教科書採択を考える会ブログ

愛媛県松山市内の中学の歴史教科書が「育鵬社」版に変わるのを機に発足した会です。教科書比較の学習会も行っています。

特別な教科「道徳」にのみこまれない実践を

2017-11-03 11:10:15 | 事務局日記

10月28日の第54回父母と教師の教育研究集会に参加しました。

講師の大江未知先生(教育科学研究会会員)がされた、来年度から始まる道徳教科化に向けてのお話は、現役の先生方に届けたい内容でしたのでご紹介したいと思います。

お話は、寄稿された論文「特別な教科『道徳』にのみこまれない実践を」を中心にされました。


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「特別な教科「道徳」に のみこまれない実践を」
はじめに

 いよいよ「道徳」が「特別の教科」として学校に登場することになった。

これまでも「道徳の時間」はあったが、正式な教科ではなかった。
それが来年度以降、「特別な教科」と位置づけられ、年間35時間、週1回程度の授業を確実に行っていくことが決められ、
文科省からその授業内容と評価の方法を報告することが求められている。各学校現場では、今、年間カリキュラムの編成に大わらわだ。


 教科化によって2つのことが大きく変わる。一つは、国が検定した教科書を使わなければならないこと。二つ目は「評価」が導入されることだ。

 すでに民間の出版社8社が国の検定を受け、一部の記述を修正したうえですべて合格。
教科書には、細かく定められた内容の項目に応じて、「家族愛」「誠実」「国や郷土を愛する態度」などを考えるための教材が掲載されている。
自治体ごとにどの教科書を使うかが8月までに採択され、教科書を主な教材として、来年の4月から授業が行われることになる。

 さらに教科としての「評価」が導入される。ただし、国語や算数のように「よくできる」「できる」「もう少し」といった段階ごとの評価ではなく、
外国語や総合的な学習などと同様に、記述式で教師が評価を書くことになっている。


 この事態に対して、小学校の現場で私はいかに対処すべきなのか。

実践的な対抗軸はどこにあるのか考えてみたい。
すっきりと論理的に書くことは難しいが、教科書に示された「徳目」を年間指導計画に従って教え、子どもを評価することが、教師の仕事とは思えないからだ。

長時間過密労働に閉じ込められ、考える自由や余裕が現場から奪われているように感じる毎日である。
「政治が悪い」「安倍教育改革は許せない」と呪いながら、自分は示された年間計画に沿って「特別の教科 道徳」を教えていては、問題は解決しないだろう。


