峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

「適者生存」を考える...「ベストアンサー」は「ファイナルアンサー」か?

2016-11-28 22:00:32 | 哲学・思想

初めに、こちらを...

*弱者を抹殺する。と題してYahoo知恵袋に投稿された質問へのベストアンサーが秀逸!

Temita

 

これはとても良いですね....

そして、まさにその通り!
で終わらせないで、この回答者に対して、あなたは次にどのような質問をしますか?

 

この回答者は、とても明確な答えを出しています。
複雑多様な生き物の世界という、とても難しい問題を、これだけ綺麗にすっきり説明できるのは、回答者自身がとても明確な前提を持っているからですね。

ああだこうだ紛糾しようと思えばできないことはないけれども、結局、基本的にはこういう考え方に行き着くのではないか...
どんな議論も、最後はこうした考え方を前提することになるのではないか...
そんな考え方の枠組みをあらかじめ前提として、そんな前提から答えているのです。だから、すきっと一貫した明確な話になる...

それでは、その前提を代表する思想が、どのようなものか、あなた自身のなかで整理できますか?
これを知るには、この回答のなかに登場する用語を少し踏み込んで考えてみる...調べてみれば、すぐにわかることです。誰が、どのような使い方をしているのか...

そうすれば、この回答者が前提としている考え方の骨組みがわかります。
まずは、あなた自身がそうした前提を受け入れることができますか?


生き物の生存戦略...それは、「生きる」ということの根本にかかわる問題です。
あなたが、私が、この地球上で生きていく...そのことの意味を、こうした観点から説明して、果たして語りきれるのか...

前提そのものは確かにその通りだし、その前提を一旦受け入れて考えるならば、あとはそのとおり..という場合であっても、そもそも「生きる」、という深く重大な問題を、この回答だけで終わり...すべて問題ありません...こうした観点からの議論で尽くされている...本当にそうなのか?


前提が違えば議論は嚙み合いませんから、ここで違う前提の議論(たとえば宗教的な信仰や個人的な信念など...)をぶつけることが取り敢えずは適切ではない場合であっても、違う側面から、「~という観点からの問題は、どう考えるべきですか?」 という質問を、共通の会話ができるように、できれば具体例を引きながら問いかける...
こうすれば、考え方の前提そのものに肉薄する、とても深い対話が可能になるかもしれません。


次に、前提に関しては同意する場合、こうした説明ではカバーできないような事例はありますか?
生き物の生存戦略...生きるということの根本にかかわる問題ですね。
いろいろな事例を考え、調べてみて、例外はあるのか...ケースそのものは少ないにしても、重要だと思われるような例外はあるかもしれません。
場合によっては、その「例外」を基に、ここでの回答の前提に、ある一定の条件を加えて考える必要が出てくるかもしれません。こうすれば、議論がとても膨らみます。

 

なぜ、このようなことを言うのか...


自然の世界はとても豊かで複雑で、驚きに満ちています...
それを、とてもシンプルで明快な法則で説明し、理解する...
これはとても素晴らしいことです。そして、とても大切なことです。科学的な思考というのは、まさにそうしたものです。
しかし、同時に、世界には今の科学では説明できないようなものが、山のようにあるのです...
将来、わたしたちの科学的な能力がさらに進歩し、それまでは、ただの偶然、あるいは乱雑でこんがらがっているとしか思えなかったような現象にも、実はきちんとした論理的法則性がある...そんな風に一つ一つの物事が説明されて行くにしても、いまの時点では、実はわたしたちの科学の力ではお手上げのケースは、ほんの身の回りに、いくらでも転がっているのです。
ですから、この回答の、すきっとした説明に対して、いや、こんな面白い問題がある...こんな例は、例外のように思われるけれども、どうなのか?
そんな質問が、とても大切なのです。


この回答者、もちろん、素人ではないですね(笑)

ですから、わたしたちが、この回答に満足してしまうのではなく、さらに突っ込んで、良い質問を繰り出せば、「基本的には、こうなのだが、実はね...こんな例外があってね、これは学会の大問題なんだよ...」「こんな考え方の人がいてね、少数派だけれどもね、間違っているとも言えなくてね、こうした事例に関しては、この人たちの方が優れた見解を出せるんだよ...」

そんな素晴らしい話を聞かせてもらえるかもしれません。

素晴らしい学者、素晴らしい教師ほど、難しく、困難な質問を喜ぶのです。
せっかくこの明確で見事な回答を寄せた人がいるのですから、さらに踏み込んだ質問を考えるべきなのです...


*ちなみに、写真は「適者生存(Survival of the fittest)」という言葉の祖とされるハーバート・スペンサー(1820-1903)。


哲学を目指した頃...

