歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈






「デッドプール」、観てきました。
マーベルコミックの異色ヒーローものの映画化ということでしたが、確かに「異色ヒーロー」。で、これは賛否両論かもしれませんね。けっこう評判は良いようですが、下ネタとかダメな人は受け付けないかも。
初めてのデートでは、ちょっと気まずい感じになることもありえるので、要注意です。
ま、最後まで観れば、確かにヒーローものの感動はあるので、それまで下ネタとお下劣シーンに耐えられるかがポイント。

X-MENとか知っている人には、作品中で小ネタが効いているのがわかるようですが、私はあまり詳しくないのでこの辺りはダメ。そこも楽しめるかどうかの、もうひとつのポイントかな。



新宿のTOHOシネマズには、撮影で使われた小道具が展示されていました。ポスターで彼が背負っているリュックです。




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ドイツのメタルバンドです。メタルと言いながら、諸所に民族風(北欧風)の音・旋律を盛り込んでいるような、そんな感じです。
チェロとバイオリンが、クラシカルな雰囲気を醸し出しているのも、私としてはツボだったりします。あと、女性ツインボーカルも。
日本ではアルバムが手に入りにくいようです。2、3年前にタワレコでCDを目撃した記憶があるのですが、あれは夢か幻だったのかな…。


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それでは日野宿へ向けて、一気呵成にラストスパートと行きましょう!


【清水の立場跡】


谷保天満宮を出てすぐ、清水の立場跡があります。立場(たてば)とは、宿場間に設けられた簡易的な休憩施設で、一服するための茶屋があったりしました。
ここ、清水の立場は、湧き水に浸した素麺が名物だったとか。この辺り、谷保天満宮の「常盤の清水」もそうですが、清らな水が豊富に湧き出る土地柄だったようです。清水の立場という呼び名も、もちろんこの湧き水に由来します。

【清水の立場(江戸名所図会より)】


夏の暑い日の冷たい素麺、旅人にとっては、まさに一服の涼だったことでしょう。

【清水の立場付近の甲州街道】


清水の立場付近はなだらかな坂道になっています。
交通量は相変わらず多いので、気を付けて歩きましょう。

【上谷保村常夜燈】


谷保天満宮の西側は、かつて上谷保村と呼ばれていました。ここにも常夜燈がありました。
建てられたのは1794(寛政6)年。他の常夜燈と同じく秋葉大権現を勧請したそうですが、街道から見て正面には、大きく榛名大権現と刻まれています。火を灯す部分(火袋)の月の形が、いいなぁ~と思うのです。
大正時代まで灯がともされ続け、道路拡張に伴い、昭和初期にこの地に移されました。秋葉大権現と刻まれた面を、一番人目に付く街道側に向ければよかったのにね。

【五智如来堂】


街道沿いの小さな祠です。
五智如来とは、仏教でいう五つの智を備えた仏のことで、大日如来の別名とも言われています…とのこと。八王子から移住した人々によって信仰されてきたそうです。

【五智如来堂・堂内】


昭和30年代まで灯火や献花が絶えなかったそうです。今でも10月12日には「おこもり」と呼ばれる、五智如来の供養が行われているとのこと(案内板より)。

【青柳地蔵堂】


この辺りは江戸時代の青柳村。
地蔵堂は完全に閉め切り状態で、中は見えませんでした。江戸時代前期に作られた十一面観音坐像が安置されているようです。

【青柳稲荷神社】


地蔵堂の脇の道を入っていくと青柳稲荷神社。青柳村の鎮守様だったそうです。
行ってみたかったけど、先を急ぐので断念。ちょっと足も重くなってきて…ということもありまして…。

【青柳村常夜燈】


地蔵堂の脇に青柳村の常夜燈があります。
1799(寛政11)年の建立です。甲州街道沿い、今日だけで4つ目の常夜燈。常夜燈めぐりをしているような気分。

【馬頭観音】


常夜燈の傍らにありました。物資の運搬や交易で馬の通行が多かったといわれる甲州街道にふさわしい遺物ですね。

【旧青柳村付近の甲州街道】


多摩川もだいぶ近いはず…。

【立川市へ】


国立市から立川市へ入ります。案外、国立市は短かったです。市の端をなぞった程度でしょうか。

【日野橋交差点1】


ある意味、この日いちばんの難所。
道路が複雑に入り組んでいて、さて、どっちへ行けばいいんだろう?実際に現地に立つと、地図を見ても悩んでしまう状況でした。

【日野橋交差点2】


正解は…フォルクスワーゲンの販売店の右側の道を進むべし。

【日野橋交差点を過ぎた辺りの甲州街道】


交差点を渡ると、また長閑な旧道といった趣に戻ります。
なるべく昔の道に正確に歩きたいと思いつつ、迷ったら、こっちの道へ行ってみるか…となる程度ですが、昔の旅人はそれこそ死活問題。詳しい地図もなかった時代、道標があっても見落としたりしたら…。ま、現代のような複雑な交差点はなかったでしょうけどね。

【多摩川・日野の渡しのモニュメント】


交通量の多い都道29号線を横断すると、いよいよ多摩川。
まずは日野の渡しのモニュメントが、多摩川の手前にあります。最近の設置のようです。

【多摩川・馬頭観音(小)】


モニュメントの傍に馬頭観音。こちらは小さい方。

【多摩川・馬頭観音(大)】


そして大きい方の馬頭観音。
いつのものかはわかりませんでしたが、どちらかは大正時代に建てられたらしいです。多分、大きい方かな?