 現場の教師が当事者として語り出さなければならない。

学校と教育のリアルを語り、子どもの生活をつかみ指導する教師の専門性を手放してはならない。

そこから、検定済み教科書だけで教えない、子どもの現実を「徳目」に閉じ込めてしまわない自由を生み出したい。


 当事者が表現すること。その声を聴き取り、関係者が多様に意見を響かせあうこと。

みんなに投げかけて深化させるその過程で考え合うことで、新しい対抗軸を生み出したい。

1.子どもが道徳性を発達させるとは どういうことか

 検定合格の教科書には、「規則を守れ」「社会に迷惑をかけるな」「国家や共同体のために生きろ」などのメッセージが、詰め込まれている。

その背後には、過酷な新自由主義の競争社会を自己責任で生き抜けという政府・財界の意図が透けて見える。

さらには、所属する社会や国家が困難に向き合ったとき、その社会や国歌の形成者として問題を考え、表現し、進路決定に関わるのではなく、

戦争の方向を強める危険な国家政策さえ、日本という「共同体」の営みとして受容する態度を求める意図が据えられているように思う。


 「正しい生き方」はすべて道徳教科書に記された「規則」に示されているのだから、問題が起きるのは本人の「いたらなさ」だと断じられ、

子どもらは、国家から「自己責任を果たす人間になれ」と繰り返し要求される。

 
 しかし、そのような規範意識の押し付けで子どもたちが「規則を守り」「社会に迷惑をかけず」「国家や共同体のために生きる」人間にはならないことは、

子育てや教育に少しでもかかわった人なら誰でも知っていることだ。


 親や教師が、ある規範を絶対的なものとして子どもや幼児に強制し、それを受け入れるように「しつけ」や「指導」をすることはある。

例えば、小学校1年生の子どもたちがブランコを取り合っていて喧嘩になっている場面では「順番を守る」という決まりを教える。

子どもたちは「順番を守る」という決まりを受け入れ、喧嘩をせずにブランコを楽しむ方法を学ぶ。


 しかしこの時、子どもたちに起こっている変化は、決まりを受け入れるだけの変化ではない。

「順番を守る」のはなぜ「正義」や「価値」であるのかを、自分の論理によって意味づけ直し、自分が楽しく遊ぶ時の方法として集団の中で行使しようとする変化である。

そうでなければ、順番を守らない子が出てきたときに、守らせるための言葉や行動を示すことはできないし、その子に決まりを守らせて集団を豊かにしていくことはできない。


「順番を守らないとダメなんだよ」「先生に怒られるよ」だけでは、子どもたち自身のルールにはならない。

「待っている子が怒るよ」「喧嘩になっちゃうよ」から「そんな風に勝手をすると楽しくないよ」「順番を守らない子とは遊ばないよ」

「じゃあいいよ、僕たちは鬼ごっこするから」に至るまで、子どもは外的規範の一方的受容という論理ではなく、

外的規範を自分にとっての規範として主体的に受け入れ、価値づけ、自分の言葉にし、相手に伝え、考え合って、道徳性を発達させ、道徳性が響き合う集団を生み出していく。


 好きなだけブランコを独占する遊び方では、みんなでブランコを楽しめない。

待っている間に「いーち、にいー、さーん」と数を数え(算数で習った数で時間を区切ることを体験し)

「おまけのおまけの汽車ポッポ、ポーッと鳴ったら代わりましょ、ポッポ!」とはやし歌をお互いに歌いあい

「かわりばんこ」の楽しさを体験して、自分本位の楽しみ方からお友達と一緒の楽しさに気づいていくのだ。


友達から見守られてブランコをこぐ楽しさ、順番こで待たされるからこその期待の高まり、

非日常のブランコのスピードを「僕、お空に飛んでいきそうになったよ」とお話し合い、共感し合う嬉しさ。


それらが子どもたちの順番を守るという決まりを守らせる。

子どもたちは、教師に「順番を守れ」と教えられたから決まりを守るのではなく、決まりを守って遊ぶことが自分たちの利益にかなうから、道徳性を獲得するのだ。


 声の小さい子、体の小さい子も、大きくて力の強い子も、ブランコの順番は同じように守らなければならない集団を形成することで、

子どもたちは平等や民主主義や思いやりを実践するのである。

集団がダイナミックに変化し、子どもたちの生活空間での関係性は変化していく。


 この時、教師は個人の子どもを点検・評価できるのだろうか?