2016-11-26 19:28:02 | 哲学・思想
私は、自分自身の人生の意味に対して確固とした自信を持つことができないでいて、それで哲学を志しました。
自己探求のその先に、ぶれないしっかりとした軸のようなものを自分の中に見つけ出すことができないか...そう思ったわけです。
 
最初は現代英米神学(P.ティリッヒ)をやり、神と信仰の世界に、学問を通じて迫ろうと思い、それでも足らないものを感じて、思索の力というものを信じて、あらゆる問題の根源に向かって徹底してものを考え抜くドイツ観念論の「絶対者論」に取り組みました。専攻はF.W.J.シェリング...それも、晩年のシェリングの「宗教哲学」です。
 
 
研究室では素晴らしい恩師や学友に恵まれ、学問としての哲学の奥深さ、知的な努力の積み重ねの伝統が放つ煌めきと凄みも体験できました。
そしてそれ以上に、最晩年の西谷啓治先生の謦咳に接し、その思索する姿に触れ、哲学の営みのもの凄さを感じ、戦慄するような「なにものか」を感じることができました。
先生に最後にお目にかかったのは、本当になくなる直前...その時私は駆け出しの新米哲学徒であったのですが、もの凄い勢いで私は先生に詰め寄られました...今思えば、それが先生の私に対する公案だったように思います。
しかし、結局、確固とした自信も、ぶれることのないしっかりとした軸も、その時の私は自分の中に見つけ出すことができませんでした...
 
その時私が哲学科の大学院生としてやっていたことは、結局「講壇哲学(Schulphilosophie)」つまり、大学機関での研究としての哲学、大学の講壇で教えかつ学ばれる教養としての哲学の訓練でしかなかったのですね。
私には、自分自身の人生の問題を何とかしたい、という、哲学に向かうだけの動機がありましたから、学生時代には真剣に、懸命に哲学と取り組みましたが、それはじつは「哲学」ではなく「哲学の研究」でしかなかったのです。
私は、自分が研究しているシェリングの思想に惚れ込んで、論文を書くときにはシェリングが乗り移らんばかりの思いを持っていましたし、ヘーゲルも、ニーチェも、ハイデガーも、読むたびに心が揺さぶられるような思いをいだいていましたから、自分の勉強を、ただの「学問的研究」...分析対象としての哲学の研究とは違うのだと思っていましたが、それでは本当に自分が「哲学」をしていたのか...といえば、そうではなかった...
私の書くものは、謂わば誰かの思索の継ぎ合わせ、「パッチワーク」でしかなく、私自身の内面から本当に湧き上がってくる言葉ではなかった...
研究者の卵であった私を厳しく親切に指導してくれた先輩...私にとっては、恩師なのですが...この先輩に、有る時、
お前の書くものは、確かに引用も幅広くきっちりしているし、なかなか面白いけれど、結局人の思想のパッチワークじゃないか...お前しか吐けない一句、一言で良い、お前にしか言えない一句を吐くことが、哲学の仕事じゃないのか...
と指摘され、悔しくて、しかし自分でもうすうすわかっていた本当の弱点をずばりと指摘されて、自分自身が不甲斐なくて、涙が止まらず、朝まで眠ることができなかったことがあります。
私の大学院生活は、いつかこの先輩に対して、「これが私の一句です!」というものを何とか呈示したい...そんな思いを底流に持っていました。しかし、結局、その願いは叶わず、自己嫌悪が高まるばかり...
 
カントやフィヒテ、シェリングやヘーゲル...ニーチェやハイデガー...私が取り組んだ哲学者たちは、誰もが口を極めて「講壇哲学」を徹底的に攻撃しています。
哲学は教えることも、学ぶこともできない...それは、一人一人の孤独な格闘であり、言葉だけを頼りに、徹底的に言葉に向き合う必死の努力なのである...
本物の哲学者たちから発せられるこうした言葉に深く共感しながら、自分自身は結局、本物の哲学はできていなかったのです...
 
 
要するに、私はとても「甘かった」のですね...
ものを考えることは好きだったし、哲学に対して激しいあこがれと情熱を持っていましたが、真剣に、命がけで取り組む、という事の本当の意味がわかっていなかった...
私の一生懸命は、要するに普通の一生懸命...
論文を生産し、しかるべきポストについて、講壇哲学を大学の講座で「教える」ことはできるが、ただそれだけのこと...そんなことであれば、「やらねばならないこと」とはいっても、自分の夢を実現するためならば、誰もがやらねばならない当たり前のことでしかありません。貧乏暮らしだの、連日の徹夜だの、ストレス漬けの出口のない毎日だの、そんな程度のことが我慢できなければ、何の世界であっても一本立ちなどできませんし、一流になることなど、夢のまた夢です...そんなものは、一生懸命、と大袈裟に言うほどのことではないのですね。
もちろん、大学教官になり、大学教官としての使命を全うするということは、実はとても大変なことです。生半可なことでは、「講壇哲学者」になることすらできません。その意味では、今から考えると、私は学者として生きていく、という点から見ても、「甘かった」のです。
 
 
それでは、何が問題であったのか...実は、「命懸け」と言っても、今ここですぐさま生命を投げ出さなければならない、という事ではありません。それは全く問題が違うのです。命を投げ出す、といっても、追い詰められた末での瞬間の決断であれば、蛮勇を持っての勢いで、あっさりできてしまったりするものです...そんなものは、実は命懸けでも何でもない。ただの勢いです。
そうではなくて、自分の人生のすべてを賭けて、その一点に立ち向かう...勝算があろうとなかろうと、自分が生きていることの意味がすべてそこに懸かっている、と肚を据えて覚悟を固めているかどうか...
命を捨てる決意を持って取り組み、そしてなおかつ、絶対に諦めない...どれほど駄目であっても絶対に命を捨てることなく闘い続ける事...ただそれだけの問題なのですね。とても泥臭い世界...
そこでは、本当に命を捨ててやる覚悟があれば、結果として生きたか死んだかなど、問題ではなくなっていきます。人間の命はとても儚いですから、ちょっとしたことであっけなく命を落としてしまったりします。だから、命を捨てるというのは、ただ死を選ぶことではないのです。命を捨てるとは、生「き死にを委ねる」、ということです。それでは、いったい何に委ねるというのか...
それがわかっていなければ、委ねるなどということはとうてい無理ですし、命を捨てるなどということはできようはずがありません。
命を捨てる、というのは、個人的な思い入れだけでできるようなものではないのです。それには、時節因縁がある...
 
