LanguageStyle

■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

Don't mind.は新英語?

2007年02月22日 | 記事
「英語はもはや英米人たちだけののもではないのだ。英語はもはや国際語であり、世界中みんなのものなのだ。世界に様々な形で存在する英語はそれぞれ平等なものなのであって、それぞれの形を受け入れる必要がある。よって日本人は自信を持って日本人英語を話せばよいのだ」

国際英語に対する私が持っている印象はこのようなものですが、このような視点に立ったとき、例えば次のような「英語」はどのように扱うのでしょうか。

Don't mind.

「ドンマイ、ドンマイ」と私も中学時代に野球でフライを落としたときなどは言われたものです。しかしこれは一般的には「英語ではない」と考えられています。「英語ではない」という表現は正しくないかもしれません。言い直しましょう。

一般的に日本人が相手を慰めてやる意味で用いる「ドンマイ/Don't mind」は「本来的な英語」では通じないといわれています。「本来的な英語」では「Never mind」というのだ、そうです。「Wikipedia:井戸端/subj/カタカナ表現について」で述べてあることを引用してみましょう。

次に「ドンマイ」です。この綴りを戻せば「don't mind」となり、とりあえず文法的な誤りはありません。しかし、使う場面について日本人は大いなる誤解をしているのです。ベッカムがシュートを放ち、外れたとします。「気にしないで」というつもりであなたは「ドンマイ」と言う。ベッカムは余計に苛立ちます。なぜでしょうか。「don't mind」と耳にすれば英語人は「I don't mind」(どうだっていいよ=どうせ入らないおまえのシュートなんてはじめっから期待してねえよ)と捉えるのです。日本人にとっては「気にしないで」にて省かれている主語が「あなた」であっても、「don't mind」で略されている主語は「I」なのです。つまり、日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです。
(強調は引用者)

最後の記述に注目しましょう。「ドンマイ」を「慰め」の意味で日本人が使っていることに対して、「日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです」と批判的な見解が述べられています。ここで「本来的な文法性格」という表現が使われていることにも注目したいと思います。私も先ほど「本来的な英語」という表現を使いました。私が使った「本来的」の意味は「イギリス英語(アメリカ英語)」を指しているわけですが、先の文章におけるそれもそのように捉えてよいのではないでしょうか。

このことをどのように考えるのかについて述べたいと思いますが、私自身は一応は「間違いだ」と言わざるを得ないのではないかと思います。なぜかといえば、英語はわれわれの言語ではないから。つまり「ドンマイ」を日本人に対して日本語として使う分には問題はないだろうと思うのですが、英語話者に対して使えばコミュニケーションが破綻する可能性があると思うわけです。

もちろんこのようなことはたいした問題ではなくて、相手に「日本では「ドンマイ」に「慰め」の意味を与えているのですよ」と説明してあげれば済む問題でそこから何か新しい話題が見つかるかもしれないという意味では「ドンマイ」と言ったってたいしたことはないと言えますが、問題の本質は別のところにあります。つまりこのような例は無限とまではいかなくとも、数多く存在するということです。一つ一つ説明していてはコミュニケーションが成り立たなくなるのは明らかです。一般に「カタカナ英語」と呼ばれているカッコつきの「英語」にどう対応するのか。

国際英語という視点からは、このように一見すると「間違いだ」と判断されるようなカッコつきの「英語」にどのような対応をとるのでしょうか。これも「立派な」日本人英語なのだ、自信を持って使っちゃえ、と言うのかどうか。

それとも国際英語という視点では「発音」のみに許容範囲をおいて、語彙や文法などは母語話者が話す英語の規則に従うべきだと考えるのかどうなのか。そこらあたりがあいまいなままでは「国際英語の視点を授業に」と言われても「ウーン」という感じになってしまいます。世界に様々な英語が存在することを受け入れたとしても、その状況をどのように捉えるのかについてはいろいろな考え方があると思います。みんなばらばらの英語を話せばよいという考え方を受け入れたとしても、どの程度までというその許容範囲の問題になるとひとそれぞれいろいろな考え方があるのではないかと思います。

英語を学ぶ目的の一つに「国際社会におけるコミュニケーション」があるとするならば国際英語という問題にも一応のケリをつけたいところです。学校でなぜ英語を学ぶのか、他の言語の扱いはどうするのかという議論もしなければなりませんが、どの英語を学ぶべきなのかという問題もまた興味深いところではあります。

