http://campus.nikkei.co.jp/article/94561119.html
日経電子版
ビジネスリーダーを目指す社会人のための大学院情報・検索サイト
日経Bizアカデミー 社会人大学院サーチ
MBAはこう使う!
カチタス社長 新井健資氏(上)
政治家への夢散り、コンサル経てコロンビア留学へ
2015/12/08 (1/3ページ)
「空き家」の増加が社会問題となっている。その空き家問題を解決し得る企業として海外からも注目を浴びているのが、中古住宅再生事業を手掛けるカチタスだ。MBAホルダーの新井健資社長(46)は、もともと政治家志望で選挙に出馬したこともある。政治家としてかなわなかった社会問題の解決に今、ビジネスの力で挑もうとしている。
■高校生のころから政治家を目指した。
政治家になって日本を立て直したいとずっと考えていました。東京大学に進学してからもその思いは変わりませんでした。ただ、25歳にならないと立候補できないので、それまではどこかの会社で働こうと考えていました。日本の政治に一番足りないのは経済や金融の知識だと思い、そうした知識を学ぶため、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入りました。
働き始めても政治への思いは変わりませんでした。入社3年目には、大前研一さんが設立した一新塾に入り、毎週1回、仕事が終わった後に通っていました。
実は、政治家になる以外にもう1つ目標がありました。海外留学です。社費でMBA留学できる制度があるのを知り、応募しました。面接で「MBAを取った後に会社を辞める奴がいるが、どう思うか」みたいなことを聞かれたので、当時の社風に前々から疑問を抱いていたこともあり、辞める奴も悪いが会社の体制も悪いと答えました。それが原因かどうかわかりませんが社内選考で落とされ、そのことを親しい先輩に話したら、「お前、馬鹿か」と一喝されました。でも、言うべきことは言わないと気が済まない性格なので、仕方なかったと思います。
そうこうするうち、1997年7月の東京都議会選挙に出馬することを決意し、準備のため、その1年前に銀行を退職しました。
28歳で挑んだ選挙は、NHKが早まって私に当選確実を打ったほどの大接戦となりましたが、結局落選。再挑戦を期待する声もありましたが、選挙に反対していた親と1回だけと約束していたこともあり、再挑戦は頭にありませんでした。
■落選後は衆議員秘書を経て、コンサルティング・ファームのベイン・アンド・カンパニーに入社した。
選挙後に、衆議院議員の古川元久さんから「秘書をやりながら国政を目指さないか」と声をかけてもらいました。正直、もう政治家になるつもりはありませんでしたが、せっかくの話なので引き受け、古川さんの秘書になりました。
秘書をやりながら、職を探しました。転職するなら20代でと思っていましたし、それまでやりたい放題やってきたので、一度リセットし、ビジネスの世界できちんとキャリアを築きたいとの思いがありました。人材紹介会社を通じベインに入りました。
ベインには若手の中途採用者が入る時のポジションである「シニア・アソシエイト」で入りましたが、1年後に、その上の「コンサルタント」に昇進。自信になりました。
コンサルの仕事は、ビジネスの基礎知識を身につけるという意味では、非常に勉強になりましたが、ずっと違和感もありました。コンサルの宿命ですが、クライアントに事業のアドバイスはするものの、結局、その事業を自分で回すことはできません。他人にアドバイスするより自分でやったほうが面白いに決まっています。このままコンサルを続けるべきか、それとも事業会社に移るか、悩みました。
留学への思いも再び強まりました。すでに30歳を過ぎていましたし、コンサルを4年もやってからMBA留学しても得るものはないと言う人もいましたが、留学経験のある古川さんや元の上司などいろいろな人に相談したら、みなさん行くべきだと言ってくださり、決心がつきました。
行き先はトップ校と決めていました。コンサルの世界では、どのビジネススクールを出たかが重視されます。それを間近で見てきたので、留学への思いとは矛盾するかもしれませんが、トップ校以外だったら働き続けようと考えていました。
■ニューヨークのコロンビア大学ビジネススクールに合格し、33歳で念願のMBA留学を果たした。
やはり英語が一番大変でした。でも大変なのは行く前からわかっていたので、対策も立てました。一番重要なのは、怯(ひる)まないこと、そのためには最初が肝心だと考え、学校に行ったら真っ先に発言しようと決めていました。
初日に大きなホールでオリエンテーションが開かれた際、最後に「何か質問はありますか」と全員に聞いてきたので、さっと手を上げ、何百人もの前で質問しました。米国ではスピーチで笑いをとることも大事だと思っていたので、何を言ったかは覚えていませんがジョークを交えてしゃべり、それなりに笑いもとれました。
しかし、ディスカッションやグループワークで議論が白熱すると、英語がネックとなり、間に割り込んで自分の意見を主張することは簡単ではありませんでした。それでも、グループワークでは、ベインでプロジェクトマネジャーをやっていたときの経験が生きて、みんなをリードすることができました。メンバーからも「カツ(健)の説明はわかりやすいね」と言ってもらえました。
課題の量は確かに多かったですが、ここでもコンサルの経験が生きて、内容に関してはそれほど難しいとは感じませんでした。また、議員秘書時代に必要に迫られて米国の会計基準の勉強をし、最終的には米国公認会計士(CPA)の資格も取っていたので、その際に得た知識もかなり助けとなりました。
CPA保持者には、一部の必須科目の履修が免除される制度がありました。でも、そうすると代わりの科目を履修しなければならず、かえって負担が増すので、履修しなくてもよい"楽勝科目"をあえて履修して全体の負担を抑えながら、攻めるところは攻めるという作戦も取りました。
インタビュー/構成 猪瀬 聖(フリージャーナリスト)
日経電子版
ビジネスリーダーを目指す社会人のための大学院情報・検索サイト
日経Bizアカデミー 社会人大学院サーチ
MBAはこう使う!
