教科書採択を考える会ブログ

愛媛県松山市内の中学の歴史教科書が「育鵬社」版に変わるのを機に発足した会です。教科書比較の学習会も行っています。

第11回学習会 「68 世界恐慌と協調 外交の行きづまり」

2016-10-19 15:51:38 | 学習会
こんにちは、朝夕涼しくなりました。

私の周りでは風邪が流行っていますが、みなさんお変わりないでしょうか???



前回の学習会では、「大正デモクラシー」と「大正文化」で教科書の範囲が広く(各教科書6ページも比較しました)、

写真の使い方などブログページが見にくくなってしまいました。

わかりやすい報告ができるよう頑張っておりますが、力不足を感じます。精進します。

ご迷惑かけてすみません。



10月の学習会の報告をいたします。

10月11日(火)の第11回学習会には、22名の参加がありました。

チューターを引き受けてくださったのは、元中学校社会科教師のNさんでした。

今回の学習会では、Nさんの提案でチューターの説明<議論中心の運びとなりました。

では、さっそく教科書を見ていきましょう。

育鵬社 p.222-223


東京書籍 p.212-213


学び舎 p.226-227


育鵬社は、p.222-223のページ内に、世界恐慌から日本が受けた影響にあたる「昭和恐慌」まで記述があり、
東京書籍では、p.212-213では「世界恐慌」「ニューディール政策」「ブロック経済」の記述のみで、「昭和恐慌」の記述はp.216-217にあります。



学び舎では、文中に「昭和恐慌」という単語は出てきませんでした。



まず、育鵬社の記述について意見が出ました。

①冒頭1行目。
「1926年(大正15)年、大正天皇が亡くなり、摂政の皇太子が天皇に即位して、昭和時代が始まりました。」という記述は、
ほかの教科書には無い記述でした。

この記述は必要か? 育鵬社は天皇に関する記述が多すぎるように思う、など意見が出ました。


②次は、p.223の3行目の
「恐慌の影響を最も強く受けたのは、ブロックをつくれず、広い植民地をもたない日本やドイツ、イタリアといった新興の工業国でした。
これらの国々は海外から原材料や資源を輸入し、加工した製品を輸出する加工貿易で国を支えていたからです。」という記述です。

続く「世界恐慌の荒波は、国際協調時代の終わりを告げました。」と合わせて、何か作為的なものを感じました。
以降の戦争への流れを“経済的な問題を解決するため仕方なかった”と思わせたいが為の記述表現に思えます。


東京書籍、学び舎では、どのような表現になっているでしょうか?

東京書籍から。
「…ほかの国々にも深刻な不況をもたらしました。」(p.212 L11)

「これらに対して、植民地の少ないイタリア、ドイツ、日本などは、自らのブロック経済圏を作ろうとして、新たな領土の獲得を始めました。」(p.213 L12)
「このように各国は、10年ほど続いた深刻な不況に対して、それぞれ自国第一の政策を追求したので、国際連盟などによってできあがっていた国際協調の体制は大きく揺らぎました。」(p.213 L15)

日独伊の世界恐慌後の政策をしっかりと批判的に書いている東京書籍の方がしっくりくるという意見が多かったです。


学び舎は、各国の情勢を書くより不況下の人々の生活の様子を想起できる記述が中心となっています。

やはり学び舎は、従来の教科書の記述とは違う独特の切り口で記述がありますね。




③一番の議論になったのは、p.223の18行目からの
「そうしたなかで、政府は財政支出を増やして経済を刺激するとともに、輸出を増やす努力を重ね、恐慌からいち早くぬけ出すことに成功しました。」
という記述でした。


学習会の参加者からは、高橋是清の財政政策には賛同する意見が多かったですが、
資料5も含めて、
「いち早く(文中記述より)」「急速に(資料5の説明文より)」という表現が適当なのか??? 
本当に経済が回復していたとは思えないという疑問が噴出しました。

学び舎での記述と育鵬社の記述が真逆に感じる、という意見もありました。

育鵬社p.223の資料5について、
“29年世界恐慌 30年昭和恐慌 31年満州事変”と書き込んであるが、満州事変がきっかけで経済が好転したともとれるような資料ではないか、との指摘がありました。

また、「貿易額」を指標にしているが円安などの影響もあったかもしれない、これを以て「恐慌からの回復」と言えるのだろうか?と疑問が出されました。


東京書籍では、どのような資料が使われているでしょうか?

