教科書採択を考える会ブログ

愛媛県松山市内の中学の歴史教科書が「育鵬社」版に変わるのを機に発足した会です。教科書比較の学習会も行っています。

…だから、教育出版の道徳教科書は問題なんですね。

2017-09-21 09:33:05 | 傍聴日記


8月8日の松山市教育委員会定例会で否決された「教育出版の道徳教科書を採択しないことを求める請願書」の中身です
(他団体が提出したものですが、傍聴者全員に配られた公開資料となっていますので掲載させてもらいます)。


「…だから、教育出版の道徳教科書は問題なんだ!」というポイントが、具体例とともにくわしく書かれていました。


来年度から「松山市内の小学生」が使う教科書です。15ページ分と長いですが、ぜひチェックしてみてください。


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教育出版の道徳教科書を採択しないことを求める請願書  2017年7月18日



【請願事項】
一  教育出版の道徳教科書を採択し、子どもたちに教え、使わせることは、憲法及び子どもの権利条約に反するので、それを採択しないこと。

二  道徳教科書を採択する教育委員会(会議)においては、採択する教科書の内容が憲法及び子どもの権利条約に反していないことを、当該教科書に即して具体的に説明すること。
  上記を、保護者・市民らに対し、公開の場で行うこと。

三  貴教育委員会は、請願権に基づく「晴眼者による当請願の趣旨説明」を受けた後で、本『請願書』についての審議を行うこと。


 なお、請願者らは、次回教育委員会会議に、請願権に基づく請願者として出席する予定なので、貴教育委員会において、あらかじめそのための席を用意されるよう要請する。



【請願の趣旨及び理由】

 一般行政だけでなく、教育もまた、立憲主義に基づいて行わなければならないことは言うまでもない。

 そして、日本国憲法の各条文を導き出す基本原理は<人権原理>と<人民主権原理>であり、その核心にある価値は<個人の尊厳>である。
これは、個人よりも集団や国家に価値を置く「全体主義」に対して、全体よりも個人に価値を置く、個人を価値の根源とする原理である。
したがって、教育も、「個人の尊厳」を原理とし、その原理に基いて行わなければならない。


 子どもたちは、憲法13条及び26条により、「個人の尊重」に基づく教育を受ける権利を有する。
また、憲法19条及び子どもの権利条約14条(注1:14条の1 締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。)により、
個人の内心に対する国家―公的機関からの介入・干渉・操作を受けない自由を有する。したがって、公的教育機関は、「個人の尊重」に基づく教育を保障しなければならない。
また、子どもの「内心の自由」を侵してはならない。



また、最高裁は、学校教育に対する以下のような判示を行っている。

(最高裁大法廷「旭川学力テスト事件」判決)
 教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されないと解することができる


 つまり、「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなこと」は、憲法13条・26条に反するのである。

 以上から、公的教育機関は、<人権原理><人民主権原理>―<個人の尊厳>に反する教育を行ってはならない。

個人より全体―集団・国家に価値を置き、それを愛し、尊重させるような教育を行ってはならない。
また、国家―公的機関が決めた特定の価値観を「善きもの」として、一方的に「子どもに植えるけるような内容の教育」を行ってはならない。これらの行為はすべて憲法・子どもの権利条約及び最高裁判決に反するからである。


 来年度からの「道徳教科化」に向けて、文科省による検定を受け、各教育委員会の採択対象となっている各社道徳教科書は、そのほとんどが、憲法等で禁止された上記のような内容をもつものである。

 さらに、教科書の読み手が「日本人」のみであることを当然の前提とし、「日本人」以外の日本国民(日本国籍保有者)や在日外国人の児童の存在を全く無視していることも、ほとんどの教科書に共通している大きく、かつ深刻な問題である。

 貴教育委員会が、それでも、これらの教科書の中から一社の教科書を選び、採択を行わなければならない状況にあることは、私たちも周知のことである。

 このとき、各自治体における教育を立憲主義的に行う責務を有する各教育委員会がすべきことは、それらの教科書を現場の教員を中心によく調査・吟味し、それらのなかから、憲法等に反する程度の最も小さい教科書を選ぶことである。(注2)