ただ今思っているのは、英語の雑多性を強調しすぎると、英語を学ばなければならないと主張する人たちの根拠の一つである「世界における英語の通用性」がぐずれる可能性があるということです。現地で「英語」だといわれている言語がわれわれの基準ではもはや「英語ではない」代物になりかわってしまうことだって考えられるわけです。

日本人のカタカナ英語であっても「英語ではない」と批判されるわけですからね。

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英語の時代:日本人英語

2007年02月20日 | 記事
 Englishに複数形はありませんよ
 私も含めて一般的日本人の英語学習は中学校に入った段階からスタートする。最近では小学校でも「英語活動」がと入れられてはきているが、それらは「活動」という中途半端な名前からもわかるように、一種の「お遊び」と見てよい。よってここでは一般的日本人の比較的落ち着いた英語学習は中学移行に始まるものとして論じる。
 われわれは中学校の授業を受け始めて何時間かすると「English」という単語を学ぶ。そしてそれからもう何時間かすると単語の単数と複数を学ぶ。その後、冠詞のaや複数のsなどを一応に学び、waterやmoneyなどの数えられない名詞を学ぶ。わたしが教わったときは「言語」もこの中(付加算名詞)に入っていたと記憶している。考えてみれば分かるように「日本語が一つ」、「日本語が二つ」とは言わない。「韓国語が一つ、韓国語が二つ」とも言わない。
 もちろん、ある言語内には「違い」はある。例えば日本語は日本語でも、九州のそれと東北のそれとでは一般人の話し言葉には違いがあるだろう。しかしそのような現象は一般には「方言」や「なまり」などと呼ばれるわけであって、日本語がいくつあるかと言った話題にまでは発展しない(「方言」と「なまり」の間にも明確な違いがあるが、ここではそれは問題にしない)。言語にはある民族の統一性を象徴するという性格がある。統一ならば二つも三つもあっては困るのである。
 しかしわれわれは英語を相手にしたとき、この前提ともいえる認識を改めなければならないことを自覚する。英語だけはその複数形を認めなければならない現実が世界に存在するのである。本名信行の『世界の英語を歩く』(集英社新書、2003)の目次には「ヨーロッパの英語」「アフリカン・イングリッシュ」「インドの英語」「マレーシアの英語」「シンガポールの英語」「ブルネイの英語」「フィリピンの英語」「中国、台湾、韓国の英語」「アジアの英語」「アメリカ英語」「カナダの英語」「イギリスの英語」「オーストラリア英語」「ニュージーランドの英語」というさまざまな英語を思わせる表現が並んでいる。英語が複数形で呼ばれる所以はここにある。英語はアメリカ人だけが使うのではない。イギリス人だけが使うのではない。英語は世界で使われる言語なのである。その意味で学校の先生も「英語に複数形はありませんよ」などと呑気(のんき)なことは言っていられなくなってしまったのである。上の図は本名信行氏の『アジアの英語』(くろしお出版、1999)に紹介されていたものである。参考までに見てみるとよいだろう。


 世界諸英語
 世界には英語が複数形で存在する現実があることは今確認したが、専門家はこの状況を「世界諸英語(World Englishes)と呼んでいる。World Englishesという理念を最初に提唱したのはB・B・カチュル Braj B. Kachru という人物であるという。斎藤兆史(よしふみ)氏の『これが正しい!英語学習法』(筑摩書房、2007、125頁~126頁)には次のようにある。

「世界英語」という理念を最初に提唱したのが旧植民地出身のB・B・カチェルという学者であったというところが重要です。つまり、自分たちの言語文化を奪われた植民地の人たちの立場からすれば、宗主国への恨みつらみを含めて「この言葉はもはや宗主国の占有物じゃない。私たちみんなのものだ」というしかない。イギリスにしてみれば、どんな形であれ英語が世界に広まればその本家本元として大もうけできますから、「そのとおり、みなさんのものです。どんどん英語を使いましょう」と言う。


