3月8日(火)の第4回学習会では、育鵬社版「59 国際的地位の向上と韓国併合」の記述を中心に学習しました。
参加者は22名、チューターはYさんでした。
育鵬社版は、日露戦争における日本の勝利がアジア・アフリカの民族に独立への希望を与え、ネルーや孫文はその感動を語っている、としています。
確かに日露戦争における日本の勝利が伝わった当初は列強の侵略によって苦しめられていたアジアの人々に独立への希望を抱かせました。
しかし、その後の日本の行動によって、日露戦争が帝国主義戦争であったこと、日本もその帝国主義国あることをアジアの人々は見抜いてきます。
もちろん、ネルーや孫文も日本を帝国主義国と見抜いてきますが、その見解については一切触れていません。
日本の韓国併合は、日韓議定書、第1次日韓協約、第2次日韓協約、第3次日韓協約と順次植民地化がすすめられていて1910年の「韓国併合」となりますが、
育鵬社版は、この植民地化の過程を十分に記述しないばかりか、事実をゆがめての記述もあります。
まず、日露戦争開戦にあたって、日本は韓国を日本の支配下に置き、対露作戦基地にするために韓国領土内における日本軍の行動の自由と
軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させるために日韓議定書を締結しようとします。そのために「ハチスカ」作戦にかわる「コロク」作戦がたてられ
約25000人の日本軍がソウルを占領したなかで、日韓議定書が締結されました。
これを育鵬社版は、日韓議定書を「韓国の領土を他国(ロシア)から守るため、日本軍が韓国内に展開することを認めるという内容」としています。
日韓議定書のあと、日韓協約が3次にわたってていけつされます。
第1次日韓協約で、財政・外交の分野に日本顧問をおくりこんで、いわゆる顧問政治による支配をおこないましたが、外交権を奪うすなわち独立を奪う第2次日韓協約には韓国側は懸命に抵抗します。
日本軍が王宮を取り囲むなかで、伊藤博文が韓国皇帝に対して条約の締結拒否の場合「一層不利益なる結果を覚悟せよ」と脅迫し、成立させたのです。
この事件を隠して、育鵬社版は「日韓協約に従って日本が韓国の外交権をにぎることになり」とだけ記しています。
第3次日韓協約で内政に関する支配権も確立させ、韓国軍隊も解散させ、韓国を植民地化してしまいます。
この日本の植民地化に対して育鵬社版は、「韓国から抵抗運動もおこりましたが、鎮圧されました」と、
いとも簡単に鎮圧された小規模な抵抗運動があったように記し、実に大きな抵抗運動が起こっていたことを隠しています。
育鵬社版が「抵抗運動」としているのは、東京書籍版や学び舎版に「義兵運動(義兵闘争)」と記されている朝鮮の人々の大規模な運動です。
日本の支配に反対する義兵闘争は、閔妃殺害事件直後は拡大し(後期義兵運動)、さらに時をおうごとに多くの民衆が参加する大規模な反日闘争、事実上の朝鮮独立戦争となっていきます。
日本軍が発行した『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、2年以上にわたり続いた後期義兵闘争に参加した義兵数は延べ14万名、1万8000人の兵士が死亡と報告されています。
育鵬社版にのみ「韓国併合後の朝鮮の変化」とする表が掲載され、あたかも日本の韓国併合によって韓国社会が発展したかのごとく数値をあげています。
しかし、その数値は、日本の過酷な韓国支配を示しているにすぎません。たとえば、農耕地面積の増加が示すところは次の通りです。
1910~1918年に行われた「土地調査事業」で一般農民の土地所有権はつぎつぎと奪われていき、朝鮮全体の耕地面積の半分以上が、わずか3%にすぎない地主の土地となります。
しかもその大部分が日本人の所有になってしまったのです。
「農耕地面積」の増加は、朝鮮人ではなく日本人所有の農耕地面積の増加を示すことに他なりません。
また、米生産量の増加が示すところも同様です。米騒動の際に、朝鮮総督府は米の増産を命令し、日本によって強制的に買い上げられる米の量が増大しました。
このため、収穫の半分近くは日本に移出させられ、朝鮮の人々は米を増産しながら米を食べることができなくなりました。米生産量の増加は、朝鮮の人々の生活を改善したものではなかったのです。
植民地支配の過酷な実態を覆い隠すだけでなく、植民地支配による韓国の発展を描き出すような育鵬社版は教科書に値しないと言わざるを得ません。