生き死にを委ねる...その覚悟が本当にあれば、攻めて攻めて攻めて、それでも駄目ならば、退いて退いて退いて、負けて、服従して、身売りしてでも生き延びて、必ず反撃する...体力と気力と知恵...英知も狡知も駆使して五年でも、十年でも、二十年でも、なりふり構わず死ぬまで戦い抜く事ができる。
要するに、哲学から撤退して修行の道に入ったとき、私は落伍したのですが、それは私の覚悟が足らなかっただけのことなのですね。今思えばなのですが、自信がなくなろうが、論文が書けなくなろうが、忘れ去られようが、失踪しようが、私は、断固、撤退してはいけなかったのですね。徹底的に考え、自分と向き合うことはどこにいても、どんな境遇にあろうとできることですから...
哲学にせよ何にせよ、最後は覚悟の問題だと私は思います。そして哲学は、「考える」いうこと以外のすべてを剥ぎ取った素っ裸の状態で自分自身に覚悟を問う営みです。
そう考えれば、哲学は書物の上のことでもなく、新奇なアイデアを弄ぶことでもなく、評価される論文を量産することでもありませんね。誰もが日夜、自分自身の日常の営みを続けながら取り組んでいくこと...
覚悟があれば、待つことができる...それは、しかるべき時節因縁を待つのです。自分の「命を捨てる」つまり「生き死にを委ねる」ものが自分に到来するのを待ち続ける...怖れながら、待望しつつ...厭いながら、待ち望みつつ...引き裂かれ、宙ぶらりんになりながら、食い下がって考える...考えるとは、待つための儀式なのです...そして、待つとは、委ねるための祝祭なのです...祭りは、長ければ長いほどよい...果たされることのない、果たされることのできない約束のために、すべてを犠牲にして待つことができるか...そこに初めて、「信」が生まれ、「真(まこと)」が生起する...効率も悪く、正確な見通しも立たず、設計すらできない...しかし、これこそが一番大切なことではないかと思うのです。
これが、「哲学」の落伍者として、今思うことです...
同じ失敗は、繰り返してはならない...私にとってそれは、自分と同じ轍を踏まないように、来たるべき若者たちに、できる限りを伝えることなのです...この拙い文章が、誰かの役に立つならば、これほど嬉しいことはありません。
 

「汎用人工知能」をめぐる問題から見えてくるものは...

2016-11-23 15:32:48 | 哲学・思想
新しい技術に対しては過大な期待がかかる...それは良いのですが、そうした期待に便乗して、企業や企業の推進するプロジェクトのイメージ・アップを図る...
企業というのは経営体ですから、そのこと自体は当然だとしても、そのやり方が問題ですね。社会に対する影響力の大きい企業、つまり一定以上の「ブランド」を持った企業には、それ相応のマナーが要求されるはずですし、行儀の悪さはその企業のイメージのみならず、その分野の技術全体に対するイメージの失墜をもたらしかねません。

これは「汎用人工知能」と言われる場合の「汎用」という言葉の定義の揺れの問題なのですが、この記事の主張がそのまま正しいのだとすれば、日立のやっていることは「勇み足」ではなく悪質な便乗ですね。
日立ほどのブランドを背負った会社がやって良いことかどうか...
この記事が、企業のコンプライアンス崩壊の現れでないことを心から望むのですが...

さて、問題の核心は、この記事の中のコメント、

日立製作所としては、「汎用的に使える」「人工知能技術」ということで、略して「汎用人工知能」と呼んでいるという主張なのだと思いますが、「汎用人工知能」では全く意味が異なってしまうため、濫用は避けるべきです...

というところにありますね。
要するに、幅広く様々な分野に容易に応用ができる、という意味での「汎用」という定義であれば、それは一般的な言葉の使われ方であるのですが、それならば、既にAIの技術は社会の中に様々な形で取り入れられており、既に「汎用」といって良いAI技術は珍しくなど有りません。だから、日立がわざわざここで「H]として大々的に打ち出しているものは、そんなありきたりのものではないはずです。
しかし、その実態は...
確かに、このページにある日立のPVを観てみると、「このようなことができます...」とあげられているものは、特段凄いものではないことがわかります。
記事の中でも引用されている丸山宏氏のコメント、

ビッグデータ、教化学習、最適化などの技術を、汎用のツールとしてブランド化したもののように見えます...

