日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】将門の首塚、怨霊の地からパワースポットへ

2015-04-05 | 江戸の面影


東京大手町にある将門の首塚。ついに噂の場所へ行ってきました。

将門の首塚と言えば、言わずと知れた怨霊の地。
平安時代に関東で反乱を起こした平将門が、朝廷側の藤原秀郷に討たれ首は京に晒されました。その首が関東目指して空を飛び、落ちたのがこの場所だとか。
行ってみたら、まさにオフィス街のど真ん中。ある意味、とても異空間的。土曜日だったので比較的人通りも少なかったのですが、見学やお参り(?)に来る人もそれなりにいました。


異空間的ではあったのですが、自分が想像していたのとは若干違った雰囲気でした。
もっと鬱蒼とした木立の中にでもあるかのような、そんなイメージをしていたのですが、小奇麗に整備された場所でした。

現代に伝わる将門の首塚の怨霊話、とくに明治以降のいわく話は一度くらいは耳にしたことがあると思います。
関東大震災で倒壊した大蔵省の庁舎を建て直したら、大蔵大臣はじめ官僚が次々に亡くなった…とか、
GHQが首塚を取り壊しモータープールにしようとしたら、工事中に死者が出た…とか、
周囲のビル工事の際、お参りしなかったら事故が起きた…とか。

でも、それは明治以降の話で、じゃあ、江戸時代以前にはそういった怨霊話はなかったのでしょうか?

ちょっと調べてみました。

鎌倉時代、この付近の民びとが将門の怨霊に悩まされ、荒廃していた首塚をあらためて手厚く供養したとのことです(千代田区観光協会ホームページより)。
ということは、鎌倉時代以前にすでに首塚(あるいはそれに類する供養塔のようなもの)があったということなのでしょうね。
そうか、すでに鎌倉時代には怨霊のパワーを発揮していたんだ…。

将門を祀った神田明神の氏子は、将門討伐を祈願した成田山に詣でてはいけなかったそうです。
また、藤原秀郷の子孫である佐野家では、もちろん神田明神に参詣などできなかったですし、その前を通ることさえ禁じていたようです。さらに神田明神の祭礼の神輿が屋敷前を通るときは、固く門を閉ざして人の出入りを禁じていました(「伝説探訪東京妖怪地図」 田中聡著 祥伝社 1999年)。
江戸市民には直接害をなさなかったものの、大いなる宿怨はずっと続いていたわけですね。


江戸時代になると、この場所は酒井雅楽頭の屋敷となります。
首塚は屋敷の中にあったということになるのでしょうが、どんな状況だったのかな?明治になって大蔵省の庁舎が建てられる前はこんもりとした塚だったそうです。大名屋敷の庭に場違いな塚があったということ?酒井家の人々、それはそれは気を遣ったことでしょう。

【懐寶御江戸繪圖-天保14(1843)年-より】

【東京大繪圖-明治4(1871)年-より】

明治4年の地図によると、この地の所有者は酒井家から長州藩に替わっています。天皇を推したてて幕府を倒した長州が、逆賊とされた将門の首塚の地を得ているのは、なんの因果でしょうか?

かつては「怨霊」と呼ばれた将門の首塚が、今ではパワースポットと呼び方も変わってきています。怨霊というと負のイメージですが、パワースポットと言い換えると、なにかポジティブな感覚に聞こえます。と、同時に怨霊をまるで愛玩動物でもかわいがるような、キャラクター化して遊んでいるような気もするのですが、どうでしょう?
今はおとなしくしている将門の首塚が、ある日突然、パワースポットから怨霊の地に逆戻りする日がくるのでしょうか。

そんなことがないことを祈りつつ、
そう言えば、道路を挟んだ向かいのビルが工事真っ最中だったけど、ちゃんと首塚にお参りしたのかな?なんて気になった私でした。





にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