カチタス社長 新井健資氏(上)
政治家への夢散り、コンサル経てコロンビア留学へ
2015/12/08 (1/3ページ)
「空き家」の増加が社会問題となっている。その空き家問題を解決し得る企業として海外からも注目を浴びているのが、中古住宅再生事業を手掛けるカチタスだ。MBAホルダーの新井健資社長(46)は、もともと政治家志望で選挙に出馬したこともある。政治家としてかなわなかった社会問題の解決に今、ビジネスの力で挑もうとしている。
■高校生のころから政治家を目指した。
政治家になって日本を立て直したいとずっと考えていました。東京大学に進学してからもその思いは変わりませんでした。ただ、25歳にならないと立候補できないので、それまではどこかの会社で働こうと考えていました。日本の政治に一番足りないのは経済や金融の知識だと思い、そうした知識を学ぶため、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入りました。
働き始めても政治への思いは変わりませんでした。入社3年目には、大前研一さんが設立した一新塾に入り、毎週1回、仕事が終わった後に通っていました。
実は、政治家になる以外にもう1つ目標がありました。海外留学です。社費でMBA留学できる制度があるのを知り、応募しました。面接で「MBAを取った後に会社を辞める奴がいるが、どう思うか」みたいなことを聞かれたので、当時の社風に前々から疑問を抱いていたこともあり、辞める奴も悪いが会社の体制も悪いと答えました。それが原因かどうかわかりませんが社内選考で落とされ、そのことを親しい先輩に話したら、「お前、馬鹿か」と一喝されました。でも、言うべきことは言わないと気が済まない性格なので、仕方なかったと思います。
そうこうするうち、1997年7月の東京都議会選挙に出馬することを決意し、準備のため、その1年前に銀行を退職しました。
28歳で挑んだ選挙は、NHKが早まって私に当選確実を打ったほどの大接戦となりましたが、結局落選。再挑戦を期待する声もありましたが、選挙に反対していた親と1回だけと約束していたこともあり、再挑戦は頭にありませんでした。
■落選後は衆議員秘書を経て、コンサルティング・ファームのベイン・アンド・カンパニーに入社した。
選挙後に、衆議院議員の古川元久さんから「秘書をやりながら国政を目指さないか」と声をかけてもらいました。正直、もう政治家になるつもりはありませんでしたが、せっかくの話なので引き受け、古川さんの秘書になりました。
秘書をやりながら、職を探しました。転職するなら20代でと思っていましたし、それまでやりたい放題やってきたので、一度リセットし、ビジネスの世界できちんとキャリアを築きたいとの思いがありました。人材紹介会社を通じベインに入りました。
ベインには若手の中途採用者が入る時のポジションである「シニア・アソシエイト」で入りましたが、1年後に、その上の「コンサルタント」に昇進。自信になりました。
コンサルの仕事は、ビジネスの基礎知識を身につけるという意味では、非常に勉強になりましたが、ずっと違和感もありました。コンサルの宿命ですが、クライアントに事業のアドバイスはするものの、結局、その事業を自分で回すことはできません。他人にアドバイスするより自分でやったほうが面白いに決まっています。このままコンサルを続けるべきか、それとも事業会社に移るか、悩みました。
留学への思いも再び強まりました。すでに30歳を過ぎていましたし、コンサルを4年もやってからMBA留学しても得るものはないと言う人もいましたが、留学経験のある古川さんや元の上司などいろいろな人に相談したら、みなさん行くべきだと言ってくださり、決心がつきました。
行き先はトップ校と決めていました。コンサルの世界では、どのビジネススクールを出たかが重視されます。それを間近で見てきたので、留学への思いとは矛盾するかもしれませんが、トップ校以外だったら働き続けようと考えていました。
■ニューヨークのコロンビア大学ビジネススクールに合格し、33歳で念願のMBA留学を果たした。
やはり英語が一番大変でした。でも大変なのは行く前からわかっていたので、対策も立てました。一番重要なのは、怯(ひる)まないこと、そのためには最初が肝心だと考え、学校に行ったら真っ先に発言しようと決めていました。
初日に大きなホールでオリエンテーションが開かれた際、最後に「何か質問はありますか」と全員に聞いてきたので、さっと手を上げ、何百人もの前で質問しました。米国ではスピーチで笑いをとることも大事だと思っていたので、何を言ったかは覚えていませんがジョークを交えてしゃべり、それなりに笑いもとれました。
しかし、ディスカッションやグループワークで議論が白熱すると、英語がネックとなり、間に割り込んで自分の意見を主張することは簡単ではありませんでした。それでも、グループワークでは、ベインでプロジェクトマネジャーをやっていたときの経験が生きて、みんなをリードすることができました。メンバーからも「カツ(健)の説明はわかりやすいね」と言ってもらえました。
課題の量は確かに多かったですが、ここでもコンサルの経験が生きて、内容に関してはそれほど難しいとは感じませんでした。また、議員秘書時代に必要に迫られて米国の会計基準の勉強をし、最終的には米国公認会計士(CPA)の資格も取っていたので、その際に得た知識もかなり助けとなりました。
CPA保持者には、一部の必須科目の履修が免除される制度がありました。でも、そうすると代わりの科目を履修しなければならず、かえって負担が増すので、履修しなくてもよい"楽勝科目"をあえて履修して全体の負担を抑えながら、攻めるところは攻めるという作戦も取りました。
インタビュー/構成 猪瀬 聖(フリージャーナリスト)