 今や英語は「世界語」や「世界共通語」「国際語」「国際的共通語」などという名で呼ばれるまでにその重要性が強調されている。英語は英語なのであって、これらの呼び名にはそれぞれ問題があるが、英語の重要性が強調されているという現実はきちんと受け止める必要がある。
 英語史を少し見てみればわかるように、数百年前までは英語の勢力など問題にならないレベルであった。例えばシェイクスピア William Shakespeare の時代(1564-1616)には全世界にその母語話者は500~600万人程度しか存在していなかった。しかしこれが1952年の調査では2.5億人と推定され、50倍にも膨れ上がっている(石黒昭博、『現代の英語教育法、2003)。最近の調査では3億人を超えた数字が出されるまでになっている(WIKIPEDHIA)。
 母語として英語を使う人、第二言語として英語を使う人、外国語として英語を使う人。英語とどのような係わり合いを持っているのかを大別すればこのような3つのタイプに分けることができる。母語として使う人の数であれば中国語(数え方には問題があるがここでは触れない)やスペイン語、ヒンドゥー語やアラビア語なども負けてはいない。いや日本語の1億2千万人でもたいしたものである。しかし英語以外の言語の重要性はそれほど声だかには聞こえてこない。なぜだろうか。
 英語がその力を発揮するのは実は母語話者よりも第二言語や外国語として使う人によるところが大きい。インド、フィリピン、ガーナ、ナイジェリアなどでは英語は国の公用語として機能している。日本や韓国などは外国語として英語と係わり合いを持つ国である。
 言語には深く狭く使われるものと、薄く広く使われるものがあるのだろうか。いやそれは言語の特徴ではなくて、われわれがどのように使うかという問題である。英語の母語話者は英語を深く使っているだろう。しかし英語の力は薄く広く使われるところにある。野球で言えば4番タイプの巨人ではなく、俊敏性・機動力の野球だろう。世界各地をキビキビと動き回っている、そのような印象である。俊敏性・機動力野球といえば広島カープだが、カープは最近弱すぎて困る。新しい球場が完成するというのに、ここまで低迷した野球を続けていてよいのだろうか。カープは江藤といい、金本といいよい選手を育てては他球団に持っていかれるという特徴がある。選手育成工場でよい選手が育てばそれを他球団に高値で売るということを商売にしているのかもしれないが、自球団がもう少し勝てるような戦略を立ててほしいものである。これは余談であった。


 植民地化による英語の普及
 英語の話に戻ろう。英語の力が薄く・広く使われるところにあるとすれば、英語はなぜそのような使われ方をするようになったのだろうか。英語は言語としてわりかし簡単だという理由で世界のあちこちで使われているのだろうか。英語がなぜ世界にこれほどまでに普及したのか、その答えはすでに出ている。
「植民地政策」
これが答えである。
 そもそも英語の歴史は侵略の歴史だと見てよい。英語の歴史は5世紀にアングル人やサクソン人がブリテン島に侵出し、ケルト系住民を西北に押しやって定住したところから始まる。英語の歴史が侵略の歴史だという意味は英語自体も侵略されかけたことを含んでいるが、19世紀から20世紀あたりの帝国主義が跋扈していた時代は英語が他の言語を飲み込んだ時代だと見てよい。上の図はウィキペディアに載せてあったものである。これはピンク色の地域が1921年当時にイギリスが植民地にしていた地域である。全世界をまたに掛けていることがわかる。もちろん当時はポルトガルもオランダも、フランスもドイツもそれぞれ植民地を持っていた時代である。日本でさえも韓国や台湾、東南アジアの地域を植民地にした時代であることを忘れてはいけない。しかし日本は言語までも奪うことはしなかった(韓国や台湾における日本語教育の実態は存在するが、現地語が消滅するまでのことはしていない)。しかし英語の場合は・・・である。オーストラリアの事例を見てみよう。
 オーストラリアは現在では「英語圏」の一つとして数えられている。しかし1788年に白人が入植をはじめるまではオーストラリアは英語圏ではなかった。それまでオーストラリアには30万人以上のアボリジニーたちが暮らしていたが、1901年に連邦政府が置かれて初めて行なわれた国勢調査ではアボリジニーの数は約6万人にまで減少している。オーストラリアの原住民語に詳しい角田太作氏はホームページの中で次のように語っている。

オーストラリア原住民語はイギリスによる植民地化が始まっていらい、抑圧と衰亡の歴史を辿って来た。


 オーストラリアの言語は白人入植当時、多く見積もれば700、少なく見積もっても200程度の数存在したという。しかしそれがすでに100ほど死滅し、現在さらに100ほど死にかかっており、子供たちによって学ばれているのは20ほどでしかないという(フィッシャー、スティーヴン・ロジャー、2001、『ことばの歴史』、研究社)。一説によればオーストラリアの言語は1年に1言語の速度で消えていっているという。これらが「全て」英語のせいだと言い切ることはできないが、英語がまったく関係ないともいえないだろう。
 現在、英語は世界中で使われており、英語に全く触れることなしに人生を終える人というのはほんの一部のように思われる。しかし英語が現在の地位に至る過程には侵略の歴史、植民地の歴史がその中央にドスンと居座っていることを忘れてはならない。英語は簡単だから世界に広まったのだという馬鹿げたことを言う人がたまにいるが、認識不足にも程々にしてもらいたい。