 そして、憲法等に反する程度の最も大きい教科書を、決して選び、採択しないことである。

 ここにおいて各社の教科書を見るとき、教育出版の教科書は、下記の如く、憲法等に完全に反する内容で一貫しており、その違反の程度は、他社と比べてはるかに突出している。

たとえば、子どもたちを過剰な日本賛美へと誘導するなど、偏狭で自己中心的なナショナリズムに基づく、「一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施す」程度の強さ・大きさは他社に突出している。

 以上から、教育委員会が憲法違反の教育出版教科書をあえて採択し、子どもたちに使わせることは、公的機関に属する者の「憲法尊重擁護義務」を定めた憲法99条に反する行為である。

 また、それは、偏狭なナショナリズムに基づく「一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制する」という違憲行為を意味する。


 したがって、貴教育委員会は、教育出版道徳教科書を採択してはならない。



【教育出版教科書の内容・特色とその違憲性】

一  教育出版教科書の内容・特色

 教育出版教科書は、上記・憲法の原理及び13条に反するところの「個人より全体―集団・国家に価値を置き、それを愛し、尊重させるような」内容を基本としている。

また、上記・最高裁判決が13条・26条違反であるとして「一方的な観念を子どもに植えつけるような内容」の教科書となっている。

 この教科書が上記のような目的を持っていることは、具体的記述の形・方法に表れている。そこでは、ひとつのテーマにおけるさまざまな考え方や価値観などについて、子どもたちが比較し、考える機会が提供されておらず、あらかじめ決められた一方向に子どもたちを誘導していく記述方法―「仕掛け」がとられている。

 これは思想・良心の自由な形成を妨げるような「内心への干渉・介入・操作」を禁じた憲法19条に違反する。

 ここに、以上のような内容の全てを紹介することはできないので、少しだけ例示することとする。


<教材1> 4年生【くにやきょう土をあいする】

 上記タイトルの項において、まず、読み手である子どもたちに、「みなさんは、わたしたちの国のどんなところが好きですか。わたしたちの国や生まれ育った地いきのよいところをさがしてみましょう。」と呼びかける。

 ここでまず、「わたしたちの国のきらいなところ」「わたしたちの国のわるいところ」について考え、探す作業(の可能性)は、あらかじめ遮断―封印されている。


 そして、次に、<日本人が世界に広めたすごいもの>との見出しが躍る。

ここでは、「わたしたちの国=日本人の国」という前提―構図が当然視されていて、この国―社会に住む「日本人」以外の日本国民(日本国籍保有者)や在日外国人の存在は全く無視され、完全に視野の外に置かれている。

 続けて本文では、「日本人が発明したり、くふうを加えたりすることで、世界に広まったものに、次のような品物があります。」として、レトルトカレー・カラオケ・インスタントラーメン・シャープペンシル・温水せんじょう便ざ・電気すい飯器が紹介されている。

 そして、上記を前提に、「あなたは、どの発明やくふうがすごいと思いますか。」という問いかけが、子どもたちに発せられている。

ここで問いかけられているのも「すごいと思うもの」だけであって、それらの「発明」について「すごくない―たいしたことはない」と感じたり、考えたりすることはできない仕掛けになっている。

 さらに、この教科書では、「問いかけ」だけでは終わらない。

続けて、その「問いかけ」に対する次のような「答え」―「模範解答」が用意されており、子どもたちの思考はそこへと<一方的に誘導されていく>仕掛けとなっているのである。



「電気すい飯器が発明されたことで、くらしがとても便利になったと思うよ。」

「便利さだけじゃなく、ぎじゅつの高さもすごいと思うな。」


 ところで、『小学校学習指導要領「生きる力」』の「第1章 総則」には次のように書かれている。

学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、児童に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、
基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむとともに、
主体的に学習に取り組む態度を養い、個性を生かす教育の充実に努めなければならない。



 子どもたちが「生きる力」をつけていくうえで必要なものは、上にいうようにさまざまな「課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力」だろう。

しかし、ひとつのテーマについて多角的に見、考えることをあらかじめ排除して、唯一の「模範解答」へと誘導していく上記「教材」によっては、
そのような思考力や判断力が決してつかないことはあまりに明らかだろう。

