2017 5.3愛媛憲法集会にて、教科書採択を考える会のビラを配布させてもらいました。
森友学園問題について入学式のときに配布したビラを、デザインを少し変えてつくったものです。
思い返すと、裏面の「教育勅語」の原文の入力と、ふりがなをつける作業が一番手間だったのですが_:(´ཀ`」 ∠):、
入力しながら(間違えないように)何度も何度も声に出して読んでいる中で思ったことがいくつかありました。
ひとつは、漢文を読むと国語力が上がった気になるなと思ったこと。
ふたつめは、漢文表現は普段使わない表現が多く、大人でも理解しづらいということ。
みっつめは、理解していなくても暗唱はできるようになるということ(口に出していたら子どもの方が早く覚えていてびっくりでした)。
よっつめは、何度も何度も読んでいるうちに最初に感じていた違和感がわからなくなるということ、でした。
10年ほど前だから、一昔前になるのでしょうか。
齋藤孝先生の『国語力』に注目が集まり、漢文や有名な文学作品の一部を暗唱することが流行しましたね。
そのことをふっと思い出しました。
某子ども番組では、子どもたちが難しい文章など暗唱する姿が見られました(去年同じ番組をちょっとみたとき、一頃より難しさが和らいだ印象を受けました)。
暗唱している子は意味がわかっているのかいないのかは、画面をみている私にはわからないことですが、すらすら言える子がすごいなと思いましたし、暗唱している子どもからは一生懸命さと自信に満ちた表情を感じました。
何回も何回も練習して、言えるようになったんだなぁと思います(おしごとだったとしても大変だったことでしょう)。
私は専門家ではありませんが、この番組から
「子どもたちに語彙に溢れていた時代の日本語に触れてほしい」
「子どもたちに、ことばでの表現の幅を広げてほしい」
という意図を感じていました。
一昔前の子どもの暗唱ブームは、こういった想いから大人が主体で流行したものだと考えています。
同じ漢文表現でも、「教育勅語」が当時注目されなかったのはなぜか?を考えてみました。
たぶん、「表現を模倣できる文章では無いから」が理由ではなかろうかと思います。
何かを習得するときはまず模倣から、といいますが、
漢文的な表現をする際も覚えた表現のストックから
自分の表現に合うものを探してあてはめていくということからはじめると思われます。
でも、「教育勅語」の表現からは学べるところが全然ない。
だって、「教育勅語」は天皇陛下から少国民への業務命令なんですから。
私たちが「朕」という一人称をつかうことは、たぶん人生の中で一度も無いでしょう。
「教育勅語」の暗唱ができるようになった子どもたちも、達成感で自信に満ち満ちていたかもしれません。
でも、それが自分の表現能力を高めることにもならず、
大人のいうことをきくための道具になったり、
自分の自由を制限するものになってしまうのは、とてもかなしいことだと思います。