教科書採択を考える会ブログ

愛媛県松山市内の中学の歴史教科書が「育鵬社」版に変わるのを機に発足した会です。教科書比較の学習会も行っています。

第15回学習会 「74 太平洋戦争(大東亜戦争)」「75 日本軍の進出とアジア諸国」

2017-02-25 13:48:42 | 学習会
こんにちは、事務局Hです。


第15回の学習会は、ちょうど2月14日のバレンタインデーということで、チョコレートの差し入れがありました。
(Kさん、Sさんいつもおいしいお菓子にお茶にありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡)

場所は、愛媛県教育会館(松山市北持田町131-1 松山東警察署北側)1階会議室にて13時より15時。
参加者は23人。
チューターは元中学校社会科教諭のTさんでした。



そして、学習範囲は、
育鵬社p.234-235「74 太平洋戦争(大東亜戦争)」
p.236-237「75 日本軍の進出とアジア諸国」
今回の学習会は、チューターTさんの発案により、生徒になったつもりで輪読(ひと段落ずつ何人かで音読)していきました。

記述の内容もよく頭に残り、実際読んでみることで「ここが気になる!」と気づきやすくなりました。




写真では、本文記述が読みにくいと思いますので、書き出しますo(・-・)o

「74 太平洋戦争(大東亜戦争)p.234-235」


(真珠湾攻撃)
 日米交渉が行きづまるなか、軍部では対米開戦も主張されるようになりました。1941(昭和16)年11月、アメリカは、中国やインドシナからの日本軍の無条件即撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄などを要求する強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました。東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました。

 1941(昭和16)年12月8日、日本海軍はハワイにある真珠湾の米軍基地を攻撃し、アメリカ海軍の艦隊に壊滅的な損害をあたえました。また、同時にマレー半島に上陸した日本陸軍もイギリス軍を撃破して南下し、シンガポールを占領しました。

 米英に宣戦布告したわが国は、この戦争を「自存自衛」の戦争としたうえで、大東亜戦争と名づけました(戦後は太平洋戦争とよばれるようになりました)。また、三国同盟によりドイツ。イタリアもアメリカに宣戦布告しました。これにより、この一連の戦いは日・独・伊などの枢軸国と米・英・蘭(オランダ)・中などの連合国との全面戦争となりました。

 真珠湾での損害のため、アメリカは開戦からしばらく、太平洋方面で攻勢に出られませんでした。そのあいだに東南アジアや西太平洋に進撃した日本軍は、それらの全域を占領しました。

(暗転する戦局)
 日米戦の転換点となったのは、1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦でした。この戦いで日本海軍は多くの航空母艦(空母)と航空機、優秀なパイロットの大半を失い、これ以後、わが国の戦況は悪化していきました。

 その後、米軍は太平洋上の島々を占領し、日本本土への包囲網をせばめました。1944(昭和19)年6月、日本海軍が最後の反攻をかけたマリアナ沖海戦に敗れ、サイパン島が陥落すると、太平洋の制海権と制空権はほぼ米軍のものとなりました。サイパン島を飛び立った長距離爆撃機B29により、日本の都市はたび重なる空襲にみまわれることになりました。

(歴史ビュー 何がアメリカ国民を戦争に導いたのか)
 戦後、アメリカの外交官H・A・キッシンジャー(1923~)は、その著書『外交』で、日米開戦について次のように記しています。

「ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたにちがいない。(中略)アメリカの参戦は、ルーズベルトという偉大で勇気のある指導者お並々ならぬ外交努力なしでは達成できない偉大な成果だった。3年もかからないうちに、彼は、孤立主義的なアメリカ国民を大規模な戦争に導いた。(中略)もし日本が米国を攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないというルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になってたであろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである」

 決してアメリカを戦争にまきこむことはない、とうったえ続けつつも、反枢軸国の考えをもっていたルーズベルトにとって、日本軍による真珠湾攻撃は、建国以来初めて領土を攻撃されたアメリカ国民を戦争に誘う、このうえない材料となったのでした。