 それだけではない。

上のような「教材」によって、私たちは、「思考」も「判断」も為し得ぬまま、無批判かつ過剰な「日本賛美」の心性を一方的に持たされるのである。
また、上に見たように、「わたしたちの国=日本人の国」という構図―非常に自己中心的で排外主義的な「一方的な観念」を、あたかも当然の事実であるかのように「植えつけられる」のである。

 すなわち、この「教材」は、偏狭なナショナリズムに基づく「一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制する」ものであって、上の最高裁判決が示したように、憲法13条及び26条に違反するものなのである。そしてそれは、思想・良心の自由な形成を妨げるような「内心への干渉・介入・操作」を禁じた憲法19条にも違反するものである。



<教材2>  3年生【くにやきょう土をあいする】

 この「項目―徳目」の見出しは、<わたしの見たニッポン>である。

「外国の人たち」が見た「日本や日本人」という設定で、古いお寺や神社・茶道・温泉・鉄道・お花見・日本の食文化を、「日本の素晴らしいもの」という前提で羅列している。

そして、「どこがどのようにいいのか、日本のでんとうや文化のすばらしさについて話し合いましょう。」と子どもたちに促している。


 ここでも、子どもたちに話し合うよう促していることは、「日本の伝統や文化のすばらしさ」のみであって、悪いところや問題点などについても思考をめぐらす作業は、あらかじめ排除されている。
そして、上の(1)の「教材」同様、「促し」や「問いかけ」に対する次のような「回答」もすでに用意されている。


「日本のりょう理は、きせつの食ざいを生かしている」


「食事の作ほうもすてきな文化だと思うな」


「れきしのあるたて物を、長い間守ってきたことがすごいと思います」


「自ぜんの美しさを大切にする心が、すばらしいと思うよ」



 もう、説明を繰り返す必要はないだろう。この「教材」もまた、子どもたちに「思考」も「判断」もさせぬまま、無批判かつ過剰な「日本賛美」の心性―自己中心的な「ものの見方」を、一方的に「植えつける」ものである。

 すなわち、偏狭なナショナリズムに基づく「一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制する」教材なのである。




<教材3> 2年生【せかいのひとたちに親しむ】

 この項のタイトルは、上記のように「せかいのひとたちに親しむ」である。

しかし、その本文はその冒頭から、すでに「ひと―個人」は消え、次のようになっている。


「せかいにはたくさんの国があります。みなさんはどんな国を知っていますか。知っている国の名前をあげてみましょう。」


 ここで、「ひと」は「国」に、知らぬ間にとって代わっているが、それは、さらに、次のような見出しと本文に突然、移行する。



<大切な国旗と国歌>

「せかいにはたくさんの国があり、どの国も国旗や国歌があります」

「国旗や国歌は、どの国でも大切にされているんだって。」



 この項のタイトル―テーマは、「せかいのひとたちに親しむ」ということであったはずが、子どもたちは、何ら理由・根拠も示されることなく、「大切な国旗と国歌」というテーマへと連れて行かれる、つまり、誘導されているのである。

 これは、「せかいのひとたちに親しむ」とは「国旗と国歌を大切にすること」である、あるいは、「せかいのひとたちに親しむ」ためには「国旗と国歌を大切にしなければならない」という「一方的な観念」を、子どもたちが意図的、誘導的に「植えつけ」られていることを意味する。


 そして、「せかいのひとたちに親しむ」がタイトル―テーマのはずのこの項目の終わりでは、「日本の国旗は『日の丸』、日本の国家は『きみがよ』だね。」と、日本の国旗・国家の確認が行われている。

また、この見開きのページに掲載されている写真は、海外のものではなく、「日本の国家(きみがよ)を歌うせん手たち」と、背景の中央に日の丸が大きく掲げられ、日本人が表彰されている「オリンピックのひょうしょうしき」のものなのである。


 この項には、さらに大きな問題が存在している。この項の本文中には、次のようなことが書かれている。


「オリンピックのひょうしょうしきでも、国旗がかかげられ、国家がえんそうされます。」



 上記は明らかな間違いである。

オリンピックにおける旗は、仮にそれが国旗と同じものであっても、それはあくまでNOC-各国オリンピック委員会(選手団)の旗であるというのが、オリンピック憲章における位置づけであり、それは、過剰なナショナリズムを防ぐためにとられた規定である(注3)。

