているので付き合う気にもなる。課題など眼中にない「野郎」に比べれば月とすっぽん。比較にもならない。

 6時過ぎに学校を出て、最近はじめたゴルフの練習へ。先輩教員に場所を教えてもらった。結構近いところに安いゴルフ場があった。1000円で190球。1球が5円強というのは安い。2000円分購入し、すべてを打った。帰宅した時には10時を回っていた。無我夢中とはこういうことか。よい練習になったと思うが、手の皮がむけた。手袋で左手は真っ黒になったし。手の皮がむけたのは高校野球以来。すがすがしい気持ちになった。

 明日はラグビー部の応援。花園をかけた戦いだ。故障者もちらほらいるみたいで大変らしいが、きっと勝ってくれることだろう。応援後は舎監。朝早めに起きていろいろと準備をしておかなければ。


適温快適

2008年11月14日 | 放言

 英検の一次をパスし、二次を受けるというのでここ最近私のところに面接練習をしに来る生徒がいる。よく頑張る生徒だ。その生徒にとってはおそらく英語はそれほど得意教科ということではないだろう。ただ、英検受験をきっかけに今、がんばっている。検定試験をきっかけにして変わる生徒となるのか。見守っているところである。

 今日の時間割はなかなか忙しかった。

1時間目:なし
2時間目:2年生
3時間目:1年生
4時間目:2年生
5時間目:3年生
6時間目:3年生

 2年生は2時間かけてノート指導。生徒たちがノートをどのようにとっているのかについてこれまでそれほど注意深く見てはいなかった。指導対象になっている文法について説明を行い、練習をさせた後に、各自で色ペンを用いながら整理するように指示。ポイントはどこなのか。口頭での私の説明がなかなか記述されていないものだと実感させていただいた。考え方を言語化する。言語を言語化して理解しようというのは大人の学習。模倣ではなく、論理に焦点を当てた大人の学習である。高校生くらいになるとこのようと大人の学習を推し進めていただきたい。もちろんドリル形式の基礎力養成は欠かせないが、論理をないがしろにしてはならない。1年生は不定詞。3年生は集中力なし。というよりもむしろやる気なし。私のほうも3年生に関しては少しだけしょんぼりしてきた。「こなす」授業になりつつある。

 ところで最近、風呂の中で本を読んでいる。授業の予習をしたりプリントアウトしたブログ記事を読んだり。このとき大事なのは、風呂の温度。熱すぎると汗だくだくになるし、ぬるすぎると風呂から出た後に「風呂に入ったなぁ」という気持ちになれない。寒いのだ。風呂の温度をいい具合にしておく必要がある。

 放課後、3年のある生徒が単語についての相談に来た。「えっ!この時期に?」と思ってはいけない。その生徒は単語を何度も書き、日本語に訳し、英語を読むという作業をしているらしい。この生徒が使っているのはターゲット1900。ステージ2からが覚えられないらしい。私のアドバイスは貧弱。単語帳についての私の考え方を少し述べた後に、「P単」を紹介しておいた。この時期に単語帳を変えることが結果にどのような影響を与えるのかは知らない。何でもある程度、継続すればそれなりの結果は出るはずであることも付け加えておいた。基本的にこの生徒の単語学習は間違ってはいない。書くこと。訳すこと。読むこと。単語を英単語と日本語訳とのやり取りに終始しないこと。単語に文脈とは言わずとも、ネットワークを意識できるような学習法を取ること。今のやり方は決して間違ったものではないということも付け加えてあげればよかったと思う。


強く生きる

2008年11月13日 | 放言

 人は弱い。弱いから強がる。強がるということは本質的には弱いということだ。

「分かりにくい」という言葉。昨日、先輩教員が休んだので私が2クラスまとめて授業を行った。「全然分かりませんでした」とは今日聞いた言葉。休んだ先輩教員に対してある生徒が言っていた言葉だ。「先生、もう一度同じところを授業してください」という言葉。盗み聞きではない。私が目の前にいる状況で、その先輩教員に対して不満を言っているのだ。なんという皮肉だろうか。嫌味と言ってもいい。その生徒の意図するところは明らかである。先輩教員に対して不満を漏らすことで間接的に私に対して不満を言っているのだ。その不満は改善の要求ではなく、否定である。

「分かりにくい」と「分かりませんでした」という2つの表現。「分かりにくい」とは「少しは分かった部分もある」という意味であろうが、「分かりませんでした」は「まったく分かりませんでした」という意味だと取れる。「少しは分かりました」という意味合いはこの言葉にはない。つまり肯定的評価はゼロということだ。