がピッタリで、鳴り物入りのこの「汎用人工知能」にできること、なるものがこの程度では、確かに「とほほ...」となるのです。

もう一方でこの記事は、IBMの「コグニティブコンピューティング」と、「ワトソン」を袋叩きにしていますが、ここで挙げられている事例を見れば、確かにがっかりとなりますね。
もちろん、公平を期していうならば、ここであげられているチャットの例など、お互いが「誰であるのか」ということがわからない状態で気の利いた会話をせよ、ということなど所詮は無理ですし、初めて会う相手で、相手のこともよく知らないのであれば、ここでのワトソンとの「会話デモ」以上の気の利いた会話ができるかどうか...今時の若者だってできないかもしれない(笑)
ですから、少し意地悪が過ぎるようにも思います。ワトソンの場合には、アメリカの有名クイズ番組「ジョパディ」に挑戦し、歴代のチャンピオンに挑戦して勝利を収めた、という成果も出してます。これはとても凄いことです。



ここで少し注意しなくてはならないことなのですが、「会話」の問題を扱う場合には、はるかに難しい問題が存在します。そもそも会話というのは、ただの情報のやりとりではありませんから、進行している言葉のやりとりが「もっともらしい」からといってそれを「会話」と呼ぶことには問題があるのです。
たとえば、How are you? という簡単で日常的には何気ない言葉であっても、相手に対する How という「気遣い」がそこになければ、How are you? という問いかけにはならないのです。
私たちは、How are you? という言葉を通じて相手の「気遣い」を感じ、その気遣いに対して I'm fine,thanks! と「心遣い」を返すのです。言葉は、ここでは単なる情報のやりとりではなく、気遣いの応酬と交流であって、その心の通い合いがコミュニケーションの基本となります。「気遣い」というような、「心」のないところには、How are you? I'm fine,thanks!という「会話」は成立しないのです。「気遣い」「心遣い」あるいは「心」といったものは、何気ない会話の表面には浮かび上がってこない隠れた主題です。しかし、この隠れた主題...情報化して処理することのできない心の領域を円滑円満にするために、私たちは、How are you? I'm fine,thanks! と決まり切った定型句をやりとりするのです。ちょっとしたイントネーション、表情、間...言葉としては上がってこない様々な微細なトーンが、こうした隠された主題の活動を私たちに感じさせる兆候であり、痕跡なのです。

繰り返しますが、言葉を発する側も、そして当然受ける側も、互いに対する「気遣い」がある。その気遣いが「コミュニケーション」の本質です。気遣いがないところにコミュニケーションは有りません。それは会話ではなく、面前に「人間」と認識される物体が現れた場合にあらかじめ約束されていた受け答えとしてのビーコンの音を発することと何ら違いはないのです。受ける側も、相手のビーコン音を受信したとき決められている規定のビーコンを発するだけ...二台のロボットがであって、ぺこりと頭を下げ、互いにビーコン音を出したとすると、見ているわれわれは、それを「挨拶しているようだ」と見るかもしれませんが、そんなものは挨拶でも何でもないのです。それでは、AI搭載のロボットとの「会話」なるものは、本当に「会話」なのか...
実は、「会話」というのはとても難しいものなのです...人間同士であっても、とても難しい...それは、「会話」の本質の中に「心」の問題があるからなのです。広い意味での「コミュニケーション」を考えるのであれば、情報のやりとりだけで成立するコミュニケーションの局面も確かに存在します。しかし、何気ない「会話」というのは、そうした情報のやりとり、という明快な目的がない分だけ、はるかに難しいのです。
さて、この記事で執筆者がいらいらを募らせている原因は、この「会話デモ」の完成度の低さだけではなく、一見コミュニケーションを遂行しているように見えて、その実一番肝心なところが抜け落ちている、「心のない」コミュニケーションまがいに対する本能的な嫌悪感ではないかと推察されます。
機械に心を求めることは無理だとわかっているにしても、「会話」と銘打つからにはもう少しもっともらしくできるだろう...「気遣い」あるいは「配慮」が有るかのように錯覚させるような会話の小道具のいくつかぐらい、プログラムの中に忍び込ませても良いのじゃないか...ファーストフードのアルバイトが窓口で捲し立てる「心のない」接客マニュアル以下のできばえじゃないか...といったところでしょうか。

さて、本題に戻って、「汎用人工知能」と称するものについてですが、要するに、

日立の提供する「汎用人工知能」H(エイチ)に関して言うと、仮にも(IBMのコグニティブコンピューティングよりも遥かに意味として強い言葉である)「汎用」人工知能を名乗るなら、Siriよりマシな会話ボットをWebでデモしてくれてもバチは当たらないと思います。少なくともビデオやWebを見ている限りは、既存技術の焼き直しと寄せ集めに見えて、あまり「汎用っぽさ」は伝わってきません...

だと筆者は切り捨てていますが、その通りだといわねばなりません。AI産業の先端で開発に向けて努力されている本来の「汎用人工知能」とは、

AGI(Artificial General Intelligence)の訳とされ、人工知能研究のメインストリームでは、GoogleやFacebookなどを含めて「まだ世界の誰も開発に成功していない」ものとされています...

