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■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

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2006年09月29日 | その他
和製英語とは-コンセントを例に

 大辞泉によれば、コンセントとは「配線から電気を取るための、プラグのさし込み口。また、その器具」のことであるといいます。自分がこの言葉を使うかどうかは別としても、「これコンセントにさして!」と言われたとき、その意味は正しくつかむことができるという点でこの言葉は日本語になっているといえます。
 すでに周知の事実ですがコンセントというのは和製英語です。すでにその定義をみたように、コンセントというのは日本語の世界では右図のようなモノを指します。しかしこれは和製英語だというわけですから、英語の世界ではこの認識は通用しないということになります。まずは和製英語についてその意味するところを見ておきましょう。和製英語についてウィキペディアでは次のように述べてあります。

和製英語(わせいえいご)とは、英語の単語を組み合わせることにより造られた、英語風に聞こえるが本来の英語にはない表現のこと。また欧米には存在せず、日本独自のモノを英語風に名づけて普及した言葉も含まれる。
(強調はブログ作成者)

 大辞泉では「英語らしく作った語」(強調はブログ作成者)としてあります。つまり和製英語とは「本来の英語」にはない表現を勝手に日本人が創作した英語らしい言葉ということになるでしょうか。お気づきのように、「本来のものではない」という言い方はその基準を英語に置いています。ここでいう本来の英語とはアメリカ人の話す英語、イギリス人の話す英語だと考えて差し支えはないでしょう。「英語の時代:日本人英語」で見たように、本名信行氏の『世界の英語を歩く』(集英社新書、2003)の目次には「ヨーロッパの英語」「アフリカン・イングリッシュ」「インドの英語」「マレーシアの英語」「シンガポールの英語」「ブルネイの英語」「フィリピンの英語」「中国、台湾、韓国の英語」「アジアの英語」「アメリカ英語」「カナダの英語」「イギリスの英語」「オーストラリア英語」「ニュージーランドの英語」など様々な英語が紹介してありますが、本来の英語といったときに想定されるのは「アメリカの英語」と「イギリスの英語」ということになるでしょう。少なくとも「日本の英語」が含まれる可能性はゼロです。
 話を戻します。「本来のものではない」という言い方は英語を基準に置いているわけですが、日本語の世界に存在する和製英語を見つけて「本来のものではない」と言われたとき、日本語の世界に生きる私たちからしてみればまず考えられる返答は「それで?」というものかと思います。これはコンセントは日本語の世界ではきちっとその役目を果たしているのだから本来がどうちゃらこうちゃらは関係ないという考え方です。
 一方、次のように考える人もいるでしょう。コンセントはconcentric plug という英語が「コンセントプラグ」となり、「コンセント」となったのだ(コンセントの由来についてはこちらのブログが詳しい)。これが英語として通用するならまだしも、通用するどころか日本人の英語学習の邪魔をしているだけである。強勢の位置は異なるがコンセントにはconsent「同意(する)」という他の語もある。
 これら2つの対照的な考え方は和製英語が日本語の世界だけで完結している/完結させればよいと考えるのか、それとも完結するものではないと考えるのかの違いも関係しているかもしれません。つまり、英語の世界など関係のない、ただ日本語の世界にコンセントという語があるから使っているだけだという人と英語に何かしらの関係を持っていて和製英語に何かしらの問題意識を持っている人の違いです。

LOTE教育:英語以外の教育

2006年09月15日 | 記事
現在、オーストラリアについて少々調べています。アボリジニの問題、白豪主義の問題、移民政策の問題などいろいろ出てきますが、その中でも現在につながるものとして出てきたのがLOTE教育というものです。LOTEとはLanguages Other Than Englishの頭文字であり、LOTE教育とは「英語以外の言語」の教育のことです。オーストラリアでは「英語」が「公用語」ですからこのLOTE教育は母語以外教育というわけです。日本だったら日本語以外教育であり、筆頭に上げられるのは英語でしょう。日本において英語以外に言語戦略が存在するのかどうかは私の知るところではありません。

岡戸(2002)によればオーストラリアでは1987年に「言語に関する国家の政策(National Policy on Languages)が公表され、そこでLOTEについてさまざまな問題が取り上げられたそうです。さらに1991年には連邦雇用・教育・訓練省(Department of Employment, Education and Training)によって「オーストラリアの言語:オーストラリアの言語と識字政策(Australia's Language: The Australian Language and Literacy Policy)が出され、現在これに基づいて言語政策が行われているといいます。そして「言語に関する国家の政策」では、Nine Key Languages(9つの重要な言語)として、アラビア語、中国語、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、インドネシア/マレー語、イタリア語、日本語、スペイン語の9言語が挙げられているようです。きちんと「日本語」も入っていますね。岡戸(2002)ではグラッドルの『英語の未来』から「第一言語としての使用者数から見た世界の主要言語」の表を紹介しています。これを見ると日本語は世界で9位となっています。だからでしょうか?Nine Key Languagesの1つとして日本語が挙げられているのか。よく分かりません。

岡戸(2002)によれば、「オーストラリアでは、ただLOTEを学校段階で提供するだけにとどまらず、より多くの言語を学ぶ機会について持続的に支援できるような体制が設けられている」といいます。オーストラリアにはオーストラリアの事情があり、日本には日本に事情があるでしょうから、単純な比較はできませんが、それにしても日本の言語戦略にははっきりしたものが見えてきません。単一言語主義を超えて二言語併用を推進しようとしているように見えますが、オーストラリアは多言語主義、あるいは複数言語主義と一歩も二歩も先をいっているようです。このへんどうでしょうか。

岡戸(2002)では現在のオーストラリアでのLOTE教育が成功しているのかどうかについてはあまり述べられていませんが、強いて言えば、「教員不足」「予算不足」によりLOTEを提供することにおいて足踏みをしていることを挙げています。しかし例えば、デイヴィッド・マイヤーズ(David Myers)氏は「オーストラリア人の言語事情」の中で「成功していない」とはっきり述べています。

我々が学校で導入している英語以外の言語(LOTE [Languages other than English])プログラムが成功していない理由には、学習言語の評価をする厳正な試験基準を設けていないこと、親と教師が外国語学習というのは価値のないものだと思っている子供たちに対して、未知の単語を暗記することは楽しいことなのだと教えることを怠っていることが挙げられる。我々が数カ国語をあやつることができるようになった時、また本当の読み書き能力というのは1ヵ国以上の言語を用いて自分を表現できる喜びを味わうことなのだということを悟るようになった時、オーストラリアは多文化主義社会になるのである。

どちらにしてもこれからの改善が期待されるところなのでしょう。我々もLOTEの理念は受け入れてもよさそうに思いますが、どうでしょうか。

[参考]
・岡戸浩子 (2002) 「オーストラリアの多文化社会とLOTE教育」 河原俊昭(編) 『世界の言語政策―多言語社会と日本』 くろしお出版
・ディヴィッド・マイヤーズ (1999) 「オーストラリア人の言語事情」 中京大学社会科学研究所オーストラリア研究部会 『日・豪の社会と文化Ⅱ―オーストラリアをどう認識するか―』 成文堂
・David Graddol (1997) The Future of English? British Council

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