道徳性の高まりは、個人の中だけで起きるものではなく、学級や集団の中で高まるのだ。

教師が精緻な個人の評価を求められれば求められるだけ、道徳教育はゆがんでいく。


 1年生は、自分を大切にしてほしいという欲求が満たされなかったり、自分はこうしたいという要求が否定される悔しさやストレスで、泣き叫んだり、暴れたりすることがある。

その時に「それはダメだ」と規範を押し付けても、その子の問題は解決しない。

ストレスはより大きくなるばかりだし、道徳性も育ちようがない。

自分の内面の葛藤を子どもなりにつかむためには、自分の中の葛藤を聴き取り、理解しようと寄り添ってくれる友達や教師が絶対に必要である。

集団に支えられ、自分の表現を聞き取られることで、子どもは自分の感情や本当に言いたいことをも対象化することができるようになり、

友達や教師との新しいつながりに支えられて、主体的な道徳性を発揮させる。


 もともと道徳教育は、家庭生活や仕事の協力・共同活動の中で、生活や仕事に密着して行われていた。

子どもたちは家族・職業・地域共同体などの生活や活動のために、またその人間関係や組織のために規則・規律、態度、作法などを、

その所属する集団の中で、その生活と活動とともに学習した。

ブランコの決まり一つにも、具体的な課題があり、個人の葛藤とともに集団の変化があり、子どもたちは自分の現実と切り結んで内面を変化させ、集団を変化させていく。

それは相互応答的であり、個別の問題ではありえない。


 ところが「特別の教科 道徳」では、徳目伝達だけが純粋に抜き出されて、子どもたちの生活実態から無縁のお話で授業を構成しようとしている。

しかもその徳目は、表面的にはわかりきった言葉と内容ばかりだから、子どもたちの知的関心や実践的関心に結びつけることは難しい。


2.道徳教科書の問題点

 例えば、どの教科書にも掲載されている「かぼちゃのつる」という小学校1年生の教材がある。

かぼちゃが周りから注意されても、言うことを聞かずに、つるをドンドン伸ばし、他の畑に侵入し、ついには道路にまでつるを伸ばす。

その結果、つるはトラックに轢かれてしまう。かぼちゃが「いたいよー」と泣く話である。

「わがままはいけない」「まわりの注意を聞いて、がまんしよう」という教材で

<わがままをしないで規則正しい生活をしようとする態度を育てる 節度・節制>の徳目を教えることになっている。


 しかし、かぼちゃに意識や感覚は無い。

かぼちゃが泣くという話にリアリティがあるとは思えない。また、厳しい自然環境の中で植物がつるを延ばしていくのは必然である。

非科学的な内容で、非合理なものを1年生に押し付けていると言わざるを得ない。

道徳は人間の問題であり、植物とは違う人間の道徳を教えるのは当然のことだ。

童話やファンタジーなどの夢物語で、自我を世間にとって都合よく曲げようとするのは、あまりにも子どもたちをなめていると言わざるをえない。


 子どもたちを現実から引き離し、子どもの人間的真実の探求過程の葛藤や矛盾を無視して、規範と教訓を振りかざす教科書に出会って、

子どもたちはうんざりし、「正解」をすばやく発見し、教師の求める「正解」を演じるだろう。


そのような「道徳」の授業が学校で展開されるのであれば、子どもたちは、現実の中で生きられなくなり、「道徳」的仮想空間の中で、人間性を閉ざされてしまう。


それは、「道徳」という問題を超えて、学校を教育とは異質の、子どもに人間的な探求をさせない空間に変質させるという問題に行きつかざるを得ない。


 実感とリアルのない「正解」を押し付けられる教室の中で、子どもたちは道徳性を削られ、他者の痛みや状況に気付けない「強者」に仕立て上げられてしまうだろうか。

それは許されることではないが、「強い日本」「圧力をかける日本」が強調されて語られる現在の政治状況を考えると、実はそこに狙いがあるのだろうかと勘繰ってしまう。



3.子どもも父母も教師も 生きる不安を抱えながら 生きている現実を見つめて

 現在の日本にあっては、どこの学校のどんな子も、いじめ、不登校、ひきこもり、学級崩壊などの当事者になる可能性がある。

新自由主義的政策のもとで、社会の間化が進んでいる。

グローバル化の中で、労働者の非正規不安定雇用が進み、賃金は引き下げられ、権利は剥奪されている。

子どもの貧困率は増加の一途をたどり、特にひとり親世帯の子どもの貧困率は54.6%で世界最悪になっている。


子どもたちを支えるべき教師も47教育基本法が改悪され、学力テスト体制が学校に浸透する中で、子どもの成長を喜ぶゆとりさえない事態に追い込まれている。