そして筆者は、こうも付け加えています。

そもそも、なにをもって「汎用」と呼ぶのか。ビデオの中では「プログラミングが必要ない」というようなことを仰っていましたが、それを言ったら既に主流であるCaffeやmxnet、CNTKだって設定ファイルだけで勝手に学習して使えるわけだから「汎用人工知能」だと言えます。そんな誇大広告は誰も望んでないので誰もその言葉を使っていないだけです。誰もいろんなものを留めることに使える輪ゴムを「汎用の輪ゴム」とは呼ばないのと同じように、機械学習はいろいろなことに適用できるのがむしろ当たり前だからです。

AI産業の先端で取り組まれている「汎用人工知能」を「汎用」といわせるものは、いったい何か...
実は、それはとても難しい問いです。人間の頭脳は、「汎用」であるといって良い。様々な事柄に対応する場合の応用可能性の柔軟さは、驚異的なものです。個別の問題設定をした上での処理であれば、人間の頭脳よりも優れたものはいくらでも生み出されてきましたが、人間の頭脳に取って代わるような柔軟性を備えたAIの出現はまだのようです。
しかし、ここで「応用可能性」とか「柔軟」と言われているものが、いったいどういうことを意味しているのか...
実はそれはとても難しい問題なのです。人間の知性とはいかなるものなのか...考える、ということは、どのようなことなのか...実は、こうした問題は自明ではないのです。
どのようなAIの技術であっても、基本的には「アルゴリズムの処理」に還元されます。人間の頭脳は、人間の精神は、果たしてアルゴリズムを使って解明され、再構成されうるものなのでしょうか...
この問題も又、結局は「人間とは何か」という問いに帰って行くのです...

『遺体の冷凍保存(Cryonics)』を決断することは...

2016-11-22 16:44:48 | 哲学・思想

初めに、こちらを...
 
 
 
 
  
 
人間の体を特殊な技術によって「冷凍保存」し、しかるべき時に「解凍」「蘇生」させるという技術は、以前からありましたし、そうしたことを事業化した業者の存在も、既にかなり以前に耳にした事があります。
たとえば、こちらを参照...
 
 

 
しかし、実際には事情はそれほど簡単ではないようです。
こちらも、参考に...十年以上前のものですが、内容的に見て、事情がそれほど変わるとも思えません...
特に、人間が複雑な構造を持っている、ということだけではなく、寒冷化に対して生体的な対応反応をできる生き物とそうでないものとの違いは、大きいように思われます。変温動物は、自力で体温の調節ができませんから、外界の温度変化に対して様々な対応戦略を機構的に身体に備え持っているのでしょう。
 
 
 
 
さて、この問題がここで改めて取り上げられる理由は、主に、
 
この少女がまだ13才であった…つまり未成年であったこと…
父親(離婚していた)が反対していること…
裁判で争われ、未成年のこの少女が勝訴したこと…

なのですが、ここでは、議論の詳細には立ち入りません。
というのも、記事から窺う限りは、今回問題となったポイントは、 まず初めに、
 
未成年者が、(自分自身のものであっても)生殺与奪の権限とまでは言わないにしても、生命の根幹に関わる問題についての判断に関して決断することの是非であること。

次に、
 
親権者のうち、離婚した父親、それも長い期間(8年間)面会もしていない父親が反対者であることだからです。
 
つまり、「遺体の冷凍保存」の問題は、きっかけとはなっているものの、今回の「問題化」のメインの主題とはなっていないのです。

しかし、「遺体の冷凍保存」そのものの問題は、実はそれよりもはるかに大切な問題ではないか...
それも、将来における蘇生可能性の是非といったような技術的な問題ではなく、死とどう向き合うのか、という、より根本的な問題に関わるのではないか、ということです。
今あげたような諸々の問題は、もちろん、確かに大切なものではあるのですが、大本の問題から私たちの眼を逸らせてしまう可能性があるのです。
 
今回のケースは、じっさいに裁判となり、判決が下され、この女性の意思は尊重された...
この少女に残された生命の時間はきわめて短く、早急な解決が求められていました。
だから、まずは、現実的な解決を呈示しなければならないという、現実の必要性によって、時間的な緊急性が最大限に優先されたわけです。

しかし、現実的な切迫性、あるいは時間的な緊急性も、確かに事態の重要性を測る物差しではあるけれども、問題そのものの重要性と必ずしも同一ではありません。
さらに、議論を先取りしていえば、社会の側からは最終的な解決を呈示することができない問題に対しては、答えようがないのだから社会としては向き合わなくても良い、ということにはならないのです。つまり、最終的に、「それは本人自身の問題だ」という結論しかないようなことであっても、それが私たち一人一人にとって重大な問題であるのであれば、答えを出す場ではないとしても、社会全体でそれを大切な問題である、と認識し、考える姿勢を示していくことが不可欠ではないか...少なくとも、そうすることによって、本筋を見失った議論のぐるぐる回りに陥ることを回避することができるのではないか...そう思うのです。
 