つまり、「オリンピックのひょうしょうしき」で「かかげられ」ているのは「国旗」ではない。

したがって、上記・記述内容が、「謝った知識や一方的観念を子どもに植えつける」内容であることは、あまりにも歴然としている。



<教材4>  2年生【みにつけよう れいぎ・マナー】


 この項では、「公共の場でのマナー」などと共に、「国旗・国家を大切にする」ことを、子どもたちが「みにつける」べき「マナー」としている。

また、「日の丸」を、1ページのスペースの中に、目立つ形で、四カ所にわたって掲載している。

そして、「国家や国旗を大切にする気持ちのあらわし方」として、以下のような行為を、まるで、それが普遍的なきまりであるかのように断定的に示している。



「き立して国旗にたいしてしせいを正し、ぼうしをとって、れいをします。」



 
 個人ならぬ「全体」である国家の「国旗や国歌を大切にする」かどうか、国旗に対して「起立して姿勢を正し、帽子をとって、礼をする」かどうかは、あくまでも「個人の意思」に基かなければならない。

それが、憲法上の規定であり、要請である。

 しかし、上の教科書記述は、子どもたちに、この憲法上の規定―原理を全く知らせないまま、それが普遍的なきまりであるかのように断定的に提示している。

これは、「個人よりも全体―国家(の象徴)を大切にする―尊重する」姿勢・観念の「一方的」強要である。

したがって、この記述内容は、「個人の尊厳」という憲法の核心原理、及び「個人の尊重」を義務付ける憲法13条に、真っ向から反するものである。


 さらに、この項では、「国家(きみがよ)のいみ」として、次のように記している。



「小石が大きな岩となり、その上にこけが生えるまで、いつまでも日本の国がへいわでさかえますように、というねがいがこめられています。」



 大日本帝国政府が児童・生徒や臣民に強制する以前の時代における「君が代」は、政府が押し付けたような意味・性格をもつものでなかったとするなどの諸説・研究が存在する。

しかし、大日本帝国においては、次のような意味で使われていたことは明白である。



 「君が代」の歌は、「我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も万年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるように」といふ意味で、まことにおめでたい歌であります。
(国定教科書『小学修身書  巻四』1937年より抜粋)



 そして、上のような歌詞―解釈が戦後憲法とは矛盾するものとなって以降も、日本国家がその解釈を、上の「教育出版記述」のように、公式に変えた事実はない。

また、歌詞の言葉ひとつひとつに即しても、「へいわ」というような意味は、どこからも導き出しようがない。

 つまり、ここでも教育出版教科書は、明らかに「誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつける」内容を記載しているのである。



<教材その他> 安倍首相を東大阪市長の写真掲載


 以上に付け加えれば、道徳教科書に、安倍首相と野田東大阪市長という当該政治機構の最高権力者の写真を掲載しているのも、教育出版だけである。


 下の「三」で述べるが、教育出版教科書は、育鵬社関係者によって監修・執筆されたものである。

安倍首相は、その育鵬社版教科書を強く支持する者であり、野田東大阪市長は、当自治体における育鵬社版教科書採択に大きく貢献した者である。

教育出版道徳教科書は、このような二人の写真を、本文内容とは直接的な関係がないにもかかわらず、掲載しているのである。 



[教育出版教科書の内容・特色のまとめ]

 ここで、上記以外の記述内容もふくめて、その全体的特色を整理しておきたい。

①個人よりも全体(集団・国家)に価値を置き、後者を尊重させようとする姿勢が顕著である。
 
 個人を、<全体(集団・国家)あっての個人>―<全体に貢献すべき個人>と位置づける姿勢・立場から作成された「教材」が多い。


②「個人の意思」や「個人の尊重」の大事さに触れることなく、「全体」としての社会や集団の「きまり」を一方的に守らせようとする「教材」がとても多い。


③多角的・多面的な見方、考え方を知らせぬまま、その「教材」の目指す目的・徳目―到着点に向け、一方向的に誘導していく記述の形・方法を多用している。

 したがって、「一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育」をスムーズに行える教科書となっている。



