「英語はもはや英米人たちだけののもではないのだ。英語はもはや国際語であり、世界中みんなのものなのだ。世界に様々な形で存在する英語はそれぞれ平等なものなのであって、それぞれの形を受け入れる必要がある。よって日本人は自信を持って日本人英語を話せばよいのだ」
国際英語に対する私が持っている印象はこのようなものですが、このような視点に立ったとき、例えば次のような「英語」はどのように扱うのでしょうか。
Don't mind.
「ドンマイ、ドンマイ」と私も中学時代に野球でフライを落としたときなどは言われたものです。しかしこれは一般的には「英語ではない」と考えられています。「英語ではない」という表現は正しくないかもしれません。言い直しましょう。
一般的に日本人が相手を慰めてやる意味で用いる「ドンマイ/Don't mind」は「本来的な英語」では通じないといわれています。「本来的な英語」では「Never mind」というのだ、そうです。「Wikipedia:井戸端/subj/カタカナ表現について」で述べてあることを引用してみましょう。
(強調は引用者)
最後の記述に注目しましょう。「ドンマイ」を「慰め」の意味で日本人が使っていることに対して、「日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです」と批判的な見解が述べられています。ここで「本来的な文法性格」という表現が使われていることにも注目したいと思います。私も先ほど「本来的な英語」という表現を使いました。私が使った「本来的」の意味は「イギリス英語(アメリカ英語)」を指しているわけですが、先の文章におけるそれもそのように捉えてよいのではないでしょうか。
このことをどのように考えるのかについて述べたいと思いますが、私自身は一応は「間違いだ」と言わざるを得ないのではないかと思います。なぜかといえば、英語はわれわれの言語ではないから。つまり「ドンマイ」を日本人に対して日本語として使う分には問題はないだろうと思うのですが、英語話者に対して使えばコミュニケーションが破綻する可能性があると思うわけです。
もちろんこのようなことはたいした問題ではなくて、相手に「日本では「ドンマイ」に「慰め」の意味を与えているのですよ」と説明してあげれば済む問題でそこから何か新しい話題が見つかるかもしれないという意味では「ドンマイ」と言ったってたいしたことはないと言えますが、問題の本質は別のところにあります。つまりこのような例は無限とまではいかなくとも、数多く存在するということです。一つ一つ説明していてはコミュニケーションが成り立たなくなるのは明らかです。一般に「カタカナ英語」と呼ばれているカッコつきの「英語」にどう対応するのか。
国際英語という視点からは、このように一見すると「間違いだ」と判断されるようなカッコつきの「英語」にどのような対応をとるのでしょうか。これも「立派な」日本人英語なのだ、自信を持って使っちゃえ、と言うのかどうか。
それとも国際英語という視点では「発音」のみに許容範囲をおいて、語彙や文法などは母語話者が話す英語の規則に従うべきだと考えるのかどうなのか。そこらあたりがあいまいなままでは「国際英語の視点を授業に」と言われても「ウーン」という感じになってしまいます。世界に様々な英語が存在することを受け入れたとしても、その状況をどのように捉えるのかについてはいろいろな考え方があると思います。みんなばらばらの英語を話せばよいという考え方を受け入れたとしても、どの程度までというその許容範囲の問題になるとひとそれぞれいろいろな考え方があるのではないかと思います。
英語を学ぶ目的の一つに「国際社会におけるコミュニケーション」があるとするならば国際英語という問題にも一応のケリをつけたいところです。学校でなぜ英語を学ぶのか、他の言語の扱いはどうするのかという議論もしなければなりませんが、どの英語を学ぶべきなのかという問題もまた興味深いところではあります。
ただ今思っているのは、英語の雑多性を強調しすぎると、英語を学ばなければならないと主張する人たちの根拠の一つである「世界における英語の通用性」がぐずれる可能性があるということです。現地で「英語」だといわれている言語がわれわれの基準ではもはや「英語ではない」代物になりかわってしまうことだって考えられるわけです。
日本人のカタカナ英語であっても「英語ではない」と批判されるわけですからね。
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国際英語に対する私が持っている印象はこのようなものですが、このような視点に立ったとき、例えば次のような「英語」はどのように扱うのでしょうか。
Don't mind.