【多摩川・日野の渡し付近】


ついに出ました。多摩川です。
右側に見える橋が立日橋(たっぴばし)。立川市と日野市を結ぶので、このようなネーミングなりました。この橋の上をモノレールも通っています。
そしてこの辺りが、かつての多摩川の渡し。日野の渡し、日野津、日野渡船場などと呼ばれていました。
江戸初期、多摩川を越えるには、ここより下流の万願寺の渡しが使われていました。
その後、江戸中期の貞享年間から、万願寺の渡しに代わりここが渡し場となりました。

【多摩川・立日橋】


さて、私たちも多摩川を渡ります。
大正時代までは渡し船があったそうですが、もちろん今はなし。1989年に開通した立日橋を歩いて渡ります。これも一種の徒歩渡し…ということで。

【多摩川・立日橋上より】


多摩川と言えば、名物は鮎。
江戸時代には将軍への献上品で、明治天皇も鮎漁のため府中に行幸されています。
高度成長期、川は汚染されて鮎はいったん姿を消しますが、水質の改善とともに多摩川の鮎も復活。東京都島しょ農林水産総合センターの調査結果によると、今年は463万匹の鮎が遡上したと推定されるそうです。

【日野市へ】


立日橋上で立川市から日野市へ入ります。この辺り、多摩川が両市の境界になっているんですね。

【東の地蔵と馬頭観音】


立日橋を渡って都道149号線沿いに歩いていくと、東の地蔵があります。
日野宿の安泰と旅人の守護を祈願して建てられ、福地蔵とも呼ばれました。そして、ここが日野宿の東の端にあたります。祠の前には文化年間のものといわれる馬頭観音。
いよいよ日野宿へ到着です!
惜しいことに、私たちが歩いているのは車道の右側。地蔵は左側。う~ん、車道の真ん中に中央分離帯的なフェンスがあって向こう側へ渡れない…。
ということで、遠くから写真だけとなりました。

【日野宿へ】


東の地蔵を過ぎてしばらく行くと、都道256号線とぶつかります。ここを右へ折れると、日野宿の中心へ向かうことになります。写真の奥の方が日野宿方面です。

【有山家の蔵】


洋館のように見えますが、実は蔵だそうです。かつては日野銀行の店舗として使われていたとか。明治時代に建てられ、関東大震災後に改築されました。
それにしても重厚な趣ですね。現在は閉鎖中のようです。

【高幡不動道標】


江戸時代のものかと思いきや、1884(明治17)年に建てられた道標。

【日野宿本陣】


日野宿本陣に到着!本日のゴール地点です。
時刻は夕方の5時。大國魂神社の前に集合したのが11時過ぎだったので、寄り道しながらもペース的にはいい感じだったかと。
でも、前回から約8か月ぶりで、足はかなり重い。
普段、いかに運動不足なのかを思い知らされた旅の一行でした。

甲州街道は、江戸前期と中期以降とでは道筋が変わってしまっています。私たちが歩いたのは中期以降の道。なので、今回、チェックできないポイントがありました。本宿の一里塚(NECの敷地内)、万願寺の渡し、万願寺の一里塚…。せっかくなので、いつか見に行こうと思います。


そんなわけで、無事日野宿に到着したあとは、お決まりの大宴会…じゃなくって、反省会。
飲んで食べて歌って…そういう元気はまだ余っている私たちだったのでした。


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【谷保天満宮・鳥居】


旧下谷保村の関家かなどこ跡から歩いてすぐ、谷保(やほ)天満宮に到着です。最寄駅はJR南武線の谷保駅。八王子に引っ越す前、通勤で南武線を使っていた私は、ここに谷保天満宮があることは知っていましたが、途中下車することもなく、本日が初めての参拝となりました。以前から気になってはいたんですけどね~。

【谷保天満宮(江戸名所図会より)】


谷保天満宮は、関東三天神のひとつに数えられています。残りふたつは湯島天神と亀戸天神。
平安時代、菅原道真が九州大宰府に左遷された際に、道真の三男・道武はここ、谷保に流されました。道武は父・道真の像を自ら刻みお祀りしたのが、谷保天満宮の起源だそうです。現在の地に遷ったのは1181(養和元)年のこと。
村上天皇が奉納した狛犬は国の重要文化財。獅子宿の獅子頭といい、村上天皇は谷保天満宮と因縁が深いようです。

ちなみに、道武が刻んだ道真像の出来があまりよろしくなく、それが「野暮」「野暮天」の語源になったという説もありますが、どうでしょうか?なんか罰が当たりそうな話ですが…。