さて、この記事の問題に戻って言えば、社会に対するひとりひとりの個人としての意思決定の重みの問題や、人が充分に成熟し、分別を身につけて、社会において誰とでも対等に尊重するべき形で意思決定できるようになると見なすべき年齢の問題は、結局のところ、それぞれの社会の「文化」の問題になってしまいます。それはつまり、それぞれの文化の中での相互了解に基づける以外にはありません...
ですから、どのような結論であれ、それぞれの文化的な背景を共有する集団を離れての普遍的な根拠を持つものではないし、その文化の内部においてすら、いくらでも「例外」に晒され得るものなのです。結果として、幅広い視野を入れながら議論を深めていけば、こうした一人の人間の生死に関わるような重大な問題であっても、というよりも、一人の人間の生死に関わるような重大深刻な問題であるからこそ、その結論は普遍的な価値判断の基準を喪ってしまい、箇々の集団を突き抜け、最終的には一人一人の個人の問題へと収斂していかずにはすまないのです。つまり、最終的な決定は、普遍的な判断基準ではなく、相対的な、個人的ー個別的なものに委ねられることにならざるを得ないのです。
哲学的にいえば、最終的には「実存」の問題ということになります。ですから、それなりに筋の通った理屈を提示さえすれば、この記事のケースのように、14歳というまだ「少女」あるいは「少年」と言ってよい年齢の人にも、自己決定の意思を尊重するべき、という結論が出てくることは、理解できます。

しかし、既に触れたように、もっと大切なことは、ここでのケースに関して、その「社会的な判断」の「妥当性」を検討し、あるいは個人の「意思決定」について能うる限りの普遍性を帯びたガイドラインのようなものを拵えようと努力するだけではなく、大人であれ子供であれ、老若男女を問わず、一人の人間として自分の「生死」に向き合うことの厳粛さと過酷さを先ずもって確認することではないのか...
社会的な努力は社会的な努力でしかないのです。いくら公共性に基づいて個人の死の問題を回避しようとしても、個の問題、他人がではなく、「自分」がという問題は、どうしようもなくめいめい一人一人にかかってくるのです。ここが一番中心となる議論の核心だということは、忘れられてしまってはならない。つまり、本当の問題は、少女が...あるいはこの少女が...ということではなく、私たち一人一人が、「自分は...」と真摯に深く問うことがまず最初になければならないのです。
 
死と向き合うことは、とても大変なことです。親しい人や身近な人の死に面することであっても、これは過酷な体験になります。ましてや、自分自身の死の問題は、誰にとってもあまりにも重い問題です。「哲学とは死の訓練である」というのはソクラテスの言葉ですが、人は一生かかって、自分自身の死に向き合う準備をする...
そして、まだ14歳の少女、人生の経験も少なく、死を迎えるための様々な経験も知恵も熟していない少女に、無防備に近いその状態で死に立ち向かえ、というのがどれほど過酷で無慈悲なことか...
しかし、だからといって、誰もこの少女の身代わりをすることはできませんし、助けてあげることなどできないのです。
 
この少女は、判事に宛てて「私はまだ14歳で、死にたくありません」と綴ったといいます。
恐ろしい死を回避するために、「クライオニクス(人体冷凍保存)」を通じての将来の蘇生に賭けたわけです。この気持ち、この思いは、誰にもよくわかりますし、誰もが共感する部分を持つもの
です。
しかし、何十年かして、本当のこの少女が蘇生に成功したとして、そこに親しい人の顔はあるでしょうか...
その時、世界はどう変わっているのか、誰にもわかりません。
この少女は、死という全く未知の世界に赴くことを先延ばしにしようとしましたが、蘇生を通じてこの世界に帰ってきたとしても、そこはこの少女が慣れ親しんでいた社会ではないかもしれないのです。自分の全く知らぬ世界、自分を知る人もない世界に、たった一人帰って行かねばならないかもしれない...
そしてもう一つ...
この少女は、たとえ蘇生に成功して将来の進んだ技術によって病を克服し、望み通りの人生を再開できたとしても、人間はいつかは死んでいかねばならない者ですから、将来再び自分自身の死を迎える...謂わば二度、死ななければならないのです。あるいは、死のような体験を繰り返さなければならないのです。
 
誰にとっても、将来とは予想不可能なものなのです。
ましてや、途中の過程を飛び越えてしまう形で将来に向き合うということは、どれほど大変なことか...
果たして、そうした危険を承知の上で、将来開けるかもしれない人生の時間に賭ける試みは、死に向き合うことと較べて、その過酷さを和らげることになるのでしょうか...
 
誤解して貰っては困るのですが、私はここで、この少女の下した決断についてどうのこうの言おうとしているのではありません。
この女性は、まだ若いながらも、過酷な自分自身の人生に向き合い、決断したのですから...
ただ、私たち一人一人は、やはり自分自身の問題としてこの問題を考えなくてはなりません。それは、「クライオニクス(人体保存冷凍)」の問題としてではなく、自分自身の死とどう向き合うのか、という問題としてです。
14歳の少女が自分の死と向き合う...これほど過酷なものではないにしても、誰もが自分の死に直面したとき、「まだまだ早い、まだまだ死にたくない」と思うものです。
誰にとっても、死と直面する瞬間は、「早すぎる」のです。
だから、問題の本質は、「クライオニクス」をめぐる様々な議論のなかになどは存在しないのです。
この少女の決断から私たちは何を思い、何を考え、何を学ぶのか...

私たち一人一人がしっかりと自分の人生を、その終わりに向かって考えることをしなければ、五十になろうが、六十になろうが、無防備に、準備もなく右往左往しなくてはならないのです。
「メメント・モリ(死を想え)」は、過去のことではなく、現在も、将来も、限りある生命の者にとっては、永遠のテーマなのです...
 
 
参考に、こちらはクライオニクスを提供している企業のページ...
 
 

マインドフルネスと禅...