 学ぶのはどこの英語?
 今見たように、英語の人気の裏には暗い過去がある。そのことを踏まえた上で、世界にはさまざまな英語が存在していることを理解しなければならないが、日本人が英語を学ぶ際、最近よく聞く問題に「どの英語を学ぶのか」というものがある。先ほど紹介した図を見てもわかるように、世界にはさまざまな英語がある。ある人は英語は母語話者の手を離れたのだというが、母語話者は現に存在するわけだから離れたというよりは別の英語が生まれたのだと捉えるべきである。世界にさまざまある英語は特に発音、語彙の面に際立った特徴が現れているようだが、中には文法に関しても独特なものがあるようである。新しい英語が生まれたとすると、日本人の英語学習にとって一つ重要な問題が生じる。
 「どの英語を学ぶのか
 英語学習のモデルをどうするかという問題である。
「英語は母語話者だけのものではありませんよ。英語は第二言語話者のものでもあるし、外国語話者のものでもあるのですよ。英語は今やわれわれの言語なのです」
 このように言ってみたとき、問題の「われわれ」とは「誰」のことなのだろうか。日本人が学んだ英語とは誰の英語なのだろうか。それは日本人の英語なのか。それとも彼らの英語なのか。


 国際英語との折り合い
 現在、雑誌『英語教育』の中で「国際英語の視点を授業に」という特集が組まれている。1月号、2月号、3月号とこれまでに3本の記事が記載されたが、今後どのくらい続くのかについては知らない。2007年1月号では世界の言語政策に詳しい河原俊昭氏が「「何を」「どう」教えるか」という題で論を展開している。まず河原氏は次にように問いかける。

ネイティヴスピーカーが最高の教師なのか。


 このような問いかけをする裏には「ネイティヴスピーカーが最高の教師だとは言えない」という思いが隠れている。河原氏は国際英語の視点からネイティヴスピーカーに対する信仰を明らかにしようとしている。

ネイティヴスピーカーが何でも最高というネイティヴ信仰は、一般の人、生徒・学生たち、またその親たちの間では根強い。実は我々英語教師の間でも根強いのではないだろうか。国際英語の理念とは、このような信仰に対して、警鐘を鳴らすものである。


 もっとはっきりとした形で国際英語の視点を紹介しているのは第二回目の日野信行氏である。日野氏はまず国際英語に対する3つの視点・解釈を次の3つに整理している。

①多様な英語
②中立的な単一の英語
③人工的な英語

 日野氏も支持するWorld Englishesの英語とは①の多用な英語を受け入れるという態度である。②の中立的な単一の英語とはいったい何を指すのかよくわからないが、本多勝一氏が「英語をイギリス語と呼ぶ」ことを主張したことを思い出せば中立的な英語という主張が意味不明であることがよくわかる。③の視点は鈴木孝夫氏のEnglicを思い出させる。
 それはさておき、このような「多様な英語」の視点に立つとき日野氏は日本人学習者に対する日本人教師の存在を次のように語っている。

英米語の教育ではん、教員は母語話者が理想とされ、日本人教員は二番煎じのような扱いを受けるが、国際英語の教育では、主役は日本人教員である。Japanese Englishの良き例を生徒に示すことができるのは日本人教員であり、わが国の教育風土を熟知しているのも日本人教員なのである。


 「主役は日本人教員である」と言われれば聞こえはよいがこれは一体何を意味するのだろうか。日野氏は「「国際英語」教育では、非母語話者のみならず、母語話者も学習者である。英語による異文化コミュニケーションを円滑に行うためには、母語話者の側にも教育が欠かせないのである。」と述べているが、母語話者の側にも欠かせない教育とは具体的にはどのようなものをいうのであろうか。


 英語のモデルは日本人英語?
 最初に紹介した図を見ればわかるように、英語は複数形の時代に入っている。図をしっかり見ればそのなかに「日本人英語」も数えられていることがわかる。国際英語の立場から言えば、日本人英語も立派な英語であり、その他の英語と対等な存在であるということだろうか。日野氏によれば、国際英語の視点では日本人英語は英米の英語を学び損ねた結果ではなく、日本人にとってもっとも好ましい英語であるのだという。

これは決して、母語話者の英語を習得するのが困難だから日本的な英語で妥協するという消極的な姿勢ではない。むしろ、英米語は日本人の国際コミュニケーションの手段としては適さないと考え、「良い日本式英語」のほうが理想であると見なすのである。