「75 日本軍の進出とアジア諸国 p.236-237」


(アジア独立への希望)
 長く東南アジアを植民地として支配していた欧米諸国の軍隊は、開戦から半年で、ほとんどが日本軍によって破られました。この日本軍の勝利に、東南アジアやインドの人々は独立への希望を強くいだきました。
 
 東南アジア唯一の独立国だったタイは日米開戦直後に日本と同盟を結び、米英両国い宣戦布告しました。イギリス軍として戦ったインド兵の多くは、捕虜となった後、インド国民軍に加わり、独立をめざして日本軍と行動をともにしました。ビルマでは日本軍の進攻に応じてビルマ独立義勇軍がつくられ、日本軍に協力しました。インドネシアでも義勇軍ができ、日本軍の指導で軍事訓練が行われました。

(大東亜会議の会議)
 戦局がしだいに悪化していくなかで、わが国は1943(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開きました。会議には中国(南京政府)、タイ、満州国、フィリピン、ビルマ、インドの代表が集まり、これらの地域を米英の支配から解放することなどをうたった大東亜共同宣言が採択されました。

 わが国の南方進出は石油資源の獲得をおもな目的としていました。この会議以降、欧米による植民地支配からアジアの国々を解放し、大東亜共栄圏を建設することが、戦争の名目として、より明確にかかげられるようになりました。

(日本の占領とアジア諸国)
 中国や東南アジアなど日本軍が進攻した地域では、兵士や民衆に多くの犠牲者が出ました。インドネシアでは、日本語教育や神社参拝を強いたことに対する反発もありました。フィリピンでは、アメリカと結んでゲリラ活動を行う勢力に日本軍はきびしい対応をとり、多くの一般市民も犠牲となりました。連合国軍の反攻がはげしくなると、物資や労働力の確保を優先する日本軍によって、現地の人々が過酷な労働をさせられることもしばしばありました。

 欧米諸国による支配からの独立を求められていたこれらの植民地は、戦争が終わった後、十数年のあいだに次々と自力で独立を勝ちとっていきました。


(歴史ビュー トインビーが見た「第二次世界大戦と日本」)
 イギリスの歴史家A・トインビー(1889~1975)は、日本はその近代の歩みの中で、第二次世界大戦での破局をむかえたが、日本人は、はからずも歴史的なことを成しとげたとして、こう記しています。

「アジア・アフリカを支配してきた西洋の帝国主義者たちが、過去200年間そう思われてきたような無敵の存在ではないことを、日本人は他の人種の人々に証明した。われわれ欧米人はみな、日本人によって、次々とたおされたのである」

 また、「日本は、敗戦という痛ましい経験によって国家主義の限界を学んだ。今、日本は、世界史の新しい時代の中で、先覚者的な役割があるものと確信する」とも述べています。



どうでしょうか?

今回の学習会にfaebokページを見て初参加したという小学生保護者の方は、「私がならった内容とずいぶん違う!」と衝撃を受けてらっしゃいました。


学習会で輪読したのは育鵬社教科書のみでしたが、東京書籍・学び舎ではどんな記述がされているでしょう???


東京書籍
「2 太平洋戦争の開始 p.224-225」

 太平洋戦争はどのようして起こり、各国は日本に対してどのように対応したのでしょうか。

(日本の南進)
 イギリスやフランスなどがドイツとの戦争で劣勢におちいると、日中戦争が長期化していた日本は、近衛内閣の下、これらの国々の植民地がある東南アジアに武力による南進を始めました。
援蒋ルートを断ち切るとともに、石油やゴムなどの資源を獲得しようとしたのです。

 日本は1940(昭和15)年9月、フランス領インドシナの北部に軍を進め、次いで日独伊三国同盟を結びました。さらに、1941年4月に日ソ中立条約を結び、日本の北方の安全を確保したうえで、同年7月にフランス領インドシナの南部にも軍を進めました。

 こうした動きと合わせて、日本は「大東亜共栄圏」の建設を唱えました。それは、日本の指導の下、欧米の植民地支配を打破し、アジアの民族だえで繁栄しようという主張でした。