「分かりませんでした」という生徒のことを考えてみたい。昨日行った授業はリーディング、つまり読解の授業である。この生徒にとって「分かる」とは何か。「分かる」とは「訳が書けた」ということを意味するのだろうか。「分かる」とは「英文の構造が理解できた」ということを意味するのだろうか。「分かる」とは「先生の話が面白かった」ということを意味するのだろうか。

昨日の授業。前時において私のクラスは1パートほど先に進んでいた。先輩教員のクラスも一緒に授業しないといけないということで私のクラスですでにやったところをもう一度扱った。

さて、最初に「文法」の問題について考えてみたい。「文法」に関して扱う事柄はあらかじめ決められている。先輩教員が解説プリントを用意して下さっているからだ。したがって英文中のどこをどのように解説するのかについてはほぼ固定されているといってよい。つまり、「文法説明」については私とその先輩教員との間にそれほど差はないだろうと考えられる。

次は「訳」の問題である。「訳」については私と先輩教員との間には多少の差があるだろうと思う。先輩教員はまずはスラッシュ訳的な方法ですばやく全体の意味を確認してゆく。生徒から答えが返ってこなければ巧みなヒントを出して答えの誘導を行う。その誘導により生徒の口からほしい表現を引き出すのだ。その後、文法説明により英文の構造をとってゆくという手法をとっている。一方、私のほうは一文一文解説を加えながら生徒を指名し訳させる方法をとっている。この方法の差が生徒に「分からない」という印象を与えた可能性は考えられる。一文ずつ生徒を指名して訳させるわけだから、当然、答えられない生徒が出ることになる。そうするとこちらが正しい訳を言ってあげるという具合に授業が進んでゆく。授業は停滞する。その停滞が授業からテンポを失わせたのだろう。テンポの悪さが「分からない」という印象につながったのだろう。

次に考えられるのはノートだろう。ノートがきちんと取れたかどうかで生徒の授業への感想は変わってくるだろうということが予想できる。『東大合格生のノートはかならず美しい』という本が売れているらしいが、生徒にとってはきちんとノートが整理できるということが大切なのだ。ノートには英文があり、解説があり、訳がある。教師が口頭で言ったこともきちんとノートに整理されている。ノートは無味乾燥なものではなく、カラフルに色づけされていたほうがやった感が残る。教師の板書がモノクロ一辺倒であれば、生徒のノートもそれに近くなるだろう。色の使用に何かの規則性があればなおよい。私は色に規則性を持たせていない。そこがまずかったのか。この点、先輩教員は何か色に規則性を持たせているのだろうか。もしそうだとしたら、ノートの問題が「分からなかった」という問題を引き起こさせたのかも知れない。ただし、英語科として統一的に決めている記号付けに、名詞節は[ ]のカッコ、形容詞節は< >のカッコ、副詞節は( )のカッコというものはある。私もこのルールに従って授業での解説を行っている。

「分かりませんでした」といった生徒いわく、「みんなに聞いてみてよ。みんな『分からなかった』って言うはずだから」らしい。できるならばこのようなことは面と向かっていってほしい。コースが違うのだから、不利益になることはシステム的にありえないのだから。ただ、そのような不満を聞いていて、つくづく英語教師としての力量のなさを実感した。生徒がそういう感想を持つということは教師としては失格である。人は弱い。私も弱い。いちいち悩むようなことはしないが、このようなことを聞くと疲れがどっと出る。「分かるとは何か」について整理ができていない状況で、「生徒にとって教師の役割とは何か」が整理できるわけがない。「教師の役割」も分からずに教育を行うなんて私はすでに終わっているのかもしれない。どんどん思考は悲観的になる。力量、能力、才能…教師としての資格が問われている気がする。

ところで、話は変わるが、最近の性教育はものすごいと感じた。高校ではここまでしちゃうのね、という感想。ものすごい言葉のオンパレードであった。例えば、こんな言葉こんな言葉。自作のペニスにコンドームを装着する作業を見せる場面もあった。ペニスの皮を下に下げて装着するシーンなどが再現できるように工夫されており、生徒たちからは笑いが起きていたが、果たしてそこまでやる必要があるのか。本当に疑問に思った。講演者には自分が用いている言葉が世間の常識から遠いということを自覚しているのだろうか。私の感覚が世間の感覚とは言わないまでも、「そこまでやっちゃうの?」という感想は私だけのものではないだろう。