 ただ私が納得がいかないのは、「日本人英語」とはいったい何を指すのかはっきりしないことである。「良い日本人英語」があるならば「悪い日本人英語」もあることを思わせるが、それがいったい何のことであるかは闇の中である。
 学校で英語を教わるとき、日本人学習者のモデルは日本人教師であることは言うまでもないが、その日本人教師のモデルは誰なのだろうか。国際英語の視点ではその日本人教師のモデルはその日本人教師自身なんだ、胸を張れ、というわけであるが、その教師が持っている英語が日本人英語であるという保障はどこにあるのだろうか。日本人が使う英語が日本人英語なのだと開き直ればそれまでだが、日本の教師は英語を「教える」主体ではあっても「使う」主体ではない。彼らの英語が日本人英語を代表するものだといえるのだろうか。
 なぜアメリカ英語やイギリス英語がモデルであってはならないのか私には今のところ納得のいく説明が得られていない。ネイティブ信仰と言語学習は切り離すべきだが、信仰という極端な議論を持ってネイティブスピーカーたちを無視しても良いのだろうか。アメリカ英語を学び、それを日本人が使う。そこで現れてくる特徴が日本人英語なのだと考えればよいのではないか。「日本人英語を学ぶ」という言い方にはあたかもそこにはっきりとした形で日本人英語が存在するのだという前提があるように思うが、それは幻想ではないか。
 なるほど日本人が日常的に英語を使っているのであれば話は別であるが、英語を日常的に使うには日本語を捨てる必要がある。残念ながら日本人には日本語で事が足りる環境が現に存在している。英語は本当に日本人のものなのかどうかよく考えてみる必要がある。
 日本人英語は日本人が使う英語に現れる特徴を言い表す表現であっても、学ぶ対象ではないのではないだろうか。

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英語熱の行方

2007年02月18日 | 記事
 日本の英会話教室
 世間の英語への期待は大きい。どのくらい大きいのかについては一言では言い表すことはできないが一つの例として英会話学校の存在が挙げられる。矢野経済研究所が出した『語学ビジネス徹底調査レポート 2006』では、2005年度の語学ビジネス市場(語学スクール、語学学習教材、周辺ビジネスの合計)について、対前年比0.9%増の6383億4000万円という数字が示されている。上の図は近年の語学ビジネス市場の推移を表したものである(矢野経済研究所が作成)。
 英会話教室の数についても少し紹介しておこう。英会話教室は政府の統計資料ではでは他の言語も含めた外国語会話教室の中で扱われている。経済産業省は毎年「特定サービス産業実態調査」という報告書を出している。「平成17年特定サービス産業実態調査」によれば外国語会話教室を営む企業は1144企業であった。外国語会話教室に関する調査は平成9年、平成14年、平成17年の3度行われているが、企業数から見れば調査が行われるごとにその数を減らしている。しかし年間売上高は調査をするごとに増加している。次の表は外国語会話教室の企業数とその売り上げ、さらには外国語会話教室で取り扱われている各言語の割合を整理したものである。
 図を見ても、表を見ても語学産業は全体として成長してきていることが分かる。しかしこのまま順調にゆくがどうかは分からない。需要があるところに産業が成り立つことを考えれば、それは日本人の心がどのように揺れ動くのかが大きく影響している。


 英語教育のために移民したい
 話はそれるが、お隣韓国の英語に対する期待を少し見てみよう。2006年3月31日付けで朝鮮日報に「韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」」という記事が載せられた。記事はインターネットで閲覧することができるが、全文を引用してみよう。

韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」

 国民4人中1人はチャンスがあれば外国に「教育移民(子どもの外国語教育のために家族が外国に移民すること)」したいと答えたと東亜(トンア)日報が報道した。

 31日、東亜日報が実施した世論調査の結果によると、「チャンスがあれば教育移民、早期留学、キロギアッパ(早期留学のため外国に住んでいる家族のため韓国で単身働く父親)をしたいと思うか」という質問に、回答者の25.2%が「教育移民」、21.8%が「早期留学」、12.0%が「キロギアッパ」をする意思があると答えた。

 このような傾向は小中高校生の親が最も強く、小中高校生の親の32.6%が「教育移民をする考えがある」と答え、早期留学(28.9%)、キロギアッパ(15.5%)を望む親も多かった。

 「家族や親戚の中に子どもの教育のため移民、早期留学、キロギアッパをしている人はいるか」という質問に「教育移民に行った人がいる」という答えが18.5%、早期留学は16.4%、キロギアッパは11.1%だった。