(日米交渉の決裂)
 日本が侵略的な行動を取る中で、日米関係は悪化していきました。近衛内閣は、アメリカとの戦争をさけるために1941年4月から日米交渉を行いましたが、軍部の要求などもあって、南進を止めませんでした。

 フランス領インドシナの南部へ軍を進めた日本に対して、アメリカは石油などの輸出禁止にふみ切り、イギリスやオランダも同調しました。戦争に不可欠な石油を断たれた日本では、このように日本を経済的に封鎖する「ABCD包囲陣」を打ち破るには早期に開戦するしかないという主張が高まりました。

 日米交渉の席でアメリカが、中国とフランス領インドシナからの全面撤兵などを要求すると、近衛内閣の次に成立した東条英機内閣と軍部は、アメリカとの戦争を最終的に決定しました。


(太平洋戦争の始まり)
 1941年12月8日、日本軍は、アメリカの海軍基地があるハワイの真珠湾を奇襲攻撃するとともに、イギリス領のマレー半島に上陸し、太平洋戦争が始まりました。

 日本と日独伊三国同盟を結んでいたドイツとイタリアも、アメリカに宣戦布告しました。こうして、ヨーロッパで始まった第二次世界大戦は、日独伊などの枢軸国と米英ソ中などの連合国が戦う世界規模の戦争に拡大しました。

 日本軍は、短期間のうちに、東南アジアから南太平洋にかけての広大な地域を占領しました。しかし、1942年6月nミッドウェー海戦の敗北によって、日本軍の攻勢は止まり、太平洋戦争は長期戦に入りました。


東京書籍では、アジアの植民地、占領地については、「3 戦時下の人々 p.226-227」の一部で記述がありました。


(植民地と占領地)
 日本は、植民地や占領地でも、厳しい動員を行いました。
 
 多数の朝鮮人や中国人が、意思に反して日本に連れてこられ、鉱山や工場などで劣悪な条件下で労働を強いられました。こうした動員は女性にもおよび、戦地で働かされた人もいました。戦争末期には徴兵制が朝鮮や台湾でも導入されました。

 東南アジアにおいても、日本軍は、労働を強制したり、物資を取り上げたりしました。また、日本語教育などをおし付けました。そのため、現地の住民の日本に対する期待はじょに失われ、各地で抵抗運動が発生しました。日本軍は、抗日的と見なした人々を厳しく弾圧し、多くの犠牲者が出ました。




では、次に学び舎の教科書です。
「(8)東南アジアの日本軍 ―アジア太平洋戦争―  p.238-239」

(マレー半島、ハワイ攻撃)
 1941年12月8日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍と戦闘をまじえ、シンガポールへ進撃しました。また、この上陸により約1時間後に、日本海軍はハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃して、大打撃をあたえました。このあと、アジア・太平洋地域に拡大していく戦争を、アジア太平洋戦争(太平洋戦争)とよびます。

(第二次世界大戦が広がる)
 すでに日中戦争は長引いていました。1940年に日本は、ドイツ・イタリアと軍事同盟を結びました(日独伊三国同盟)。さらに、日本は、石油など戦争に必要な資源の獲得のために、東南アジアへの進出をめざしました。同年、インドシナ(ベトナムなど)に軍隊を送り込みました。
 
 このことは、アメリカ(米)、イギリス(英)との対立を深めました。両国は、東南アジアい植民地をもち、この方面から中国への援助物資を送っていました。1941年、アメリカは日本に対する石油の輸出を禁止し、「日本軍は、中国とインドシナから撤退すべきだ」と外交交渉で要求しました。日本はこれを拒否して、米・英に宣戦布告したのです。

 これにより中国は米・英との結びつきを強め、ドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦しました。こうして第二次世界大戦は、日本・ドイツ・イタリア(枢軸国)と、米・英・中国・ソ連など連合国との戦いとなり、全世界に広がりました。

 1942年になると、日本軍はマレー半島でイギリス軍を敗北させて、シンガポールとマラヤ(マレーシア)を占領しました。日本軍はシンガポールの中国系住民を何カ所かに集合させて、日本に敵対しているとみなした多くの人びとを処刑しました。