参加者は22名、チューターはYさんでした。
育鵬社版は、日露戦争における日本の勝利がアジア・アフリカの民族に独立への希望を与え、ネルーや孫文はその感動を語っている、としています。
確かに日露戦争における日本の勝利が伝わった当初は列強の侵略によって苦しめられていたアジアの人々に独立への希望を抱かせました。
しかし、その後の日本の行動によって、日露戦争が帝国主義戦争であったこと、日本もその帝国主義国あることをアジアの人々は見抜いてきます。
もちろん、ネルーや孫文も日本を帝国主義国と見抜いてきますが、その見解については一切触れていません。
日本の韓国併合は、日韓議定書、第1次日韓協約、第2次日韓協約、第3次日韓協約と順次植民地化がすすめられていて1910年の「韓国併合」となりますが、
育鵬社版は、この植民地化の過程を十分に記述しないばかりか、事実をゆがめての記述もあります。
まず、日露戦争開戦にあたって、日本は韓国を日本の支配下に置き、対露作戦基地にするために韓国領土内における日本軍の行動の自由と
軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させるために日韓議定書を締結しようとします。そのために「ハチスカ」作戦にかわる「コロク」作戦がたてられ
約25000人の日本軍がソウルを占領したなかで、日韓議定書が締結されました。
これを育鵬社版は、日韓議定書を「韓国の領土を他国(ロシア)から守るため、日本軍が韓国内に展開することを認めるという内容」としています。
日韓議定書のあと、日韓協約が3次にわたってていけつされます。
第1次日韓協約で、財政・外交の分野に日本顧問をおくりこんで、いわゆる顧問政治による支配をおこないましたが、外交権を奪うすなわち独立を奪う第2次日韓協約には韓国側は懸命に抵抗します。
日本軍が王宮を取り囲むなかで、伊藤博文が韓国皇帝に対して条約の締結拒否の場合「一層不利益なる結果を覚悟せよ」と脅迫し、成立させたのです。
この事件を隠して、育鵬社版は「日韓協約に従って日本が韓国の外交権をにぎることになり」とだけ記しています。
第3次日韓協約で内政に関する支配権も確立させ、韓国軍隊も解散させ、韓国を植民地化してしまいます。
この日本の植民地化に対して育鵬社版は、「韓国から抵抗運動もおこりましたが、鎮圧されました」と、
いとも簡単に鎮圧された小規模な抵抗運動があったように記し、実に大きな抵抗運動が起こっていたことを隠しています。
育鵬社版が「抵抗運動」としているのは、東京書籍版や学び舎版に「義兵運動(義兵闘争)」と記されている朝鮮の人々の大規模な運動です。
日本の支配に反対する義兵闘争は、閔妃殺害事件直後は拡大し(後期義兵運動)、さらに時をおうごとに多くの民衆が参加する大規模な反日闘争、事実上の朝鮮独立戦争となっていきます。
日本軍が発行した『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、2年以上にわたり続いた後期義兵闘争に参加した義兵数は延べ14万名、1万8000人の兵士が死亡と報告されています。
育鵬社版にのみ「韓国併合後の朝鮮の変化」とする表が掲載され、あたかも日本の韓国併合によって韓国社会が発展したかのごとく数値をあげています。
しかし、その数値は、日本の過酷な韓国支配を示しているにすぎません。たとえば、農耕地面積の増加が示すところは次の通りです。
1910~1918年に行われた「土地調査事業」で一般農民の土地所有権はつぎつぎと奪われていき、朝鮮全体の耕地面積の半分以上が、わずか3%にすぎない地主の土地となります。
しかもその大部分が日本人の所有になってしまったのです。
「農耕地面積」の増加は、朝鮮人ではなく日本人所有の農耕地面積の増加を示すことに他なりません。
また、米生産量の増加が示すところも同様です。米騒動の際に、朝鮮総督府は米の増産を命令し、日本によって強制的に買い上げられる米の量が増大しました。
このため、収穫の半分近くは日本に移出させられ、朝鮮の人々は米を増産しながら米を食べることができなくなりました。米生産量の増加は、朝鮮の人々の生活を改善したものではなかったのです。
植民地支配の過酷な実態を覆い隠すだけでなく、植民地支配による韓国の発展を描き出すような育鵬社版は教科書に値しないと言わざるを得ません。