 この新聞はまた、小中高校生の80%が英語と関連した私教育を受けているとした。比率は小学生84.6%、中学生88.4%、高校生64.9%と、中学生が最も多かった。英語の私教育にかかる費用は年平均248万ウォン、月平均20万ウォンだった。


 お隣韓国の英語熱は相当に高まっていることが分かる。人口5千万として計算すると、なんと韓国では1250万人の人が英語のための移民を望むということになる。韓国の親がどのような教育を自分の子に受けさせようとわれわれには基本的にはわれわれには関わりのないことだが、この数字に真実味があるのかどうかについては興味があるところである。調査の方法に何かしら問題があるのではないかとも考えたくなる数字であるが、この英語に対する情熱は現実世界のものになっているようである。


 雁のパパ
 日本の英語熱については後で論じるが、今見た韓国の状況を伝える新聞記事を目の当たりにしたとき、私はこれを卵の例を持ち出してたとえ話をせずにはいられない。つまり韓国の英語熱がゆできっているせいで、日本のそれは半熟にしか思えないということである。先の新聞記事以外にもそう思わせる話はいくらでもある。
 あるとき、インターネットであるサイトを覘いているとWashington Post紙に"A wrenching Choice" というタイトルの記事が存在することを知った。その記事がまさに韓国の英語熱がすでにゆであがったゆで卵であると思わせるものであった。 記事の内容を簡単に紹介しよう。
 それは韓国のある家族についての話である。父親、母親、娘、二人の息子の5人家族。どんな親も自分の子供には幸せになってもらいたいと思うものである。そのため子供によりよい教育を受けさせようとするものだが、この両親も負けてはいない。あるとき、自分の子供にアメリカで教育を受けさせることを決意する。子供だけアメリカに送るわけには行かないため、家族で行こうとするが父親には韓国での仕事がある。そのため母親と子供だけがアメリカに渡り、父親は韓国に残る。
 記事によれば、家族はすでにそういった生活――父親不在の子供、夫不在の妻――を1年続け、あと9年間続ける計画であるという。家族は父親が家族の元を訪れるという形での再開をたまに行うだけである。
 「キロギ・アッパ
 これがそのような父親に名づけられた呼び名だという。これは最初に紹介した新聞記事にも出ていたと思う。韓国語で「キロギ」は「雁(ガン)」を意味し、「アッパ」は「父」を意味する。渡り鳥のように家族と韓国の間を往復することに由来している。
 今、韓国ではこういった家族が増えてきているのだという。記事では2002年に約1万人の学齢児童が海外での教育を受けるために韓国を去ったことを紹介している。
 記事は子供のほうが学校の授業などに合わなくて、グレてしまい、アメリカでの教育をあきらめて韓国に戻った話しも紹介されている。また父親の孤独についても触れられている。家族がいなくなって、小さな家に引っ越した例、食事がファストフードや冷凍食品偏ってしまい肥満になった例、中には自殺してしまった父親までいるという。
 このような状況は現在の日本ではまたそれほど聞かない。メディアが報道していないだけなのだろうか。もうひとつ韓国で起きた話題に触れてみたい。


 舌を切る子供たち
 「舌切りスズメ」の話の中で、意地悪なおばあさんがスズメの舌を切ってしまう場面があった、と私の不確かな脳は記憶をしているが、韓国では一歩進んで「自ら」舌を切る人が出てきているという。「自ら」とは言っても親が自分の子供の舌を切る手術を受けさせるわけである。この手術については日本のテレビなどでも取り上げられたことがあるというから知っている人も多いかもしれない。
 2003年に韓国で『もし、あなたなら~6つの視線』という映画が製作された。これは韓国人権委員会という団体作ったものだというが何をしている団体かはよく知らない。映画の中には「人権」に関する六つのエピソードが盛り込まれている。その中の一つがまさに子供の舌を切る話である。今のところ、私自身この映画を実際には見ていないためどんな内容なのか断言はできないが、話のあらすじが映画の公式ホームページに紹介してあるのでそれを引用する。なお、舌の手術を扱っているエピソードは四番目で、そのタイトルは「神秘的な英語の国」というものである。

1998年の冬、ソウルにある名門英語幼稚園でクリスマス会が開かれている。6歳のジョンウは両親の期待にこたえ、英語の発表会で上手に歌っている。だが、ジョンウの母親は少しがっかりしたようだ。息子の発音が他のネイティブの子どもほど完璧ではなかったからだ。それから三年後、ジョンウは小児歯科の手術台の上に横たわっていた。痛みは避けられないが、RとLの発音が上手になるよう手術が行われた。母親が期待したようにジョンウの未来は輝かしく、素晴らしいものになるのだろうか?