日本の教師の週当たり労働時間は、平均でも60時間を超えており、マスコミからもブラック企業以上だと指摘される事態だ。


 非人間的な土台をそのままにして、規則で子どもを徹底して縛れば表面上問題を抑えられても、抑えきれない葛藤が爆発したり、

自己への絶望に支配される子ども・若者が続出することになる。


さらには、他者や社会への怒りや拒絶、逃避が蔓延するのではないか。

すでに「相模原事件」などで、それが現実のものになっている気がして慄然とする思いを抱くのは、私だけではないはずだ。


 問題は、困難発生ではない。


困難はどの教室にも起こりうるのだから。

しかし、その困難に直面している当事者が声を上げることすらできなくなり、それが周囲に認識されずに放置されれば、

いつまでたってもその苦しみや困難を聴き取られることも、解決することも出来ないままになる。


結果として、当事者の生活の歪みを生み、命を奪う事件が続発している。それが恐ろしい。

そして、その結果は学校と教師の責任だと一面的に断定され教育の自由が奪われることが恐ろしい。


 学校と教師は、困難に積極的に係わる必要がある。

それは単純に解決を目標にすることではない。見えない困難を可視化し、考え深めていく筋道を生み出していく営みである。


 しかし、ゆとりのない教育現場では、正義の概念を持ち込み、

子どもをその正しさによって規制(説明、説得、矯正、強制、断罪、排除など)する方法が拡大しているようにも思える。

この正義の概念は、「特別の教科 道徳」においては国家選定の価値だが、

通常の授業などでは、指導者が単独で平和と民主主義の側に立った価値であると判断している場合もあるだろう。


学校で教師が行っている指導には、このような方法が多く用いられているのではないだろうか。

正しいことであっても押し付けないという、教育の当事者間の民主主義、考え方の自由は現場の側からの問わなければならない。


 現場の教師自身が、子ども、とりわけ当事者の目線に立って、当事者とともに困難な状況をよく見つめ、その乗り越えの道を発見する方法を深めなくてはならない。

正義による断罪は教師や親など外から行われることもあるが、子ども自ら「正義」の観念・感覚を身につけて自らを縛り上げることもある。

「ダメだ」と他人に言われ、あるいは自分で言い聞かせて、例えば暴力などが収まるのであれば、それは大した困難ではない。

言われようと押さえつけられようと収められずに噴出してしまうような行為・言動こそが、

子どもや教育現場を悩ませる道徳的困難であり、それを正面から受け止め考え合う集団がなければ、その困難を解決していくことにはならない。


 困難を個人の問題にして排除してしまえば、思想は違っても、方法としては、権力で困難を解決することになる。

子どもたちは、教師に示される正義に応えられない自分を恥じ、自分の中から生まれる思想を大切に出来ず、外的な規範に従うことを学んでしまうだろう。



4.対抗軸は教室の実践のリアル

 「特別の教科 道徳」には、子どもたちが身に着けるべき徳目はあるが、生身の子どもたちが現実に苦悩している道徳性の課題はない。

だとすれば、現場の教師たちは、学校と教室の子どもの現実から出発し、それを丁寧に指導していくことにこそ対抗軸があることを、深く自覚しなければならない。


 まず第一に、道徳教育の課題は、指導要領や国に検定された教科書から出てくるものではないと考えるべきである。

子どもたちは、毎日生きて学校に来る。

朝ごはんを食べられない子ども、早起きが出来なかった子ども、元気に「おはよう」とあいさつができない子どもが来る。

その子どもたちに「規則正しい生活をしなさい」と迫ることに教育的意義があるとは思えない。


 小学6年生の琉は、シングルマザーのお母さんと弟二人と暮らしている。朝ごはんは食べない。食べると気分が悪くなるからだと本人は言う。

でも、弟二人にはパンを食べさせている。

「育ち盛りやから、胃が小さくなったらあかん」と言う琉に、「あんたも育ち盛りやろ」と突っ込むが、笑っている。

琉は、時々弟を保育所に送って行ったりもする。

外から見れば、過酷な生活を生きる可哀そうな子どもに見えないでもないが、本人は家族を支えて誇り高く生きている。

学校では、担任に甘えてグズグズ文句を言う日もあるが、洒落の分かる面白い琉は、人気者だ。


 その琉に、おじいさん・おばあさん・お父さん・お母さん・子どもが二人笑って食卓を囲んでいる「家族ってすてき」と書かれた教科書を見せて、

何を学ばせようというのか?