2016-11-04 11:15:51 | 宗教

まずは、こちらを...

マインドフルネスと禅、その決定的な違いは何か?

松山大耕 講談社 GENDAI ISMEDIA 2016.11.03

 

 まだ、元になっている著書を読んでおりませんので、とりあえずはこの記事の限りでですが、これはとても明快でわかりやすいですね。指摘されている事柄も、その通りだと思います。
文章の趣旨は、禅ブームと言われているこの時期だからこそ、この点は少なくとも意識しておいて欲しい、ということなのですが、同時に、さらに踏み込んで言えば、共通点ではなく相違点を強調することの意味を読者は踏み込んで考えるべきでしょうね。著者は敢えて相違点を強調しているわけですから...


ここで、著者の言うとおり...と済ませてしまうならば、逆になぜ、著者がここで相違点を際立たせようとしているのか、その真意を理解できていないことになります。

真意が読み取れていない場合、その文章をきちんと読んだ、と言うことはできません。書かれた文章に対して、自分自身で考えるところまで行って、初めて読書という行為は完結するわけですし、さらに言えば、表面的な主張だけではなく、主張するその人のスタンスまで読み取りながら考慮して、その上で自分自身の考えをぶつける、という行為こそが、著者に対する最大の敬意だと私は思います。


英語が堪能で、禅を世界に発信していこうとする禅僧の牽引者の一人である著者のスタンスからすれば、むしろ積極的にマインドフルネスと禅が一緒にやっていける共通部分を強調するのが自然に思えるはずですね。しかし、敢えてそうではない態度をここで表明するところに、この著者が、真に伝えたい問題意識があるのです。


マインドフルネス瞑想を推進する側からは、特定の宗教を排除する、という強い排他性は、基本的には発信されません。

今日のマインドフルネスの議論の多くは、瞑想の技法に関わる基本的なテクニックの解説であったり、瞑想がもたらす「成果」の解説が中心です。
マインドフルネスを推進する側は、この「成果」の検討にあたって、基本的には「科学」という物差しを基本に据えることによって、誰もが納得し、乗っかることができる議論の土台をプラットホームとして準備していることになるのです。だから、どのような信念を持つ人であれ、科学的な結果を受け入れる、という点では共通の前提に立つことができるのですから、せっかく医学的にも証明可能な「良い成果」が出ているのですから、仲良くやっていきましょう、というスタンスになるのです。

これは、言うまでもなくそれ自体としてはとても良いことですし、反対する理由もありません。

ですから、ここで、いや、そうは言っても禅の修行における「坐禅」と「マインドフルネス瞑想」とは違う、一緒にしてしまってはいけない、と主張したとしても、たとえば、


マインドフルネス瞑想は、何も特定の宗教的信念を吹き込もうとしているのではなく、不合理な迷信的主張を押しつけようとしているのもないのですから、何が悪いのですか? 

マインドフルネス瞑想は、各自の思想信条には踏み込みませんから、中立です。でも、仏教的な世界観の中には、今の時代に合わないものもたくさん入っているのですから、その方が問題なんじゃないですか?

あるいは、

数値として検証できる形で健康にも良いし、統計上有意味なかたちで組織集団のマネジメントにも効果が現れているのだから、反対する理由はないではないですか?


などと反論された場合、明らかにいまの社会的な常識から言えば「分が悪い」ことになります。

それでも、敢えて禅の側から、禅とマインドフルネスの違いは、わきまえておいてくださいよ、というには、それなりの理由があります。

一つは、この記事にもありましたように、「ゲインの考え方」の問題点です。

上に上げた反論をする人たちの多くは、


宗教は何か特定の思想信条を教義として受け入れることを要求するものだ...宗教は特定の教義を「主張」をするものだ...


という常識を、当たり前のように前提しています。宗教は、(場合によっては不合理な)ある特定の宗教的な信念を「得る」ことであり、その結果何らかの「御利益がある」...教義や御利益は異なれども、それがあらゆる「宗教」の基本的な構造だ、というわけです。

しかし、この記事でも指摘されているように、禅は「ゲイン」の考えを採りません。反対に、禅の修行は余計なものをすべて削ぎ落としていく「引き算」の修行なのです。

禅の修行は、一言で言うと「捨てる修行」です。余計なものを捨て、必要ではあっても不可欠ではないものを捨て、捨てられる限りのものを捨て、何かに頼る心を捨て、「ゲイン(御利益)」をあるいは「見返りを求める心」を捨てる修行なのです。そうしたものをいったんは捨て切ってみて、何が見えるのか...何を感じるのか...というところが、禅の真髄なのです。

反対に、禅の立場からすれば、皆さんに対して、


「ゲイン」「御利益を求める心」が本当にその人のために良いものなのかどうか、立ち止まって考えたことがありますか?

と尋ねます。


ご利益や見返りを求めるのは当たり前のことじゃないか、そんなものを否定したら、誰も生きていけないじゃないか!


という声も聞こえてきそうですが、何も御利益や見返りを求めてはいけない、と決めつけて言っているのではないのです。そうした心は、人間であれば誰もが持つものです。しかし、そうした思いを持って行動することが、本当にその人のためになるのか...それは自明ではないですよ、と言っているのです。

そうした思いは誰もが持つ...しかし、そうした思いに執着することが、かえって苦しみをもたらし、自分を傷つけ、人を傷つけてしまうことだってあるのではないですか...