「ドンマイ、ドンマイ」と私も中学時代に野球でフライを落としたときなどは言われたものです。しかしこれは一般的には「英語ではない」と考えられています。「英語ではない」という表現は正しくないかもしれません。言い直しましょう。
一般的に日本人が相手を慰めてやる意味で用いる「ドンマイ/Don't mind」は「本来的な英語」では通じないといわれています。「本来的な英語」では「Never mind」というのだ、そうです。「Wikipedia:井戸端/subj/カタカナ表現について」で述べてあることを引用してみましょう。
次に「ドンマイ」です。この綴りを戻せば「don't mind」となり、とりあえず文法的な誤りはありません。しかし、使う場面について日本人は大いなる誤解をしているのです。ベッカムがシュートを放ち、外れたとします。「気にしないで」というつもりであなたは「ドンマイ」と言う。ベッカムは余計に苛立ちます。なぜでしょうか。「don't mind」と耳にすれば英語人は「I don't mind」(どうだっていいよ=どうせ入らないおまえのシュートなんてはじめっから期待してねえよ)と捉えるのです。日本人にとっては「気にしないで」にて省かれている主語が「あなた」であっても、「don't mind」で略されている主語は「I」なのです。つまり、日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです。 |
最後の記述に注目しましょう。「ドンマイ」を「慰め」の意味で日本人が使っていることに対して、「日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです」と批判的な見解が述べられています。ここで「本来的な文法性格」という表現が使われていることにも注目したいと思います。私も先ほど「本来的な英語」という表現を使いました。私が使った「本来的」の意味は「イギリス英語(アメリカ英語)」を指しているわけですが、先の文章におけるそれもそのように捉えてよいのではないでしょうか。
このことをどのように考えるのかについて述べたいと思いますが、私自身は一応は「間違いだ」と言わざるを得ないのではないかと思います。なぜかといえば、英語はわれわれの言語ではないから。つまり「ドンマイ」を日本人に対して日本語として使う分には問題はないだろうと思うのですが、英語話者に対して使えばコミュニケーションが破綻する可能性があると思うわけです。
もちろんこのようなことはたいした問題ではなくて、相手に「日本では「ドンマイ」に「慰め」の意味を与えているのですよ」と説明してあげれば済む問題でそこから何か新しい話題が見つかるかもしれないという意味では「ドンマイ」と言ったってたいしたことはないと言えますが、問題の本質は別のところにあります。つまりこのような例は無限とまではいかなくとも、数多く存在するということです。一つ一つ説明していてはコミュニケーションが成り立たなくなるのは明らかです。一般に「カタカナ英語」と呼ばれているカッコつきの「英語」にどう対応するのか。
国際英語という視点からは、このように一見すると「間違いだ」と判断されるようなカッコつきの「英語」にどのような対応をとるのでしょうか。これも「立派な」日本人英語なのだ、自信を持って使っちゃえ、と言うのかどうか。
それとも国際英語という視点では「発音」のみに許容範囲をおいて、語彙や文法などは母語話者が話す英語の規則に従うべきだと考えるのかどうなのか。そこらあたりがあいまいなままでは「国際英語の視点を授業に」と言われても「ウーン」という感じになってしまいます。世界に様々な英語が存在することを受け入れたとしても、その状況をどのように捉えるのかについてはいろいろな考え方があると思います。みんなばらばらの英語を話せばよいという考え方を受け入れたとしても、どの程度までというその許容範囲の問題になるとひとそれぞれいろいろな考え方があるのではないかと思います。
英語を学ぶ目的の一つに「国際社会におけるコミュニケーション」があるとするならば国際英語という問題にも一応のケリをつけたいところです。学校でなぜ英語を学ぶのか、他の言語の扱いはどうするのかという議論もしなければなりませんが、どの英語を学ぶべきなのかという問題もまた興味深いところではあります。
ただ今思っているのは、英語の雑多性を強調しすぎると、英語を学ばなければならないと主張する人たちの根拠の一つである「世界における英語の通用性」がぐずれる可能性があるということです。現地で「英語」だといわれている言語がわれわれの基準ではもはや「英語ではない」代物になりかわってしまうことだって考えられるわけです。
日本人のカタカナ英語であっても「英語ではない」と批判されるわけですからね。
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