二  教育出版道徳教科書は憲法に反する

 教育出版教科書は、憲法の原理、13条・26条、そして19条に反するものである。

(1)教育出版教科書は、憲法の基本原理に反する

 日本国憲法の核心にある価値は<個人の尊厳>である。これは、個人よりも集団や国歌に価値を置く「全体主義」に対して、全体よりも個人に価値を置く、個人を価値の根源とする原理である。
 このことについて、憲法学者の高橋和之は次のように述べている。



 今日では、人権の根拠は「個人の尊厳」という思想に求められている。

それは、社会あるいは国家という人間集団を構成する原理として、個人に価値の根源を置き、集団(全体)を個人(部分)の福祉を実現するための手段をみる個人主義の思想である。

個人主義に対立するのは、価値の根源を集団に置き、個人は集団の一部として、集団に貢献する限りにおいてしか価値をもたないとする全体主義であるが、

「個人の尊厳」を表明した日本国憲法(24条参照)は、全体主義を否定し個人主義の立場に立つことを宣言したのである。(高橋和之『立憲主義と日本国憲法(第2版)』)


 したがって、教育も、「個人の尊厳」を原理とし、その原理に基いて行わなければならない。
 
 しかし、教育出版教科書は上記「内容・特色のまとめ」で示したように、個人を全体のなかに位置づけ、個人よりも全体を尊重させようとする姿勢・立場の記述で一貫しているので違憲である。


(2)教育出版教科書は、憲法13条・26条に反する

 子どもたちは、憲法13条及び26条により、「個人の尊厳」に基づく教育を受ける権利を有する。

 「すべて国民(人民)は、個人として尊重される。」と謳った13条が、個人ひとりひとりを独立した存在ー人格ととらえ、その個人を尊重し、その価値を最大限に評価しようとする規定であることは言うまでもない。

 そして、26条が規定する「教育を受ける権利」にいう、その「教育」の内容は、当然ながら、憲法の基本原理である「個人の尊厳」と13条にいう「個人の尊重」に基づく教育でなければならない。

 つまり、「教育を受ける権利」とは、尊厳ある個人が「個人として尊重される」教育なのである。

 このような立場から、26条は、次のように解説される。


 個人が自己のもっとも価値あると思う生き方を自律的に選択し実践していくことができるためには、それに必要な成熟した判断能力と教養等をみにつける必要がある。

子どものそうした基礎的な能力と知識を育てる過程が教育であり、子どもが「個人として尊重」されるために不可欠の権利として、本条(26条―請願者)は「教育を受ける権利」を保障した。

…個人の尊重いう観点から重要なことは、子どもが主体的に学んでいくことであり、学んでいく能力を獲得し鍛錬していくことである。

教育の役割は、それを助けることにすぎない。

このことを見失わないために、教育を受ける権利を考える場合には、子どもの「学習権」を常に中心に置いていく必要があると指摘されている。

判例もかかる学習権の観念の存在を認めている(旭川学力テスト事件判決参照)。(高橋和之『立憲主義と日本国憲法(第2版)』)




 上に言うように、「子どもが『個人として尊重』されるために不可欠の権利として、26条は『教育を受ける権利』を保障した」のである。

 したがって、子どもを「個人として尊重」するのではなく、個人を全体のなかに位置づけ、個人よりも全体を尊重しようとする教育出版教科書は、憲法13条及び26条に反するものである。

 また、教育出版教科書が「誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容」のものであることも、上記「一」で、具体的教材に即して示したとおりである。

このような内容の教科書が憲法13条及び26条に反していることは、すでに紹介した『最高裁大法廷「旭川学力テスト事件」判決』が判示したとおりである。



(3)教育出版教科書は、憲法19条に反する

 まずは、憲法19条についての解説・学説を引用・紹介する。



 思想は人間の内面的精神活動であり、特定思想をもつことを政府が強要することは一見不可能のようにもみえる。しかし、特定思想の強要は、実際には、その形成過程においてなされる。

典型例として、政府が特定思想を教育・宣伝などの手段によって強制・勧奨することがあげられる。政府が行うマインド・コントロール(洗脳)である。(渋谷秀樹『憲法』)



 上記のように、「特定思想の強制」―<個人の内心への介入・干渉・操作>を可能とする時期は、「その形成過程」、つまり、児童や生徒の時代なのである。そしてそれは、「教育などの手段によって」、「強制」のみではなく、「勧奨」といったレベルの行為によっても可能であることを、上記「解説」は述べているのである。