1929年を起点とした鉱工業生産指数となっています。
これを見ると、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツに比べて、日本が「いち早く」1932年から右肩上がりになっていますが、
この表を見るうえで特筆すべきは、ソビエトの成長っぷりではないでしょうか?
東京書籍の記述(p.213 L18)でも、「一方で、五か年計画を立てるなど、独自の経済政策を採っていたソ連は、大不況の影響を受けることなく成長を続け、アメリカに次ぐ工業国になりました。」とあります。


育鵬社では、今回学習した「68 世界恐慌と協調 外交の行きづまり」の次ページ「69 共産主義とファシズムの台頭」でソ連の記述があるのですが、
さすが、ソ連・共産主義敵視が色濃く出ている教科書と言われるだけあります。
表現にトゲトゲしいものを感じます。

「資本主義諸国が恐慌に苦しむなか、スターリンの率いるソ連は、共産主義の予言どおりの大恐慌が資本主義社会でおこったことに自信を深め、計画経済をおし進めました。
もともと経済水準が低かったこともあり、一定の成果があがりました。」




論点が逸れてしまいましたね、戻しましょう。


東京書籍の資料から見ても、比較的日本は指数回復が早かったようだということは言えます。

がしかし、何をもって「経済回復」なのか???というところに疑問が残りました。

今のアベノミクス経済みたいに回復したのは数字だけじゃないの?という意見が、学習会の中では多数出ました。



ここでの記述は、「財界」の「経済回復」ということだと指摘がありました。

当時の人々の生活は厳しいままだったということが、学び舎(p.227)の記述にはあります。


「また、1931年は冷害による凶作となり、とくに東北地方の農家は、毎日の食べ物にも困るほどでした。このため、欠食児童とよばれる、学校に弁当を持ってこられない子どもが増え、全国で20万人にもなることがわかりました。栄養失調や目の病気にかかる子どもも増えました。」

「【欠食児童と学校給食】文部省は、1932年9月から、予算を組んで臨時の学校給食を始めた。学校には給食設備はなかったので、教師がおにぎりなどをつくった。
多くの子どもたちは、幼い弟や妹にも食べさせたいと、半分残して家に持ち帰った。この給食は欠食児童のためのもので、昼休みの教室は、弁当を持ってくる子どもと、給食を食べる子どもに分かれた。
岩手県では、約16万人の児童のうち、1万2000人が給食を受けた(1935年)。
帝国議会では議員が、軍事費を減らして東北の農村にまわすべきだと主張し、政府は農村対策の予算を組んだ。しかし、1935年には、軍事費は年間予算の47%を占めた。」




チューターをしてくださったNさんは、

「“中学生、子どもたちにとってどれくらいわかるか?”ということを考えながら、教科書としての評価を議論したい」と言われていました。


ともすれば、この単元では「世界恐慌」「ブロック経済」「ニューディール政策」の3単語を説明できるようになれば理解したことになりがちだろうが、

株価についてどこまで説明して理解を深めれば恐慌について理解できるか、

生産がストップするほどの過剰生産というのはそれまでなかったような異常な現象だったことをどうすれば伝えられるか、

ニューディール政策についても経済立て直しのために国がお金を出すことは初めてだったことをどう伝えればよいか、

子どもたちの視点を大事に…という言葉が印象的でした。

教師魂というやつでしょうか。改めて先生ってすごいなぁと思いました。



改めて、三社の教科書のこの単元を読み比べてみると、

育鵬社は、既存の教科書表現を短い文章にまとめ、前後に誘導的な記述がちりばめられているという印象を受けます。

東京書籍は、戦争の道へ続く危惧を表現しているものの、客観性とバランス重視で「ここが大事」というところが見えにくいと思いました。

学び舎は、ブロック経済・ニューディール政策の説明が他の二社にくらべて極端に少なく、「経済のことはまだわからんでええ」と言われているような印象を受けます。

その代りに、「大切な貯金を失いました」のように当時の人の気持ちを代弁するような記述が多くあります。


かつて東大入試で金子みすゞが出題されていた、ということをふと思い出します。

出題者の意図は、人の上に立つ人間は弱者の気持ちがわからないといけないというものだったそうです。



三社の教科書記述を読み比べて、あなたはどう感じましたか?

子どもの手に渡したいと思うのは、どの教科書でしょうか??