理屈から言えば、御利益を求めても見返りを求めても良いはずなのに、そうすることによってかえって多くのものを亡くしてしまう...

そのことに憤って、さらに御利益や見返りに固執し、ますます多くのものを破壊し、喪ってしまう...そんなことが現実には溢れているのではないですか...


そう、問うているのです。

人間だから、そういう心を持つのは当然だ...確かにそうかもしれませんが、それはそう言う人間の都合でしかありません。その通りにならないことだって、いくらでもあるはずです。だから、「ゲイン」をベースにして考えるものの考え方を、本当にそれで良いのか? と立ち止まって問い返す必要があるのです。

宗教は、特定の教義を押しつけるように主張するものだ、と一般には思われがちだ、と先に書きましたが、特定の宗教的な信念を持たずとも、誰もが自分都合の信念を持っています。

の人生の意味や価値、生命の重さまで計算可能とする「功利主義」...すべてを金銭という尺度の数量に換算し、その効率で図る「経済中心主義」...世界はそういった思想に充ち満ちています。

あるいは、「科学的な世界観」が中立であると仮に認めるとしても、その世界観を採用する背後には、欲望や執着に振り回される人間が存在するのです。だから、自分は宗教なんか信じていない、と語る人々であっても、自分都合の思い込みからは自由ではありませんし、だからこそ、禅の立場からは、まずは立ち止まって考えるべきだ、と言うのです。


さて、「マインドフルネス瞑想」が教えるやり方は、とても優れたものです。「マインドフルネス瞑想」として取り上げられ、脚光を浴び始めたのは比較的最近のことですが、もともとは「上座部仏教」の長い長い伝統の中で洗練され磨かれてきた「ヴィパッサナ瞑想」の方法論に支えられているからです。

そして、本当にこの瞑想の遣り方に従って瞑想修行をしたならば、「ゲイン」を求める心も、御利益や見返りを求める心も次第に薄れ、最終的には消え去っていくはずなのです。

そしてそうなったとき、

健康の数値が上がった...クリエィティヴな発想が生まれ、業績が上がった...ストレス耐性が増した...チームワークが良くなり、利益率も業績も飛躍的に向上した...

こうした成果を見る自分自身の目も、必然的に変わってくるはずです。つまり、生き方が変わるのです。

禅は、捨てること、つまり「ゲイン」ではなく引き算を通じて自分を変えなさい...自分に必要なものをその都度自分自身で見極めることができるような眼を自分で身につけなさい、という教えです。

ですから、禅の修行は、「科学的な世界観」に対しても、その世界観に従ってものを考え、行動することが、本当にその人のためになるのか、みんなのためになるのか、きちんと立ち止まって考えなさい、と教えるのです。

科学的に正しければ、その人その人の思いを無視して、ごり押ししてしまっても良いのですか...すべての行動を功利的な観点から合理的に整えて生きていく...果たして、そう言う生き方がその人にふさわしいものなのか...

すべてを科学的な世界観の基準で考え、割り切ってしまうことは、その人の人生にとって本当に良いことなのか...数値化され、実証されること以外は認めないという価値観で生きていくことは、本当にその人にとって良いことなのか...

これらすべては、自明のことではないのです。だから、瞑想を通じて心を見つめなさい...立ち止まってよく考えなさい...

当たり前のように思っている価値観世界観をいったんは捨てて、まっさらな心で素直に考えなさい、感じなさい...そう教えるのです。こうした点においては、禅もマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナ瞑想)もやり方こそ多少異なるとはいえ、その本質においては全く同じなのです。

禅の立場として、覚えておいて欲しいことは、「科学的」なお墨付きがついているから、と自分の心の奥底にわだかまっている「ゲインの思想」を問い直すこともなく、ただ御利益と見返り、成果を求めてマインドフルネス瞑想に突進すると、結局は心の底にわだかまる欲望や執着に振り回されるだけの結果になりはしないか、ということなのです。

様々な悩みや苦しみの直接的な原因は、確かに商売敵であったり、不景気であったり、横暴な上司であったり、理不尽なクレーマーであるかもしれませんが、その苦しみを増幅させ、自分の身を滅ぼすほどにまで煽り立ててしまっているのは、実は自分自身の心の奥底にある欲望や執着の炎であったりするのです。だから、この記事で松山師が指摘している「ゲイン」の思想は、とても危険なのです。「ゲイン」を当たり前だ、としている限り、欲望や執着の芽は野放図に伸びていく危険をはらんでいるのです。

「ゲイン」を前提としてマインドフルネスに向かう人たちは、せっかく清らかな瞑想をするにしても、清める前にこっそりと欲望と執着の黒い種を密輸入して、自分の心に蒔いてしまっているのです...

「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れよ...」とイエスは教えましたが、マインドフルネスが新しい時代の到来を牽引する、未来に向かっての潮流であるのならば、身も心もすべて綺麗さっぱりとして始めるべきではないのか...御利益や見返り、欲望や執着...太古の昔からわれわれを苦しめてきた「古い種」を焼き払い、大地を清めてから、心を養うべきではないか...

私も禅僧の一人として、松山師の言葉に共感を覚えるのです...

松山大耕師の著書は、こちらです...