 番組ホームページによればこの手術の場面には実際のドキュメンタリー映像が使われているという。人権団体が製作者であることを差し引いても「舌の手術」が現実に行われたことは間違いない。
 この話題からは韓国人も日本人と同じようにRとLの発音を苦手にしているらしいことが伺えるが、問題の本質は別のところにある。このような手術をバカバカしくおもう親がいる一方で、日本の親の中にも「発音が良くなるなら、我が子にも・・・」と考える親がもしかしたらいるかもしれない。世界は広いし日本も広い。
 ただこの手術についてひとこと言えば、手術自体の効果はないということである。専門家によればこの手術には実質的な効果はないとみているらしいことは確認しておかなければならない。


 日本の英語熱
 今見てきたような韓国の事例を目の当たりにすると、日本の英語熱はまだ半熟状態だと思わざるを得ない。日本の英語熱はどのような形で表に現れてきているだろうか。韓国のように舌を切ったり別居したりという話はまだそれほど聞かないところを見ると、「韓国の英語熱>日本の英語熱」ということが一応は言えるかも知れない。日本人は「熱しやすく冷めやすい」としばしば言われるが、英語についてはどのような反応を見せるのだろうか。この先、ますます温度を上げてゆくのか、それとも一応の冷静さを取り戻すのか。注目してゆきたい。

以前紹介した「韓国の英語熱:海外逃亡!」(2007年02月05日)もあわせてみていただけるとよいと思う。

[参考]
  • 『語学ビジネス徹底調査レポート 2006』概要(矢野経済研究所)
  • 「外国語会話教室の概況」(経済産業省)
  • A Wrenching Choice(washingtonpost.com、2005/01/09)
  • 教育のため 別居選ぶ韓国人(読売新聞、2005/12/06)
  • 韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」(朝鮮日報、2006/03/31)
  • 韓国「大脱出」:加熱する早期留学(上)
  • 韓国「大脱出」:加熱する早期留学(下)
  • 韓国映画『もし、あなたなら~6つの視点』 エピソード4 神秘的な英語の国
  • 「英語発音良くするため舌の手術が流行」(朝鮮日報、2002/01/01)
  • 「英語を正しく発音できるようにと、子供に舌の手術を受けさせる親たち。先ごろ韓国で問題となったこの事件の背景には、過熱する英語競争があります。」(NHK、2005)
  • 「英語の発音をよくするために子供の舌を手術!仰天!ママの行き過ぎた英語教育」(All About、2003)
  • AP:“Tongue Operations” Popular in Korea for English Education(朝鮮日報、2004/01/02)

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  • 韓国の英語熱:海外逃亡!

    2007年02月05日 | 記事
    韓国では以前、英語教育のために子供の舌を切る親がいるということがありました。そのあたりのことは「英語発音良くするため舌の手術が流行」(朝鮮日報、2002/01/01)で確認できますし『もし、あなたなら~6つの視点』という映画の中に収められている「エピソード4 神秘的な英語の国 」でも確認できるようです。(←この映画、私は見ていませんが…)

    そのような韓国ではいま、早期英語教育のために韓国を脱出する人が増えているようです。朝鮮日報(on line)に次のような記事がありました。

    韓国「大脱出」:加熱する早期留学(上)

     「脱韓国」教育を目指す早期留学生たちが急増している。地球のあちこちに韓国の小・中・高校生たちがあふれている。早期留学(を)させる家庭の所得層も広がり、成功例と共にその副作用も目に付くようになった。成功が保障されているわけでもないのに、なぜ競って韓国を脱出しようとするのか。朝鮮日報は教育シリーズ第1部「創意力教育の現場」に続き、早期留学の実態と成功・失敗についてレポートする第2部「海外取材、爆発する早期留学エクソダス(大脱出)」を掲載する。

     京畿道一山新都市に住むキムさん(40)は2004年に中学2年の娘と小学1年の息子を連れ南アフリカ共和国へ渡った。早期留学にふさわしい場所だと考えたためだ。アメリカやカナダは費用が高く、中国は危険な気がしたという。キムさんは「アフリカは遠すぎると思い、初めは悩んだが、生活費と学費を合わせても月350万ウォン(約45万円)で“アフリカの中のヨーロッパ”と言われる南アフリカのイギリス式教育を受けることができ、今は満足している」と語った。