 憲法19条についての解説・学説を、もうひとつ紹介したい。




<内心の操作>…思想・良心の自由な形成を妨げることも、思想・良心の自由の侵害となりうる。

たとえば、個人を特定の思想・良心にしか接しえないような環境下におき、その思想・良心によって「洗脳」するとすれば、思想・良心の自由の侵害と言わざるをえないであろう。

学校・監獄(刑事収容施設)・精神病院・軍隊などのように、多かれ少なかれ「囚われの聴衆」的性格を帯びやすい「施設」には、常にこの種の危険がある。

こうした危険を回避するには、施設内で「対抗言論」に接しうるよう配慮する必要がある。(高橋和之『立憲主義と日本国憲法(第2版)』)



 上記「解説」に出てくる「囚われの聴衆」とは以下のことを指す。

 たとえば、地下鉄の車内で、ある広告の放送などが流されるとき、乗客は、自分の意思とは関係なく、その放送を聴かされることになり、その車内にいるかぎり、その放送が耳に入ってくることを拒否できない。

仮に、放送を流す側に、聴くことを強要する意思がなかったとしても、乗客を、そこから逃れることができない密室(「囚われの状態」)に置いた状態で流す放送は、乗客に、それを聴くことを強要したことと同じ意味を持つこととなる。


ここでの乗客のような状態に置かれている人びとを指して「囚われの聴衆」と呼ぶ。そして、憲法学において、学校の児童・生徒は、「囚われの聴衆」の見做されているのである。


 上記の「解説」も、軍隊や監獄と並んで学校もまた「囚われの聴衆」的性格を帯びやすい「施設」であるとし、

そこにいる児童・生徒らは「特定の思想・良心にしか接しえないような環境下」で、内心を操作され、「思想・良心の自由」を「侵害」される「危険」が常にあるとしているのである。



 そして、その「危険を回避するには、施設内で「対抗言論」に接しうるよう配慮する必要がある」とする。



ここでいう「対抗言論」とは、その「施設」―学校・教室・教科書から一方的に流される「特定の思想」に対し、それを批判したり、相対化し得る別の「思想」―「ものの見方・考え方」のことである。

 したがって、上の【教育出版教科書の内容と特色】のところで具体的に例示して説明した「教材」のように、ひとつのテーマにおける多様な「見方・考え方」を示すことなく、

あるいは、あらかじめ、それを考え得る可能性を封じて、「特定の見方・考え方」のみ示し、そこに誘導しようとすることは、子どもたちを、「対抗言論」の存在しないまま、

「囚われの聴衆」状態に置くことなのである。

上記「解説」は、そこには、「常にこの種の危険」―「思想・良心の自由の侵害」があるというのである。


 繰り返すが、教育出版教科書は、多角的・多面的な見方・考え方を知らせぬまま、その「教材」の目指す目的・徳目―到達点に向け、一方向的に誘導していく記述の形・方法を多用している。