【谷保天満宮・境内の鶏】


境内には、あちこちに鶏が放し飼いになっていました。
なぜ境内に鶏?
ネットで調べてみたところ、獅子舞の獅子頭の羽の補充が必要になったものの、何の羽かわからなかったため、鶏をはじめ、色々な鳥を飼い始めた結果…とのこと。今から30年ほど前のことだそうです。へぇ~。

【谷保天満宮・境内】


鳥居をくぐり参道を進み、石段を下ります。そして拝殿。
石段を上るのは良くありますが、下るってケースは珍しいのでは?
当初、甲州街道は今よりも南側の低い場所を通っていて、谷保天満宮は街道に面して南向きに造られていました。それが江戸時代中期、街道が北寄り、従来よりも高い台地上に付け替えられたため、石段を下るようになったそうです。

【谷保天満宮・拝殿】


立派な拝殿です。そして参拝客も大勢いました。
そうそう、ここは交通安全祈願発祥の地でもあるそうです。1908(明示41)年、有栖川宮威仁親王を先導とする遠乗会(これが日本初のドライブーツアーなのだとか)がここ、谷保天満宮を目的地に行われたことに由来します。

【常盤の清水】


拝殿を裏手にまわると、江戸名所図会にも記載されている「常盤の清水」があります。小さな社(厳島神社)のまわりを透き通った池が囲んでいます。豊かな湧き水が、昔からこの辺りの村を潤していました。紫陽花の咲く頃は、趣のある情景だとか…。


谷保天満宮での参拝を終え、いよいよ多摩川、そしてその先の日野宿を目指します。


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【日本橋から33キロ】


熊野神社と古墳を後にして、歩き続けます。この辺り、日本橋から33キロ地点。交通量はかなりのものです。史跡や見どころが道の左右に分散していますが、安全第一、横断歩道を渡りましょう。

【国立市へ突入】


府中市を出て国立市に入ります。
さすが歴史のある町だけあって、府中市は史跡の保存・整備や案内に力を入れているなぁ…という感じでした。
次の国立市はどうでしょうか?

【獅子宿跡】


獅子宿って何?
江戸時代から昭和まで、この地にあった佐藤家が、谷保天満宮に奉納される獅子舞の稽古場となり、大祭の際には、ここから獅子頭をかぶり天満宮へ参進したとのこと。この獅子頭、平安時代に村上天皇から賜ったといわれています。
現在は獅子宿は天満宮境内に移され、この碑が建てられたということです。
つまり獅子宿とは、大祭に向けて獅子舞の稽古をして、当日はここから天満宮へ繰り出していく、いわば獅子頭の仮の住まい…ということでいいのでしょうか?

【本田家薬医門】


本田家は下谷保村の名主の家柄だそうです。で、さらに幕府の馬医者を勤めたことから、門は乗馬のまま通れる造りになっているとか。確かに大きくて立派な門です。
薬医門は、門が閉じていても、横の木戸から患者が出入りできるようにしてあるのだとか(梁がどうとか、専門的な解説はなんだかよくわかりませんでした)。
奥の屋敷も含めて国の登録文化財で、たまに内部公開をしているようです。

【本田家前の甲州街道】


この辺り、江戸時代には下谷保村とよばれていました。本田家は村の名主だけあって、今でも街道に沿う邸宅の敷地は広大です。写真の板塀も、門から続くものです。ただ、道路拡張などもあったので、江戸時代の姿そのままではないと思いますが、それでも想像を掻き立てるのには十分過ぎるかと。

【下谷保村常夜燈】


本宿村の常夜燈と同じく、秋葉大権現を勧請して設置された常夜燈。1863(文久3)年に建てられました。ジョートミとよばれる回覧板が各戸に廻り、その家が交代で毎夕欠かさず火を灯したそうです。このシステムも本宿村と同じ。この辺りの常夜燈は、どこでもそのようにして灯され続けてきたのでしょう。

【関家かなどこ跡】


この辺り、かつては鋳物が盛んだったようです。
鋳物三家のひとつに数えられた関家のかなどこ跡が、歩道わきの案内板によって示されています。
江戸時代から明治にかけて鋳物鋳造を家業としていた関家では、梵鐘や仏像のほかにも、鍋や釜など日用品なども作っていたそうです。内藤新宿の天龍寺にある江戸三名鐘のひとつ「追い出しの鐘」は、ここ、関家で鋳造されたとのこと。
ちなみに「かなどこ」ってなんだろう?って、家に帰ってからネットで調べてみましたが、明確な解説に出会えませんでした。工房とか作業場ってことでいいんですよね?

【関家鋳造・天龍寺「追い出しの鐘」】


新宿・天龍寺の「追い出しの鐘」。1700年(元禄13)年に改鋳された現在の鐘は3代目に当たり、高さ155センチ、口径85、5センチ。関孫兵衛種久が鋳造しました。

【関家かなどこ跡付近の甲州街道】


さて、関家のかなどこ跡から歩き出しました。次の目的地は谷保天満宮です。有名なはずのに、なぜかマイナー感が否めない(失礼!)のですが、どんな神社なのかは行ってのお楽しみです(旅の仲間誰ひとり、訪れたことがないとのことでした。もちろん私も…)。


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