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■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

強く生きる

2008年11月13日 | 放言

 人は弱い。弱いから強がる。強がるということは本質的には弱いということだ。

「分かりにくい」という言葉。昨日、先輩教員が休んだので私が2クラスまとめて授業を行った。「全然分かりませんでした」とは今日聞いた言葉。休んだ先輩教員に対してある生徒が言っていた言葉だ。「先生、もう一度同じところを授業してください」という言葉。盗み聞きではない。私が目の前にいる状況で、その先輩教員に対して不満を言っているのだ。なんという皮肉だろうか。嫌味と言ってもいい。その生徒の意図するところは明らかである。先輩教員に対して不満を漏らすことで間接的に私に対して不満を言っているのだ。その不満は改善の要求ではなく、否定である。

「分かりにくい」と「分かりませんでした」という2つの表現。「分かりにくい」とは「少しは分かった部分もある」という意味であろうが、「分かりませんでした」は「まったく分かりませんでした」という意味だと取れる。「少しは分かりました」という意味合いはこの言葉にはない。つまり肯定的評価はゼロということだ。

「分かりませんでした」という生徒のことを考えてみたい。昨日行った授業はリーディング、つまり読解の授業である。この生徒にとって「分かる」とは何か。「分かる」とは「訳が書けた」ということを意味するのだろうか。「分かる」とは「英文の構造が理解できた」ということを意味するのだろうか。「分かる」とは「先生の話が面白かった」ということを意味するのだろうか。

昨日の授業。前時において私のクラスは1パートほど先に進んでいた。先輩教員のクラスも一緒に授業しないといけないということで私のクラスですでにやったところをもう一度扱った。

さて、最初に「文法」の問題について考えてみたい。「文法」に関して扱う事柄はあらかじめ決められている。先輩教員が解説プリントを用意して下さっているからだ。したがって英文中のどこをどのように解説するのかについてはほぼ固定されているといってよい。つまり、「文法説明」については私とその先輩教員との間にそれほど差はないだろうと考えられる。

次は「訳」の問題である。「訳」については私と先輩教員との間には多少の差があるだろうと思う。先輩教員はまずはスラッシュ訳的な方法ですばやく全体の意味を確認してゆく。生徒から答えが返ってこなければ巧みなヒントを出して答えの誘導を行う。その誘導により生徒の口からほしい表現を引き出すのだ。その後、文法説明により英文の構造をとってゆくという手法をとっている。一方、私のほうは一文一文解説を加えながら生徒を指名し訳させる方法をとっている。この方法の差が生徒に「分からない」という印象を与えた可能性は考えられる。一文ずつ生徒を指名して訳させるわけだから、当然、答えられない生徒が出ることになる。そうするとこちらが正しい訳を言ってあげるという具合に授業が進んでゆく。授業は停滞する。その停滞が授業からテンポを失わせたのだろう。テンポの悪さが「分からない」という印象につながったのだろう。

次に考えられるのはノートだろう。ノートがきちんと取れたかどうかで生徒の授業への感想は変わってくるだろうということが予想できる。『東大合格生のノートはかならず美しい』という本が売れているらしいが、生徒にとってはきちんとノートが整理できるということが大切なのだ。ノートには英文があり、解説があり、訳がある。教師が口頭で言ったこともきちんとノートに整理されている。ノートは無味乾燥なものではなく、カラフルに色づけされていたほうがやった感が残る。教師の板書がモノクロ一辺倒であれば、生徒のノートもそれに近くなるだろう。色の使用に何かの規則性があればなおよい。私は色に規則性を持たせていない。そこがまずかったのか。この点、先輩教員は何か色に規則性を持たせているのだろうか。もしそうだとしたら、ノートの問題が「分からなかった」という問題を引き起こさせたのかも知れない。ただし、英語科として統一的に決めている記号付けに、名詞節は[ ]のカッコ、形容詞節は< >のカッコ、副詞節は( )のカッコというものはある。私もこのルールに従って授業での解説を行っている。

「分かりませんでした」といった生徒いわく、「みんなに聞いてみてよ。みんな『分からなかった』って言うはずだから」らしい。できるならばこのようなことは面と向かっていってほしい。コースが違うのだから、不利益になることはシステム的にありえないのだから。ただ、そのような不満を聞いていて、つくづく英語教師としての力量のなさを実感した。生徒がそういう感想を持つということは教師としては失格である。人は弱い。私も弱い。いちいち悩むようなことはしないが、このようなことを聞くと疲れがどっと出る。「分かるとは何か」について整理ができていない状況で、「生徒にとって教師の役割とは何か」が整理できるわけがない。「教師の役割」も分からずに教育を行うなんて私はすでに終わっているのかもしれない。どんどん思考は悲観的になる。力量、能力、才能…教師としての資格が問われている気がする。

ところで、話は変わるが、最近の性教育はものすごいと感じた。高校ではここまでしちゃうのね、という感想。ものすごい言葉のオンパレードであった。例えば、こんな言葉こんな言葉。自作のペニスにコンドームを装着する作業を見せる場面もあった。ペニスの皮を下に下げて装着するシーンなどが再現できるように工夫されており、生徒たちからは笑いが起きていたが、果たしてそこまでやる必要があるのか。本当に疑問に思った。講演者には自分が用いている言葉が世間の常識から遠いということを自覚しているのだろうか。私の感覚が世間の感覚とは言わないまでも、「そこまでやっちゃうの?」という感想は私だけのものではないだろう。