上記から、このような教科書が憲法19条に反することは明白である。



三  教育出版を育鵬社関係者が執筆


 教育出版教科書の監修・執筆には、森友学園問題等で有名になった「日本会議」(改憲推進団体)系育鵬社教科書関係者が大きく関与している。


 教育出版道徳教科書の三人の監修者のうちの二人は、貝塚茂樹氏と柳沼良太氏である。


 貝塚茂樹氏は、育鵬社『13歳からの道徳教科書』(中学校道徳教科書パイロット版)の編著者である。

日本会議系の教育学者で、文科省の中央教育審議会委員を歴任した安倍政権の道徳教育政策ブレーンでもある。


 柳沼良太氏は、育鵬社『はじめての道徳教科書』(小学校道徳教科書パイロット版)の編著者である。


 上記の二人以外にも、育鵬社発行『学校で学びたい日本の偉人』の執筆陣の多くが教育出版道徳教科書の執筆者に名を連ねている。



 育鵬社教科書の実質的作成団体である「日本教育再生機構」及びその作成に大きく関わり、その採択運動を進める「日本会議」は、

ともに現憲法を大日本帝国型の憲法にかえることを信条・目的とする者たちが集まった右翼・国家主義団体である。


 そして、子どもたちをそうした自分たちの「信条・目的」の方向に教化すること、

あるいは、極めて強い日本ナショナリズムの心情に基づいて、日本(のみ)を過剰に賛美する教科書を子どもたちに使わせること―。

育鵬社教科書は、もともと、このような他社の教科書にはない「大人の政治的欲望」とイデオロギーと明確な政治目的をもって作り始めた教科書なのである。

 
 教育出版道徳教科書は、そのような育鵬社関係者が大きく関与する形でつくられたものなのである。



 以下のとおり、教育出版道徳教科書は、憲法の基本原理、そして、13条・19条・26条に完全に反するものである。

したがって、貴教育委員会は当教科書を決して採択してはならない。               

以上



(注2)
 請願者らの調査・検討によれば、そもそも憲法に反する「道徳教科化」体制で使われても、「憲法等に反する程度」が「最も小さい」程度ですむ可能性のある教科書は、光村図書だと考える。

本教科書は、子どもを特定の価値観―徳目へと一方的に誘導することを避け、子ども自身が考えられるような仕組みにしている。

また、「日本の伝統と文化」を扱う場合でも、それが、過剰な日本賛美や偏狭なナショナリズムにつながらないよう配慮している。

 あるいは、子どもの権利条約や世界人権宣言を取り上げ、その意義と内容を自ら考えることができるようにしていたり、また、差別と共生について深く考えることができる教材も多い。

言葉自体としては、小学生にはまだ抽象的でわかりにくいだろう<人権>の大切さを、実感として感じ、理解していくことができるような工夫がなされている。



(注3)
 オリンピック競技大会は、以下の憲章が規定するように、もともと、国家間の競争ではなく、選手間の競争なので、「国旗」という概念が成立しようがない。それゆえに、当大会で使われる旗もNOC-各国オリンピック委員会の旗なのである。以下、関係するオリンピック憲章の条文を挙げておく。

31.NOCの旗、エンブレム、讃歌
NOCがオリンピック競技大会を含む自身の活動に関連して採用する旗、エンブレム、讃歌はIOC理事会の承認を得なければならない。

6.オリンピック競技大会
1 オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。大会にはNOCが選抜し、IOCから参加登録申請を認められた選手が集う。
選手は関係IFの技術面での指導のもとに競技する。

9月5日 松山市議会の傍聴

2017-09-20 16:58:15 | 傍聴日記
2017年9月5日、杉村ちえ議員が松山市議会で、教科書採択問題について質問しました。

(以下、事務局スタッフが書き起こしです)



(質疑応答)
1.教育を受ける権利の主体は、子どもであるという認識はあるか?

「主体は、子どもにある。」


2.教科書は、教師や有識者、保護者をはじめ、市民の幅広い意見を反映し、より良いものを選択すべきであると考えるか?

「校長、教師、有識者、保護者の意見を反映すべきである。」
(市長への答弁の要請に対して、教育長は拒否)


3.懇話会は何回開かれたか?

「5月と7月の2回。個人の意見としてうけとめる。」


4.教育委員は、懇話会と直接意見交換をしたか?

「直接の意見交換はない。」


5.どのような方針・観点・指標をもって臨んだのか?

「基本方針は、学習指導要領、調査研究の成果に基づき、児童生徒の実態並びに学校及び本市の実情に応じた教科書を採択する。

 観点は、考え、議論する・いじめ・情報モラルについて中心に考えた。」


6.事前に採択方針を明らかにすべきだと思うが?

「事前に出す考えはない。」


7.採択委員会が、答申した教科書と異なる教科書を採択した事実はないか?

「平成23年(2011年)まで答申。平成26年(2014年)要綱をつくって懇話会になった。平成23年まではない。」


8.採択委員会が答申することにどのような問題があったのか?

「文部省の通達通知には、「教科書採択にあたっては、採択権者の責任が不明確になることがないよう、採択手続きの適正化に努めること」と示されており、
採択手続きの適正化に真摯に取り組み、現在に至っている。」


9.採択委員会の廃止について、どのように検討し、決定したのか?