     キム・ボギョンさんは高校1年生だった2005年7月、南太平洋のフィジーへ発った。「イギリス式教育制度がありながら遊興文化はなく、勉強に専念できる」と親が勧めたためだ。現在フィジーには早期留学生約400人を含め、韓国人が約1000人住んでいる。キムさんは「両親や韓国人の友達が懐かしいが、水泳・ゴルフをして楽しく過ごしている」と話す。

     グローバル時代に英語1つきちんと教えられない教育、優秀な学生を下のレベルに合わせる平準化教育、家計を圧迫する私教育費、すぐに変わる入試制度、時代の変化についていけない公教育…。

     韓国の教育に絶望し、韓国を離れていく早期留学生たちは、今や世界も狭すぎると考えているほどだ。子供をグローバルな人材に育てるため、アメリカ・カナダ・オーストラリアなど、すでによく知られている早期留学先のほかにも、東南アジア・アフリカ・インド・南太平洋・南米など全世界に飛び出している。

     中学1年だった双子の姉妹を1年前からインド南部・チェンナイのインターナショナルスクールに通わせているイさんは「子供は英語・フランス語・ヒンディー語を学んでいる。学校は定期的に子供たちの生活について報告するなど、徹底的に管理してくれる」と話す。同様に小学生と中学生の兄妹を南米エクアドルに留学させたチャさんは「スペイン系国際学校を卒業したら、英語・スペイン語・フランス語を話せるようになる。アメリカやヨーロッパの大学に進学させるつもり」と語った。

    特別取材チーム
    [ 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 2007/02/04 07:01 ]


    韓国「大脱出」:加熱する早期留学(下)

     さまざまな国や地域で韓国の早期留学生が爆発的に増える中、現地では以前にはなかった新しい現象が続々と生まれている。

     マレーシアのチェンパカ・インターナショナルスクールは今年1月の新学期から韓国人学生のための「2カ月事前体験プログラム」を新たに設けた。マレーシアでは初めてのことだ。学校生活を2カ月間体験した後、通学を続けるかどうかを決めるものだ。このプログラムは韓国人保護者らが学校側に要請し、実現したという。

     また、アメリカ・イギリス・ニュージーランドなどでは、韓国人学生の増加に伴い、韓国人コンサルタントを採用する学校も増えている。全校生徒3500人のうち、韓国からの早期留学生が約600人いるというニュージーランドのランギトト・カレッジもその1校だ。2004年から同校のコンサルタントとして働いているキム・ヘジョンさんは「滞在6カ月過ぎくらいからの生活を不安なく過ごせるようにサポートするのが私の役目」と話す。

     ところで、こうした早期留学ラッシュにより、東南アジアやアメリカの不動産業界もざわついている。フィリピン・マニラには早期留学生や語学留学生が押し寄せ、マンションの売買価格や家賃が急上昇している。マンダルヨン市にある30坪のコンドミニアムは2年で家賃が2万ペソ(約4万9000円)から3万ペソ(約7万4000円)へと50%も上がった。ソウル市江南のような高級住宅地マカティをはじめ、アラバン・オルティガスといった韓国人の集まる地域は、家賃がここ数年で約30‐50%上昇した。パラニャケで不動産業を営むイ・ジェヒョンさん(50)は「広くてきれいで現代的な家はすべて韓国人が押さえているため、物件があまりない」と言う。

    特別取材チーム
    [ 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 2007/02/04 07:02 ]


    この記事のほかにも、

    韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」」(朝鮮日報、2006年3月31)
    教育のため 別居選ぶ韓国人」(読売新聞 2005年12月6日 )
    Phuong Ly, 'A Wrenching Choice', Washington Post (on line), Sunday, January 9, 2005

    などを読んでみるとより韓国の状況を把握できるでしょう。早期英語教育の問題をどのように考えるのかについて私はそれ自体には否定的な考えを持っていますが、「自由」社会である韓国や日本では「親」が自分の「子供」にそのような教育を受けさせたいと思えばそれを止めることはできません。

    早期英語教育が子供の幸せにつながるのかどうかは一概には言えませんが、英語ができることと幸せであることは全く無関係であると言うことはできるでしょう。『レイコ@チョート校―アメリカ東部名門プレップスクールの16歳』という本は面白く読ませていただきましたが、この著者のように海外での生活を楽しみ、将来へのはっきりとした目標をもって生きていると言うのは、早期教育云々にかかわらず幸せそうに思います。

    広島市では来年度から小学校英語(広島市の独特なカリキュラム)が研究校(パイロット校)で行われます。全国的にもますます広がりを見せると思われる小学校英語はどのようになってゆくのでしょうか。果たして小学校英語は日本人の幸せにつながるのか。これからも考えてゆきます。

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