 国家が選定した「家族」像を正解だとして子どもたちに押し付ける時代は、もうとっくに過ぎ去っている。

教師自身だって、長時間過密労働の中で、毎日家族みんなで笑って食卓を囲める生活はしていないはずだ。


 教科書には、今を件名に生きている子どもたちのリアルはない。

子どもたちを励ます教育学的根拠も、困難はどこから生まれているのかという科学的根拠もない。

あるのは、国家権力の恣意的な意図だけだ。そんなものを、教室に持ち込むことに何の意味もない。


 私たちは、教室で違う名前を持ち、違う顔を持ち、様々な困難を抱えながら成長する一人ひとりを教育している。

そこで、子どもたちと格闘しながら発見された道徳性の課題こそが、

教科と教科外、学級指導、そして「特別の教科 道徳」を貫いて具体化されるべきなのだ。

だとすれば「特別の教科 道徳」をどう教えるか?という対抗軸では弱すぎる。


 子どもたちのリアルから出発した道徳性の課題を、教師自身が見つめ直し、学校や教室の中に位置づけて実践する覚悟が、まず、大切だと考える。


 第二に、「特別の教科 道徳」の授業そのものは、どうするのかということである。

「学習指導要領の解説 道徳編」では「指導の際には、特定の道徳的価値を絶対的なものとして指導したり、本来実感を伴って理解すべき道徳的価値のよさや大切さを観念的に理解させたりする学習に終始することがないように配慮することが大切である」と繰り返し述べている。

このことを根拠に、教師が年間を通じて、その学級の子どもたちに何を学ばせたいのか考え、計画を立てるべきである。


 計画を立てる際には、学習指導要領に示された「徳目」を年間通じて適切に教えることが求められている。

しかし、「徳目」には「人権」「平和」「福祉」が抜け落ちていることを忘れてはならない。


 大切なことは、一人ひとりの現場の教師が、年間指導計画に縛りつけられないことだ。計画は計画として立てる。

しかし、その時の子どもたちの実態から差し替えることも、深めることも、アプローチを変えることもあって当然だ。

計画通りに授業を進めるのではなく、年間通しての構想を持ちながら、学級・学年で柔軟に対応していく自由を手放してはならない。


 第三に評価だが、学校現場で丁寧に考え合うことが大切だと考える。

結果としての評価(総括的評価)は、文科省の文章でも根拠が示されていない。示すことは不可能だろう。

現在も、評価は各学校現場に任されているのが実態である。


ならば、現場の教職員の実態を大切にすべきである。


それでなくても小学校の高学年の教師は、記述式評価に疲弊している。

各学期の「所見」「総合の評価」「外国語の評価」加えて「道徳の評価」。そのいちいちに管理職の点検が入る。


道徳の評価として教師が一人ひとりの子どもに応じた丁寧な文章を書こうとすればするほど、教師のその子どもの人格への評価が入り込み、父母と齟齬を生じる結果にもなりかねない。

やればやるほど、多忙に追い込まれ困難が生じるのであれば、評価は、一年に一回「よく頑張りました」でいいと決断すべきだと私は考える。



 現場の教師は、子どもたちの成長を願い、真面目に努力している。私が出会ってきた現場の教師は、ほとんどそういった教師たちだった。


今、出来る一番大切なこどは、私たち現場の教師が、

子どもたちのリアルを丁寧に聴き取りその傍らで支える覚悟を手放さないこと、

父母と子どもたちの成長の道筋を語り合うこと、

そしてそれらを通して、教師という仕事を手放さず柔軟な対応を生み出していくことではないか。


責め合う関係ではなく、支え合う関係の中で、教室のリアルを語り出していきたい。

(おおえ みち/兵庫県公立小学校教師)

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