文法を知っているということ… |
文法は学習者のみならず英語教師をも悩ましている問題です。英語学習の中心は文法を学ぶことに向けられなければいけませんが、学習者はその習得に悩み、教師はその指導に悩んでいます。英語学習を始めて、最初に躓《つまず》きやすいのは主語が三人称単数で現在文のとき一般動詞の語尾が変化する(sをつける)という問題でしょうか。ややこしい文法指導をいかに行うのかについて英語教師は何か生徒をひきつける面白い方法はないものかと日々情報収集につとめるわけですが、これまでの日本の英語教育が世間の批判から解放されることはなかったというのが一般論です。最近では例えば三単現のsの指導を「桃太郎伝説」のたとえ話を用いて行うというような画期的な教育実践を行うような教師も現れるようになり、テレビ等でも取り上げられたりしていますが、やはりそれらの実践はごく一部の優れた教師の「稀《まれ》」な例として認識されているのが現実です。
ところで文法指導の際に教師が意識しなければいけないことに次のような問題があります。
「文法を知っている」ことと「文法について知っている」こと。前者は文法が実際に使えるという意味であり、英語ならば実際に英語が使えることを意味します。後者は文法について説明能力を持っているという意味であると捉えればよいでしょう。一般的には前者はネイティブ・スピーカー(母語話者)であればだれでもこれに当てはまりますが、後者の方はネイティブであってもきちんと勉強をしなければ自分の言語の文法について説明するのは困難です。例えば日本語を母語とする人に「ビンボウ」と「カミ」で「ビンボウガミ(貧乏神)」になるのに、「ビンボウ」と「ショウ」で「ビンボウジョウ」にはならず「ビンボウショウ(貧乏性)」なのはなぜか説明してくれと頼んでもきちんと説明できる人はすくないと思われます(調べてみたわけではありません)。ただそうなるということは知っていても、それを説明する言葉は持たないわけです。一方で文法について知っているということは「ビンボウガミ」と「ビンボウショウ」に含まれるルールについて「音読み」「訓読み」という読みの方の違いを使って説明することができるわけです。しかし説明できるからといって実際にそれが使えるという保障にはなりません。日本人の場合は日本語を使えるわけですから経験則としてその事実を知っていますから説明はできなくとも実際に使えるわけですが、外国人がこの事実について勉強をし、得意げに説明ができたとしても、実際の場面では「ビンボウジョウ」とやってしまう可能性もありますし、「ビンボウカミ」とやる可能性もあるわけです。
“know grammar”と“know about grammar”を言い換えるならば、実践と理論ということもできるでしょう。野球が上手な人がいたとしても、なぜ自分が上手なのかということについては理論を知らなければ説明はできないのと同じです。
あるいは次のように言うこともできるかもしれません。“know grammar”は帰納的であり、“know about grammar”は演繹的であると。帰納的とは個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法のことであり、ネイティブたちの経験則によるものがそれです。「ホン」と「タナ」で「ホンダナ」になり、「ボス」と「サル」で「ボスザル」になる。2つの単語が結びついたとき、後のほうが濁音になるのかなと推測してこれを一般的な規則として了解するということです。一方で演繹的とは一般的・普遍的な前提からより個別的・特殊的な結論を得る推論方法のことで一般には外国語として言語を学ぶ人がこの方法を採りやすいと言われています(どこかで)。この方法は2つの単語が結びつくとき後者が濁音になるというルールを前提として了解し、それを個別の例に当てはめていくわけですから、貧乏神では成功しても貧乏性では失敗するというようなことが起こるわけです。
帰納と演繹。日本の英語教育はこれまでのところ演繹的な方法による指導に頼ってきましたが、帰納的な方法による指導についても考える必要があるだろうと思います。言語学習はできる限り帰納的な方法を採る方がよいといわれますが、それは「使える」ようになる必要があるのか、それとも「説明できる」ようになる必要があるのかということです。「できる」→「分かる」が望ましいのか、「分かる」→「できる」が望ましいのか。私は前者だと思っています。
文法の数 |
ところで文法とは何でしょうか。文法について整理するのに、ここでは“Why Is English Like That?”という本を頼りにします。まず「文法」について次のようにあります。
...In fact, it is probably impossible to describe completely and accurately the full grammar of English, an this inevitably means that only certain elements are highlighted in any particular situation so that these elements can be small enough for students (and teachers!) to understand. ... (・・・事実、英語のすべての文法を完璧にそして正確に説明することはできないでしょう。つまりそれはいかなる状況においてもそこに提示してあるのは文法の一部の要素でしかないということだ。そしてこれらの要素だけでは学生(教師も!)が理解すべき文法にしては小さすぎるのです。・・・) |
文法をすべて説明することはできないという指摘は重要です。文法というのはネイティブ・スピーカー(母語話者)の頭の中にすべて入っているわけですが、それをすべて取り出して見せることはできないのです。
次に本書に挙げられている文法の数について紹介しておきます。
* Prescriptive grammar(規範文法) This type of grammar asserts which forms are correct and which are incorrect. It thus tells us how we ought to speak and what we ought not to say. It tends to bring value judgments into play, referring to forms from standard varieties of English as correct or "good" English and forms from non-standard varieties as incorrect or "bad" English. Many of the problematic rules of English come fromthis approach to grammar. * Descriptive grammar(記述文法) This is a more linguistically sound approach in which the rules of English are described from the way people actually use the language. modern applied linguists can analyze large language databases (corpora) of 100 million words o more and understand the way grammar features are being used in the real world, not only by speakers of standard varieties but also by speakers of non-standard varieties. This approach reports actural grammar usage but makes no value judgments about that usage. * Pedagogical grammar(教育文法) This type of gammar caters to the needs of second language learners and teachers. Although it may prescribe some general rules, it is typically mainly descriptive in nature, drawing on a wide range of insights from both formal and functional approaches, as well as other applied linguistics disciplines such as discourse analysis and pragmatics. * Formal grammar(形式文法) This is a model of grammar that focuses on the forms (rules) themselves and how they operate within the overall system. Many people have this model in mind when they think of traditional grammar. * Functional grammar(機能文法) Whereas formal grammar focuses on forms, functional grammar goes beyond this and also considers appropriate language use. it looks at the relationship between linguistic forms and their practical functions. For instance, the linguistic form How are you doing? normally functions as an informal greeting to friends rather than an actual question. This focus on both form and function is sometimes also referred to as discourse grammar. * Lexicogrammar(語彙文法) This is a model of language that recognizes that grammar and vocabulary are not really two different sysytems but one integrated whole. It attempts to explain how meaning is constructed by the interrelationship between lexis and grammar, highlighting, for instance, multi-word units such as to make a long story short that have single meaning or function (in this example, reaching a conclusion). These multi-word units are extremely common in language, but more traditional formal grammars have a difficult time explaining them. |
上の2つが一般的によく知られているものでしょうか。著者は最後に私たちが注意すべきことを書いています。
But regardless of what kind of grammar book you use, it is important to be aware of its limitations. Many teachers look at grammars as an unerring souce of "true knowledge" about language, but this faith may be misplaced. (しかしあなたがどのような種類の文法書を使おうとも、その限界に気づくことは重要です。多くの教師は文法を言語について誤りなく述べた正しい知識であると捉えてしまいますが、これは間違った思い込みかもしれないのです) |
文法の傍流 |
「文法の傍流」とは私の造語です。文法指導には主流と傍流があるというのが私の観察ですが、主流的になっている文法指導の方法とは一味違った傍流を考えてみることが主な狙いです。次の例は見る人によってはたいへん興味深いものでしょう。
play baseball - a baseball playing - a baseball player
take care - a care taking - a care taker
make a decision - a decision making - a decision maker
seek a job - a job seeking - a job seeker
watch a bird - a bird watching - a bird watcher
drive a car - a car driving - a car driver
「野球をする」「野球をすること」「野球をする人」
「世話をする」「世話をすること」「世話をする人」
ひっくり返せばいいんだな――このようなことはその事実を与えてやれば気づくでしょう。関係代名詞の指導についても同じようにひっくり返すことでできます。
Jack built the house.(ジャックが家を建てた)
the house that Jack built(ジャックが建てた家)
Frank lives in the house.(フランクはその家に住んでいる)
the house that Frank lives in(フランクが住んでいる家)
Lucy visited the house.(ルーシーはその家を訪れた)
the house that Lucy visited(ルーシーが訪れた家)
文法について考えたとき、“ESSENTIALS OF GRAMMAR”(Parisi & Antinucci)に挙げてある次のような事実もとても面白いものです。文頭につけられた*は非文であることを表し、?は容認と非容認が割れていることを表しています。
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