(石油も、鉄も、人間も)
 日本軍は、さらにフィリピン・インドネシア・ビルマ(ミャンマー)など東南アジア全域と香港を支配しました。日本軍は、占領したボルネオ・スマトラ・ビルマでは油田を接収し、またフィリピンやマラヤでは鉄鉱石の鉱山を接収して、重要な資源を獲得しました。

 また日本軍は、東南アジア各地から人びとを労務者として集め、飛行場建設などの肉体労働にかり立てました。

 1942年、タイからビルマに向かう鉄道を建設するため、ビルマから10万人、タイから4万人、マラヤとジャワ島から8万人など、多くの労務者を熱帯のジャングル地帯の建設現場に送り込みました。

 1年あまりの突貫工事で、鉄道は完成させましたが、重労働で多くの労務者が過労や病気で倒れ、多数の死者を出しました。この工事では、イギリス軍などの捕虜6万人も労働させられました。インドネシアでは、戦後も「ロームシャ」という言葉が語られ、苦しい肉体労働の記憶が残りました。

 日本は、東南アジアの国々を欧米の植民地支配から解放して、「大東亜共栄圏」をつくると宣言していました。しかし、日本軍は、むしろこの地域での支配を強めたため、各地で抗日・独立運動が起こりました。


(コラム 朝鮮・台湾の人びとと日本の戦争)
 戦争が長期化すると、日本政府は、敗戦までに約70万人の朝鮮人を国内の炭鉱などに送り込んだ。長時間の重労働で、食事も不十分だったため、病気になったり、逃亡したりする人も多かった。
 さらに、志願や徴兵で、多数の人びとが日本軍に動員された。また、軍属として、日本の占領地にある捕虜収容所の監視人や土木作業などを命ぜられた。朝鮮からは軍人20万人以上、軍属15万人、台湾からは軍人8万人、軍属12万人にのぼった。

 一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地に送られた人たちがいた。この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することはできなかった。


教科書記述の引用は以上です。

前回、第14回の学習会報告の記事で、育鵬社・東京書籍・学び舎の3社の教科書の「第二次世界大戦」範囲の構成・記述の比較をしていますが、読んでみるとさらに違いを感じます。


学習会では、輪読のあと、学習会の資料として配布された“育鵬社教科書の指導書”を見ながら、

「育鵬社教科書を使った歴史の授業はどのようなものになるか?」

「生徒たちはこの内容からどんなことを思うか?」

などを参加者で考えながら、学習会は進められました。

その2に続きます。

第14回学習会 「73 第二次大戦」

2017-02-09 17:34:36 | 学習会
第14回学習会は、3学期始業式の1月10日(火)13時からの開催でした。

いつもながらすぐ更新できず、ご報告が遅くなりすみませんm(._.)m
1月中旬から体調崩し寝込んでおりました。
インフルエンザの流行が拡大しているそうですが、皆さんはお変わりないでしょうか?


さて、前回12月の学習会では、日中戦争とその頃の日本国内の様子を学習したので、今回からは「第二次大戦」に入りました。

第二次大戦から終戦まで、3社の教科書を見比べてみると、やはり構成や史実の取り上げ方などでずいぶん特徴があります。

育鵬社(pp.232-241)
「73 第二次大戦」

「74 太平洋戦争(大東亜戦争)」

「75 日本軍の進出とアジア諸国」

「76 戦時下の暮らし」

「77 戦争の終結」


東京書籍(pp.222-229)
「1 第二次大戦の始まり」

「2 太平洋戦争の開始」

「3 戦時下の人々」

「4 戦争の終結」


学び舎(pp.236-253)
「(7)戦火に追われる人びと ー第二次大戦開戦ー」

「(8)東南アジアの日本軍 ーアジア太平洋戦争ー」

「(9)戦争と二人の少女 ーヨーロッパの戦争ー」

「(10)赤紙が来た ー戦時下の国民生活ー」

「(11)餓死、玉砕、特攻隊 ー戦局の転換ー」

「(12)町は火の海 ー本土空襲ー」

「(13)荒れ狂う鉄の暴風 ー沖縄戦ー」

「(14)にんげんをかえせ ー原爆投下ー」

「(15)本土決戦か、降伏か ー日本の敗戦ー」


県内でも上映中のアニメ映画「この世界の片隅に」では、当時の“ふつうの人”の生活がいきいきと描かれています。
(原作のマンガの作者こうの史代さんのファンなので、公開が待ち遠しかったのです(^^))
観ていない方はオススメなので、是非映画館に足を運んでみてください。


