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写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

民衆・為政者、カネとお金にならないもの

2022年03月05日 08時59分26秒 | 本読んであれこれ

 今、井出孫六さんの「峠の廃道」1995・平凡社ライブラリー を読んでいます。半分くらい読んだでしょうか。

 秩父困民党の事件を追いかけていくお話です。井出さんは秩父地方の峠の向こうの長野県の佐久地方に生まれた人のようで、峠の道というのは、意外といろんな情報に触れることのできる場所だったのだ、というところから語り始めています。

 かつてその峠をたどって、秩父のあたりから、事件関係者が逃亡してきたのを伝え聞いていた井出さん自身の体験から、事件そのものに入っていくのでした。峠というのは、現代ではしっかりした舗装道路がないと、行き来はできないですけど、かつての日本では、いろんな峠にたくさんの行き来する人々がいたのでした。

 1881(M14)国会開設の勅諭、板垣退助を総裁とする自由党結成から、

 1884(M17)各地での様々な政府に訴える(民衆発のゲリラ的)事件がたくさんあり、そのうちの一つの秩父事件がどのようなものであったのか、それを訪ねる旅をしておられます。

 半分くらいしか読んでないけど、各集落に高利貸しがいたそうで、この明治の真ん中少し前の農村の人々から搾取していたということでした。お金を貸すというルールも確立されてなかったのでしょうか。それとも、明治の初めは、人々はお金を借りなければ生活できない状況だったのでしょうか。

 蜂起した人々のターゲットはこれらの高利貸しで、豪商は炊き出しを命じられたり、拠出金を要求されたりしたようでした。百数十年前にも人々の格差は当然あったのですね。



 11月1日には3000人だった人々が、4日には1万人になり、各地の高利貸しをやり玉に挙げていった。

 でも、革命ではないので、政府を転覆させるとか、そんなことは考えてなくて、ただ生活をふつうにさせたかっただけなんでしょう。

 本の後半は、政府側に事件は鎮圧されていくはずですので、いよいよ散り散りになって首謀者たちは逃げていくのかもしれません。その足跡を井出さんはたどり、当時の人々は何を考えていたのか、そういうことを見せてくれるんでしょう。

 

 民衆を組織するのは難しいものです。

 そんなこと、やったことはないけど、たいていの民衆というのは烏合の衆であって、ただ何となく集まった場合が多い。または、騒ぐのが目的で、暴れたいからとか、何となく気に食わないからとか、そこに行くと面白そうだからとか、何か事態を変えてみようとか刹那的な動機です。建設的に、生活を豊かにするために世の中の仕組みを変えようという前向きな動きにはなりません。

 大抵はコントロール不能だから、とりあえずこの集まった人々をどこかに移動させなくてはと、立ち向かう警察や主催者たちは考え、移動する方向を一定にして、立ち止まらせず、議論もせず、ケンカもしないで、ケガもしないようにさせなくてはなりません。群衆はとにかく解散させるものでした。

 それは、1989年の中国でも同じでした。天安門前に集まった人々を蹴散らすために、戦車で突っ込んで、なぎ倒し、散り散りバラバラにさせたんでした。為政者にとって、民衆が集まるというのは、ろくなことではありませんでした。

 普段でも、人間の集団ができてしまうのだったら、その帰り道を確保しなくてはならないのです。

 大都市なんて、逃げ道を確保した巨大な空間ではあったのです。それがどこかで詰まってしまったら、大パニックが起こります。

 今読んでいる秩父困民党事件は、そこまで秩父の人たちの生活が追い込まれ、本来であれば矛先は政府に向けられるか、郡役所に向けられるべきはずなんだけど、そんな大げさに臨時政府を作るとか、秩父地方だけで独立国を作るとか、そんなんじゃなかったようで、憎きは自分たちの生活を圧迫する高利貸しになったようです。

 本来は違うものがターゲットで、自分たちの生活の構造を変えたいのに、狙うは目の前の裕福で、偉そうにしている人を攻撃してしまう、こういうことって、よくあることなのかもしれません。見えない敵・本当の敵にはたどり着けなくて、目の前の敵ばかリにいら立ってしまっている。

 本筋ではないけど、目前の敵をたたく。

 カタルシスは得られるだろうけど、物事の解決にはならないのです。でも、民衆はあまりに苦しければ、身近な裕福な人を攻撃する、そういう伝統を日本の国の人々はずっと積み重ねて生きてきたわけでした。

 そして、結果は、百姓一揆に参加した全員が処分されるのではなく、首謀者だけが責任を取る、そういう終わり方をしてきたと思われます。

 民衆の蜂起はずっとそんな形でした。

 最近は、政治の側も上手になって来て、ターゲットをしぼらせず、みんなが個々に適当に満足のいく何かを提供し、ガス抜きをしているから、そういうことは日本では起こってないんでしょうか。

 民衆は、これからどんな風に扱われていくのか、最先端は中国で、すべての買い物・個々の経済状況のすべてを把握して、矛先を共産党に向けさせない。

 為政者はとにかく管理して、落ち着かせたい。そうすれば、自分の権力は安泰なんでしよう。そのためだけに為政者は努力している。

 民衆は? 分断されてるはずだから、その分断を越える何かが必要です。お金ではないですね。音楽だったり、ライブだったり、ことばだったり、いろんなお金にならないもので連帯するしかないですね。お金は、為政者が管理する者なんだから。

 

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