「平成24年9月の文部科学省の通知で、採択手続きの適正化を図るよう示されたことから、平成26年3月の第4回松山市教育委員会臨時会で

採択委員会は、広く意見を出していただく懇話会形式で行う方が望ましいと議論され、松山市教科書採択委員会規則を廃止する規則を定めた。」


10.調査部会への指示権を教育委員会が持つことは、採択の趣旨に違反するのではないか?

11.学校報告書について、いつ・どこで・どのような議論で決めたのか?

12.従来通り、現場の希望を明らかにするために報告を求める考えはあるか?

13.教育委員による恣意的判断が可能になる、一連の制度改悪は教育委員の指示があったのか?それとも、事務方の考えたものか?外部からの働きかけがあったのではないか?

14.教科書採択委員会を再設置する考えはあるか?

「学校報告書には、序列をつけたものをもとめるのではなく、拘束力がないものにした。

 一連の変更は、事務局で審議し、教育委員で決定した。外部からの指示はない。採択の権限は教育委員にあるので、教科書採択委員会を再設置する考えはない。」


15.採択時の投票を記名とすべきと考えるが、その考えはないか?

「松山市教育委員会会議規則第10条に基づいて無記名にしたものであり、今後も規則に基づいて採択する。」

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教科書採択を、思惑通りに進めるためのシステム変更だとしか思えないいやらしいやり方だと思いました。

子どもたちの前で、道徳はこういうものだとか、いじめがダメだとか言えるのでしょうか?

言われた子どもたちはどう思うでしょうか?



そして、懇話会・調査部会・報告書については「個人的な意見」として、意見を採用するかどうかも教育委員任せになっています。

これでは、真摯に意見を表明した懇話会・調査部会・学校や保護者、市民に失礼であることはもちろん、本当に責任を取るべき事態が起こった場合に、5人の教育委員でどう責任が負えるのかと不思議でなりません。


わたしたちは、もっと民主的なシステムで採択がなされることを訴えます。

教科書採択の方法が変わった…?

2017-09-20 16:05:45 | 事務局日記


8月8日に、松山市教育委員会は「教育出版」を小学校道徳教科書に採択しました。

教育出版は、「国家主義的傾向が強い」として教職員関係団体や市民団体が、県や市町に不採択を請願していたにもかかわらず、
このような結果になり大変残念な思いをしています。


それ以上に、今回の教科書採択では、前回までの採択方法とまったく異なったものになっていたことに驚きを隠せませんでした。

非常に非民主的で独断的なシステムになったと感じています。

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[変わった点① 学校現場から希望を聞くことがなくなった]
 前回までは、各学校から希望する1位の教科書を報告することになっていた。
ところが、今回は8教科書のよいところのみを書くものをなった。良いところのみ、というのは実質、希望を聞かないということである。
学校報告書をもとにした調査部会からの意見書は出なかった。


[変わった点② 採択委員会が懇話会になり、答申は無かった]
 前回まであった採択委員会は、調査部会からの意見書をもとに答申を出していた。
今回は、懇話会となり、話し合った内容を列記したものが教育委員に届けられたのみ。



[変わった点③ 最後は教育委員の独断]
 無記名投票を行い、5人の教育委員のうち3人が教育出版に賛成し、決定した。
意見書も答申もない中での決定は、教育委員の独断でしかなかった。明確な教育出版採択の理由説明もなされていない。

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教科書裁判を支える会での学習会(8/21)参加で、教科書採択が教育委員の独断で採択できるシステムに事前につくられたことを知りました。


[いつから?]
 2014年3月、「採択委員会規則」を廃止し、「松山市教科用図書採択要綱」を作成・施行して「答申」の制度を廃止。

 採択委員会を単なる「懇話会」と位置づけ、そこで話された「協議の内容は、学校教育課が記録を作成し、教育委員会に提出する」という形に変えた。



[なぜ?]
 2001年に教科書問題が出てくる。東京と松山市で扶桑社採択が狙われる。答申制を撮っていたため、2011年まで採択できなかった。
 
 2011年、金本教育委員長「採択したいが、現場からの希望が少ないのでできない」と発言。

 2015年は、2014年3月にシステムを変えていたが以前のままを踏襲した。しかし、答申には従わず教育委員が4対1で育鵬社教科書に決定。

 2017年の教科書採択委員会では、新しいやり方で教育委員の独断で教育出版の教科書に決定。