話が逸れてしまいましたが、学習会の中身にまいりましょう。
今回のチューターは、Aさん。
第二次大戦の、特にナチスの思想とファシズムについてくわしく掘り下げる発表をしてくださいました。

配布資料がこちらです。
ナチズムについて





ファシズム、ムッソリーニについて









そして討議の時間にはこんな意見が出されました。

◯今日の範囲は難しい。ファシズムに対する理解がないと第二次大戦がどんな戦争だったかがわからないので、今回のレクチャーはありがたかった。

◯ナチスの綱領はムチャクチャだが支持された事実がある。だからこそ、教育は大事だと感じた。

◯育鵬社は、第二次大戦をp.232の1ページでのみしか説明していない。内容についても不十分だと感じる。

◯育鵬社のp.232のアンネの日記、アンネ・フランクの扱いが無味乾燥に思えた。
なぜこの少女の日記が今も評価されているかがわからないのではないか?と思う。

最近、フランス映画の「奇跡の教室」を観たが、戦争を知らない私たちはこういう映画を観て歴史の史実と向き合うことも必要なのではないかと感じた。

◯私見だが、教科書の意義は「過去に起こったこと=戦争の反省について伝えること」だと考える。そう考えたときに、育鵬社での記述では戦争がどういうものだったか?が伝わらないのではないかと感じた。

高校の“明成社”教科書も問題があるとされているが、歴史を学ぶ授業は小学校高学年から始まっている。
小学校の教科書を見せてもらったが、「この記述で子どもたちはわかるのか?」「正しい認識につながるのだろうか?」と不安になる内容だった。

◯育鵬社p.234の「74 太平洋戦争(大東亜戦争)」真珠湾攻撃の記述は、一貫して“日本は間違ってなかった”という主張が感じられる。
「壊滅的な打撃を与え…」という記述も、史実とは異なるためこれでいいのか?と気になる。

◯今回の範囲の中でも特にpp.232-236は、育鵬社教科書で特に力を入れている部分ではないかと思う。“やらなきゃいけない戦争もある”と子どもたちに思わせてしまうような記述になっていることが気に掛かる。

◯終戦までの記述で、学び舎では“戦争は悲惨”というメッセージが感じられるが、東京書籍は淡々とした説明で当時日本が下した判断がいいとも悪いとも書かれていないと感じた。

戦争があった過去が切り取られて、別の世界にあるような感じで、「もしかしたら自分も巻き込まれるかも」「そうなったときは自分はどうするだろうか」というような気持ちにはなれないのではないかと思った。



次回、第15回学習会ではひきつづき第二次大戦の内容について深めていく予定です。

2017年2月14日(火)13時から
愛媛県教育会館(松山東警察署北側)1階大会議室にて
参加費は資料代300円の負担をお願いしています。
ご都合つく方はぜひご参加ください。

今後の学習会の予定

2017-02-07 09:42:57 | お知らせ
事務局からのお知らせです。


今後の学習会の予定をお知らせします。

2月14日(火) 「太平洋戦争(大東亜戦争)」「日本軍の進出とアジア諸国」

3月の学習会は、定例の第二火曜ではなく、
3月21日(火)に松山大学 ドイツ近現代史専門の遠藤泰弘先生による講演「ドイツのファシズム(仮題)」を予定しています。

4月11日(火)「戦時下の暮らし」「戦争の終結」

5月9日(火)「占領下の日本と日本国憲法」

6月以降は、教科書の最初「日本列島ができたころの人々」から学習を行います。